現状確認調査・整理作業(2003-2006年)の概略

(1)調査開始時の状況

今回の調査を開始した2003年時点で、大森貝塚の標本・資料は、主に標本棚(棚番号PG-1、PG-2の列)と移動式平箱棚(棚番号PE-5の列)に分けて収蔵されていた(⇒写真図版 1, 2 )。

移動式標本棚に収蔵されていた標本は以下の通りである。

A、モース報告の図に掲載されている縄文土器・土製品147点、骨角器13点、石器7点
B、モース報告の図に掲載されていない土器19点、土偶4点、骨・骨角器67点、貝6点

標本Aは一部の標本に人類学教室原番号が付されている。標本Bはモースの未報告標本、あるいはモース以降の収集標本の可能性があり、すべての標本に人類学教室原番号かBD当初番号のどちらか、あるいは両方が付されている。

移動式平箱棚の標本については、土器破片が平箱約10箱分あり、これらもモースの未報告標本の可能性がある。多くは『大田区史』や『史誌』で紹介されており、標本番号の付された土器はないが、「大森」の注記のある土器がしばしば認められる。また、平箱内には墨で「大森」と書いた木札や紙なども入っている(⇒写真図版 3, 4 )。

(2)調査方針の概要と問題点

モース報告のPlateでは、土器・土製品220点、骨・骨角器23点、石器9点、貝9点が報告されているが、現在行方不明になっている標本も多く、今回の調査開始時点で確認できていたものは土器・土製品147点、骨角器13点、石器7点であった。土器のうち何点かは、モース報告の図と比べ部分的な欠損が確認された。自然遺物である骨や貝は、図と現物との照合が困難なものもあった。特にPlate XVIIIの貝は、貝塚採集の標本と現生標本(モース当時)との大きさ比較であるから、特定の貝は存在しない可能性が高い。よって、Plate XVIIIは今回の報告対象から除外した。

モースは正式な報告以外にも、文献〔1〕(文献〔18〕に和訳「日本太古民族の足跡」掲載)、文献〔6〕(文献〔12〕和訳『日本その日その日』)に大森標本の図を掲載している。また、モースが撮影してアメリカに持ち帰った大森標本の写真が、ピーボディ・エセックス博物館に保管されており、佐原真によって報告されている〔20〕。これらの図・写真の中には、モース報告に掲載されていない標本もあるが、現存する標本との対応はこれまで確認されていなかった。

以上のような行方不明標本、欠損部分、あるいは未確認標本を、平箱標本などから探す作業を進めた。同時に新たな接合の有無を確認した。

問題点の一つとして他遺跡の標本の混入がある。例えば、大塚達朗によると、1978年頃に人類先史部門所蔵の標本を観察した際には、大森・陸平・椎塚それぞれの標本が若干混じりあって収蔵されていたと指摘している(大塚達朗、2003年2月私信)。

また、誤注記の問題がある。モースが大森貝塚出土として報告した土器(〔2〕のPl. I-3)に墨書きで「陸平」と注記されていることは、従来から知られていた通りである〔赤澤威による私信〕。しかし、大森貝塚の報告書の序文にあるモースの署名は1879年7月16日付けとなっており、同報告書が発行されたのも同じ7月と松村瞭は推定している〔7〕。一方、佐々木が陸平貝塚を発見したとモースへ報告した手紙は、1879年7月31日付けであり、発掘が実施されたのは8月以降である〔20〕〔23〕。以上のような前後関係から、モースが大森と陸平の土器を混同して報告した可能性は極めて低いと考えられる。従って、大森標本に見られる「陸平」の注記は、後世の者による誤注記と判断され、こうした注記を全面的に信用することはできないことが分かる。そこで、大森貝塚出土の信頼性の検討に資する目的で、大森標本の注記・付帯ラベルの種類を調べた。また、他にどのような遺跡の標本が混入しているか、できる限り確認した。

(3)BQ04番号の設定

今回の調査の開始時には行方不明だったモース報告標本のうち、土器24点を新たに特定した。また、大森標本に見られる朱書きの注記と博物場の展示品目録が一致することを確認した(いずれも後述)。

これらの成果をふまえ、今回の報告書において、標本単位で記録する標本を選定した。土器標本については従来番号が付与されていない標本が多数含まれるため、新たに通し番号を付けることにした。大森の遺跡番号として使用されている「BD」に、整理年度の「04」を加え、「BD04番号」とし、「BD当初番号」とは独立した番号シリーズとして付与した。BD04番号を付与したのは以下の標本である。これらは、現状で大森出土として保管されている土器の大部分を網羅しており、大森標本群の全体像の理解に貢献するものと思われる。

① モース報告Plate I~XIVの土器(一部土偶・土製品含む)
② モース報告土器と同一個体だが、接合しない土器
③ 文献〔1〕〔6〕に図掲載の土器
④ モース撮影写真が残っている土器
⑤ 博物場注記を持つ土器
⑥ 人類学教室原番号・A番号を持つ土器
⑦ BD当初番号を持つ土器
⑧ 『大田区史』『史誌』掲載の土器

標本①~⑤は、モース関連標本であることが確実である。主に5つの文献・資料を根拠としているが、これら複数にまたがって掲載されている土器がほとんどである。年代順でいうと、文献〔1〕・モース写真→モース報告→博物場→文献〔6〕となるが、モース報告の図が最も広く知られているため、その掲載順を最優先とし、基本的に ① → ③ → ④ → ⑥ → ⑦ → ⑧ の順に番号を付与した。②・⑤については、認定を行った時点が様々であり、まとまった連続番号を付与しなかった。なお、BD04-227~250は追加資料が発見される可能性を考慮して欠番とした。

標本⑥~⑧は、モースの未報告標本あるいはモース以降の収集標本の可能性があるが、すべてを確実に「大森貝塚出土」とは断言できず、他遺跡の資料が混ざっている可能性もある。

上記以外の土偶・土製品・骨・骨角器・石器・貝については、従来の標本番号をそのまま用いるに止めた。

(4)収蔵状況の更新

以上の調査と作業を経て、大森標本の収蔵状況を分かりやすく変更した(表2)。まず、標本棚(PG-1, 2の列)には標本①~⑥の土器、それ以外の土偶・土製品・骨・骨角器・石器・貝を収蔵した。

標本⑦~⑧の土器は、移動式平箱棚にBD04番号順に収納した(PE-5-18-9~22)。また、他遺跡の平箱を調べている際に「大森」と注記されている土器11点が見つかったが、それらはPE-5-18-7に集めた(今回報告しない)。逆に、大森の標本の中で他遺跡からの混入と考えられるものはPE-5-18-8の平箱に集めた(うち3点は今回報告)。それ以外の、今回報告しない標本についてはPE-5-17-4~5, PE-5-18-4~6の平箱にまとめた。


⇒表2 変更後の土器収蔵状況

初鹿野博之(宮城県教育庁・文化財保護課)
山崎真治(沖縄県立博物館・美術館)
諏訪 元(東京大学総合研究博物館)

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