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特別展

「プロパガンダ1904-1945—新聞紙・新聞誌・新聞史」展に寄せて

西野 嘉章


坪井正五郎収集「黒曜石標本」、詰め物は明治42年5月17日発行の日刊紙『日本』、総合研究博物館人類先史部門蔵
旧中央公論社出版文化研究室旧蔵のナチス党機関紙『フェルキッシャー・ベオバハター(民族の観察者)』、1941年発行号、総合研究博物館研究部蔵
麻紐に括られた古新聞の束が、初めてわたしの許に届けられたのは、いまから二年ほど前のことである。ある日、古い新聞が何葉かゴミ箱に捨てられています、と事務官から報告があった。聞くところによると、博物館の植物部門のスタッフがおし葉標本の整理を行っており、標本のあいだに挟まれていた古い新聞紙のなかで、とくに傷みのひどいものを廃棄したのだという。どうせ捨てるのなら、わたしのところで引き取りたい、と申し出たのがそもそもの始まりだった。以来、古新聞の束が間歇的に研究室前の廊下へ配達されことになった。それらを透明の保存袋に入れ、年代ごとに分類し、抽斗に収納することが、いつしかわたしのルーティーン業務のひとつとなった。

 最初の時は、古新聞の束を広げてみて、びっくりした。『萬朝報』、『時事新報』、『国民新聞』、『読売新聞』、『大阪朝日新聞』、『報知新聞』など、近代ジャーナリズムを背負って立った大新聞や、あるいはまったく見たことも聞いたこともない地方新聞の古い号が次から次へと出てきたからである。古くは明治10年代にさかのぼるが、大方は明治20年代から昭和前期のもの。しかも、保存状態がまことに素晴らしい。最初期の『読売新聞』の小型版など、折り線ひとつなく、昨日発行されたかと思えるほどの、まさに「匂い立つ」ような初々しさを保っていたのである。

 そればかりではない。多くの新聞は中央で縦に半裁されていたが、おし葉標本の製作者が流れ作業を行っていたためだろう、半裁された新聞の片割れもまた同じ束のなかから見いだされ、新聞の全体をかなりの程度まで復元できることもわかった。たとえば、明治30年前後の『読売新聞』の半裁紙を発行順に並べ、尾崎紅葉の「続きもの」の連載小説を復元する、といった楽しみもあった。作業を初めてすぐに解ったのは、新聞は各紙面上部の欄外に紙名、巻号、発行日が印刷されているため、半裁されていても出自を特定でき、一次史料として有用であるということ、また初期の新聞は現代のものに較べ頁数が少ないため、四頁ものなら二つの半裁紙が揃えば全体を整えることができるということであった。

 こうして始められた整理作業は、ゼミ生やヴォランティア参加者の協力を得て、2003年から大幅にスピード・アップされることになった。その結果、これまでに約一万点の分類架蔵と、三千件弱のデータベース入力を行うことができた。とはいえ、植物部門の大場秀章先生のお話では、まだ五万点から、十万点の新聞が供給可能であるという。したがって、全体像が見えるようになるのは、まだ当分先のことになるが、われわれの始めた作業の意義を再確認したいという思いもあって、その成果の一端を学内外に向けて公表することにした。それが今回の特別展示「プロパガンダ1904-1945—新聞紙・新聞誌・新聞史」展実現の経緯である。

 古新聞の整理という単調な作業につき合わされている学生たちにしてみれば、胸中は複雑だろう。なにせ、いつ果てるともしれない作業が延々と続くのだから。しかし、そうは言っても、古い新聞の山から新聞紙を一枚一枚取り出して行く作業が退屈であったというわけではない。むしろ、その逆で、わたしを含めた皆が皆、歴史の教科書でしか味わえなかった近代史の「生(なま)資料」を自ら手にとって確認できることの喜びを感じていたからである。なにかが出てくるに違いない、という期待感をもってする作業には、飽きるということがないのである。

 大量の新聞を整理して初めて解ったこともいくつかある。たとえば、新聞紙を使っておし葉標本を作製してきた植物学者たちの、モノの考え方もそのひとつである。新聞紙を真ん中できちんと半分に裁断し、規則正しい手順で標本を作製していく。この行程に揺るぎがないのは、標本を製作する専門家として当然である。わたしの観察するところによると、この作業はたしかに機械的になされてはいるものの、しかし、けっして無神経なやり方によるものでなく、むしろかなり意識的な部分があったようなのである。

 一例を挙げよう。明治末期でいえば『平民新聞』などの初期社会主義系新聞、大正末期から昭和前期でいうなら『無産者新聞』や『赤旗』などの共産党系新聞、要するに社会主義・労農左翼系諸紙がまったく見つからないこと。これだけ膨大な量の新聞が集められていれば、それらに類するもの、あるいはそれらと関わりのある記事を掲載した新聞や号外の類が含まれていてもおかしくないが、それらが一点も見いだされないのである。また、天皇や皇室に関わる記事の掲載された記念号や号外、さらには昭和初期エロ・グロ・ナンセンス時代の扇情的な写真・記事をともなう大衆紙も数が少ない。標本製作者は手許にある新聞紙を手当たり次第に流用したのでなく、左翼思想、皇室関係、変態モノなど、なにか差し障りがありそうな新聞を、それとなく除けていたに違いない。自分の作った標本が、後代に受け継がれることを見越しての、細やかな配慮がなされていたと見るべきなのだろう。

昭和5年8月16日発行の日刊紙『中外商業新報』の全面広告「オラガビール」、総合研究博物館研究部蔵 昭和7年2月7日発行の日刊紙『東京朝日新聞』の号外「第一次上海事変」、総合研究博物館研究部蔵
 また、タイトル数にして約三百、総数にして一万の新聞を通覧して感じるのは、これらの紙面に明治10年代以降の近代史が凝縮されているという、漠然としているが、ある種の「確信」に近い感覚である。最終的に十万点の新聞資料体の整理を終えれば、この実感はさらに固まるに違いないが、現段階でも早々とそうした思いに駆られるほど、新聞紙面の有する情報は膨大で、しかも豊饒である。もちろん、新聞の記事のすべてが、真実を伝えているわけではないし、主義主張による偏りから自由であるわけでもない。ときに捏造され、ときに隠蔽され、ときに誤報されてはいても、しかし、「事実」の報道以外のそうしたもろもろを含む新聞の総体が、この百年近くのあいだの社会のありようを映す「鑑」であったに違いないのである。

 次々と発見される新聞のタイトルの分布にも感慨を覚えぬではなかった。それはすなわち植物採集のフィールドの広がりを示しているのであるが、それが日本国内の辺境の隅々にまで及んでいること。そればかりでなく、日本の旧植民地の地理的版図のその端部にまで広がっていることに、改めて驚かされたのである。北は南樺太から北朝鮮へ、西は韓国から満州へ、南は沖縄から台湾、さらにはシンガポールからインドネシアまで。要するに、極東アジアの全域に広がっているのである。この地理的な版図と歴史的な流れとの交錯する点、そこで発行された新聞がこれどほ大量に見いだされるのは、まさに東京大学ならではのことではないだろうか。しかも、東大の植物学教室では、いつどこで、どの先生が採集調査を行ったか、その記録がたどれるという。そのため、新聞のタイトルと日付から、どの先生の収集品の遺産であるか、ある程度まで出自来歴を特定することができる。「履歴」の把握できる新聞資料の膨大な集合体もまた、存在として稀有である。

 新聞の保存状態の良さにも改めて感動を覚えた。これは、植物部門標本庫の理想的な環境のなかで、しかも明治期のものは和紙をあいだに挟んだ状態で平積みされていたことを考えるなら当然かもしれないが、そればかりでもなさそうである。思うに、標本製作者は用済みになって間もない新聞紙を使っており、それらが傷む機会もないまま、そのまま標本の一部として今日まで残されたに違いない。しばらく前のことになるが、図書館関係者などのあいだで古紙の酸性化問題が大きな話題となり、「古い新聞」がその槍玉に挙げられたことがあった。この点について言うなら、もっとも深刻なのは昭和の初めから太平洋戦争期にかけての新聞であり、大正中期以前のもの、なかでも明治時代の新聞はその限りでない。というよりもむしろ、近代新聞のなかでは明治後半の新聞用紙がもっとも上質で、保存性の高いものであることがわかる。

 これは多分に個人的嗜好に関わるものであるが、新聞紙面そのものの美しさも特筆に値する。思えば、普段の暮らしのなかで、新聞の構成や文体を意識することがあるだろうか。なにか特別のことでもない限り、普通の人はそんなことを考えもしないに違いない。それは新聞が空気のようにきわめて身近なものとして存在し、情報メディアとして、それ自身が情報メディアであることを意識させぬほど、無色透明なメディアになりきっていることの証でもある。しかし、歴史的な「過去」に属するものとして、クールな眼で眺め返すことが出来るようになった古い新聞は、注視の対象となるべく、その存在感を溢れさせており、したがって、それを眺めることによってはじめて発見できることも少なくない。紙面の構成、活字の造作、インキの色調、用紙の質感など、すべてが機能性や伝達性や経済性の追究から生まれたことだとはいえ、古い新聞を改めて見てみると、印刷物として美しいものがたしかに多い。明治末期の『報知新聞』や、あるいは広告紙面など一部の特殊な事例を別にすると、近代新聞の多くは墨一色刷りである。そのモノクロの紙面は活字、罫線、写真版と、そしてわずかな余白から成り立っているわけであるが、全体の視覚構成の妙という点で、わたしには実に興味深いもののように見えるのである。

 ひとくちに新聞紙一万点というが、これは半端な数ではない。重さはともかく、嵩にしてもすでに膨大であり、今後これが十倍近くまで膨らむことを考えると、収蔵方法等について然るべき対応策を考えなくてはならない。しかし、国内の新聞資料保存の現状を顧みたとき、本館で体を成しつつある新聞資料体には、そうした苦労に見合うだけの歴史的な価値が十二分にあると考えられるのである。

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(にしの・よしあき、総合研究博物館授
/博物館工学)

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Ouroboros 第24号
東京大学総合研究博物館ニュース
発行日:平成16年4月
24
編集人:高槻成紀/発行人:高橋 進/発行所:東京大学総合研究博物館