小石川植物園の一般への公開

大場秀章


今日の世界の植物園は、大きく三つの役割をもっている。すなわち、生きた植物と植物に関係した標本や図書資料の収集、植物学の専門研究と教育、そして植物と植物学についての知識の普及公開である。

植物園附近図
1 帝国大学時代の植物園附近図

 世界最大の植物園といわれる英国の王立キュー植物園のように、このすべてをうまく併立させている植物園が多いが、中には収集の他は研究と教育だけとか、日本の多くの植物園のように普及だけを目的としたものもある。

 小石川植物園は設立の当初からこの三つの役割を果してきた。大学の植物園として研究と教育に資することは当然としても、社会教育も考慮に入れていたのは、当時としては画期的なことであった。この社会への公開が熟慮のうえの選択なのか、それとも当時の世界的植物園を見習って公開という制度を導入したものか。おそらく後者の可能性が高い。




小石川植物園の公開の歴史
 別項で述べたように小石川植物園は薬園の時代は一般への公開は行われなかった。ただ太田蜀山人南畝のような一般人が訪ねその訪問記録を残していることから、許可を得れば観覧は可能だったのかも知れない。薬草の栽培地は女人禁制としたほどでもあったから、観覧できたのは花卉の栽培された花畑や庭園だけであったと思われる。



創立当時の公開
 さて、小石川植物園が明治一〇年に東京大学の附属となると、一般の来観が認められることになった。そのための規則もその年に定められた。『東京大學法理文三学部第五年報』に収載された『小石川植物園来園規則』をここに再録しておこう。

第一條
 小石川植物園ハ東京大學中理學部ノ管掌スル所ニシテ本學諸部及豫備門生徒ノ植物學ヲ實地二研究スル所ナリト雖モ此規則ヲ遵守スル時ハ何人ニテモ来觀スルヲ得ヘシ
第二條
 東京大學及豫備門教員属員及生徒ハ勿論何人ニテモ来觀ヲ望ム者ハ該園門衛ヨリ鑑札ヲ受ケ出門ノ節之ヲ還付スヘシ但車馬二乗シ或ハ狗ヲ牽テ園内二入ルヲ許サス
第三條
 園内ノ花卉ハ漫ニ採折スルヲ禁ス但東京大學及豫備門教員及生徒植物學二從事スル者ニシテ學課用ニ備ヘント欲スル者ハ東京大學へ申出其特許ノ證牌ヲ受ケ植物園ノ允許ヲ經テ採折スルハ此ノ限ニアラス
第四條
 来觀ノ時間ハ午前九時ヨリ午後四時マテトス但特許ノ證牌ヲ携持スル者ハ此限ニアラス
第五條
 園内及休息所二於テ飲酒ヲ禁ス


 この規則から明らかなように、小石川植物園の公開が行われたとはいえ、その主旨は東京大学の職員と学生が植物学の研究を行うために公開していることが判る。東京大学の開学当時の植物学教場はいまの神田一ツ橋にあった。その教場へは必要な植物がその都度植物園から運ばれていたという。この目的を達成するため、はやくも明治二六年からは「種子目録」を発行し、外国の植物園と種子の交換を行っている。種子を植物園相互で交換し合うことで直接収集には行けない遠隔地の植物を入手することができた。

 この時代一般の人々がどの程度植物園を利用したのか、それを明らかにする資料は乏しい。明治一四年の「小石川植物園日誌」(付録一)はその点で参考になる。明治一三年一二月の観覧者(縦覧人としている)の合計が一八六人で、内特許証によるものが二名との記録が一月九日に記録されている。寒い冬の植物園を想い浮かべてこの数字を考えてみると、かなりの入園者がいたといえるであろう。さらに日記を追うと、一四年一月の入園者は一四九名、二月一八五名、三月八〇九名、四月一、四二五名、五月一、三九七名、六月七六二名、七月不明、八月三〇〇名、九月三二七名、一〇月八三七名、一一月五八二名という記録が載せてある。

 当時の東京の人口からしてこれはたいへんな入園者数といわねばならない。小石川植物園は東京大学での植物学の研究を主たる目的としていたのだが、明らかに一般の来観者がほとんどであった。東京の市民が今以上に植物にたいして特別に関心があったのだろうか。それは定かではない。都心に行楽地が少なかったこともあるだろう。だが、当時の東京では市民が西洋の草花を観賞する機会は小石川植物園をおいて他には無かったのである。実際に日本では小石川植物園で最初に栽培され、その後各地に広がっていった草花も数多いのである。ヒメジョオンやハキダメギクのような帰化植物も最初は小石川植物園が外国から移入した植物であった。当時、植物園では草花の苗や種子を売っていたという説もあるが、この明治一四年の日記をみる限りその事実はないようだ。ちなみに入園は無料で、しかも開園は毎日ではなく、毎週日を定めて観覧を許可していたようである。
 なお、当時の園内には日本建築の大きな集会所という建物があり、各種の催しに利用されたという。

鑑札
2 鑑札

植物園配置図
3 植物園配置図

観覧券
4 小石川植物園および日光分園観覧券
小石川植物園は明治二一年以来入園料を徴収して一般公開している。東京帝国大学時代から各種の観覧券が用意されていた。「帝國大學植物園來観之證」は明治二一年以前に用いられた入園許可証と思われる

観覧券の捺印に用いた印鑑
5 観覧券の捺印に用いた印鑑


 明治一七年二月に小石川植物園という名称が東京大学附属植物園と改称になった。この時点で園は毎日の観覧に供されることになった。明治一九年三月に帝国大学令が公布され、植物園は帝国大学理科大学附属植物園と呼ばれることになった。

 明治二一年六月に来観規則が改訂され、入園料が徴収されることになった。入園料は、日曜日来観券(紅色)三銭、平日来観券(青色)二銭で、小児(五歳以上一〇歳まで)は半額であった。

 明治三〇年には、名称が東京帝国大学理科大学附属植物園、大正八年には東京帝国大学理学部附属植物園と改称されたが、市民の間では小石川植物園の名前が広く用いられていたようである。




植物園案内
 小石川植物園の一般を対象とした案内書がかなり発行されている。その最初のものがいつ発行されたかは明らかではない。手元にある内で最も古い案内書は大正一二年三月に東京帝国大学が発行したもので、定価は五〇銭である。これは『東京帝国大学理学部附属植物園案内』と題され、三一ページからなり、折込みの植物園地図が挿入されている。きわめて鮮明な写真一四点が載っている。三好學園長の時代で、位置及び区分、目的及び事業、起源及び沿革、園内案内の四項目からなるが、多くが園内案内に割かれている。説明は要を得て簡であり、当時の園内の模様が伝わってくるようだ。
植物園案内
6 植物園案内、大正12(1923一九二三)年

(温室)当時の日本ではまだ温室はめずらしいこともあり、温室と温室で栽培される熱帯植物の説明が詳しい。洋式のガラス張りの温室の他、陸室や大阪室、煙室という温室があった。陸室というのは、地温と日光とを利用して暖を保つもので、主として小笠原、琉球などに産する亜熱帯植物の越冬に用いた。つまりこれらの植物は夏季は野外で栽培されたのである。大阪室は主として盆栽及び日本南部産のシダ類の越冬に用いたが、夏季は球根類の整理と貯蔵にも充てた。煙室は煙によって暖める装置をもった部屋で、草花やメロンなどの栽培に供した。いまは旧式の温室になってしまったが、高屋根をもつ温室は完成当時は注目されたことだろう。その左右に翼室をもち、ラン類など多数の熱帯植物が栽培されていた。

(精子発見のイチョウ)精子が発見されたイチョウについて、「薬園当時には、此イチョウは奉行岡田利左衛門の邸内のものなりしが、明治元年、薬園の管理が幕府より朝廷に移りし際、当時の規約として、管理変更の前日までに伐採したる樹木は薬園関係者の所有となりしかば、此イチョウも亦斧鉞の厄に遭い、幹の基部は僅に中心を残して危く切断せられんとしたり。而かも規約の時間の経過せる故を以て、纔に一縷の命脈を繋ぎ得たりしが、春風秋雨幾十年、全く癒傷して今日の如き樹勢を呈するに至れり。」と記されている。危うく伐採されるところであったことが判る。なお、いまも幹の上部にその傷跡をみることができる。




『植物園往来』
 この案内書は昭和二年に本間笑楽堂で販売された小冊子である。著者は山田肇といい、野梅と号した。園内の配置図や写真も載せるが、四季の植物園の様子が当世風の肩肘張らない文章で面白お笑かしく記されている。漢字のすべてに振りがなが付されているのも親切だ。定価は三〇銭である。

 こうした冊子がどこで売られていたのだろう。入口付近の売店にでもあったのだろうか。著者曰く「(植物園は)即ち、学者の研究場であるのだが、その本来の使命以外に、半面遊覧地としての植物園は、自由な、安易な、暢びやかな雰囲気に、抱擁された別天地である。自分は、これを東京市中に見るが故に、特にその功徳を謳歌するものである。讃美するのである。徒らに言葉を誇張して、障子は張りかえた、畳は新しい、とお客の袖を引くのではない。」と。




植物園内の名所
 歴史の古い植物園には、養生所跡の井戸、青木昆陽甘藷試作跡、柴田桂太先生記念レリーフ、精子発見のイチョウ、メンデルの葡萄、ニュートンのリンゴなどいろいろな史跡や由緒ある植物などが数多くある。史跡と並び重要なのは園内に栽培される植物である。大イチョウをはじめ、ソメイヨシノの古株、メタセコイヤなど、それぞれの植物に固有の来歴がある。研究の中であるいは教育にこれらの植物がさまざまな貢献を果たしたことはいうまでもない。

 小石川植物園の公開事業の支援などを目的とした後援会が昭和五四年に誕生した。幾種類ものパンフレットや小冊子を発行して、入園者の理解を支援している。一般の人々に向けた講演会も開催している。後援会を設立し、その中心となって会の活動を支えているのは、かつて東京大学理学部で植物学を学んだ方々である。後援会の誕生は小石川植物園の開学以来の長い公開の伝統と歴史に新たな一ページを開いたということができる。    (おおば ひであき)




参考文献
 小倉 謙(1940)東京帝國大学理学部植物學
 教室沿革附理学部附属植物園沿革(東京帝国大學理学部植物學教室)
 大場秀章(1987)附属植物園(東京大学百年史部局史二、393−399、東京大学)


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