関野貞は明治28年 (1895) に帝国大学を卒業すると、 その翌年の12月に技師として奈良県に赴任し、古社寺の調査を開始した。 明治30年、我が国の文化財保護の初めての法律である 古社寺保存法が成立したが、 そのための保護すべき建築の目録作成に従事したのである。 約半年の後、約350の社寺に属する多くの建築から 80棟を選別した目録が完成した。 これら80棟の建築は、第1等から5等、等外の6段階の分類がなされており、 それぞれの年代が書き込まれていた。 調査の迅速さに驚くが、その年代判定の正確さにも驚嘆すべきであろう。 後に法隆寺西院伽藍の建築以下、 7世紀から8世紀の建築の年代が数十年ほど降ることが明らかとなるが、 諸建築の建立年代の前後関係はほとんど信頼すべきものと考えられている。 建築に対しての様式的判断が極めて正確であったのである。
1901年、関野貞は東京帝国大学助教授に就任するが、 その前後から奈良県技師時代の蓄積を多くの論文にして発表していった。 建築だけにとどまらず、仏像など美術に関する論文も少なくない。 建築の様式論的な立場から、どうしても『日本書紀』天智9年 (670) に載せる法隆寺火災の条文を受け入れることができず、 その火災記事を否定する論文を書き、歴史家喜田貞吉らとの有名な論争 『法隆寺再建非再建論争』が起きたのは1905年のことであった。
関野貞は東大就任前後から朝鮮・中国に深い関心を持っていたらしい。 1902年に初めて朝鮮の調査を実施し、 1909年以後は毎年朝鮮の古跡調査に赴いた。 1904年に発表された『韓国建築調査報告』 (東京帝国大学工科学術報告第6号) は、我が国における最初の朝鮮の遺跡・遺構に関する紹介であった。 1909年以後の調査は、数多くの建築・古墳・城跡・寺院跡を踏査するもので、 楽浪郡遺跡、高句麗の古墳などを発見・調査した。 これらの膨大な調査結果は、後に『朝鮮古蹟図譜』 (全15巻、1915-35) として刊行された。
中国大陸へは1906年、1918年に訪れ、1928年の退官後にもしばしば赴いている。 中国での関心も朝鮮半島と同様であり、建築・瓦・せん(注) ・石塔・壁画・古墳・仏像などに及んでおり、 また特に石などに関心を持っていた。これらの調査結果は、 常盤大定との共著『支那仏教史蹟』 (全12巻、1925-) として刊行された。
建築部門で所蔵する建築史関係史料は、 大部分が関野貞によって朝鮮・中国からもたらされたものである。 遺跡の発掘調査で出土した瓦・せん(注) ・土器・明器、古墳内部の壁画の模写、石碑の拓本、 あるいは遺跡・建築・石塔などの写真乾板がその内容である。 一部は現地の古物商から購入したものもある。 また現在東京国立博物館東洋館に展示されている孝堂山下石祠画像石は、 やはり関野貞が持ち帰ったもので、 戦後に東京大学工学部建築学科から移管された。
総合研究博物館では近年、大規模な企画展を実施しているが、 建築史部門として、 1988年の『東京大学本郷キャンパスの百年』展の開催に関して 情報提供・展示に全面的に協力した。 その時に調査を行った東京大学の建築について、 古写真、古図面の保存に努めると同時に、それらの情報を収集している。
参考資料
日本建築学会編 『近代日本建築学発達史』 丸善、昭和47年所蔵史料関野 克 『建築の歴史学者 関野 貞』 上越市綜合博物館、昭和53年
稲垣栄三 「中国・朝鮮における建築遺跡の研究—関野貞と建築史学」
( 『総合研究資料館展示解説』 東京大学総合研究資料館、昭和58年)『東京大学本郷キャンパスの百年』 東京大学総合研究資料館、昭和63年
時代 | 中国・漢代 |
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出土地 | 不明 |
大きさ | 340×230×192mm |
中国の墓中に副葬されている器物を明器といい、 死者が生前に使用していた器具・動物などをかたどる。 その多くは陶製であって、関野貞は数点を中国で買い求めた。 猪圏は厠と豚舎が一体となったもので、極めて写実的に作られている。 関野は家屋関係の明器に関心があったらしいが、 主屋の構造を示す明器は少なく、付属施設をかたどるものだけが集められた。
時代 | 中国・漢代 |
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出土地 | 不明 |
大きさ | 385×385×48mm |
表面に文様あるいは文字を施したせん(注)は、 陵墓の玄室の壁・天井あるいは床の装飾に用いられた。 この方せん(注)は 二重の幾何学文の縁をつくり、中に龍虎を描いている。
動物文方せん(注)についての詳細は、
デジタルミュージアム
「東アジアの形態世界」の
「画像せん(注)」についての
の項*を参照して下さい。*東京大学総合研究博物館データベースのサイト内に再構築されました。(2017年2月 記)
時代 | 朝鮮・三国時代 |
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出土地 | 将軍塚 (中国吉林省安県) |
大きさ | 徑 215mm、周縁高 35mm |
所蔵 | 昭和2年12月5日、木村京蔵氏寄贈。 東京大学総合研究博物館 建築史部門 |
広開土王の墓将軍塚から出土したもの。 もっとも高句麗らしい特徴を示している。 中心の円形、放射状の線による区画は中国漢からの影響、 区画内部の蓮弁は仏教芸術の影響であって、 それが組み合わされて独特の形式をつくっている。
詳細は、デジタルミュージアム
「東アジアの形態世界」の
「蓮華紋瓦当」の項*を参照して下さい。*東京大学総合研究博物館データベースのサイト内に再構築されました。(2017年2月 記)
時代 | 中国・漢代 |
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出土地 | 不明 |
大きさ | 454×330×50mm |
周辺にやすり状の文様を押し、 中に3人の人物を配した押型で5層の同じ文様をつくり、 最下層を山と動物を表した押型で押してつくったもの。 3人の人物は槍あるいは矛らしいものを持っているので、 このは墓室の入口に近いところを飾ったものであろうか。
人物文長方せん(注)についての詳細は、
デジタルミュージアム
「東アジアの形態世界」の
「画像せん(注)についての」
の項*を参照して下さい。*東京大学総合研究博物館データベースのサイト内に再構築されました。(2017年2月 記)
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