縄文時代人骨の調査・収集史

  • 辺田(向ノ台貝塚)
  • 小川町貝塚(粟島台遺跡)
  • 城之台貝塚(城ノ台貝塚)
  • 矢作貝塚
  • 余山貝塚
  •  
  • 引用文献
  • 辺田
    向ノ台貝塚(むこうのだい)
    所在地:千葉県千葉市中央区都町

    向ノ台貝塚は縄文時代早期末葉の時代区分に属し、東京湾東岸地域における最古級の貝塚のひとつとして知られている(青沼・松村,2000)。周辺地域には千葉市の主要遺跡である加曽利貝塚、矢作貝塚、貝塚町貝塚群などが分布する(文化庁文化財保護部,1974)。本貝塚は都小学校の敷地内に位置し、校舎の建て替えなどによりほぼ壊滅の状態とされている(青沼・松村,2000)。貝塚の概要は青沼・松村(2000)がまとめている。

    本貝塚における発掘と人骨の収集は、東京大学人類学教室の酒詰仲男らと県立千葉中学校郷土研究会によって1946(昭和21)年から1947(昭和22)年にかけて行なわれた(千葉県立千葉中学校校友会,1947)。半径約10mの範囲に点在する3ヶ所の貝層のうち、北側(A地点)と東側(B地点)の計30坪(約100m2)ほどが発掘されており、各地点から2体ずつ、計4体の屈葬人骨が得られた(千葉県立千葉中学校校友会,1947)。これらの人骨は当時の我が国で最古のものとされていたことから(武田,1953)、大きな注目を集めるに至った(千葉新聞,1947)。

    本館に収蔵されている標本は、上記の発掘に由来する成人の個体骨4体、および由来の明らかでないその他の部分骨からなる。


    本館に収蔵されている向ノ台貝塚の人骨は以下の標本からなる。

    辺田

    本館の標本資料報告No. 3(遠藤・遠藤,1979)によると、辺田標本は原記録地名欄に「千葉県千葉市辺田」と記されているが、具体的な遺跡名の記述がない。一方で、当時の発掘記録である酒詰仲男日録・調査(調査21)、および発掘時のものと思われる標本の付属紙片には「辺田貝塚」と記されている。酒詰仲男日録・調査(調査21)の発掘内容から判断して、ここでの辺田貝塚とは、当時の「向い台」(酒詰,1959)、現在の向ノ台貝塚を指す。

    UMUT130098から130101の4標本は、東京大学人類学教室の酒詰仲男らと県立千葉中学校郷土研究会によって1946年12月から1947年1月にかけて発掘された人骨である。発掘報告として千葉県立千葉中学校校友会(1947)と武田(1953)が、人骨の記載報告として青沼・松村(2000)がある。ただし、本館においては青沼・松村の調査の後、諏訪元と高橋昌子が土塊中の人骨資料(顎骨片や歯牙など)を新たに加えて個体分けと同定を更新した。本報告書では諏訪・高橋の同定に従って4標本を記録した。これらの標本は、四肢骨が比較的残存しており、また発掘時のものと思われる付属紙片に各発掘時番号が記されていることから、当時の屈葬人骨4体に相当すると考えられる。ただし、各標本と発掘時番号を対応付ける情報は酒詰仲男日録・調査(調査21)や発掘報告に記されていない。

    UMUT130102(下顎骨)は、発掘時のものと思われる付属紙片に「三号人骨? 四号(校舎○)」と記されており、またUMUT130098から130101の4標本と保存状態が類似することから、人類学教室などの発掘による屈葬人骨4体のうちの3号、4号人骨に由来する可能性が高い。

    UMUT130103は少なくとも8体分の上腕骨からなる。UMUT130098から130102の5標本とは保存状態が異なっており、発掘者、発掘年、発掘地点は明らかでない。

    現在6標本として本館の標本資料報告No. 3に登録。

    保存資料:なし

    小川町貝塚
    粟島台遺跡(あわしまだい)
    所在地:千葉県銚子市南小川町

    粟島台遺跡は、銚子半島の粟島台と呼ばれる舌状台地とその南西側の低湿地に位置し、台地部分で約48000m2、低湿地部分で約65000m2の広大な面積を有する(小松,2000)。台地部分では、縄文時代前期・中期の貝塚が所在し、縄文時代後期から平安時代までの遺構が確認されている(銚子市教育委員会,1991)。低湿地部分では、縄文時代前期中葉から後期初頭までの各型式土器、および動物・植物性遺物が豊富に出土している(銚子市教育委員会,1991)。また本遺跡からは琥珀の原石や剥片、玉未成品、大珠完成品、さらには攻玉工具が出土しており、琥珀の供給地、ないしは琥珀品の生産場所であった可能性が指摘されている(大場,1952、野口,1952、寺村・安藤,1973、伊藤,1982)。

    本遺跡では1933(昭和8)年に吉田文俊によって発掘が行なわれた(小松,2000)。吉田は台地部分の北東に位置する貝塚を発掘し(小松,2000)、多数の土器、石器を収集したという(銚子市史編纂委員会,1956)。1940(昭和15)年にはこの貝塚において東京帝国大学人類学教室の酒詰仲男・和島誠一が発掘を行ない(小松,2000)、縄文時代前期の時代区分に属することを「小川町貝塚」の名称で報告した(酒詰,1942)。1949(昭和24)年と1950(昭和25)年には國學院大學の大場磐雄らによって台地部分と低湿地部分の双方について組織的な発掘が行なわれた(千葉県銚子市公正市民館,1952)。当時は低地遺跡の調査例が少なかったことなどから多くの研究者の注目が集まり、粟島台遺跡の名が広く知られる契機となった(粟島台遺跡発掘調査会,1990、千葉県銚子市教育委員会,2000)。本遺跡の学史的意義は小松(2000)に詳しい。

    人骨の収集は、東京帝国大学人類学教室による上記の発掘で行なわれており、右上腕骨や頭蓋骨などの断片がいくつか得られた(酒詰,1942、酒詰仲男日録・調査〔調査15/1〕)。その後、1973(昭和48)年と1975(昭和50)年の二期にわたる粟島台遺跡発掘調査団の発掘によって、頭蓋骨の断片1点が得られた(千葉県銚子市教育委員会,2000)。

    本館には上記のうち東京帝国大学人類学教室の発掘による右上腕骨とその他の断片骨が収蔵されている。


    本館に収蔵されている粟島台遺跡の人骨は以下の標本からなる。

    小川町

    この標本は東京帝国大学人類学教室の酒詰仲男・和島誠一によって1940年3月に発掘された人骨である。人骨の発掘報告と記載報告として酒詰(1942)がある。本人骨は、粟島台遺跡のうち台地部分の北東に位置する縄文時代前期の貝塚から出土したものであるが(酒詰,1942、小松,2000)、貝塚内の出土地点や所属年代は明らかでない。

    現在1標本として本館の標本資料報告No.3に登録。

    保存資料: なし

    城之台貝塚
    城ノ台貝塚(しろのだい)
    所在地:千葉県香取郡小見川町

    城ノ台貝塚は、下総丘陵の斜面上に位置する南北2ヶ所の貝塚からなり、それぞれ城ノ台北貝塚、城ノ台南貝塚と呼ばれている(千葉大学文学部考古学研究室,1995)。北貝塚は縄文時代の早期中葉、南貝塚は早期中葉から早期後葉の時代区分に属し、周辺地域の阿玉台貝塚、木之内明神貝塚などとともにひとつの大貝塚群を形成している(岡本,2000)。

    本貝塚についての記述は江見水蔭の「地底探検記」(1907)に見られる。1905(明治38)年8月13日、江見は木之内明神貝塚を発掘した帰りに、「桑畑の貝塚」、つまりは現在の城ノ台貝塚(酒詰,1959)に立ち寄ったと記している。1940(昭和15)年に酒詰仲男がこの貝塚を再発見し(岡本,2000)、1944(昭和19)年には東京帝国大学人類学教室が南貝塚や周辺の台地上において1ヶ月間近くに及ぶ大規模な発掘を行なった(酒詰,2001)。その後、1949(昭和24)年から1950(昭和25)年にかけて、吉田格・岡本勇・北詰栄男らが北貝塚の発掘を行ない、縄文時代早期の各型式土器(子母口式、田戸上層式、田戸下層式)を層位的に検出した(吉田,1954、1955a、1955b)。本貝塚の学史的意義は千葉大学文学部考古学研究室(1995)や岡本(2000)に詳しい。

    人骨の収集は、東京帝国大学人類学教室による上記の発掘で行なわれており、尺骨や大腿骨、骨盤、足指骨などが得られた(人類学教室酒詰仲男調査報告〔日録2〕)。その後、千葉大学文学部考古学研究室による1989(平成元)年と1990(平成2)年の二度の発掘において、屈葬人骨2体と頭骨1体分が得られた(千葉大学文学部考古学研究室,1995)。千葉大学文学部考古学研究室の発掘人骨については茂原(1995)の記載報告がある。

    本館には上記のうち東京帝国大学人類学教室の発掘による成人の部分骨1体分が収蔵されている。


    本館に収蔵されている城ノ台貝塚の人骨は以下の標本からなる。

    城之台

    この標本は東京帝国大学人類学教室の酒詰仲男・池田次郎らによって1944年10月に発掘された人骨である。人骨の記載報告はないが発掘報告として酒詰(2001)がある。そのほか、本館には保存資料として当時の発掘関連資料が9点収められている。これらのうち人類学教室酒詰仲男調査報告(日録2)、千葉県城之台貝塚発掘概要、千葉県城之台貝塚発掘報告、貝層断面図、周辺地形図、発掘地点図の各保存資料は、千葉大学文学部考古学研究室(1995)の付編としても出版されている。

    人類学教室による発掘では、南貝塚とその北側近傍においてA地点(第1、第2地点)が、北貝塚と南貝塚の間の台地上においてB地点(第3地点)とC地点(第4地点)が設定された(千葉大学文学部考古学研究室,1995)。本人骨は、A地点の下第Ⅱ区、つまりは南貝塚の貝層分布における北東域から出土したものである(千葉大学文学部考古学研究室,1995)。

    現在1標本として本館の標本資料報告No. 3に登録。

    保存資料:人類学教室酒詰仲男調査報告(日録2)

         酒詰仲男・池田次郎「千葉県城ノ台貝塚発掘概要」(原稿用紙、2点)

         酒詰仲男・池田次郎「千葉県城ノ台貝塚発掘報告」(原稿用紙)

         発掘状況写真(1944年10月、14枚)

         貝層断面図(1944年10月)

         周辺地形図(1944年10月)

         発掘実測図(1944年10月、第3地点)

         発掘地点図(1944年10月、2点)

    矢作貝塚
    矢作貝塚(やはぎ)
    所在地:千葉県千葉市中央区矢作町

    矢作貝塚は縄文時代後期に属する馬蹄形貝塚として報告されている(後藤,1974、千葉市,1976)。加曽利貝塚の南西約3kmに位置し、周辺地域には向ノ台貝塚、亥鼻貝塚などが分布する(文化庁文化財保護部,1974)。古墳時代後期における大規模集落の形成に加えて、水道関連施設や住宅地の建設により、現在では大半の旧状が失われたと考えられている(清藤,2000)。

    本貝塚は1887(明治20)年に上田英吉によってその存在が報告されており(「下総国千葉郡貝墟記」、上田,1887)、比較的早くから遺物の収集が行なわれてきた(東京帝国大学,1897、千葉県,1919)。本貝塚の研究史は清藤(2000)がまとめている。

    人骨の収集に関して、千葉県君津郡教育会(1927)や中谷(1929)は人骨が出土した旨を記しているが、これらの文献には発掘者、発掘年、個体数などの情報がない。その後、1937(昭和12)年の武田宗久、1944(昭和19)年の鈴木尚・酒詰仲男ら東京帝国大学人類学教室、1980(昭和55)年の千葉県文化財センターによって人骨の収集が行なわれた(武田,1938、人類学雑誌の雑報,1944、千葉県水道局,1981、酒詰,2001)。そのほか、武田による1937年の発掘に先立ち、甕棺葬の小児骨を含む計4体の人骨が人夫によって発掘されたという(武田,1938)。以上の発掘による出土人骨数は60体程度と推算され、そのうちのおよそ35体が個体埋葬骨、その他が部分骨や散乱人骨と考えられる。なお、千葉県文化財センターの発掘人骨(個体骨5体と断片骨16点)については平本(1981)の記載報告がある。

    上記のうち本館に収蔵されている標本は東京帝国大学人類学教室の発掘によるものであり、これらは個体骨7体分とその他の部分・断片骨からなる。


    本館に収蔵されている矢作貝塚の人骨は以下の標本からなる。

    矢作

    これらの標本は、東京帝国大学人類学教室の鈴木尚・酒詰仲男らによって1944年4月から5月にかけて発掘された人骨である。人骨の記載報告はないが発掘報告として人類学雑誌の雑報(1944)と酒詰(2001)がある。そのほか、人類学教室酒詰仲男調査報告(日録2)と発掘状況写真(人類学教室古写真アルバムNo. 19)が本館に収められている。

    武田宗久は1937年に7体の個体埋葬骨(1号から7号)を発掘したが、1号人骨以外は元位置のまま埋め戻された(武田,1938)。また当時、地元の人が畑の耕作中に「十五体程三尺位おきに、北まくらに寝ている」人骨を発見したが、これらは箱に一括して埋め戻された(酒詰仲男日録・調査〔調査18/1〕)。人類学教室による1944年の調査ではこれらの人骨が再発掘されており、さらに周辺地域において8号から12号の個体骨、甕棺葬の新生児骨、多数の散乱人骨が新たに発掘された(酒詰仲男日録・調査〔調査18/1〕、人類学教室酒詰仲男調査報告〔日録2〕)。

    本館の発掘状況写真には人骨を撮影したものが若干数含まれている。現存する標本との照合により、今回の評価ではUMUT131792、131794、131795、131796、131797、131825が撮影されているものと判断した。写真に見られる人骨の形態特徴や位置関係などの情報、武田(1938)の人骨出土図・図版、酒詰仲男日録・調査(調査18/1)から判断して、上記の各標本は発掘時の2号、4号、5号、6号、7号、8号人骨に相当する。また8号以外の発掘時番号は、本館の標本資料報告No. 3(遠藤・遠藤,1979)の標本名と一致することから、UMUT131793(矢作3)は発掘時の3号人骨に相当すると考えられる。さらに、現存する標本の形態特徴や付属紙片の情報、酒詰仲男日録・調査(調査18/1、18/2)から判断して、UMUT131824は発掘時の10号小児人骨、UMUT131825(第2個体)は甕棺葬の新生児骨である可能性が高い。一方で、箱に一括して埋め戻された人骨は、人類学教室の再発掘時には「マウンドの人骨」と呼ばれており、大腿骨から12、13体分と見積もられていた(酒詰仲男日録・調査〔調査18/1〕)。本館の標本資料報告No. 3(遠藤・遠藤,1979)の備考欄に「マウンド人骨」と記された矢作標本は全部で19標本あり(主として大腿骨、もしくは頭蓋骨片)、これらの標本が上記の人骨に由来すると考えられる。ただし、例外としてUMUT131813の頭骨標本は、発掘時のものと思われる付属紙片に「第Ⅰ区人骨七体中 第2号」と記されていること、下顎骨に「矢作2」と記されていること、歯牙萌出状況より若年と考えられることから、UMUT131792(矢作2)の頭部に当たると考えられる。

    本館には、標本資料報告No. 3(遠藤・遠藤,1979)に登録されている36標本のほか、少なくとも10体分が混在する未登録の人骨が収蔵されている。発掘時のものと思われる付属紙片に「マウンド人骨 矢作貝塚」と記されていることから、本人骨は人類学教室による1944年の発掘に由来する可能性がある。本人骨については新規のUMUT番号を与えず、付属紙片の情報から「矢作マウンド人骨」と一括してここに記録した。

    現在36標本として本館の標本資料報告No. 3に登録。このほか未登録の1標本を追加。

    保存資料:人類学教室酒詰仲男調査報告(日録2)

         人類学教室古写真アルバムNo.19

    余山貝塚
    余山貝塚(よやま)
    所在地:千葉県銚子市余山町

    余山貝塚は縄文時代後期から晩期の時代区分に属する(石橋,2000)。利根川河口域に注ぎ込む高田川の沿岸、標高約5~7mに所在しており、主要貝層は長軸140m、短軸70mの規模をもつが、かつての乱掘と採土により現在では壊滅の状態とされている(千葉県教育委員会,1989)。

    本貝塚は東京人類学会会員の「西川氏」により初めて発見、報告されたといわれる(江見,1909、高島,1909)。この人物が東京帝国大学人類学教室に出土遺物を寄贈したことで、本貝塚の存在が学界に紹介されることとなったと酒詰(1962)は推測している。

    本貝塚は、土器や石器、貝輪などの遺物が大量に出土することで古くから著名であり、明治後期から大正期にかけて多くの研究者らが発掘を行ない、また遺物を収集してきた(松村,1905、和田,1905、大野,1907、坪井,1908、江見,1909、高島,1909、東京人類学会雑誌の雑報,1909、大野,1911、人類学雑誌の雑報,1911a、1911b、1914a、1914b、八幡,1924)。1940(昭和15)年には東京帝国大学人類学教室の酒詰仲男・和島誠一・長谷部言人らによる学術調査が行なわれた(酒詰,1962、1963、1964、2001)。本貝塚の学史的意義は石橋(1991、2000)に詳しい。

    人骨の収集は、東京帝国大学人類学教室の坪井正五郎・柴田常恵・松村瞭らによる1905(明治38)年の調査に端を発する(石橋,1991)。この調査では頭頂骨、下顎骨、大腿骨の各断片が発見されたが(松村,1905)、資料は現在のところ所在不明である。その後、1906(明治39)年の水谷幻花・大野市平、1907(明治40)年の水谷幻花、1907(明治40)年頃の大野雲外、1908(明治41)年から1909(明治42)年の高島唯峯、1940(昭和15)年の酒詰仲男・和島誠一・長谷部言人ら東京帝国大学人類学教室、1950(昭和25)年の銚子考古学同好会、同年の内藤武義、1953(昭和28)年の佐野大和・永峰光一・野口義麿らによって人骨の収集が行なわれた(足立,1906、1907、高島,1909、大野,1931、銚子市役所,1952、佐野・野口,1953、酒詰,1962、原田,1986、酒詰,2001)。そのほか、東京帝国大学人類学教室による1940年の発掘以前に、地元の人が人骨2体を発見している(酒詰,1962)。以上の発掘による出土人骨数は少なくとも32体分と推算される。

    本館に収蔵されている標本は、1906年の水谷幻花・大野市平、1908年から1909年の高島唯峯、1940年の東京帝国大学人類学教室の発掘などによるものである。本館の標本資料報告No. 3(遠藤・遠藤,1979)においては50標本として登録されており、これらは成人の個体骨16体分とその他の部分・断片骨からなる。


    本館に収蔵されている余山貝塚の人骨は以下の標本群からなる。

    余山(’07)

    この標本は、東京朝日新聞社の記者であった水谷幻花と、地元の採集家の大野市平によって、1906年に発掘された人骨である。発掘報告として足立(1906)と高島(1909)が、人骨の記載報告として足立(1907)がある。当時のものと思われる付属紙片には「下総国海上郡余山貝塚ノ貝層底部ヨリ以下ノ層ニテ掘リ出シタルモノ(採集者 水谷乙次郎氏)」という記録がある。ここで問題となるのは、水谷が人類学教室へ寄贈した人骨として1906年発掘(水谷・大野)と1907年発掘(水谷)の2点が知られていることである(足立,1906、1907、高島,1909)。足立(1906)によると、水谷・大野による1906年発掘の人骨は、「貝層底部以下の砂中にて発見」された頭蓋骨と記されている。さらに、足立(1907)によると、この頭蓋骨は最大長179mm、最大幅150mmの大きさをもつほか、強く発達した鼻前頭隆起などの形態特徴を示すと記されている。余山(’07)の頭蓋骨は足立(1907)のものと良く類似する諸特徴を示しており、水谷・大野による1906年発掘の人骨と判断される。一方で、水谷による1907年発掘の人骨は余山標本中のUMUT132434に当たる可能性がある(後述)。

    本人骨の出土地点は高島(1909)に図示されており、この図に見られる貝層分布の様子や川沿いの立地などから、現在の主要貝層に相当する地点から出土したと考えられる。

    現在1標本として本館の標本資料報告No. 3に登録。

    保存資料: なし

    余山(’08)

    これらの標本についての発掘報告と人骨の記載報告はともにない。UMUT132386については、当時のものと思われる付属紙片に「千葉県下総国海上郡海上村字余山 椎名重造氏寄贈 明治四十一年十月」という記録がある。椎名重造とは当時の土地所有者のひとりである(高島,1909)。付属紙片の情報から、UMUT132386は椎名重造によって発見され、1908年10月に人類学教室へ寄贈された人骨と推測される。1908年出土の人骨としては高島唯峯の1体が知られているが、その発掘地点は信田石五郎の所有地にあり(高島,1909)、この場合は上記の紙片情報と合致しない。UMUT132387については、当時のものと思われる付属紙片に「千葉県下総国海上郡海上村字余山」「41(1908)」という記録がある。UMUT132386と同じく人類学教室が1908年に入手した人骨と推測されるが、発掘者、発見年、発掘地点は明らかでない。

    現在2標本として本館の標本資料報告No. 3に登録。

    保存資料: なし

    余山(’09)

    これらの標本は、1908年8月から1909年8月にかけて、高島唯峯が5度にわたる発掘を行なった際に得られた人骨である。発掘報告として高島(1909)があり、一部の標本について小金井(1918)が抜歯の記載報告をしている。また小金井(1923)が人骨の埋葬状態を紹介している。  高島による発掘では1908年8月に1体、1909年2月に1体、3月に1体、4月に6体、8月に5体の計14体分の人骨が得られた(高島,1909)。出土人骨は全て小金井良精に寄贈された(小金井,1923)。余山(’09)の各標本が上記のどの発掘で得られたものかは明らかでない。ただし、UMUT132388、132391、132392(以上3標本は個体骨)、132405、132406(以上2標本は断片骨)の各付属紙片には、「明治四十二年三月十五日 高島多米治氏ヨリ受取ル」、「明治四十二年三月十五日」、あるいは「明治四十二年三月二十五日」と記されていることから、これらの5標本は1908年8月、1909年2月、3月のいずれかに得られたものと思われる。

    本人骨の出土地点は高島(1909)に図示されており、余山(’07)と同様に現在の主要貝層に相当する地点から出土したと考えられる。

    現在19標本として本館の標本資料報告No. 3に登録。

    保存資料: なし

    余山(’40)

    これらの標本は、東京帝国大学人類学教室の酒詰仲男・和島誠一・長谷部言人らによって1940年3月に発掘された人骨である。発掘報告として酒詰(1962、2001)があり、また切痕のある橈骨片について鈴木(1941)が記載報告をしている。ただし、この橈骨片は現在のところ所在不明である。そのほか、発掘状況写真(人類学教室古写真アルバムNo. 13、14)が本館に収められている。

    人類学教室の発掘では個体埋葬骨5体(1号から5号)といくつかの散乱人骨が得られた(酒詰,1962)。本館の発掘状況写真には人骨を撮影したものが若干数含まれており、現存する標本との照合により、今回の評価ではUMUT132410、132423、132424が撮影されているものと判断した。写真に見られる人骨の形態特徴や破損箇所などの情報、酒詰(1962)の発掘平面図・図版、酒詰仲男日録・調査(調査15/1)から判断して、上記の各標本は発掘時の2号、4号、5号人骨に相当する。さらに、現存する標本の残存状態や付属紙片の情報、酒詰仲男日録・調査(調査15/1)から判断して、UMUT132413と132414は発掘時の3号人骨である可能性が高い。なお、人類学教室発掘の個体埋葬骨のうち、1号、2号の頭部、4号の頭部は余山標本中に含まれるものと判断した(後述)。

    人類学教室の発掘は、現在の主要貝層の中央部に相当する地点で行なわれた(銚子市教育委員会,2005)。酒詰(1962)が図示した発掘平面図から、主な発掘範囲は110~120m2程度と推算される。

    現在18標本として本館の標本資料報告No. 3に登録。

    保存資料: 人類学教室古写真アルバムNo. 13、14

    余山

    余山標本に関する情報は、本館の標本資料報告No. 3(遠藤・遠藤,1979)に若干あるに過ぎず、UMUT132426から132434の9標本について「発掘年月日不明であるが、1940年発掘の可能性有」とだけ言及されている。今回の再整理事業に際し、UMUT132426は人類学教室の発掘(1940年)による1号人骨、132429と132430は同発掘による4号人骨の頭部、132433は同発掘による2号人骨の頭部、132434は水谷幻花による1907年発掘の人骨と判断した。これらの解釈は以下の根拠に基づく。

    • UMUT132426は、発掘時のものと思われる付属紙片に「第一号人骨」と記されている。発掘状況写真(人類学教室古写真アルバムNo. 13、14)に見られる1号人骨とUMUT132426を照合したところ、特に前頭骨、左側頭骨において形態特徴や破損箇所の類似が認められた。このことから、UMUT132426は人類学教室による1940年発掘の1号人骨と判断した。
    • UMUT132429、132430はともに頭骨標本であり、互いの骨片が接合することから同一個体に由来すると判断される。上記の2標本は、発掘時のものと思われる付属紙片に「第四号」と記されている。発掘状況写真に見られる4号人骨とUMUT132429を照合したところ、特に左側頭骨において形態特徴や破損個所の類似が認められた。このことから、UMUT132429、132430は人類学教室による1940年発掘の4号人骨と判断した。ただし写真に見られる4号人骨の前頭骨は上記の2標本に含まれていない。
    • UMUT132433(脳頭蓋)とUMUT132410(頬骨、顎骨、体幹骨)は、互いの骨片が接合することから同一個体に由来すると判断される。前述のとおり、UMUT132410は人類学教室による1940年発掘の2号人骨と考えられることから、UMUT132433も同じく2号人骨であると判断した。発掘状況写真には2号人骨の頭部が撮影されており、UMUT132433と照合したところ、明確な対応付けはできなかったが、互いの残存状態は矛盾しない。
    • UMUT132434は1体分の下顎骨からなり、下顎骨体部に「172」と記されている。当時のものと思われる付属紙片には、上記の番号記載と類似する様式で「水谷幻花氏持参 余山貝層下」と記されている。付属紙片の情報から、本標本は水谷によって人類学教室へ寄贈された人骨と推測される。水谷が人類学教室へ寄贈した人骨としては1906年発掘(水谷・大野)と1907年発掘(水谷)の2点が知られており(足立,1906、1907、高島,1909)、前述のとおり、1906年発掘の人骨はUMUT132385と判断した。水谷による1907年発掘の人骨について、残存部位などの具体的な情報は文献に記されていないが、付属紙片の情報から本標本は水谷による1907年発掘の人骨に当たる可能性がある。

    現在10標本として本館の標本資料報告No. 3に登録。

    保存資料: なし

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