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研究部から

19世紀の分類学をかいま見る—クランツ化石標本台帳を覆刻して

矢島 道子


このたび東京大学博物館に1冊しかないクランツ化石標本台帳を覆刻した。クランツ化石標本の価値を21世紀の多くの人々に知っていただくには台帳の覆刻が1番と考えたからだ。しかし、台帳に間違いが多くあることがわかって、何度も出版をやめようと思った。こんなに間違いだらけのものを出版するのは意味があるのだろうか。あるいは、これからの学問に混乱をもたらすのではないだろうか。最終的に、台帳を公衆に曝すことによって、間違いを多くの方に指摘していただく方がよいと判断して出版した。

 この台帳は研究者が作成したものではない。クランツ化石標本を誠心誠意管理してきた技官の方々の努力のたまものである。欧米の博物館ではキュレーターあるいはキーパーと呼ばれ、それぞれの博物館で実質上の力を発揮している方々である。標本と、それと一体となっているラベルを比較して確認し、ラベルの文字をノートに転記し、それを印刷したものである。その印刷した台帳には次の代の技官の人達が整理したときの鉛筆のメモがたくさん書き込まれている。今回はその鉛筆のメモまで覆刻した。

 間違いはどこから生まれるか。ラベルの文字は多くがドイツ人の手書きである。それの読み取り、転記、印刷、それぞれの段階で少しずつ間違いが集積していく。特に学名はラテン語起源で、日本人にはなじみが薄いので、非常に間違えやすい。耳学問で、たとえば、アンモナイトの学名などをそらんじていたであろう技官の方も、他のめだたない動物群の学名まではご存知なかったであろうか。
今回は覆刻する段階で、できるだけ正しい学名に直すように努力した。分類に混乱をもたらしたくないからである。私もすべての動物群の属名をそらんじているわけではない。あちこちで勉強しながら、台帳の種名などを直していくうちに、私は19世紀の分類学をかいま見ていくことになった。

 そもそも生物の名前に二名法が確立したのは、リンネの『自然の体系』10版の1758年ということになっている。そして、この二名法が多くの一般の人に流布したのは、博物学の黄金時代すなわち19世紀である。クランツ標本は19世紀の終わりに頻繁に使用されたので、博物学の黄金時代が生物の名前から漂ってくるのである。

 19世紀のかおりはまず台帳第1ページからうかがわれる。三葉虫の属名AgnostusやParadoxidesはBrongniartが1822年に、OlenusはDalehamが1827年に、TrinucleusはMurchisonが1839年に、それぞれ提唱し、現在も使用されている。Brongniartはフランスの、Murchisonはイギリスの、19世紀に活躍した著名な地質学者である。特にMurchisonはシルル紀の提唱者でもある。この人々は三葉虫を扱う古生物学者であったのかと思う。

 ウニの化石の属名は多くが19世紀から変わらずに使われている。MicroasterやHolasterはL. Agassizが1836年に提唱している。Agassizは魚の化石だけではなく、ウニの化石も研究したらしい。

ClypeasterはLamarckが1801年に提唱した属名である。Bourgueticrinusはd'Orbignyが1841年に提唱した属名である。19世紀に研究されていた化石がそのままクランツ標本として保存されているのである。

 軟体動物としては、まず、アンモナイトは多くがAmmonitesの属名をそのまま使っている。現在は多くの研究の積み上げで、単純明快なAmmonitesは使われていない。2枚貝や巻き貝にはリンネの提唱した属名が使われているものが多い。たとえばカキの仲間は全部Ostreaになっている。現在はたとえばCrassostreaのように属名も煩雑になっている。ホタテ貝の仲間は全部Pectenになっている。

 何と明快で単純な世界であろうか。現在も生物は二名法で学名がつけられているが、1960年以降は大変命名法が厳密になったし、生物の系統を明らかにしようとして、属名等は大変複雑になっている。

 19世紀は大型爬虫類化石つまり恐竜、魚竜、首長竜、翼竜などが研究され始めた時代でもある。クランツ標本にもたくさん含まれている。英国はライム・リージス産の標本が6個体ある。多くの化石を採集し、世界中に販売したメアリ・アニングが実際に採集したものかもしれない。ワイト島産のイクチオサウルス化石がある。ドイツはアイヒシュテット産の翼竜の石膏模型も4体ある。

 台帳を見渡せば宝物ばかりである。このわくわくするクランツ化石標本類がうまく活用されますように。そして、台帳の間違いを見つけられたら、お知らせ願えれば幸いである。

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(本館協力研究員、東京成徳学園/古生物学)

  

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Ouroboros 第21号
東京大学総合研究博物館ニュース
発行日:平成15年7月15日
編集人:高槻成紀/発行人:高橋 進/発行所:東京大学総合研究博物館