東京大学植物標本室に関係した人々

大場秀章・秋山忍


四 牧野富太郎


生い立ち
 文久二(一八六二)年四月二六日に土佐(高知県)佐川で生まれた牧野富太郎は日本人に最もよく知られた植物学者といえよう。植物学の研究を志して明治一七年東京大学植物学教場にて研究する機会を得て以来、精力的に研究に取り組んでいた。三二歳になった明治二六年九月に帝国大学理科大学助手となった。後、明治四五(一九一二)年一月に東京帝国大学理科大学講師を嘱託され、昭和一四(一九三九)年五月三一日に解嘱になるまで、この職にあった。牧野は東京大学在職中の一時期は多数の良質の標本を作成し、植物標本室の充実に努めたが、次第に標本は自宅に止め置かれることになった。牧野は多数の新植物を記載したが、そのタイプとなる標本の多くは東京大学にはない。これは牧野の手元にあったが、後に東京都立大学に牧野植物標本館ができ、タイプの多くも牧野植物標本館にある。
牧野富太郎
14 牧野富太郎(1862−1957)


アマチュア植物学者の育成
 牧野は植物分類学の研究においても大きな業績を残したが、植物分類学や植物そのものについての知識の普及に偉大な役割を果たした。牧野の啓蒙活動への貢献を示す例として、日光へ出かけた昭和三(一九二八)年の東京植物同好会の七・八月例会の様子を記してみよう。

 この頃はすでに鉄道は日光まで開通し午前七時五〇分東京上野発で日光に正午過ぎに到着している。四時間余りである(現在は約三時間)。駅から馬返、中禅寺を経て湯元まで自動車で行くことができた。この採集旅行には帝室林野局の許可を得て、「一種二株、木本ハ一個二〇センチメートル以内」を採集し採集品は帰京後報告するという条件があった。参加者は三六名で、戦場ヶ原では、アヤメ、ノハナショウブ、イブキトラノオが咲いていた。金精から菅沼に至る間はコメツガの原生林で、中にはハリブキ、オオレイジンソウ、ツクバネソウ、タデノウミコンロンソウがみられた。菅沼の辺りはシナノキンバイが花盛りで、ツルコケモモもみられた。これらはいまでもこの辺りに生育するが個体数が少なくなった種もある。牧野はこの例会を指揮して同道しているが、このような活動を通じ、広く一般を対象に植物の分類についての啓蒙に努めたのである。彼の活動は東京大学の植物標本室にとっても意義のあることだった。

 牧野の指導のもとに多くの人々が植物採集に興味をもち、標本を集めた。やがてこのようなアマチュアの人々によって県や町、あるいは山域単位での植物誌が纏められていった。アマチュアの人々の同好会会誌などには、採集会の記録、いろいろな地域の植物相の概要あるいは新産地の報告が載っていて、特定の地域の植物情報あるいはまた分布の消長や環境変化などを知るうえで、いまではたいへん貴重なものとなっている。欧米ではアマチュアの活動によって、このような情報を網羅した地方植物誌が多数生み出されている。

 こうしたアマチュアの人々が採集した標本が東京大学の植物標本室に多数収蔵される。これらの人々の協力なしには全国の植物を網羅するような日本植物の標本コレクションはつくり得なかったと断言できる。また、彼らは全国での稀少種の分布を明らかにするうえで重要な貢献もした。そして何よりもアマチュアの手により新たに発見された新植物の数は研究者自らが発見した数を上回る。このような専門家とアマチュアの間の一種の提携が早い時期にしかも全国規模でできたのは、やはり江戸時代以来連綿と積み重ねられてきた国民の植物に対する興味と深い知識によっているところが大きいのである。

牧野富太郎
15 牧野富太郎採集標本
牧野富太郎の植物標本の多くは東京都立大学牧野標本館にあるが、一部は東京大学にも保管される。シコクチャルメルソウのタイプ標本のラベルの文字が牧野の自筆である


前頁へ    |    目次に戻る    |    次頁へ