神谷敏郎先生が本年7月13日に永眠された。私は未だ心の整理ができないでいる。
日本哺乳類学会に入会してしばらくのあいだ、私は誰もがそうであるように自分の発表のことだけを考えていればよい気楽なものだった。しかし、そのうち学会の仕事を分担するようになると、それまで書物や論文でお名前を知っていた先生方と直接お話することになり大いに緊張した。神谷先生もそのような先生のお一人だった。哺乳類学者というのは、世界共通のようだが、やや荒削りで、そのまま山から降りて来たようないでたちで学会に参加するようなタイプの人が多い。そのような中で神谷先生はつねに背広にネクタイ、髪を整えて端然としておられた。言葉遣いも丁寧で、よけいなことは話されなかった。私は「学者とはこういう人のことなのだろうな」と強い印象を受けた。
1997年になって私は本館に奉職することになったが、迂闊にも神谷先生がここにおられることを存じなかった.廊下でお会いしたとき「楽しみにお待ちしていましたよ」と声をかけて下さった言葉が忘れられない。その後何度か展示などで標本をお借りしたり、内容についてご相談したりしたのだが、お会いする前に資料などをきちんと準備しておられて本当にありがたかった。私のほうからお部屋に伺うことが多かったが、ときには先生のほうから訪ねて来られることもあった。そのようなとき必ず事前にお電話をくださり、部屋に来られても必要なお話をされると「お忙しいところ、時間をとらせました。」と勿体ない言葉を残して出てゆかれるのだった。
先生にご指導いただいてカワイルカの展示をしたときだった。東京大学のグループがカワイルカについて世界的な研究をしていることは漏れ聞いていたのだが、下調べをしていた私は本当に驚いた。神谷先生からカワイルカの研究はなんと「雪男」探検から始まったのだと聞いたからである。東京大学医学部といえば俊英の集うところ、厳格な学問の中でも最も厳格であろうとのイメージがある。そのグループが、いるかいないかもわからない雪男を探しにヒマラヤに行ったという事実を聞かされて驚かぬ者はいまい。
この無謀ともいえる試みは、結果として雪男発見なしに終わるのだが、それなら、ということでその帰路にガンジス川でカワイルカの調査をし、これが発展して一連の調査が始まることになったのだという。私はこの話を聞いたとき、自分が勝手にイメージを作っていた東大医学部に夢を追うロマンチストがいたことを知って大いに愉快だった。この話をするときの神谷先生はとても楽しげで、黒い瞳がキラリと輝いた。
神谷先生はその後カワイルカの解剖学的研究を進められるとともに、その保護に情熱を燃やされ、中国のヨウスコウカワイルカの保護に大きな貢献をされた。数多くの学術論文のほか、普及書のご執筆も多く、1995年には「骨の動物誌」(東京大学出版会)、2001年には「骨と骨組みのはなし」(岩波書店)などを、そして今年になってからは「川に生きるイルカたち」(東京大学出版会)を公表された。この本は先生のカワイルカに対する情熱が、抑制された表現の裏側から響いてくる名著であるが、図らずもご遺作となってしまった。いつもおだやかに微笑んでおられる先生であったが、カワイルカとなるとどこにあのような熱い情熱が潜んでいるのかと不思議なほどだった。中国側の期待も大きかっただけに先生のご逝去は大きな痛手であるに違いない。
私たちは先生が残され、継承された標本をさらに充実させるとともに、標本に対する厳格な態度を学びたいと思う。また私は哺乳類の生態学と保全を志すものとして、先生の情熱をも引き継ぎたいと思う。それにしても先生から学ぶべきことはもっともっとあったのに、先生の気配りゆえに雑談をあまりすることがなく、カワイルカなどについてもそのうち伺おうと先送りにしてきたことが心から悔やまれる。今度のお別れはいつものそれとは違うと知りながら、先生がいつものように相手を気遣って部屋を出ていかれたような気持ちが残る。
先生は天性の気品を保ち、つねに周囲に配慮することを自然体で為された人だった。それは稀にみる爽やかで端然たる人生であった。今はただ、どうぞ安らかにお眠りくださいと祈るばかりである。
追記 本稿のためにご遺族から生前のお写真をご提供いただきました。お悔やみ申し上げるとも篤くお礼申し上げます。
(本館助教授/動物生態学)
Ouroboros 第25号
東京大学総合研究博物館ニュース
発行日:平成16年9月15日
編集人:佐々木猛智・高槻成紀/発行人:高橋 進/発行所:東京大学総合研究博物館