東京大学所蔵、大森貝塚標本のキュラトリアル・ワーク略史

東京大学所蔵の大森貝塚標本は、モースの調査によるもの(1877年調査、1879年報告)が中心である。モースの報告に掲載されていない完形土器や骨角器などは、モースより後の調査・収集標本の可能性もあるが、由来を伝えるような文献等は知られていない。

ここでは東京大学における大森貝塚標本の管理・運営の歴史を分かっている範囲内で記述する。

(1)博物場の展示

モースが発掘した大森標本は、「博物場」と呼ばれる施設で展示された歴史がある。博物場に関しては文献〔7〕〔13〕〔14〕などに記されており、モースの提言により1879年に当時理学部のあった神田一ツ橋に開設され、展示品には大森貝塚や陸平貝塚出土の先史考古標本が多数含まれていたことが知られている。展示品には朱書きで番号が付けられ、1884年には目録(文献〔3〕)が作成された。

博物場は1886年頃に閉鎖され、展示されていた人類・先史学関連の標本は人類学教室に移管された。その後の保管状態の変遷は明らかでないが、少なくとも一部の標本については混乱が生じていたと思われる。例えば、1938年に人類学教室教授に着任した長谷部言人は、当時地下室などに置かれていた遺物を「再発掘」と称して調査し、その際に博物場に展示されていた標本にも遭遇したとしている 〔9〕。また小山富士夫は、モース収集の古陶磁器コレクションの多くに朱書きの番号が付されており、それが展示品目録と一致することを指摘している〔11〕

(2)明治時代後半~昭和初期にかけて

1920年代には、杉山寿栄男によって『日本原始工芸』〔8〕が発表され、人類学教室所蔵の大森標本も数点掲載された。また、中谷治宇二郎は日本各地の遺物の図を集成してカードを作成しており(東京大学総合研究博物館考古部門所蔵)、ここにも大森標本が含まれている。大部分は『日本原始工芸』の図を転用したものだが、中谷自身が描いたとみられる図も数枚ある。これら杉山・中谷の図の中には、モースの報告の図には掲載されていない標本が認められる。

大正末期~昭和初期にかけて、人類学教室が所蔵していた人類・先史標本のうち、完形土器などの主要なものに1~8480までの標本番号(以下「人類学教室原番号」と呼ぶ)が付けられ、対応するカード(7.5 cm×12.5 cm)が作られた。モース報告Plate I~XVIで現存する全191点のうち、35点に1~8480までの人類学教室原番号が付与されている。

(3)昭和後期から今回の調査に至るまで

現在たどれる人類先史部門の標本整理とデータベース化の試みとしては、先ずは渡辺仁の指導のもとで行われた1960年代から70年代初頭のものがある(赤澤威、2006年私信)。1966年には東京大学総合研究資料館(現総合研究博物館)が設置され、理学部人類学教室所蔵の先史標本の多くが総合研究資料館の人類先史部門へ移管された。その前後の1965年~69年の標本整理活動により、本報告書で「A番号」と呼称している標本番号が一部の標本に付けられ、A1~A3700番台までのカード(7.5 cm×12.5 cm)が作成された。

これと一部並行して、おそらく1968年から1970年代にかけて、新たに大判のパンチカード(12.5 cm×20.5 cm)の遺物カードが作成された(以下「大判カード」と呼ぶ)。このカード・システムでは、従来の人類学教室原番号(8480まで)を踏襲しながら、一部の標本には、新たに10000番台以後の番号が付与された。本報告書では、8480番までと10000番台以後のものを、共に人類学教室原番号と呼称した。また、大判カードにおいては、土器標本を中心にA番号が一部の標本に追加された(A6000番台まで)。従って、人類学教室原番号とA番号が同一標本に付与されている場合と、そうでない場合とがある。

大森貝塚出土の主要な標本については、総合研究資料館の設置後も、他の「優品」とみなされている標本と共に理学部人類学教室において保管されていた。1975年2月から、大森標本の一部が重要文化財の指定調査のために文化庁に貸し出され、同年6月に指定を受けた。理学部2号館の1976から1977の改修工事に伴い、総合研究資料館に移管され、現在に至っている。

1980年出版の『大田区史(資料編)考古II』(以下『大田区史』) 〔15〕では、東京大学所蔵の大森貝塚標本が詳細に報告された。それにともない、一部のモース報告土器と、多数の未報告土器の実測・図化作業が行われた。しかし、この時「土器資料が膨大なことと、発行までの期日が少ないこともあって」〔16〕、縄文時代後期の一部と晩期の土器が割愛され、これらは後に『史誌』(大田区史研究)〔16〕〔19〕で改めて紹介された。

1980年になると、赤澤威によってデータベースの電算化が推進された〔17〕。その一環として、所蔵資料の出土遺跡にアルファベット2文字による「遺跡番号」が付けられ 〔17〕、大森については「BD」が遺跡番号として割り当てられた。また、大森貝塚出土と思われる一部の土器・土偶・貝・骨・骨角器に、新たにBD-1~85までの標本番号が付けられた(以下「BD当初番号」と呼ぶ)。BD当初番号は、人類学教室原番号やA番号と重複しないように付けられている。また、複数の標本にまたがって同一の人類学教室原番号・A番号が付されている場合(骨に多い)に、個別にBD当初番号が与えられたようである。

以後、磯前順一と赤澤威により、総合研究博物館所蔵の縄文時代土偶・土製品の標本資料報告 〔21〕が1991年に出版され、若干の追加訂正と共に1996年に再版された 〔22〕。この標本資料報告に大森貝塚出土の土偶1点・土製品6点が掲載されており、これらはいずれもモースの報告に掲載されている標本である。なお、1990年代末には、この標本資料報告にさらに若干の追加訂正を加え、同時にフォーマットを変更して電算化した。これにカラー画像を付した様式の一つを、「縄文時代土偶・土製品画像データベース」として、2000年から博物館ホームページにて公開している。


⇒表1 東京大学所蔵、大森標本関連の年表

諏訪 元(東京大学総合研究博物館)
初鹿野博之 (宮城県教育庁・文化財保護課)

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