東京大学植物標本室に関係した人々

大場秀章・秋山忍


五 早田文藏


 植物標本室が充実をみるとともに、多くを標本に依存する研究も行うことができるようになった。日本の植物を周辺の諸地域と比較することで、同一または類似の植物がどこまで分布するかが明らかにされた。しかし、日本に最も近い朝鮮半島と台湾の植物は日本の植物に比べ研究が遅れていた。松村教授に師事した早田文藏は台湾植物相の解析、中井猛之進は朝鮮植物について同じく解析的研究を行うことになった。

 松村任三を継いで分類学を担当する教授となった早田文藏は明治七(一八七四)年一二月二日に新潟県加茂町に生れた。明治三三年に東京帝国大学理科大学植物学科に入学した。明治三八年五月から大正一三年までの約一九年間、台湾総督府より台湾植物調査に関する事務を嘱託された。明治四一年八月理科大学講師を嘱託されたが、英国に私費留学を行い、主に王立キュー植物園標本室で台湾植物の研究を行った。その後、フランス、ドイツ、ロシアを巡り、研究を行った後、明治四三年一〇月に帰国した。大正六(一九一七)年台湾総督府の命によってフランス領インドシナに植物調査に赴いた。早田はさらに大正一〇年にもフランス領インドシナとシャム(タイ)に出かけて植物調査を行った。大正八年九月には松村の後を継いで教授となった。また大正一三年四月から昭和五年五月まで附属植物園園長を兼任した。

 早田教授は植物群落の遷移、シダ類の中心柱、遺伝、分類体系等について独特の学説を提唱した、世界に注目された最初の日本人植物分類学者といえる。なかでも早田が提唱した動的分類体系は欧米でも議論された。科学史上からも検討に値するものといえる。



台湾とインドシナ植物の研究
 早田文藏の業績をここで紹介するゆとりはないが、植物標本室との関係でいえば、彼が台湾とインドシナから持ち帰った植物標本は、東京大学植物標本室が所蔵する世界的に重要なコレクションのひとつとなっている。早田の台湾植物コレクションは彼が著した『台湾植物図説』全一〇巻(一九一一〜一九二一)その他の論文の基礎となるもので、その総数は二、〇〇〇点を越え、そのうち一、〇〇〇点近くがタイプであることをとっても、いかに学術上重要かをうかがい知ることができる。
三好學教授肖像画
16 三好學教授肖像画
満谷國四郎画
大正9(1920)年11月
早田文藏教授肖像画
17 早田文藏教授肖像画
寺内萬治郎画

早田文藏関係標本
18 早田文藏関係標本
(左)中井猛之進が Astilbe fujisanensisと命名したフジアカショウマのタイプは早田の富士山での採集品である、(右)台湾植物を研究した時のクスノハアジサイ Hydrangea integlifoliaの標本


 昭和九(一九三四)年早田は突然心臓発作を起こし、以後は自宅にて講義を行うほどであったから、インドシナで採集した標本は針葉樹やムカシリュウビンタイ属などのシダ類を研究しただけで未整理のまま放置されることになった。

後年これを整理し利用できる状況としたのは第二次世界大戦後のことで、山崎敬教授が尽力した。

 早田教授が指導した学生のうち、山本由松、正宗巖敬は台湾、屋久島の植物の分類学的研究を行った。木村有香はヤナギ科植物について種族誌的な研究に進んだ。佐竹義輔は針葉樹の解剖学的研究を進めたが、後にヤブマオ属、ホシクサ科やイグサ科の分類を行った。地域的にも分類群別においてもこうした集中的研究が積み重ねられていくことで、標本室の標本はますます充実をみることになった。

 松村教授時代の後半、植物学教室は小石川植物園の建物に移った。植物園時代に標本室は建物の北西の一角を占めていた。木造の建物で火災の心配はあったが、一度も火事に会うことはなかった。早田教授が亡くなった昭和九年、植物学教室は本郷構内に新築された理学部二号館に移ることになった。植物標本室の移転は翌一〇年であった。その二号館の二階の中央の半分が植物標本室に当てられた。

植物標本室
19 植物園に植物学教室があった当時の植物標本室
左上の人物は岡村金太郎


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