田中舘愛橘とアインシュタイン
東京大学総合研究博物館 名誉教授

田賀井 篤平

田中舘愛橘とアインシュタイン
田中舘愛橘とアインシュタイン
01.
  アインシュタインの来日は改造社という一出社の招聘によるものであった。改造社の社長山本実彦は、社の一大事業としてアインシュタイン招聘に奔走し大学関係者と帝国学士院を巻き込んで、来日を実現させたのである。
  アインシュタインは1922年(大正11年)10月8日にマルセーユを日本郵船「北野丸」で出港し、11月17日に神戸に入港した。途中12日夜、香港で「光量子仮説」に対して贈られたノーベル物理学賞受賞の電報を受け取っている。
  アインシュタインは、熱狂的な歓迎を各地で受ける。12月29日までの滞在の間に多数の講演を行い、また連日の歓迎会に出席してスピーチをした。
11月19日:慶応大学中央講堂:第一回一般講演会 「特殊及び一般相対性理論」
(通訳:石原純)
11月20日:東京大学理学部付属小石川植物園 帝国学士院歓迎午餐会
(長岡半太郎)
11月24日:神田青年館:第二回一般講演会 「物理学における空間及び時間について」
(通訳:石原純)
11月25日:東京大学理学部物理学教室中央講堂 第一回特別講義
「光速度不変の原理とローレンツ変換」
東京大学八角講堂:全学生歓迎会 「国際善としての学問について」
11月27日:東京大学理学部物理学教室中央講堂
:第二回特別講義
「テンソル理論」
11月28日:東京商科大学歓迎会 「若き日本の人々よ」
東京大学理学部物理学教室中央講堂
:第三回特別講義
「特殊相対性理論」
11月29日:早稲田大学学生歓迎会  
東京大学理学部物理学教室中央講堂
:第四回特別講義
「一般相対性理論とリーマン幾何学」
11月30日:東京大学理学部物理学教室中央講堂
:第五回特別講義
三四郎池横で記念撮影
東都大学・専門学校学生時局研究会歓迎会
「重力場」
12月1日:東京大学理学部物理学教室中央講堂
:第六回特別講義
「宇宙論」
12月2日:東京工業専門学校歓迎会  
12月3日:仙台公会堂:第三回一般講演会 「相対性原理について」(通訳:愛知敬一)
東北大学中央講堂:東北大学教授学生連合歓迎会  
12月8日:名古屋国技館:第四回一般講演会 「相対性原理について」(通訳:石原純)
12月10日:京都市公会堂:第五回一般講演会 「相対性原理について」(通訳:石原純)
12月11日:大阪中央公会堂:第六回一般講演会 「一般並に特殊相対性原理について」
(通訳:石原純)
12月13日:神戸基督教青年会館:第七回一般講演会 「相対性原理」(通訳:石原純)
12月14日:京都大学法学部中央講堂:学生歓迎会 「いかにして私は相対性理論を創ったか」
12月24日:福岡市大博劇場:第八回一般講演会 「特殊並に一般相対性原理について」
(通訳:石原純)
12月29日:門司港から日本郵船「榛名丸」で出港  
東京駅のアインシュタイン(三木教子氏(山川健次郎の孫)提供)
東京駅のアインシュタイン
(三木教子氏(山川健次郎の孫)提供)
02.
 一般講演会は有料であり、「一般人:3円」という高価な入場料にもかかわらず、各会場ともに(仙台を除き)溢れんばかりの聴衆を集めた。まさに「アインシュタインブーム」であった。改造社にとっては、ラッセル卿、サンガー女史に引き続き世界のリーダーを招待するという遠大な計画の最後を飾るアインシュタイン訪日事業で、存在感を示したばかりでなく、入場料収入は多額のアインシュタインへの契約金を払って余りあるものであった。

  東京大学理学部物理学教室での特別講義は他の一般講演会と異なって、改造社の主催であるにもかかわらず無料であったことは象徴的である。この連続講義は、特殊及び一般相対性理論を専門的に解説するものであり、聴講する者は、アインシュタインの講義を理解することが出来る物理学の素養のある人間に限られた。当初は研究者に限定していたが、将来ある学生にもということで、全国から130人近くの研究者や学生が参加している。講義内容自身は既に論文や著書で明らかにされているものであったが、相対性理論を初めて唱えたアインシュタイン自身による講義は、通訳無しのドイツ語で行われたにも係わらず、東京大学にとって一大イベントとなった。専門的知識を持っていることが出席の条件となっていたが、出席者名簿を見ると、「歴史的な講義」の場にいることを目的とした人も潜り込んでいた。この講義を聴講した人々の中に、当時の物理学教室の教官であった長岡半太郎、田丸卓郎、寺沢寛一、西川正治らに混じって、名誉教授であった田中館愛橘がいた。
 中村清二著「田中舘愛橘先生」(鳳文書林)によれば、田中舘愛橘は安政3年9月に陸奥国二ノ戸郡福岡町(現在の二戸市福岡)に生まれ、明治5年17才で東京へ移り住む。その後外国語学校・慶應義塾を経て明治9年に東京大学の前身である東京開成学校に進学する。明治10年に東京開成学校(法理文)と東京医学校が合併して東京大学となり、理は東京大学理学部として発足した。当時の東京大学は、法文理まとまって一つの組織体で運営されており、場所は現在の一橋にあった。理学部には物理・数学・星(天文)学科と地質・採鉱冶金学科、化学・生物学科があった。田中舘は物理・数学・星学科に進学し物理学を選択、明治15年東京大学理学部物理学科を卒業。田中舘の先生は数学の菊池大麓と物理学の山川健次郎であった。それに外国人お雇教師であるアメリカ人のメンデンホールとイギリス人のユーイングが加わり、学生実験を通じて田中舘に大きな影響を与えた。メンデンホールは田中舘らを指導して東京や富士山頂で重力測定を行った。ここで重力測定技術を学んだ田中舘は、その後札幌、沖縄、鹿児島、小笠原などで重力測定や地磁気の測定を行った。明治16年東京大学理学部助教授。明治18年に理学部は神田一橋から本郷に移転し、明治19年工部大学校を統合して帝国大学となった。田中舘は明治24年帝国大学理科大学教授となる。田中舘は、全国の重力測定や地磁気測定を継続して行い、日本の地球物理学の創始者となった。明治24年の濃尾大地震で根尾谷の大断層を発見したことは名高い。また水沢緯度観測所や柿岡地磁気観測所の創設を推進した。その他、日本式ローマ字表記を提唱し積極的に用いた。田中舘は大正5年の10月に行われた在職25年祝賀会の席上で、辞表を提出したことを発表する。この年田中舘は還暦を迎えている。当時、東大では教官の定年制を巡って、議論が喧しかったという。田中舘は、思うところに従って自ら率先して定年退職を実行した。その結果、東大に60才定年制が導入されたという。
東京大学小石川植物園における帝国学士院歓迎会
東京大学小石川植物園における帝国学士院歓迎会
(本館所蔵)
  田中舘は東京大学理学部物理学科卒業生の最初の教官であり、歴代の物理学科の教官の中でも最長老の一人で長岡半太郎の先輩である。その長岡半太郎が主導して行ったアインシュタインの東大での行事に田中舘も参加しているに違いないが、小石川植物園での学士院歓迎午餐会と三四郎池横での講義後の記念写真に写っている以外に、アインシュタインを巡る多くの会合に田中館の痕跡はない。アインシュタインあるいはアインシュタインの研究に田中舘がどのような関心を示したかは定かでないが、田中館はアインシュタインの6回の講義に全て出席して、講義の内容をメモとして残している。にもかかわらず、その前後に田中舘はアインシュタインがらみの記述をどこにも残していない。手帳にもEinsteinとかかれているのみである。

 アインシュタイン講義メモは38頁にわったっている。その内容は杉元健二編著「東京大学におけるアインシュタイン講義録」に収録されている荒木駿馬の記録と同一であり、ここでは省略する。しかし、田中舘の記録には興味ある点がいくつかあった。田中舘がローマ字表記の提唱者であったことは上に述べたが、講義メモもドイツ語とローマ字表記が混在していて著しく読みにくい。初日の講義は田中舘にとって退屈であったようで、ノートの片隅に「年寄りの冷や水」とか「研究でない。ただの調べにすぎない」、「調べたことを言っただけだ」(表記はローマ字)と付記している。後半にはこのような書き込みはなくなっている。また。各々の日の最後に人名が書かれていることがある。「Doi」とあるのは長岡半太郎の弟子で反相対性理論の土井不曇が自らの考えを主張したしたことを示しているし、翌日にTamaru(Doi)とあるのは、土井が自らの説を撤回した声明を田丸が代読したことを表している。最終日の討論として、長岡半太郎、田丸卓郎、岡谷辰治、桑木 雄が発言したことが記録されている
  東大でのアインシュタインの講義は物理学教室中央講堂で行われたが、アインシュタインの控え室には空いていた田中舘の部屋があてられた。椅子や机は別に購入されていたもので急遽間に合わせた。講演の後には,アインシュタインが使った椅子や机は教官によって争うように持ち去られたと伝えられている。しかしアインシュタインが使用した中央講堂も田中舘の研究室も全てが大正13年の関東大震災で崩れ去ったのである。従って東京大学にはアインシュタインゆかりのものは全くといってよいほど残されていない。
  その後、田中舘はキュリー夫人、アインシュタイン、ギヨームらとともに国際連盟知的委員会のメンバーとなった。田中舘は1927年から1933年まで委員を務めたが、アインシュタインは1932年に、委員を辞退した。結局田中舘は6年間アインシュタインとジュネーブでの会議で席を同じくする機会があったのである。
田中舘のアインシュタイン講義ノート(提供:二戸市)
田中舘のアインシュタイン講義ノート
(提供:二戸市)
東京駅頭でのアインシュタイン
東京駅頭でのアインシュタイン (三木教子氏提供)
ジュネーブ会議における田中舘・アインシュタイン
ジュネーブ会議における田中舘・アインシュタイン
(提供:二戸市)
東京大学講義後の記念撮影(提供:二戸市)
東京大学講義後の記念撮影(提供:二戸市)

参考文献
石原純・岡本一平:アインシュタイン講演録(復刻)、東京図書、1986年
金子務:アインシュタインショックI,II、河出書房新社、1981年
杉元賢治:アインシュタインの東京大学講義録、大竹出版、2001年
シュテファン・イーグルハウト編:アインシュタイン日本見聞録、
「アインシュタイン日本見聞録」特別展図録、2006年
Albert Einstein, Ingenieur des Universums, Wiley-VCH, 2005
中村清二:田中舘愛橘先生、鳳文書林、1943年
田中舘美稲:私の父 田中舘愛橘、二戸市、1999年

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