東京帝国大学理科大学地質学列品室の旧観を捉えた写真(図1)が残っている。1900年パリ万博へ出品された写真集『東京帝国大学』の1カットである。
ここに写っている古生物標本の一部は現存し、小石川分館で常設展示されている。什器も残っており、現役で使われている。建築は現存しない。柱・窓とも古典主義様式が基調となっている。震災以前は理科大学が古典主義、法科・工科大学がゴシックというように異なった様式が採られていた。現在のようにゴシック中心となるのは震災以後のことである。
「列品室」全体の形状が少し変わっている。矩形でなく屈曲を有している。そこへなまなましい輪郭の古生物標本と、端正な古典主義様式の柱・窓とが同居しているのである。標本/建築という「もの/もの」の関わりはもちろん、展示・ディスプレイの視点からも興味深い写真となっている。
帝国大学初代総長の渡邊洪基から第14代総長の内田祥三まで、戦前の総長12人をテーマとする展示を準備中である。2004年4月の国立大学法人化に伴い、総長の存在が従来に増してクローズアップされる。これを機に歴代東大総長に関わる標本・史料を展示公開しようというものである。具体的な出品物としては戦前の学内行事の様子を捉えた貴重な映像史料のほか書物・書簡・肖像・図面・什器・機器などが予定されている。
濱尾新(第3代、第8代総長)は前にもふれたことがある(『Ouroboros』6.3)。東京医学校の建築(重要文化財旧東京医学校本館)が今へ伝えられた背景には、濱尾の声があった。目下、東京大学現存最古の学校建築、本郷キャンパス草創期の由緒を伝える現存唯一の建築、赤門と並ぶ国の重要文化財建築であり、2001年(平成13)11月から大学博物館分館(総合研究博物館小石川分館)として一般公開されている。
本郷キャンパスの正門を冠木門形式としたのも濱尾の発案という。同じく大講堂の位置を正門の突き当りとしたのもそうらしい。本郷キャンパスの中心軸(大講堂—銀杏並木—正門)の構想はここに端を発していることになる。これが結果的に有名な内田祥三の震災復興構想へと取り込まれ、現在の姿となっているわけである。
もう一つ、帝国大学初代医科大学長となった三宅秀(『Ouroboros』7.1)のコレクション目録がすでに印刷待ちの段階である。
コレクションの特徴として学際性・国際性・近代性・場所性の4点を挙げてみた。とくに興味深いのは2点目の国際性である。1853(嘉永6)年のペリー来航が、その後の国際政治へ向けた日本のスタンスを大きく規定したのは周知だろう。幕府遣外使節団の派遣もその一環である。
三宅コレクションは、1860(万延元)年の遣米使節団、1863(文久3)年の遣仏使節団、双方の招来品を含むと目されることがわかってきた(図2)。後者はよく知られている。ところが前者はあまり論じられてこなかった。そもそも前者へは三宅本人は加わっていなかった。ところが随員へ三宅の方からアプローチがあったらしい。実際に招来品の一部が、随員の手を経て、三宅のもとへ渡ったようなのである。
どんな研究も対象とともに視点が重要である。同じ対象から異なる視点の研究が行われたり、逆に異なる対象から同じ視点の研究が行われたりする。対象が自然標本でも文字史料でもその点は変わらない。「何を」読むかと同時に「どこを」「どう」読むかが問題となる。
標本そのものに加えて、標本に関わる「ひと」の存在を顕在化させることも、広義の標本研究に含めていいのではなかろうか。例えば「もの/ひと」の関わり、あるいは「もの」を介した「ひと/ひと」の関わりである。
そもそも「もの」が「もの」たりうるのは「ひと」の存在があってこそと言えないだろうか。いかなる自然標本といえども、全くの「自然」ではありえない。いずれも何らかの形で「自然」から切り取られ、調達されてきたものである。そこへ何らかの加工が行われることも少なくない。その上で一定の大系へと構成されていくこととなる。
標本を一種の「素材」とみなせば、このような調達→加工→構成というプロセスは、最先端の工業製品から有史以来の建築・都市施設まで、いわゆるものづくり一般とも通ずるものである。
大系としての東大博物館はいわば総数250万点を超す博物標本を「素材」に構成され、現在も館内・館外を問わず、多くの「ひと」によって「組織」的に再構成され続けている。国立大学法人化にあたり日頃からそのような再「生産」工事へ取り組んでいただいている方々へ、末筆ながらこの場を借りて厚く謝意を表しておきたい。
(ふじお・だだし、本館助手
/史学・建築史)
Ouroboros 第24号
東京大学総合研究博物館ニュース
発行日:平成16年4月24日
編集人:高槻成紀/発行人:高橋 進/発行所:東京大学総合研究博物館