現状確認調査・整理作業(2003―2005年)の概略

(1)調査開始時の状況

今回の調査を開始した2003年時点で、陸平貝塚の標本・資料は、主に移動式標本棚(棚番号PD-4の列)と移動式平箱棚(棚番号PE-7の列)に分けて収蔵されていた(写真図版 1 , 2 参照)。

移動式標本棚に収蔵されていた標本は以下の通りである。

①佐々木・飯島の英文報告に掲載されている土器86点と石器1点
②佐々木・飯島の英文報告に掲載されていない完形土器4点
③BQ当初番号の注記のある土器破片100点余り

標本①は87点の標本からなり、そのうちA番号カードに対応するものが66点ある。これらについては1960年代以後の標本整理活動において、改めて特定されたものが多い(赤澤威、2006年私信)。標本②は英文報告には掲載されていないが、8000番台以下の人類学教室原番号が付与されており、昭和初期には所蔵されていたと考えられる。標本③については、「陸平」などの注記のある土器が多数見られるが、英文報告に掲載されておらず、標本番号もBQ当初番号以外は付けられていなかったものである。

移動式平箱棚の標本については、「佐々木・飯島の未報告標本?」(以後「佐々木・飯島未報告標本?」)とされているもの(約10箱)ならびに戦後の酒詰仲男調査標本(約50箱)が確認された。「佐々木・飯島未報告標本?」とされている平箱標本には、「陸平」や「OK」(OKADAIRAの略称か)などの注記のある土器が多数認められるほか、墨で「陸平」と書いた和紙・ラベルなども入っていた(写真図版 2-下 )。一方、酒詰調査標本は未洗浄・未注記の状態にあり、それぞれの平箱に調査年次・調査者・調査区などを記した紙が入っているが、記載者は不明である。これらの他に、移動式平箱棚のPE-1の列には各地の石器を集めた平箱が多数あるが、この中に陸平の注記・標本番号を持つ石器が若干数(19点)入っていた。さらには、移動式平箱棚の全平箱の系統だった確認調査により、他遺跡出土の標本を収蔵した平箱の中から陸平貝塚出土と思われる標本が若干数確認された(合計として土器19点、石器1点、骨角器1点、獣骨が収蔵されている紙箱1)。

以上の移動式標本棚と移動式平箱棚の標本とは別に、木製標本棚(PA列)に陸平貝塚出土とされる骨角器5点、貝製品2点、石器1点が収蔵されていた。いずれも英文報告には掲載されていない標本であり、骨角器には「武田俊蔵氏寄贈」の札が付いているものがあり、大野雲外が収集したものと考えられる。また、文献 〔23〕 〔24〕 に掲載された土偶2点が人類先史資料室入り口横の壁面標本棚(PI列)に収蔵されている。大野収集の双口土器は人類先史資料室前の展示ガラスケースに収蔵されている。


⇒写真図版1

⇒写真図版2


(2)調査方針の概要と問題点

今回の調査・整理事業は、その対象を明治初期の佐々木・飯島の発掘・収集標本とし、さらにその可能性のある平箱標本やBQ当初番号標本を加えた。その他、少数であるが、大野雲外収集標本など、明治後半~昭和初期に由来すると判断できる標本を加えた。酒詰調査標本については、量が膨大であることと、実質的に手付かずであることや、その他の陸平標本群とは独立して収蔵されていることから、今回の整理対象からは除外した。

佐々木・飯島の発掘標本については、英文報告で、土器108点、石器9点、骨角器類11点が報告されているが、現在行方不明になっている標本も多く、今回の調査開始時点で確認できていたものは土器86点と石器1点であった。うち何点かの土器は、英文報告の図と比べ部分的な欠損が確認された。

佐々木・飯島は、英文報告以外に『学芸志林』 〔2〕 という雑誌に陸平標本の簡単な報告をしている。また、佐々木は陸平貝塚発掘の際に、恩師であるモース宛に出土品のスケッチなどを記した手紙を送っている(以下「佐々木手紙」と略す)。手紙は現在もアメリカのセイラム・ピーボディー博物館に保管されており、佐原真により一部が報告されている 〔22〕 。これらの標本については付図があるものの、現存する土器標本との対応はこれまで確認されていなかった。

以上のような行方不明標本、欠損部分、あるいは未確認標本を、平箱標本やBQ当初番号標本から探す作業を進めた。同時に新たな接合の有無を確認した。

問題点の一つとして他遺跡の標本の混入がある。例えば、大塚達朗によると、1978年頃に人類先史部門所蔵の標本を観察した際には、陸平・大森・椎塚それぞれの標本が若干混じりあって収蔵されていたと指摘している(大塚達朗、2003年2月私信)。

また、誤注記の問題がある。モースが大森貝塚出土として報告した土器( 〔1〕 のPl.Ⅰ-3)に墨書きで「陸平」と注記されていることは、従来から知られていた通りである〔赤澤威による私信〕。しかし、大森貝塚の報告書の序文にあるモースの署名は1879年7月16日付けとなっており、同報告書が発行されたのも同じ7月と松村瞭は推定している 〔14〕 。一方、佐々木が陸平貝塚を発見したとモースへ報告した手紙は、1879年7月31日付けであり、発掘が実施されたのは8月以降である 〔3〕 〔22〕 。以上のような前後関係から、モースが陸平と大森の土器を混同して報告した可能性は極めて低いと考えられる。従って、大森標本に見られる「陸平」の注記は、後世の者による誤注記と判断され、こうした注記を全面的に信用することはできないことが分かる。そこで、陸平貝塚出土の信頼性の検討に資する目的で、陸平標本の注記・付帯ラベルの種類を調べた。また、他にどのような遺跡の標本が混入しているか、できる限り確認した。

(3)BQ04番号の設定

今回の調査の開始時には行方不明だった英文報告標本のうち、土器9点、石器5点、骨角器1点を新たに特定した。また、陸平標本に見られる朱書きの注記と博物場の展示品目録が一致することを確認した(いずれも後述)。

以上の成果をふまえ、今回の報告書において、標本単位で記録する標本を選定した。土器標本については従来番号が付与されていない標本が多数含まれるため、新たに通し番号を付けることにした。陸平の遺跡番号として使用されている「BQ」に、整理年度の「04」を加え、「BQ04番号」とし、BQ当初番号とは独立した番号シリーズとして付与した。土偶・骨角器・石器については、従来の標本番号をそのまま用いるに止めた。

選定した土器とBQ04番号の対応は、 表2 のようにまとめられる。 表2 の標本Aは、佐々木・飯島標本と確定できた一群である。これらのうちの一部は、「佐々木・飯島未報告標本?」やその他の平箱標本とBQ当初番号標本の中から今回特定したものである。主に4つの文献・資料を根拠としているが、これら複数にまたがって掲載されている土器がほとんどである。年代順でいうと、佐々木手紙→学芸志林→英文報告→博物場となるが、英文報告の図が最も広く知られているため、英文報告の掲載順を最優先とした。英文報告の行方不明標本で、今回の調査でも確認できなかった13点は欠番とした。

表2 の標本Bは、「佐々木・飯島未報告標本?」の平箱標本とBQ当初番号標本のうち、上記に含めた以外の大多数の標本であり、佐々木・飯島標本の可能性があるが確定できないものである。標本Bは量が多いため、下記の選出基準により、その一部にBQ04番号を付与して報告することにした。(1)残りがよく土器研究に相対的に有用と認められるもの、(2)佐々木・飯島標本にはあまり見られない型式のものを選定した。標本Bが標本Aを補完する形で、佐々木・飯島標本群の全体像の理解に貢献するものと思われる。


⇒表2 標本の分類とBQ04番号


標本Bは陸平標本として矛盾のないものが多数だが、一方で確実に他遺跡の標本も混入している。『東京人類学会雑誌』などを詳細に調査した結果、BQ04番号を付与した後に、BQ04-155が椎塚貝塚の報告 〔6〕 に、BQ04-232が阿玉台貝塚の報告 〔7〕 に、それぞれ図が掲載されていることが判明した。さらに、BQ04-203はモースによる大森貝塚の報告 〔1〕 に掲載されている土器と同一個体であることが確認された。これらの土器が陸平貝塚出土でないことはほぼ確実だが、今回は他遺跡の標本が混入している現状をそのまま報告することにした。

標本Cは完形土器が中心で、人類学教室原番号や『日本原始工芸』 〔15〕 などから陸平標本と判断されるが、大野雲外収集の双口土器(BQ04-1)を除いて、いつ誰による発掘・収集標本か不明である。よって、陸平貝塚出土の可能性は高いが断定はできない。

なお、BQ04-249は東北地方北部に分布する円筒上層式土器で、これまで関東地方の出土事例がまったく知られていない。松村が陸平貝塚の土器として紹介しているため 〔12〕 、今回の報告に含めたが、陸平貝塚出土の可能性は極めて低いと考えられる。

(4)収蔵状況の更新

以上の調査と作業を経て、陸平標本の収蔵状況を分かりやすく変更した (表3) 。まず、移動式標本棚(PD-4の列)に標本Aと標本Cだけを収蔵した。これらの土器にはすべてBQ04番号が付与されている。土器標本以外には、英文報告との一致が確認された石器6点と骨角器1点が含まれる。

標本Bのうち、従来移動式標本棚に置かれていたBQ当初番号標本については、先述したように多くは陸平貝塚出土と断定できない標本であり、他遺跡の混入状況も平箱標本の様相に近い。よって、佐々木・飯島標本であると確定し標本Aに含めた少数のものを除き、すべて移動式平箱棚に移した(PE-7-18-6~8)。標本Bのうち、「佐々木・飯島未報告標本?」の平箱標本については、以下のものを除き、調査前の状態に保った。

「佐々木・飯島未報告標本?」の平箱標本とBQ当初番号標本のうち、注記や土器型式などから他遺跡の標本の混入と判断されたものは、PE-7-18-5の平箱にまとめた(土器11点、ならびに土器、陶器、石器片が若干数入っている紙箱)。これら以外に、大森貝塚の標本の混入と考えられるものは、大森標本の一群に加えた。

逆に、他遺跡の平箱を調べている際に陸平標本とされているものが若干数みつかった。これらの標本は、PE-7-18-4の平箱にまとめた(今回移動式標本棚PD-4の列に収蔵した土器11点を除いた土器8点、石器1点、獣骨が収蔵されている紙箱1)。また、移動式平箱棚PE-1の列のうち、石器を集めた平箱の中に陸平の注記・標本番号を持った石器が19点確認されたが、そのうちの14点をPE-7-18-4の平箱に移した(英文報告の図と一致した5点はPD-4の列に収蔵)。

なお、酒詰調査標本については、上記の平箱の近くに移動した(PE-7-15~17列)。また、PI列の標本棚の土偶と、PA列の木製標本棚にあった骨角器・石器については、今回は移動していない。


⇒表3 変更後の土器収蔵状況

初鹿野博之 (東京大学大学院人文社会系研究科・考古学研究室)
山崎真治(東京大学大学院人文社会系研究科・考古学研究室)
諏訪 元(東京大学総合研究博物館)

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