東京大学植物標本室に関係した人々

大場秀章・秋山忍


六 中井猛之進


 昭和初期は東京大学において分類学研究が最も活発に行われていた時期である。早田教授在職中の昭和二(一九二七)年に中井猛之進が教授となり分類学を早田と分担することになった。大正一五年入学の学生には正宗巌敬、昭和二年には秋山茂雄、同三年伊藤洋、小林義雄、四年前川文夫、五年北川政夫、六年佐藤正己、津山尚、原寛、七年百瀬静男、そして八年には木村陽二郎がいた。伊藤洋以降の学生は中井が指導に当った。分類学の研究は地域の植物相の解析と種族誌研究に分かれていた。すでに述べたが正宗は屋久島の植物相を研究した。北川政夫は中国東北部(特に満州)、原寛は北海道日高地方、津山尚は小笠原の植物を研究した。

 他方、伊藤はシダ類オシダ亜科、小林は菌類、前川はギボウシ属、佐藤正己は地衣類、百瀬はシダ類の配偶体世代、木村はオトギリソウ属植物の種族誌的な研究を行った。北川の中国東北部の植物の多くは第二次世界大戦で失われたが、一部は残り東京大学植物標本室の重要なコレクションになっている。小笠原の植物を研究した津山はしばしば同諸島を訪れ多数の標本を採集した。小笠原植物の研究上欠かせない重要なコレクションになっている。

中井猛之進
20 中井猛之進(1882—1952)


生い立ち
 さて彼らを指導した中井猛之進教授は明治一五(一八八二)年一一月九日岐阜市に生まれた。父は堀誠太郎である。堀は弘化二(一八四五)年七月二四日に生まれ、幼名を内藤糺といった。ちょうど矢田部良吉の米国留学に前後する明治三年文部省の官費留学生としてアムファースト農科大学へ学び、明治七年に帰国した。当時は内藤誠太郎といった。帰国後、開拓使御用掛、札幌農学校教授(当時は堀誠太郎)を経て、明治一七年に東京大学御用掛として植物園事務掛を勤めたこともある。その後理科大学書記、理科大学舎監になったが明治二四年に矢田部教授が非職となると同時に非職となった。

 中井猛之進は明治三七年山口高等学校を卒業後、東京帝国大学理科大学に入学した。松村教授について研究を行い、明治四一年に理科大学助手(植物園勤務)、大正六年に講師、同二年に助教授となった。昭和五年一〇月から退職するまで附属植物園の園長を兼任した。

 中井教授は大正一二年五月文部省在外研究員として、海外に留学を命ぜられ、スウェーデン、ドイツ、オーストリア、オランダ、スイス、フランス、アメリカ合衆国に主要な植物標本館を訪ね、日本を含む東アジアの植物を中心に研究を積んだ。大正十四年九月に帰国した。中井はこの留学中に、日本人研究者が研究を開始する以前に日本の植物を研究したケンペル、ツュンベルク、フランシェらの研究のもとになった標本を精密に研究した。

 こうした研究は同時に京都大学教授となる小泉源一によっても行われた。中井と小泉の研究によって、従来判然としなかった先人の命名にかかる不明植物の正体の多くが明らかにされたのだった。



標本室への貢献
 中井はこの留学で当時の指導的立場にある欧米の研究者と交流し、意見の交換を行い、日本の分類学の水準が欧米のそれと違わないことを身をもって知らしめた感がある。中井に先立つ早田がドイツを中心にそうした交流を開いたのに対して、中井はフランスとスイス、それに米国の学者との交流を深めた。

 中井は朝鮮の植物を研究したが、国内の植物についても造詣は深かった。また植物の分類体系についても独自の見解を抱いていた。中井が著わした論文は五百編以上になり、後の日本植物の研究の多くに中井の論文が役立った

 こうした大学での学生の指導と研究に精力を傾注するかたわら、中井は当時全国に台頭しつつあったアマチュア植物学者とも積極的に交流した。中井のもとには全国から植物の同定などを問い合わせる標本や書簡が舞い込んだ。こうした標本の中には学会に未知な植物が少なくなかった。アマチュア植物学者の鑑識眼も高いレベルに達していた。

ジャニンジンの標本
鍋島与市 1927年採集
ジャニンジンの標本
合屋武城 明治37(1904)年採集
ジャニンジンの標本
鈴木貞次郎 1933年採集
ジャニンジンの標本
宇井縫蔵 1931年採集
ジャニンジンの標本
二階重棲 明治29(1896)年採集

ジャニンジンの標本
村松七郎 大正13(1924)年採集
ジャニンジンの標本
荒木英一 1932年採集
ジャニンジンの標本
前原勘次郎 1923年採集
ジャニンジンの標本
木梨延太郎 1907年採集
ジャニンジンの標本
正宗巖敬採集
ジャニンジンの標本
古家儀八郎 昭和12(1937)年採集
ジャニンジンの標本
小泉源一 1916年採集

21 東京帝国大学時代のジャニンジン Cardamine impatiens(アブラナ科)の標本

 伊豆諸島の植物相を独自に調査していた東京農業大学の常谷幸雄教授は、中井によって標本室の利用を許された数少ない部外者だと私に語った。当時、東京大学の植物標本室は東京大学での研究と教育のために目的を限っていた。特別に出入りを許可された者以外の利用はできなかった。

 籾山泰一は慶応大学予科を卒業したが、植物が専門ではなかった。籾山は中井の指導のもとに主に日本の樹木を研究した。籾山は植物に愛着を抱いて研究に入ったが、彼は植物学の図書に造詣が深かった。珍しい図書を入手して中井に見せるとただちに取り上げられ、「籾山泰一氏寄贈」として植物学教室の図書室に入れられてしまったと述懐された。後に籾山は昭和一六年に創設された資源科学研究所(柴田桂太所長)の研究員となるが、喜寿を迎えた後も東京大学の植物標本室の発展に尽くされている。

 中井教授の後を継いだ本田正次教授はこうしたアマチュア植物学者との交流を一層積極的に進められ、専門家には入手できない珍奇な植物の標本を全国から集めることに力があった。



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