薬園から小石川植物園へ


目まぐるしい所属替え
 幕末の混乱期にも薬園は存続した。すなわち、幕府瓦解後、明治元年六月11日医学所頭取前田信輔、大西道節がこれを請け取り、東京府の管轄に移し、大病院附属御薬園となり、御薬草栽培方試補の植村千之助、阿部将翁(櫟斎)と共に元の岡田利左衛門の役宅に入り、御薬園の林彦輔、山田紋司及び園丁八名とともに居住し、植物の管理を行なった。一方芥川小野寺へは当分これまでの通りとなったが、当主芥川小野寺元紀はいったんこれを辞し、明治七年に帰園して復古に請願尽力した。

 明治二年には大学東校の管轄となって、医学校薬園と称することになった。明治四年七月には大学東校薬園と呼ばれた。明治六年三月には太政官博覧会事務局に属し、医学校薬園(明治二年)、大学東校薬園、文部省博物局、太政官博覧会事務局への併合と目まぐるしい変遷を経て、明治八年二月に文部省所管教育博物館附属となった。さらに明治一〇年に東京大学の創立とともに大学附置の植物園となったのである。このように小石川薬園がただちに小石川植物園という名称を与えられたのではないことが明らかである。薬園から植物園になる間にはいくつかの名称が付され、最終的に植物園に落ち着くのであるが、誰が植物園という名称を提唱したか定かではない。

 小石川植物園という名称で呼ばれることになったのは明治八年になってからである。

 明治一〇年四月一二日に東京大学の設立になると、植物園は同一四日をもって大学の附属となり、東京大学法理文三学部附属植物園と称せられた。矢田部良吉が大学としての新しい植物園の主管者となった。しかし、約一ヵ月で植物園の名称がまた変っている。すなわち、五月八日付けで東京大学小石川植物園と称することになり、小石川植物園という名称が復活したのである。

 このように小石川植物園は、ともかくも東京大学の所属となったが、その所属を巡って二つの見方があった。その一つは、小石川植物園は元来が薬草園であるのだからこれを医学部の所属とすべしとするものであり、他は植物学の研究を目的とすべきであり理学部の所属とすべしとする見方である。小倉謙一(一九四〇)によると、この両方の見方のいづれを採るかは容易に決まらなかったらしい。

 こうした対立する見方があった中で、小石川植物園が最終的に理学部の「專ラ主管スル」こととなったことは、今日からみれば歴史的にも正しい選択であったと思われるし、またこの選択が後の日本における植物学の発展にとっても実に大きな意義をもつことになるのである。

 ところで、当時植物園の主管者を担任あるいは管理といった。この主管の任に当たったのは矢田部良吉教授である。しかし、員外教授伊藤圭介も同時に担任となったこともあった。ただし、その場合は、矢田部教授が事務担任(このように称したこともある)となり、伊藤員外教授は取調担任(このように称したこともある)であった。事務会計を統べるのは矢田部の役割だった。

 実際は植物園に矢田部はあまり行かなかった、と小倉は記している。植物園の管理・運営の実務は、賀来飛霞、松本駒次郎、後には平野四郎、堀誠太郎などが行った。本図録に全文採録した明治一四年の『小石川植物園日誌』を読むと、日々の実際の様子が伝わってくる。大学本部との事務的交渉、開園にともなう種々のできごとなどが今日とそう大きく変っていないのに驚かされる。




伊藤圭介
 伊藤圭介は早くも明治三年一二月に大学出仕を仰付かったという(小倉、一九四〇)。さらに、明治八年六月一日には文部省から、「小石川植物園へ時々出勤候様」との内命があり、植物園に出向き植物の調査に従事した。明治一〇年に東京大学が設立されると、同年八月に員外教授を嘱された。

 圭介は一九世紀初期の享和三(一八〇三)年に名古屋で生まれた。名古屋には浅井図南らを始源とする尾張本草学の伝統があり、小野蘭山の弟子浅野春道と春道に学んだ水谷豊文がこれを発展させ、江戸時代日本の自然史研究の一大中心になっていた。彼らは、伝説上の本草学の始祖、神農が百草を嘗め薬を発見した故事に因み、嘗百社と名付けた一種の研究会を組織していた。同様の研究会は江戸にもあり、こちらは赭鞭会といった。ともに武士を中心とした研究会であるが後者には大名も参加した。

伊藤圭介
13 伊藤圭介(1803−1902)

 水谷豊文は名古屋の蘭方医の野村立栄に蘭学を学んだ。豊文は植物についての和漢蘭にまたがる素養の持ち主であったが、そればかりではない。『物品識名』とともに彼の代表的著作である、『木曾採薬記』がその実力と興味の在処を如実に示しているが、豊文は実地に植物を探索し、観察する資質にもすぐれていた。伊藤圭介はこの水谷豊文の弟子である。圭介の兄である大河内存真も豊文の弟子で著名な本草学者である。

 圭介は江戸への参府の途上であったシーボルトに豊文らとともに会い、一日の行程を共にしてシーボルトから教えを乞うた。また、シーボルトも豊文や圭介の才能を高く評価した。圭介はシーボルトから教えを受けるために長崎に赴き、彼の帰国時にツュンベルクの『日本植物誌』(Flora japonica)(一七八四年刊)を贈られた。圭介はこの本をもとに学名と和名の対象表を作成し、リンネの分類体系を紹介した。これが植物分類体系を紹介する日本で最初の出版物であった。圭介はこの著作によって本草学者から植物学者へと転生したのである。江戸時代末期の本草学の秀才で、『草木図説』を著した飯沼慾齋、科学博物館の創設、植物学の教育啓蒙や農学・殖産の振興に業績を残した田中芳男、さらに小石川植物園で同僚として働いた賀来飛霞は圭介の弟子である。さて、員外教授とは定員外の教授であり、圭介はこれに任命されたとき、すで七五歳に達していた。彼は、大学では講義は担当することなく、もっぱら植物園で栽培される植物の分類について調査研究をした。こうした調査の成果のひとつが、明治一〇年一〇月一〇日に東京大学理学部印行として出版された『小石川植物園草木目録』である。これは東京大学における最初の学術的出版といえる。調査はその後も継承され、明治一三年一一月に『小石川植物園草木目録後編』が出版された。翌一四年六月にはこれを改正した第二版が出版された。後編は前編の改訂版ではなく、前編には収載されなかった単子葉植物などを載せたものである。

『泰西本草名疏』
14 伊藤圭介著『泰西本草名疏』文政12(1829)年
ツュンベルクの日本植物誌の種名に和名を対応させた。はじめてリンネの二四綱分類体系を日本に紹介した。圭介は本書の原本をシーボルトからゆずり受けた。


田中芳男
15 田中芳男(1838−1916)


ナツメ、ゴレンシ
16 (上)ナツメ(クロウメモドキ科)
      (下)ゴレンシ(カタバミ科)の果実
創設まもない植物園にはこうした同定依頼が数多くきた


 牧野富太郎は、一九二八年に「『小石川植物園草木目録後編』ハ何故同ジ様ナ本ガニ冊アルノカ」という論考を発表し、表題の経緯を関係者から聞いたことを前提に書いている。牧野によれば、この出版に当たって、後に矢田部の後を継いで分類学の教授となる松村任三は、圭介の準備した草稿を松村の見解に従って分類体系を変更するなどして出版したのである。しかし、圭介はこれを頑として受け入れなかったため、圭介の意向に沿って改版した第二版が出版されたと言い切る。

 このことが事実とすれば、本草学の伝統に立つ圭介の学説が、本草学とはほとんど無縁なかたちで植物学を学んだ松村とは相容れない状況にあったことを示している。松村は当時の新知見を科属の分類配列に反映させようとしたのだ。しかし、一八七三年から一八七九年にかけて出版されたフランスのフランシェとサヴァチェの『日本植物名彙』を墨守すべきとするのが圭介だったのである。この『小石川植物園草木目録後編』は、植物学史上、重要な出版物といわねばならないが、この経緯と背後にある意義についてはいまだ検討されていない。

 圭介は賀来飛霞と共に『東京大學小石川植物園草木圖説』を著わしている。その第一冊は明治一四年一二月に出版されている。この植物図譜は、画の質や印刷が当時の欧米の水準に達しており、世界の植物研究者から注目され、小石川の名前が世界に知られる契機となるものであった。

 明治一四年六月の大学職制設定に際し、圭介は教授に任ぜられたが、その任務には変化がなく、植物園で植物調査を行うことであった。そして、明治一九年三月に東京大学が帝国大学となった際、圭介は非職となった。それまでの四年以上を圭介は教授として東京大学に奉職したのである。非職となった明治一九年に圭介は八四歳に達していた。すでにその前から植物園に出勤することはほとんどなかったという。この非職後一五年を経た明治三四(一九〇一)年一月に、圭介はほぼ一世紀に及ぶその生涯を閉じた。

小石川植物園草木目録
17 小石川植物園草木目録
東京大學理學部印行、明治10(1877)年
本書は東京大学最初の出版物である



伊藤圭介採集標本
18 伊藤圭介採集標本
圭介の標本は国立科学博物館やライデン王立植物標本室にもあるが、東京大学の標本の多くは植物園内で採集されたものであり、園外での採集品は少ない。和紙の縦書き用ラベルに墨でデータを記載した標本以外は圭介が入手したか同定した標本の可能性もある。


『東京大學小石川植物草木圖説』
19 東京大學編輯、伊藤圭介・賀来飛霞編輯『東京大學小石川植物草木圖説』
(巻一)明治一四(一八八一)年、(巻二)明治一七(一八八四)年、東京丸善。
当時世界の植物学界に小石川植物園の名を広めた画期的な出版物である



賀来飛霞
 飛霞は大分県西国東郡高田に文化一三(一八一六)年に生まれた。澤田駒次郎(一八九四)、辻英武(一九七八)によって彼の生涯を辿ってみよう。飛霞は諱を睦之または睦三郎といった。父賀来有軒は小野蘭山に師事した医者であったが、本草を集め研究した。二歳のとき父を失い、杵築藩にある母の生家で育った。飛霞には兄、佐之がおり、シーボルトから西洋医学を学んでいた。

 賀来飛霞は帆足万里に儒学を学んだ後、二五歳のとき、江戸に出て奥羽、北陸、伊豆を歩いて千数百の植物を採集し、写生した。飛霞はまた十市石谷について絵作の手ほどきを受けている。天保一一(一八四〇)年には霧島山に登っている。天保一四年には京都に出て山本亡洋から本草学を学んだ。弘化二(一八四五)年にはふた月ほど延岡藩に招かれ、領内で採集をして、『高千穂採薬記』を著わした。さらに、弘化四年には島原藩の侍医となり、嘉永三(一八五〇)年の飢饅に会って、『救荒本草略説』を著わした。安政四(一八五七)年には佐田に帰り幕末を迎えた。明治政府が誕生し、その九(一八七六)年には大分県の物産の調査を行っている。

 明治一一(一八七八)年には小石川植物園に勤務することになった。飛霞を東京大学に招いたのは伊藤圭介である。明治一五年の東京植物学会(後の日本植物学会)の創設に参画した。東京大学が東京帝国大学と改称された明治一九(一八八六)年に飛霞は非職となった。ときに飛霞は七〇歳であった。辞職後の明治二一年には佐田に帰り、百花山荘と名付けた自宅で悠々自適の生活を送ったが、明治二七(一八九四)年三月一〇日に亡くなった。

 『高千穂採薬記』のもとになった標本が宮崎県立総合博物館に収蔵されている。滝一郎(一九九五)によれば、飛霞が採集した種数は八四二種で、別に判別できないものが一九ある。これを見ると飛霞は分類が困難なイネ科やカヤツリグサ科の植物もよく識別し、採集していることが判る。ユリ科ギボウシ属では、現在の種の認識にほぼ合う区別をしていた。

 先の圭介や飛霞が到達したレベルは、当時としては例外的とはいえ、明治に入り植物学が比較的早く後進の域を脱し得た背景を考えるとき、江戸時代の本草学の貢献はまことに大きいといわねばならない。

賀来飛霞
20 賀来飛霞(1816−1894)



帝国大学時代の植物園
 明治一九年三月一日の帝国大学令公布と共に、植物園は帝国大学植物園と改称された。これ以後本植物園の名称に小石川の地名が付くことはなくなったのである。

 植物園は、帝国大学を構成する一分科である理科大学が管理することになり、矢田部良吉教授が管理となった。このとき、伊藤圭介と御用掛であった賀来飛霞、加藤竹齋らが非職を命ぜられ植物園を去った。

 東京大学時代の後半に於て矢田部、伊藤両担任を援けて植物取調を行ったのは松本駒次郎、賀来飛霞、松村任三、大久保三郎である。また、平野四郎、堀誠太郎は植物園の運営・事務に携わったが、賀来飛霞と松本駒次郎もこれを手伝った。画工として加藤竹齋と渡部鍬太郎がいた。先の『東京大學小石川植物園草本圏説』の画は加藤竹齋の手になるものが多い。渡部鍬太郎は主に矢田部の『日本植物図説』や研究論文の画を描いた。

 内山富次郎は、明治九年園丁取締上席植木職として傭入せられて以来、園内の植物に通じるだけでなく、日本や朝鮮半島に植物採集に出かけ、生品や標本の収集に貢献した。

 帝国大学時代には、矢田部管理の下に書記として堀誠太郎、平野四郎(明治二〇年美添と改姓)、画工渡部鍬太郎等が勤務した。堀誠太郎(弘化二年七月二四日生、幼名内藤糺)は明治三年一二月文部省官費留学生として矢田部らと前後して渡米(当時内藤誠太郎)し、アムファスト農科大学に留学して、明治七年に帰国した。開拓使御用掛、札幌農学校教授(当時内藤誠太郎)を歴任した後、明治一七年九月に東京大学御用掛として植物園に事務掛、明治一九年四月理科大学書記となり、翌年六月六日理科大学舎監を兼任した。

クロガネモチ
21 クロガネモチIlex rotunda(モチノキ科)
上はその完成図、中と下は下絵。いずれも加藤竹齋画



オシャクジデンダ
22(a)オシャクジデンダPolypodium fauriei(ウラボシ科)
ナベワリ
22(b)ナベワリCroomia heterosepala(ビャクブ科)
サボテンの一種
22(c)サボテンの一種(サボテン科)、加藤竹齋画



松村任三園長時代とその後
 明治二四年三月三一日矢田部教授は非職を命ぜられた。同時に植物園管理も辞任した。また書記であった堀誠太郎も非職を命ぜられた。

 矢田部に代わって松村任三教授が植物園となって二代目の管理となった。植物学教室と植物園とは東京大学以来離るべからざる関係(小倉、一九四〇)にあったが、松村教授は植物園管理となると植物園で研究を行なうこともたびたびあった。当時本郷にあった植物学教室は狭隘化して学生実験室も不完全であった。明治二六年に松村教授が担当した分類学及びその実験は植物園事務所で行れた。このような狭隘化が植物学教室の植物園移転にも影響していたと思われる。

 なお、植物園の西南隅の池畔には集会所と呼ぶ日本建築の建物があった。旧集会所は薬園時代からの建物を転用したものであったが、明治一五年二月に新しい集会所が竣工した。集会所は展覧会や講演会場として利用された。

 明治三〇年六月一八日に帝国大学は東京帝国大学と改称され、植物園は東京帝国大学理科大学附属植物園と改称になった。同時に従来の管理に替わり園長を置くことになった。すなわち、「東京帝国大学理科大学附属植物園ニ園長ヲ置キ理科大学教授助教授ヨリ文部大臣之ヲ補ス 園長ハ総長監督ノ下ニ於テ植物園ノ事ヲ掌理ス」がその官制である。松村任三教授が文部大臣より初代園長に補せられた(管理は総長の任命)。

 最初の助手は大島太郎で、明治三三年八月に矢部吉禎がこれを次ぎ、三七年八月に早田文藏が代った。

 この明治三〇年は植物園と植物学教室にとって重要な年となった。それはこの年の八月に植物園内に植物学教室が移転したのである。植物学教室は植物園事務所に接近してその東側に建てられた。しかし狭隘化により明治三五年から事務所の南側も使用するようになった。また、三七年と四一年に教室の増築が行われた。明治三五(一九〇二)年には高山植物培養を目的とした植物園分園を栃木県日光に設けることになり、日光分園が誕生した。

 大正八年二月に帝国大学令の改訂があった。植物園は東京帝国大学理学部附属植物園と改称せられた。大正一一年三月に松村教授は免官となり園長も免ぜられた。三好學教授が第二代園長となった。

 大正一二年九月一日の関東大震災で植物園は甚大な被害を受けた。すなわち、市民が園内に避難し、住居としたため樹木の多くが薪として伐採された。また、朝鮮人が蜂起したという噂から竹槍用に園内の竹林は殆ど皆伐された。植物園への避難者の数は、九月一日に約二万五千人、二日に三万五千名に達した。以後次第に減少するが、約四百人が集会所や教室、各種温室等に残留した。その後一〇月に教室前の桜並木の広場に二二棟のバラックを設けた。全員が撤退しバラックを取壊したのは翌年五月一五日であった。

 大正一三年四月に早田文藏教授が園長になった。しかし健康上の理由で昭和五年五月から中井猛之進教授が園長代理を務め、同年一〇月に園長となった。

 昭和九年夏、植物学教室の大部分は本郷構内に新築された理学部二号館に移った。翌年夏には残留した一部も移転を完了し、ここに植物園と教室が分離することになった。昭和一〇年秋に植物学教室の建物は一部を残して取壊された。

 植物園はこの時点で日本での植物学の研究センターではなくなった。第二次世界大戦後になるまで後世に残る研究は生まれていないのは残念である。小石川植物園に植物学教室があった時代の研究や第二次世界大戦後の研究については二章を参照していただきたい。また、明治時代から第二次世界大戦前の植物学の中核となった分類学とそれを支えた標本室(ハーバリウム)の発展は日本の植物研究とその発展にとって重要な問題であり、六章に改めて解説した。矢田部良吉教授をはじめ、植物園時代を指導した人々についても、その章で業績や生涯などを紹介した。    (おおばひであき)

カンキツ属の一種
23 カンキツ属の一種Citrus sp.(ミカン科)
イギリス公使館のアーネスト・サトウが伊藤圭介に呈上した。加藤竹齋筆・画
キャベツ
24 キャベツBrassica oleracea(アブラナ科)、渡部鍬太郎画か
ヒメイチゲ、イチリンソウ
25 (左)ヒメイチゲ(?)Anemone debilis?  (右)イチリンソウAnemone nikoensis
描いたのはおそらく渡部鍬太郎


参考文献
伊藤篤太郎編輯(1893)錦翁九十賀壽博物会誌(伊藤篤太郎発行)
上田三平(1930)近世ノ薬園ト小石川御薬園(植物学雑誌四四巻二二二−二三二)
上田三平(1972)改定増補日本薬園史の研究(渡辺書店)
上野益三(1986)日本博物学史補訂版(平凡社)
小倉謙編(1940)東京帝国大学理学部植物学教室沿革(同植物学教室)
斎藤月岑著金子光晴校訂(1968)増訂武江年表(平凡社)
澤田駒太郎(1894)賀来飛霞君小伝(植物学雑誌八巻(一九三)−(一九四))
白井光太郎(1891)日本博物学年表(丸善書店)
白井光太郎(1910)維新前の植物園(植物学雑誌二五巻(一三三)−(一四六))
高橋正和(1989)豊後学の系譜(國士九号一−三七)
滝一郎(1995)賀来飛霞高千穂採薬記植物目録(みやざきの自然一一号九九−一二六)
辻英武(1978)賀来飛霞(大分教育委員会)


前頁へ    |    目次に戻る    |    次頁へ