第ニ部

精神のエクスペディシオン


エクスペディシオンの原風景

伊東忠太の調査「野帳と日誌」伊東忠太の調査「清国第一冊」
伊東忠太の調査「野帳と日誌」

伊東忠太の世界建築見学旅行は、中国、ビルマ、インド、スリランカ、トルコ、エジプト、シリア、ギリシア、イタリア、ドイツ、フランス、イギリス、アメリカと、文字通り世界を一周する。内容は決して均等ではない。中国15か月、インド等9か月、トルコ・エジプト等10か月、欧米5カ月、と旅行に困難な地域にやや日数をかけている。行く先々での見聞を克明な日記と野帳に残した。
【伊東忠太筆/伊東家・日本建築学会】
伊東忠太の調査「清国第一冊」

(『梅園画譜』全24帖の写本の内)
雲崗石窟寺仏頭の模式図を記したページ。
【伊東忠太筆野帳/明治35年/17.0cm×11.0cm/伊東家・日本建築学会】

伊東忠太の調査「日本帝国海外旅券」 伊東忠太の調査「記念写真」(雲崗石窟寺第20窟露仏前にて)
伊東忠太の調査「日本帝国海外旅券」

【伊東忠太/明治44年12月5日/26.0cm×20.0cm/伊東家・日本建築学会】

伊東忠太の調査「記念写真」
(雲崗石窟寺第20窟露仏前にて)

伊東が雲崗石窟を「発見」したのは、1902年6月18日である。彼の日記には、「・・・その仏相、装飾の手法、紋様などは、・・・、実にわが法隆寺式はまったく同じきものあり。鳥仏師作の仏と符合するものあり。壁画と同型の、金堂建築の手法と符号するもの、実に以外のまた以外。余は法隆寺の郷里を知りえて、その嬉しきこと限りなく、昼飯を食するの時間も惜しまれて、午後5時を過ぎるまで、一気に調査して、やや、要領を得たり。」(原文のまま)とある。この記念写真は、後日に訪れた際のもの。
【伊東忠太/昭和5年6月18日/45.3cm×33.0cm/伊東家・日本建築学会】

関野貞の調査「朱雀」(左) 関野貞の調査「朱雀」(右)
関野貞の調査「朱雀」(左右)

現在の平壌市近郊にあった古墳石室内壁画の模写。北(奥)壁に玄武、東(右)壁に青龍、西壁に白虎、石室入口内部の両脇には朱雀、天井には蓮華文などが描かれていた。その模写には70日間を要したという。
【古墳壁画模写/朝鮮民主主義人民共和国遇賢里乾塚/6-7世紀/各196cm×101cm/総合研究博物館建築史部門】
関野貞の調査「蛇行状鉄器」
関野貞の調査「蛇行状鉄器」

蛇のように曲がった鉄器であるのでこう呼ばれる。高句麗の古墳壁画に描かれた例からすると、ウマの尻にとりつけて旗をつけるのに使われたものらしい。日本の古墳からも同様のものが出土する。大陸との交流を示す顕著な証拠である。
【鉄器/大韓民国 慶尚北道晋州水精峯2号墳/6世紀/長さ71.0cm/総合研究博物館建築史部門】
原田淑人の調査「井戸」江上波夫の調査「刀子」
原田淑人の調査「井戸」

古代中国では、死者の死後の生活に要する物品の模型を土器でつくらせ、副葬品として墓に埋葬した。これを明器という。実用品ではなく、多くはミニチュアである。井戸、調理具、食器あるいは食べ物そのものなどが製作された。死後の世界観を伝えるだけでなく、当時の日常生活の実情を伝える資料としても興味深い。
【明器/中国 遼陽/1〜2世紀/17.0cm×17.0cm×29.5cm/文学部考古学研究室列品室】
江上波夫の調査「刀子」

反りの内側に刃のついたこのような刀子はユーラシア草原地帯の各地に見られるもので、中国北方地帯でも多数発見されている。遊牧民が日常に使ったものらしく、消耗品であったのだろう。墓の副葬品や一括埋納品としても見つかる。
【青銅/中国 長城地帯収集/前13-7世紀/商-春秋時代/長さ18.2〜27.2cm/文学部考古学研究室列品室】
鳥居龍蔵の調査「乾板暗箱」
鳥居龍蔵の調査「乾板暗箱」

鳥居の乾板写真はこのような紙の箱に収められている。【台湾/17cm×13cm×2.5cm/総合研究博物館人類先史部門】
鳥居龍蔵の調査「アルバム」

鳥居が東アジア、東北アジアで撮影した乾板写真は2000枚以上にも及ぶ。そのいくつかは鳥居自身の手によって、アルバムに整理されている。それらは今ではみることのできない当時の習俗、景色をいきいきと伝えるものとして、その新鮮さを失っていない。乾板は一枚が約90g、一回の調査に600〜700枚は持ち歩いたというから、それだけで60kgもの重さになる。現在ならフィルム17〜18本、500gにもならない。【台湾/43cm×15cm/総合研究博物館人類先史部門】


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