第ニ部

精神のエクスペディシオン


西秋良宏(総合研究博物館 助教授)

相対的に未知な世界へ遠征し学術的な新知見を得る行為、それをここではエクスペディシオン(exp仕ition)とよんでいる。学術調査ないし探検といってもよい。健全に成熟した学術と相応の組織をもつ機関ならば、海外にも多くのエクスペディシオンを派遣するのが自然の成り行きだろう。百二十年前に創立された東京大学は、今日までに実に多くの海外調査団を派遣してきた。調査隊は一チームが数十名に達するものから個人レベルまで、規模はさまざまである。また、地形調査や動植物探索、考古遺跡の発掘、都市住人の社会調査や気象観測、宇宙の成因を調べる地球科学等々テーマも多彩である。ありとあらゆるテーマに導かれ、ありとあらゆる地域で調査・研究が展開されている。その総数はもはやとらえきれないほどの量に達している。調査は常に新しい知見をもたらすものであるから、このことは、学内に集積された資料やデータも莫大な量にのぼっていることを意味する。

第二部「精神のエクスペディシオン」展では本学教官が組織したそのような海外学術調査の軌跡と成果を公開し、それによって海外に広がる研究の意義や、探検型学問のもつ魅力を改めて世に問うことにした。展示では、明治から第二次大戦前の時代性を帯びた調査と、戦後間もなく発足して今に続く文化史・自然史系の大型調査を中心に紹介されている。これら過去の調査をながめることは、今日隆盛をきわめる海外調査のよってきたる源を認識する機会となるだろう。また、外遊そのものが希であった頃の海外調査においては研究者の意気込みも責任も戦略も現在とは大きく異なっていた。未知の土地での調査に胸おどらせた戦前、戦後間もなくの研究者の冒険心や探検心にふれることは、蔓延する人工的環境の中で失われつつあるフィールドワークの楽しさを呼び起こすことにもつながるのではないかと考える。

展示は三つのセクションにわけて構成されている。第一はエクスペディシオンの原風景と題して、明治期から戦前の海外調査を紹介するセクションである。海外での調査活動は、東京大学が生まれた一八七七年当時にも既に行われていた。しかし、大学派遣の学術調査が本格的に始まったのは、十九世紀末である。創学以来十数年をへて日本人研究者の学術が熟し始めたのであろう。特に、一九〇二年は伊東忠太、鳥居龍蔵ら多くの研究者が大陸にわたり、壮大な調査活動を展開した年である。この年は、京都西本願寺の大谷探検隊が口火を切った年でもあり、後に「画期的な」探検年と称されることになる。ここではまず、造家学科助教授伊東忠太がおこなった世界一周の建築調査が紹介される。欧米への留学途中に単独で、しかし三年以上もの年月をかけて中国から新大陸までを踏査した壮大な世界旅行である。克明な旅行記と画才あふれる野帳など、残された膨大な記録からは、日本建築のルーツを探るという使命をもった明治男の海外体験の日常が沸々と浮かんでくる。

第二次大戦終結までに海外調査が集中したのは中国大陸、朝鮮半島など東アジアの各地であった。そのような例として、ついで人類学の鳥居龍蔵、建築学の関野貞、東洋史の江上波夫、考古学の原田淑人が実施した文化史系調査もとりあげ、その実状を報告する。鳥居の写真術、関野の古蹟模写、江上の学際的隊編成、原田の漢籍と文物の照合など、その後の調査の範をなす最先端手法は大きな成果を生んだ。しかし、アジアを駆けた彼らの大規模かつ先駆的な業績の数々が、国策に基づく時代の落とし子であったことも一方で明らかである。

第二のセクションは時空間エクスペディシオンとして、戦後まもなく発足して現在につづく四つの大型調査の成果を文化史・自然史にわけて紹介している。現在も続くこれらの大型調査が持ち帰った莫大な標本・資料群は総合研究博物館中核資料の一つとなり、文明起源や生物進化の問題を具体的に研究するための世界有数のコレクションを形成している。 東京大学が派遣した戦後最初の大規模海外調査は、一九五六年、東洋文化研究所の江上波夫教授が率いたイラク・イランの考古美術調査であった。この調査と、それに続いて発足したアンデス地帯学術調査(一九五八年)は、当初からペアで進められた。すなわち、メソポタミアとアンデスという独自に文明への道を歩んだ二地域の文化発展を現地調査で詳しく調べ、対照し、それによって文明の起源に法則性がないかどうかを探ろうというプロジェクトが発足したのである。農耕、神殿、都市、階級、文字など文明に必須とされる諸項目の出現経緯や役割が、両地域でいかに類似し、いかに異なっていたのか。なぜ類似し、なぜ異なっていたのか。そしてそこからわかることは何か。データの対比検証作業は、四十年以上にわたる現地調査を経た今でも、なお続いている。

これに続いて組織され、今も息の長い活動を続けている自然史系の二大プロジェクトが、ヒマラヤ地帯植物調査と西アジア洪積世人類遺跡調査である。ヒマラヤでは植物の高地適応、西アジアではネアンデルタール人問題を中心にした人類進化が調査の対象となっている。地味で、やや原始的にもみえるフィールドワークによる標本収集と実験室での先端科学分析。このコントラストによって解きあかされた植物と人類の進化の謎が紹介されている。

第三のセクションはエクスペディシオンの展開として、それら四つの調査団発足後のいくつかの調査が展示されている。一九六三年に文部省科学研究費が海外学術調査の種目を設けた以後、予算案の伸びとともに海外調査の件数は飛躍的に増加する。特に近年の伸びはめざましい。一九六〇年頃は年にわずか数件であったのが、一九九六年度には日本全体でついに千件をこえるようになった。東京大学の調査はそのかなりの部分を占めている。数の増大のみではない。テーマも多彩である。人文、地史、生物、医学から物理化学の世界まで、あるいは地中、海中、果ては宇宙へと、目に見えず手でふれられない領域の探索まで海外調査が受け持っている。また、地域もかつての第三世界中心ではなく、欧米や広域を対象とする調査が半数を超す。「エクスペディシオン」の目指すところ、探検の先は地球の秘境ではなく、サイエンスの秘境へと変容しているのである。

明治期の留学先としての海外体験、戦前・戦中の国策的保護のもとに実施された東アジア調査、敗戦後の混乱の中から国民的期待を背負って立ち上がった学術探検、そして件数や課題の把握すら困難なほど隆盛する現在の状況。このような海外調査の過去から現在を通覧してみると、件数や調査地域の変化のみならず、調査課題にもこの間、質的な変化が生じていることがわかる。特に戦後は、高度に専門化したローカルな課題に加えて地球や生命を見据えたグローバルな目的をかかげるものが急速に増加している。国の内と外という地理的に限定された海外観、すなわち、外から内を、あるいは内から外をみる、という自己中心的な世界観が変容する過程を反映しているともいえる。逆に、海外調査の進展がそのような世界観の変遷に貢献してきたのでもあるのだろう。

研究の総合化、融合化の推進が必須の流れとなった最近の学術環境においては、こうした方向は海外学術が今後さらに進む途の一つであろう。あらためて東京大学というエクスペディシオンの基地に学術の証として集積された資料をながめてみると、それは今やありとあらゆる分野を網羅する巨大データバンクとなっていることに気づかざるをえない。地理的にはアジアから南洋、北洋、さらにアフリカ、新大陸等、分野も人文、生物、地学、医学など多岐にわたる。それらは国内にいながらにして、世界各地の野外研究が具体的に検証できる資料であると同時に、地球規模の問題を解くのに絶好の資料でもある。公害問題や人口問題、民族紛争等、今や世界には単独の資料、一国からの収集物のみで解決できない課題が山積している。それら地球規模で取り組むべき問題解決のための研究素材として海外学術の調査資料を活用することは、エクスペディシオンの基地で学術を続けている我々に課されている重大な課題の一つであると思われる。

エクスペディシオンの装備

戦後の海外調査に使用された装備の一部。このような木箱は採集した標本の輸送だけでなく、調査道具・キャンプ用品などの運搬にも使用された。大規模な遠征時には木箱、紙箱あわせて数百箱が日本と現地を行き来した。
「新訂萬国全図」

(『梅園画譜』全24帖の写本の内)
間宮林蔵による1808年の間宮海峡発見は世界地図を書き換えた。本図は、英国人アロウ・スミス制作の地図を原図として高橋が間宮海峡を収録して作成したもの。当時の世界第一級の正確さをもつ地図である。左上には京都を中心とした各地の投影図があり、日本の世界的位置を考えている点でも興味深い。
【高橋景保作/1810年/総合研究博物館地理部門】



エクスペディシオンの原風景

時空間エクスペディシオン

エクスペディシオンの展開