荒屋敷貝塚は北の草刈場貝塚や南の台門貝塚とともに貝塚町の舌状台地上に位置し、いわゆる貝塚町貝塚群の一部をなす遺跡である(後藤,1974a)。貝層部は環状に近い馬蹄形を呈し、南北約150m、東西約160mの範囲に広がっている(西山,1974)。貝塚の形成は縄文時代中期前半の阿玉台期に始まり、中期後半を経て後期まで続いたとされている(斎木,2000)。かつては新屋敷貝塚、千葉貝塚、貝塚町貝塚、あらひ(し)き貝塚とも呼ばれ(酒詰,1959)、周辺地域の貝塚とともに1872(明治5)年より地元の人々に石灰利用の目的で採掘されていたという(上田,1887)。本貝塚の研究史は斎木(2000)がまとめている。
人骨の収集に関して、酒詰仲男は「日本貝塚地名表」(1959)の中でヒトが出土した旨を記しているが、その所属時代についての情報はない。1975(昭和50)年から1976(昭和51)年の千葉県文化財センターによる調査では、ヒトの上顎左中切歯が得られたが、現代に属するものと判断された(松浦,1976)。また1977(昭和52)年の同じく千葉県文化財センターによる調査では、中世時代の埋葬人骨1体のほか、縄文時代中期の部分骨2体分が発見された(種田・斎木,1978、森本,1978)。
本館には成人個体骨1体分が収蔵されている。
本館に収蔵されている荒屋敷貝塚の人骨と考えられる標本は以下のものからなる。
標本付属の紙片に「荒屋敷 (中期加曽利E) 昭和二十一年十月」と由来が記されている。1946(昭和21)年10月11日、酒詰仲男は三上次男や広瀬栄一らと共に、当時の皇太子と学習院中等部の学生を迎えて荒屋敷貝塚で発掘を行なっている(酒詰,2001)。時期の一致から、本標本はこの発掘に由来した可能性があるが、人骨出土についての報告はなく、酒詰らは「発掘はあまり有望でないので、即日うちきることに一決した」という(酒詰,2001)。また伊藤和夫(1959b)は、1947(昭和22)年の出来事として「現皇太子殿下が千葉市荒屋敷貝塚において、東京大学人類学教室の長谷部言人博士、山内清男氏らの指導のもとに発掘に参加された」と記している。記述は1年ずれているものの、これは恐らく上記の酒詰らによる発掘を指すと思われる。しかし、ここにおいても人骨出土の報告はない。酒詰(1959)に記されたヒトが本標本に相当する可能性もあるが、明らかでない。
現在1標本として本館の標本資料報告No.3に登録。
保存資料:なし
千葉貝塚とは単一の貝塚を指す遺跡名称ではなく、いわゆる貝塚町貝塚群の一部に相当すると解釈できる(山崎,1893、酒詰,1959)。現在の貝塚町貝塚群とは、荒屋敷、台門、草刈場貝塚のほか、荒屋敷西、草刈場南、東辺田貝塚等を含め、荒屋敷支谷と高品支谷に挟まれた舌状台地上の遺跡群を総称したものとされている(宍倉,1974、1976、千葉市,1976、斎木,2000)。
古くは山崎直方(1893)による調査報告がある。この中で山崎は「千葉県庁所在の地なる千葉町の東半里許にして都村なるありて其大字貝塚は即所謂千葉貝塚のある所なり」と紹介し、貝塚の規模を「東西二町許南北六七町に余り」(1町は約109m)と記した。また酒詰仲男は「日本貝塚地名表」(1959)の中で、荒屋敷、台門、草刈場貝塚の異称として千葉貝塚と記している。
人骨の収集に関して、酒詰(1959)は荒屋敷、台門、草刈場の各貝塚においてヒトが出土した旨を記しているが、その所属時代についての情報はない。このほか、荒屋敷貝塚では縄文時代中期の部分骨などが、草刈場貝塚では乳児骨ないしは胎児骨を含む縄文時代人骨が収集されている(種田・斎木,1978、森本,1978、酒詰,2001)。
本館には少なくとも2体分の部分骨が収蔵されている。
本館に千葉貝塚の人骨として収蔵されている貝塚町貝塚群の標本は以下のものからなる。
この標本についての発掘報告と記載報告はともにないが、標本付属の紙片に「縄文時代 千葉県千葉市 千葉貝塚」「1321.158 日本石器時代人 千葉市千葉貝塚」と記されている。人骨の収集年や発掘者、発掘地点は明らかでないが、貝塚町貝塚群の何れかの遺跡において収集されたものと考えられる。
現在1標本として本館の標本資料報告No.3に登録。
保存資料: なし
長谷部貝塚は長径約200m、短径約150mに広がる馬蹄形貝塚であり、縄文時代中期から後期にわたる土器が確認されている(後藤,1974a)。周辺地域には台畑貝塚や東水砂第2貝塚など、同時期の遺跡が分布している(古内,2000a)。
本貝塚は1881(明治14)年に伊沢信三郎により初めて貝塚として認識され、その経緯や出土遺物が加部巌夫により学界に紹介された(加部,1881)。このことは有識者による千葉県初の貝塚の発見、報告事例として知られている(堀越,1992a)。本貝塚の研究史は古内(2000a)がまとめている。
人骨の収集に関して、本館保存資料の人類学教室酒詰仲男調査報告(日録5)には「酒詰は昭19.6.14日はじめて実査し、6月29日再訪、更に21年1月22日人骨を得た。その下に住居址の床も発見したが、当時、作物の都合で発掘不可能であった」と記されている。しかし、「貝塚に学ぶ」(酒詰,2001)によると、1946(昭和21)年に発掘を行なったという記録はなく、1947(昭和22)年1月21日から24日にわたり長谷部貝塚を含む複数の遺跡を踏査、同年2月25日から28日にわたり長谷部貝塚を発掘したことが記されている。人類学教室酒詰仲男調査報告(日録5)にある人骨発見年は誤転記と思われる。その後、1949(昭和24)年の7月9日から15日にかけて、東京大学人類学教室の鈴木尚・渡辺直経・酒詰仲男らにより発掘調査が行なわれた。この発掘では貝塚の南西側にA区からD区の4地点が設けられた。このときのB区は、酒詰が人骨収集の際に発見した住居址の床を目当てに発掘された地点である。A区から人骨1体、C区から胎児骨1体が発見されている(人類学教室酒詰仲男調査報告、日録5)。1959(昭和34)年には、早稲田大学考古学研究室の滝口宏らによりほぼ全掘に近い発掘が行なわれ(後藤,1974a)、「伸展、屈葬、被甕葬、男女合体葬など各種のめずらしい埋葬様式を持つ三〇数体の石器時代人骨」が発見されたという(千葉県教育委員会,1969)。このほか、東京大学人類学教室による1949年の発掘以前に、誉田村中学校の一生徒が貝塚の南西側でヒトの脛骨を発見したとの記録がある(人類学教室酒詰仲男調査報告、日録5)。以上の発掘による出土人骨数は35体程度と推算される。
上記のうち本館に収蔵されている標本は、1947年の酒詰仲男および1949年の東京大学人類学教室の発掘によるものと考えられ、少なくとも成人個体骨2体分からなる。
本館に収蔵されている長谷部貝塚の人骨は以下の標本からなる。
これらの標本についての発掘報告と記載報告はともにないが、人類学教室酒詰仲男調査報告(日録5)と東京大学人類学教室発掘時の実測図(保存資料)が本館に収められている。これらから、本館の成人骨は、1947年の酒詰による発掘と、1949年の東京大学人類学教室による発掘により得られたものと推測される。ただし、上記の通り、人骨発見年は1947年であり、標本資料報告No.3の年月日欄には、人類学教室酒詰仲男調査報告(日録5)にある誤転記と思われる発見年が記されている。なお各標本がいずれの発掘に由来するか明確にできない。標本資料報告No.3(遠藤・遠藤,1979)の備考欄に「postcranial bones, fragments. infans. 1421・141(HN)」と記されている点から、UMUT130097は東京大学人類学教室の発掘でヒトの胎児骨と判断された標本と思われるが、現存する該当標本は動物の胎児骨であった。
現在5標本として本館の標本資料報告No.3に登録。
保存資料:人類学教室酒詰仲男調査報告(日録5)
長谷部貝塚発掘実測図(1949年7月)
前貝塚は中法伝貝塚や藤原観音堂貝塚などとともに上山台遺跡群を構成する遺跡のひとつであり(船橋市,1987)、縄文時代中期から後期に属する環状貝塚と報告されている(武田,1959)。また周辺地域では、西方約1.5 km地点に船橋市の代表的な遺跡である古作貝塚が、南東約600m地点に前貝塚堀込貝塚が位置している(船橋市,1987)。
前貝塚の初期の遺跡実査としては1883(明治16)年の白井光太郎・坪井正五郎(坪井,1904)、1901(明治34)年の林五策・水谷幻花ら(林,1901)によるものがある。これらのほか、1947(昭和22)年に酒詰仲男が踏査を行なっている(酒詰,2001)。
出土人骨は千葉県の「史蹟名勝天然記念物調査」(1926a)で報告された個体骨1体のみである。報告によると、東葛飾郡塚田村前貝塚字上屋所在の金子庄蔵宅に続く竹藪内に、南東から北西方向に長さ約二十間(およそ36m)にわたり土堤が広がっていた。1923(大正12)年の夏季、この土提の大部分を切り崩した際に下部のローム層から「殆ト完全ナル人骨ヲ発掘」したという。
本館には上記の人骨が収蔵されており、これは成人個体骨1体分からなる。
本館に収蔵されている前貝塚の人骨は以下の標本からなる。
本館の標本資料報告No.3(遠藤・遠藤,1979)では、本標本の原記録地名は「下総国東葛飾郡塚田村前貝塚字上屋」、採集地は「千葉県船橋市前貝塚町堀込 堀込前貝塚」と記されている。標本付属の紙片には「大正十二年夏 千葉高女校長高野松次郎 東葛飾郡塚田村前貝塚 一人骨一体掘り出す」と由来が記されており、1923(大正12)年に千葉県の塚田村で発掘され、「史蹟名勝天然記念物調査」(千葉県,1926a)に記載されている人骨と判断される。
ここで問題となるのは、標本資料報告No.3(遠藤・遠藤,1979)における原記録地名の前貝塚と採集地の堀込前貝塚は、支谷を隔てた二つの異なる遺跡として存在する点である(武田,1959、文化庁文化財保護部,1974)。堀込前貝塚は現在では前貝塚堀込貝塚と呼ばれている(船橋市,1987、船橋市文化・スポーツ公社埋蔵文化財センター,2002)。人骨の発見地は「史蹟名勝天然記念物調査」(千葉県,1926a)には塚田村前貝塚字上屋と記され、周辺の簡単な地図が付されている。これに加えて、現在の前貝塚町周辺の地図、船橋市の遺跡分布図(船橋市,1987)、「船橋小字地図」(滝口,1994)の情報から、当該遺跡が前貝塚堀込貝塚ではなく前貝塚と判断した。
他の紙片には「昭和四年三月十三日 1929」と記されており、この時期に東京帝国大学人類学教室の所蔵となったものと考えられる。前述の「史蹟名勝天然記念物調査」(千葉県,1926a)に人骨の発掘報告と記載報告がある。出土人骨の埋葬状態は屈葬と推察され、頭蓋骨、大腿骨、脛骨、腓骨の幾つかの計測値が報告されている(千葉県,1926a)。
現在1標本として本館の標本資料報告No.3に登録。
保存資料: なし
堀之内貝塚は堀之内式土器の標式遺跡として知られ(山内,1939-1941)、千葉県を代表する貝塚のひとつである。南北約120m、東西約225mに広がる「U」字形の貝塚であり、その形成時期は縄文時代の後期前葉から晩期中葉とされている(領塚,1992)。
堀之内貝塚の初期の遺跡実査としては、1883(明治16)年の白井光太郎・澤井廉・坪井正五郎・箕作元八、翌1884(明治17)年の白井光太郎のものがある(坪井,1904)。1901(明治34)年には林五策・水谷幻花らにより初の発掘調査が実施され(林,1901)、その後、1904(明治37)年の東京人類学会による創立20周年記念遠足会を経て有名となった(堀越,2000b)。このほか、1951(昭和26)年には東京大学人類学教室の学生実習による発掘が実施されており(堀越,1992a)、当時の写真(発掘状況写真MA6)が本館に収められている。本貝塚の学史的意義は杉原・戸沢(1971b)や堀越(1992a、2000b)に詳しい。
人骨の収集は1904年10月16日の東京人類学会による創立20周年記念遠足会に端を発する(堀越,1992a)。このとき人骨6点が発見され、東京帝国大学解剖学教室の小金井良精(1904)により記載された。標本の所在は現在のところ不明であるが、遠足会の様子を留めた写真5点(長谷部資料H6 DA-D4、人類学教室古写真アルバムNo.107)が本館に収められている。なお、これらの人骨片は千葉県で初めて収集された縄文時代人骨とされている(堀越,1992a)。
翌10月17日には、遠足会の参加者のうち高島唯峯・水谷幻花・江見水蔭・飯田東皐が発掘を行なっており(高島,1909)、「頭骨ばかりでなく四肢骨より足骨に至るまで殆んど人体全部完全の姿」の人骨が出土したという(東京人類学会雑誌の雑報,1905)。この人骨は、縄文時代の貝塚において全身骨格が概ね完全な形で発見された最初の例とされている(堀越,1992a)。その後、1946(昭和21)年頃の吉田格・江坂輝弥・芹澤長介ら、1947(昭和22)年頃の葛飾高校、1949(昭和24)年から1950(昭和25)年にわたる岡田茂弘ら学習院高等科史学部、1954(昭和29)年の日本人類学会第70周年記念事業に際する明治大学と早稲田大学、慶應義塾大学の各考古学研究室、1955(昭和30)年の小岩第三中学校により、人骨の収集が行なわれた(鈴木ほか,1957、堀越,1992a)。また、1939(昭和14)年から1946(昭和21)年の間にジェラード・J・グロート(G. J. Groot)が発見した右上腕骨片、中村進が戦後に発見し市川考古博物館に寄贈した2体分の人骨もこの他に存在する(足立,1992)。以上の発掘による出土人骨数はおよそ18体分と推算され、そのうち少なくとも10体が個体埋葬骨、その他が部分骨や散乱骨などである。
上記のうち本館に収蔵されている標本は、1904年の高島唯峯ら、1946年頃の吉田格ら、1947年頃の葛飾高校、1954年の明治大学考古学研究室、1955年の小岩第三中学校の発掘などによるものである。これらは個体埋葬骨10体と部分骨1体分からなる。吉田格らの発掘以降に得られた個体骨8体分に関しては鈴木ほか(1957)の記載報告論文がある。
本館に収蔵されている堀之内貝塚の人骨は以下の標本群からなる。
これらの標本のうちUMUT130831は1904年に高島唯峯・水谷幻花・江見水蔭・飯田東皐により発掘された人骨である。人骨の発掘報告として高島(1909)が、記載報告として足立(1992)があり、またMunro(1908)がこの頭蓋骨を計測している。UMUT130832は本館の標本資料報告No.3(遠藤・遠藤,1979)に「presented by T.Takashima」と記されていることから、高島による寄贈標本と考えられるが、高島(1909)にはこの人骨についての記述が見られない。UMUT130831と130832の四肢骨はかつて別々に保管されていたが、足立和隆が確認した折には既に混ざってひとつの箱に収められていたという(足立,1992)。今回の整理作業でも2個体が重複していることを確認したが、各個体に区分することはできなかった。UMUT130833は本館の標本資料報告No.3(遠藤・遠藤,1979)に「femur r., damaged」と記されているが、現在のところその所在は不明であり、高島らの発掘に由来するものかどうかは明らかでない。
現在3標本として本館の標本資料報告No.3に登録。
保存資料:長谷部資料(H6 DA-D4)
人類学教室古写真アルバムNo.107
これらの標本は、後藤守一を責任者とする明治大学考古学研究室により1954年10月に発掘された人骨である。人骨の発掘報告として芹澤・麻生(1957)が、記載報告として鈴木ほか(1957)がある。人骨の出土地点はサ地点と呼ばれ、貝塚南西部の緩斜面に位置する(芹澤・麻生,1957、堀越,1992b)。人骨には堀之内1式土器が伴出していたことから(芹澤・麻生,1957)、本標本が属する時代区分は縄文時代後期前葉と考えられる。
現在2標本として本館の標本資料報告No.3に登録。
保存資料: なし
これらの標本のうちUMUT130836は1947年ごろ葛飾高校により発掘された人骨である。人骨の発掘報告はないが記載報告として鈴木ほか(1957)がある。堀の内(’54)と同様に貝塚南西部から出土したものであるが(堀越,1992b)、詳細な発見地点は明らかでない。UMUT130837は「given by Hirai」(遠藤・遠藤,1979)と記されているが、その由来は不明である。
現在2標本として本館の標本資料報告No.3に登録。
保存資料: なし
この標本は1946年ごろ吉田格・江坂輝弥・芹澤長介らにより発掘された人骨である。人骨の発掘報告はないが記載報告として鈴木ほか(1957)がある。「貝塚に接する旧錬兵場東北隅の小社に接近して、地表20cmから頭骨だけが単独に発見された」という(鈴木ほか,1957)。領塚(1992)の発掘地点配置図では貝塚の北側中央部付近に祠が記されており、これが鈴木ほか(1957)の「小社」に相当する。鈴木ほか(1957)はこの頭骨の形質が「一般石器時代人とはかなり異った性状を示す」と記し、「石器時代以後の或時代に埋葬されたもの」と推測している。
本館の標本資料報告No.3には登録されていない。今回は新規のUMUT番号を設定せず、標本名を「堀の内(’46)」の1標本として記録した。
保存資料: なし
これらの標本は1955年に小岩第三中学校により発掘された人骨である。前出の堀の内(’54)と同様に貝塚南西部から出土したものであるが(堀越,1992b)、詳細な発見地点は不明である。発掘で得られた人骨は6体あり(堀越,1992b)、そのうちの4体が本館で確認されている。人骨の発掘報告はないが記載報告として鈴木ほか(1957)がある。なお、本館では小岩1から小岩4の表記のもとに保管されていたが、鈴木ほか(1957)ではそれぞれNo.3からNo.6という別の番号で記載されている。
本館の標本資料報告No.3には登録されていない。今回は新規のUMUT番号を設定せず、標本名を「堀の内(’55)小岩1」から「堀の内(’55)小岩4」の4標本として記録した。
保存資料: なし
本遺跡は、東京帝国大学人類学教室の松村瞭と柴田常恵により1910(明治43)年に調査され、「上総市原郡市原村大字郡本なる小字門前の寺山」に所在する貝塚、ないしは「上総国市原郡市原村貝塚」として報告されている。貝層の厚さは1丈(およそ3m)を超えること、出土遺物の量は乏しいことなどが紹介された(東京人類学会雑誌の雑報,1911、柴田,1911)。「市原郡誌」(千葉県市原郡教育会,1916)によると、この貝塚は門前地域の東部に位置し、周辺に宝積寺という寺があったとされており、同名の寺が現在も市原市門前に所在している。本館には柴田(1911)に掲載された写真2枚に加えて計13枚の調査状況写真(人類学教室古写真アルバムNo.87)が収められている。
その後、本遺跡の名称としては大字をとって郡本(伊藤,1959a、酒詰,1959)、ないしは小字以下をとって門前(伊藤,1959a)、門前貝塚、寺山貝塚(酒詰,1959)が使用された。「全国遺跡地図」(文化庁文化財保護部,1974)では門前貝塚の名称で記載されている。なお、門前貝塚の異称であった郡本遺跡の名称は、近年では宮前遺跡、古甲遺跡を主としたより南方に位置する別の遺跡群に使用されている(田所,1998)。
貝塚の形成時期は、出土土器型式(加曽利E式、堀之内式、加曽利B式)により(伊藤, 1959a、酒詰, 1959)、縄文時代中期から後期にわたるものと考えられる。
現在までに人骨が収集されたという報告はない。
本館には少なくとも成人個体骨3体分が収蔵されている。
本館に収蔵されている門前貝塚の人骨と考えられる標本は以下のものからなる。
この標本についての発掘報告と記載報告はともにない。本館の標本資料報告No.3(遠藤・遠藤,1979)では採集地が「千葉県市原市」、原記録地名が「千葉県市原郡市原町」と記されているが、具体的な遺跡名は見られない。一方で、標本の付属紙片には「上総市原郡市原 貝塚発見人骨 千葉町吉田清太郎送付」「上総市原村発見 貝塚人骨ト記セル板札アリタリ 昭和十三年六月地下室ニアリタル平箱中ニアリタル人骨」、下顎骨には朱文字で「上総市原貝塚」と由来が記されている。標本名に出土地名が反映されたと考えられ、本標本は門前貝塚で収集されたものと推測される。なお、小林和正(1964)は縄文時代人の恥骨形態の研究でUMUT130844を用いている。
現在4標本として本館の標本資料報告No.3に登録。
保存資料: なし
本館に収蔵されている飯富標本は、1964年標本採集時の位置情報(保存資料)により、現在の飯富貝塚ではなく、その北東約1 kmに位置する山野貝塚から出土したものと判断される(文化庁文化財保護部,1974)。
飯富貝塚なる遺跡の調査は横山将三郎(1931)により行なわれた。このときの遺跡地点は現在の山野貝塚と飯富貝塚の間に図示されている。その後、酒詰仲男(1959)により「君津郡根形村大字飯富字台、飯富神社北裏」の飯富(異称として台貝塚)という遺跡が実査、報告されている。現在、飯富神社は袖ヶ浦市飯富に所在し、その東方に所在する遺跡が飯富貝塚とされている(文化庁文化財保護部,1974)。
山野貝塚は、1973(昭和48)年の千葉県都市公社、1992(平成4)年の千葉県文化財センターの発掘調査により、貝層部は南北約110m、東西約140mの範囲で相弧状を呈し、その形成時期は縄文時代後期の堀之内1期から安行2期にわたるものとされている(上守,2000)。本貝塚の研究史は上守(2000)がまとめているが、山野貝塚において人骨が収集されたという報告はない。
本館には成人個体骨2体分が収蔵されている。
本館に収蔵されている山野貝塚の人骨と考えられる標本は以下のものからなる。
これらの標本についての発掘報告と記載報告はともにない。本館の標本資料報告No.3(遠藤・遠藤,1979)には採集地が「千葉県君津郡袖ヶ浦町飯富 飯富貝塚」と記されている。
UMUT130848には「木更津の二つ手前 楢葉 千葉県君津郡袖ヶ浦町 日本三育学院カレッヂ一年 大黒毅三 一昨年暮頃 全身骨格一体 飯富貝塚(縄文) 安行 加曽利E 弥生初期 遠藤君」と記された紙片が付属している。また、東京大学人類学教室の遠藤萬里による発掘記録が本館に収められている。発掘状況について、「飯富貝塚 場所 千葉県君津郡袖ヶ浦町字飯富の台地 道路をはさんで北側が貝塚、南側の道路の傍に人骨が発見された。同所には貝が殆んどない。北側は畠、かなり広い範囲に貝が散布。但し塊状に分散。南側は樹齢15年位の松林。地表はささ、すすきの類によりやぶ状である。人骨は大黒氏発見によるものであるが、1個所に集中し、地表下5cm位であって、しかも頭は道路にあり破損甚しく、またささの根によって分断されている。1964.2.6 遠藤」と記されている。このほか、貝塚と人骨の地図上での位置、人骨の出土状況(伸展葬と判断される)、発掘地点周辺の貝塚の分布等が簡潔に図示されている。これらの保存資料に示されているUMUT130848の収集地点は現在の山野貝塚に相当する(文化庁文化財保護部,1974)。なお、山野貝塚の貝層分布図(上守,2000)に照らし合わせると、遠藤による1964年の発掘地点は東貝層部の南方かつ西貝層部の東方(道路沿いの無貝層部)に相当すると思われる。
一方、UMUT130847は「千葉県君津郡袖ヶ浦町 日本三育学院 大黒毅三 昭38. 11. 28 持参」との由来が付属紙片に記されている。土器片が付属し、「Angyo 2A Pottery type」とされている(遠藤・遠藤,1979)。発見者が共通し、持ち込まれた時期が遠藤による発掘の前年であることから、UMUT130848と同じ遺跡から出土した人骨である可能性が高い。しかし発掘年や発掘地点などの情報はない。
現在2標本として本館の標本資料報告No.3に登録。
保存資料: 遠藤萬里による発掘記録(1964年2月6日)
加曽利貝塚は、北側の環状貝塚(北貝塚、直径約130m)と南側の馬蹄形貝塚(南貝塚、直径約170m)から形成される本邦有数の巨大貝塚である。また、加曽利B式、加曽利E式土器の標式遺跡として知られている(山内,1939-1941)。北貝塚は主として縄文時代の中期後葉、南貝塚は後期前葉から晩期初頭にかけて形成されたものとされている(青沼,2000)。
本貝塚は1887(明治20)年に上田英吉により紹介され(「下総国千葉郡介墟記」、上田,1887)、その後、1923(大正12)年の大山史前学研究所による発掘調査で北貝塚と南貝塚が区分され、その規模と形状が明らかとなった(大山史前学研究所,1937)。翌1924(大正13)年には東京帝国大学人類学教室の松村瞭らがB、D、E地点の発掘を実施し、北貝塚と南貝塚では異なる型式の土器が出土することを認識した(八幡,1924)。本貝塚の学史的意義は青沼(2000)などに詳しい。
人骨の収集は、東京帝国大学人類学教室の坪井正五郎・石田収蔵・松村瞭による1907(明治40)年の調査に端を発する。その後、1923(大正12)年の上羽貞幸、1924(大正13)年の東京帝国大学人類学教室の松村瞭ら、1936(昭和11)年の大山史前学研究所の大山柏・池上啓介・大給尹・竹下次作、1958(昭和33)年の明治大学考古学研究室の杉原荘介、1962(昭和37)年の武田宗久を中心とする千葉市教育委員会、1964(昭和39)年から1968(昭和43)年の滝口宏を団長とする加曽利貝塚調査団、1972(昭和47)年の後藤和民を中心とする千葉市教育委員会によって、人骨の収集が行なわれた(八幡,1924、大山史前学研究所,1937、芹澤,1962、宍倉,1975、後藤,1976、1977b、1977c、後藤・庄司,1981)。以上の発掘による出土人骨数はおよそ60体分と推算され、そのうちの40体程度が個体埋葬骨、その他が部分骨や散乱骨などである。これら出土人骨についての近年の記載報告として木村(2002)がある。
上記のうち本館に収蔵されている標本は、1907年の東京帝国大学人類学教室、1923年の上羽貞幸、1924年の東京帝国大学人類学教室、1964年から1967年にかけての加曽利貝塚調査団の発掘によるものである。これらは個体埋葬骨31体と部分骨1体分からなる。今回の再整理作業では発掘時の写真と標本状態を再検討し、その結果、個体同定の一部が木村(2002)の解釈と異なっている。また、遠藤・遠藤(1979)と木村(2002)に収録されていない胎児ないし乳児骨3体を今回新たに加えた。
なお、本貝塚の主な出土人骨が属する時代区分は、北貝塚では中期後葉から後期前葉、南貝塚では後期前葉から晩期とされている(後藤,1976、1977b)。
本館に収蔵されている加曽利貝塚の人骨は以下の標本群からなる。
この標本は1907年に東京帝国大学人類学教室の坪井正五郎・石田収蔵・松村瞭により発見され、小金井良精に託された人骨である(八幡,1924)。人骨の発掘報告と記載報告はともにないが、小金井(1923)がこの人骨の埋葬について触れている。
現在1標本として本館の標本資料報告No.3に登録。
保存資料: なし
標本付属の札に「某氏発掘B地点Ⅲ-2」と由来が記されている。1923年に上羽貞幸がB地点で人骨を発見したという八幡(1924)の記述から、本標本は上羽の発掘に由来するものと考えられる。この人骨についての発掘報告と記載報告はともにない。
現在2標本として本館の標本資料報告N0.3に登録。
保存資料: なし
これらの標本は1924年の3月から4月にかけて、松村瞭・甲野勇・山内清男・八幡一郎・宮坂光次・小金井良精により発掘された人骨である。人骨の記載報告はないが発掘報告として八幡(1924)がある。八幡(1924)によると、1体はB地点(南貝塚北西部)、上羽貞幸による人骨発掘地点の南東10mから発見された。他の2体はD地点(北貝塚西部)から出土したという。なお、この発掘の際に土器型式の違いが指摘され、後に加曽利B式、加曽利E式として呼称されるに至った(後藤,1974a)。
現在3標本として本館の標本資料報告No.3に登録。
保存資料: 人類学教室古写真アルバムNo.82
これらの標本は1965年から1967年にかけて、滝口宏を団長とする加曽利貝塚調査団により北貝塚で発掘された人骨である。人骨の発掘報告として後藤(1977b)が、記載報告として鈴木ほか(1976)がある。この調査では13体の人骨が出土しており(後藤,1977b)そのうちの8体分が本館に収蔵されている。発掘調査地区は、1962年に武田宗久が発掘した地点(北貝塚北東部)、そこから約80m南方で1958年に明治大学考古学研究室が発掘した地点付近(北貝塚南東部、E地点の東側)、「もっとも標高が高く貝層の厚いと思われる」地点(北貝塚西部)の3ヶ所からなる、(後藤,1977a)。
現在8標本として本館の標本資料報告No.3に登録。
保存資料:発掘写真Ⅰ(1965年12月)
加曽利貝塚発掘記録(1965年12月13日)
加曽利貝塚博物館所蔵の埋葬状況写真(コピー、一部未出版)
これらの標本は1964年から1965年にかけて加曽利貝塚調査団により南貝塚で発掘された人骨である。人骨の発掘報告として後藤(1976)が、記載報告として鈴木ほか(1976)がある。この調査では31体の人骨が出土しており、そのうちの19体が東側堆積部に、8体が西側堆積部に、2体が南西端の独立堆積部に、2体が北東端の開口部に位置していた(後藤,1976)。本館には、標本資料報告No.3に登録されている人骨15体分のほか、未登録の胎児ないし乳児骨3体が収蔵されている。未登録標本については新規のUMUT番号を与えず、標本に付属する紙片の情報から各々を後藤1976)の第15号、第20号、第21号人骨と判定し、「加曽利南15」、「加曽利南20」、「加曽利南21」として記録した。
現在15標本として本館の標本資料報告No.3に登録。このほか未登録の3標本を追加。
保存資料: 加曽利貝塚博物館所蔵の埋葬状況写真(コピー、一部未出版)
古作貝塚は主として縄文時代後期に属する環状あるいは馬蹄形貝塚とされている(岡崎,1983)。
初期の遺跡実査として、1883(明治16)年の白井光太郎・坪井正五郎によるものがある(坪井,1904)。1893(明治26)年には八木奘三郎が最初の発掘を行ない、十坪程の発掘地から土器、石器等の遺物を採集した(八木,1893a、1893b)。その後は1928(昭和3)年の中山競馬場の建設を受けて遺跡の破壊が進行したが、工事に際して発見された貝輪入りの蓋付き壷形土器2点を八幡一郎が学界に紹介したことから(八幡,1928)、古作貝塚は一躍有名となった(堀越・田多井,1996)。本貝塚の学史的意義は堀越(2000c)に詳しい。
人骨の収集は1926(大正15)年の上羽貞幸による発掘に端を発する。上羽は横臥屈葬の個体骨1体を発見し、東京帝国大学人類学教室にこれを寄贈したことが知られている(松村,1927)。その後、船橋市遺跡調査会による4度の発掘調査のうち、1983(昭和58)年の第2次発掘、1984(昭和59)年から1985(昭和60)年の第3次発掘において人骨が収集された(岡崎,1982、1983、金子ほか,1985、鈴木,1988)。このほか、所属時代は不明であるが、保存良好な伸展位の人骨1体が池上啓介(1934)により報告されている。以上の発掘による出土人骨数はおよそ95体分と推算され、そのうちの38体が成人個体骨、7体が小児個体骨、50体分が散乱人骨などである。
本館に収蔵されている人骨は、上羽貞幸による1926年の1標本と、発掘報告がない断片的な3標本の計4標本である。このほか、今回の再整理作業により3点の断片的な脛骨標本が新たに追加された。
なお、本貝塚の主な出土人骨が属する時代区分は、主として縄文時代後期前葉(堀之内1期から堀之内2期)、および縄文時代後期中葉(加曽利B期)とされている(堀越,2000c)。
本館に収蔵されている古作貝塚の人骨は以下の標本群からなる。
この標本は1926年6月10日に上羽貞幸により発掘され、即日のうちに上羽から東京帝国大学人類学教室へ寄贈された人骨である。人骨の記載報告はないが発掘報告として松村(1927)がある。出土人骨は東頭位の左側臥屈葬であったと判断され、骨製と鹿角製の有孔垂飾各1点が伴出して発見された(松村,1927)。頭位、埋葬姿勢、有孔垂飾の装身という各特徴は、船橋市遺跡調査会による第3次発掘で出土した8号人骨(加曽利B2期、縄文時代後期中葉)と共通する点から、本人骨も同様の時期に属するとされている(堀越,1994)。
現在1標本として本館の標本資料報告No.3に登録。
保存資料: なし
この標本についての発掘報告や記載報告はないが、標本付属の紙片に「八幡採集 古作貝塚人骨」と記されている。1928年2月に貝輪入り蓋付き壷形土器を東京帝国大学人類学教室が入手したのち、松村瞭は八幡一郎に発掘調査を委嘱したことが知られている(八幡,1928)。本館には「古作貝塚 八幡氏 昭3年3月20日」と記された写真資料(人類学教室古写真アルバムNo.84)が保管されており、出土人骨を撮影した写真はないものの、実際に八幡が発掘を実施したことが窺がえる。以上から本標本は八幡による1928年の発掘に由来すると思われるが、標本資料報告No.3(遠藤・遠藤,1979)には「? 01、02、03はそれぞれ別年の発掘と思われる」と記されている。
現在1標本として本館の標本資料報告No.3に登録。
保存資料: 人類学教室古写真アルバムNo.84
この標本についての発掘報告や記載報告はない。標本付属の紙片に「古作 八幡採集」と記され、上記の古作01標本と同様に八幡による1928年の発掘に由来する可能性がある。しかし、標本資料報告No.3(遠藤・遠藤,1979)には「? 01、02、03はそれぞれ別年の発掘と思われる」と記されている。
現在1標本として本館の標本資料報告No.3に登録。
保存資料: なし
この標本についての発掘報告と記載報告はない。本館の標本資料報告No.3(遠藤・遠藤,1979)の年月日欄に「? 01、02、03はそれぞれ別年の発掘と思われる」と記されている。発掘年、発掘者、収蔵の経緯などを示す情報はなく、出自は不明である。
現在1標本として本館の標本資料報告No.3に登録。
保存資料: なし
今回の再整理作業の途上、草刈場貝塚の人骨標本(UMUT131160)を収めた平箱内より、「古作1」から「古作3」と記された脛骨片3点が発見された。これらは本館の標本資料報告No.3には登録されていない。注記形式の類似から古作01から古作03に属する可能性があるが、確認するための情報はない。今回は新規のUMUT番号を設定せず、「古作1」から「古作3」の3標本として記録した。
保存資料: なし
草刈場貝塚は南の荒屋敷貝塚や台門貝塚とともに貝塚町の舌状台地上に位置し、いわゆる貝塚町貝塚群の一部をなす遺跡である(宍倉,1974、斎木,2000)。かつてはこれら周辺の遺跡とあわせて千葉貝塚、貝塚町貝塚とも呼ばれていた(酒詰,1959)。縄文時代中期から晩期に属するとされ、南北200m、東西180mに広がる環状ないしは馬蹄形の貝塚である(後藤,1974b、西山,1974)。
本貝塚における最初の発掘は、東京帝国大学人類学教室の酒詰仲男・和島誠一・中島寿雄らにより1942(昭和17)年に行なわれている(宍倉,1974、酒詰,2001)。この発掘では人骨の収集を目的とする以外にも、「環状貝塚に一直線に試掘壕を入れて、その貝殻の散布も見られない中央の凹みを調査」するという本邦の貝塚調査において初の試みがなされた(酒詰,2001)。このほか、貝塚の概要は後藤(1974b)がまとめている。
人骨の収集は上記の酒詰らによる1942年の発掘で行なわれた。酒詰の実測図(保存資料)には1号から6号までの人骨が表記されており、さらに甕棺に納められた乳児骨ないしは胎児骨が発見されたという(酒詰,2001)。
本館に収蔵されている標本は、酒詰らの発掘に由来する個体骨5体分と他の部分骨、および由来の明らかでない個体骨1体分からなる。
本館に収蔵されている草刈場貝塚の人骨は以下の標本群からなる。
これらの標本は東京帝国大学人類学教室の酒詰仲男・和島誠一・中島寿雄らにより1942年7月に収集された人骨である。人骨の記載報告はないが発掘報告として酒詰(1951、2001)がある。そのほか、酒詰の実測図(保存資料)、発掘状況写真(人類学教室古写真アルバムNo.3)が本館に収められている。
発掘状況写真には人骨を撮影したものが若干数含まれており、少なくとも2体分の成人骨が見られる。現存する標本との照合は難しいが、今回の評価ではUMUT131161(第2個体)と131163が撮影されているものと判断した。実測図と写真に見られるピットの配置、掘り込みの状況、人骨の形態特徴や残存部位の情報などから判断して、UMUT131161(第2個体)は発掘時の第6号人骨に、UMUT131163は第5号人骨に相当する可能性が高い。
また、草刈場(’42)1(UMUT131159)から草刈場(’42)3(UMUT131161)にはそれぞれ「第一号人骨」から「第三号人骨」と記された紙片が付属している。草刈場(’42)5(UMUT131163)は第5号人骨に相当すると考えられることから、本館での標本名は発掘時の番号に対応するものと考えられる。ただし、前述のとおり第6号人骨は草刈場(’42)3(UMUT131161)の第2個体であると考えられ、草刈場(’42)6(UMUT131164)とは対応しない。
現在6標本として本館の標本資料報告No.3に登録。
保存資料:草刈場貝塚発掘実測図(1942年7月)
人類学教室古写真アルバムNo.3
この標本についての詳細な情報はなく、標本付属の紙片に「学会発掘 草刈場?」と由来が記されているのみである。
現在1標本として本館の標本資料報告No.3に登録。
保存資料: なし
本館に収蔵されている国府ノ台標本は、市川市国府台の丸山遺跡出土とされてきた(遠藤・遠藤,1979)。しかし今回の整理作業においては丸山遺跡とは異なる国府ノ台遺跡に由来する可能性が高いと判断した。下総台地の西南端、江戸川に面したこの地域は、国府台の名の示すとおり下総国府が置かれていたと推定される場所である(堀越,1997a、松本,1998)。古くから下総の中心地であり、古市川湾に面した立地からか、縄文時代においても諸貝塚、須和田遺跡、久保上遺跡など多くの遺跡が確認されている(杉原・戸沢,1971a、堀越,1997a)。丸山遺跡は松戸市との境界近く国府台4丁目で確認され、下記に示す “こうのだい”遺跡よりも南へ1 kmほど離れた国府台1丁目に位置している。“こうのだい”の名称が示す遺跡には3通りの意味合いがある(堀越,1997a)。
第一は「日本貝塚地名表」(酒詰,1959)に記載された国府ノ台である。1948(昭和23)年に酒詰自身が発見した堀之内期の貝塚として報告されたが、現所在地は不明である。堀越(1997a)は記載順序から推測して里見公園の辺りであっただろうとしている。「貝塚に学ぶ」(酒詰,2001)には「昭和24年2月9日 国府台旧練兵場で貝塚らしきもの発見。」との記載がある。酒詰(1959)の記述とは1年ずれているが、前後の記述からこの貝塚が国府ノ台として記された貝塚と推定される。国府台旧練兵場は現在の市川市スポーツセンターに位置していた。
第二は、「千葉県石器時代遺跡地名表」(伊藤,1959a)に記載された国府台である。弘法寺境内に所在する貝塚となっていることから、酒詰(1959)で「市川市真間 弘法寺本堂西側」と記された遺跡と同一である可能性が高い。伊藤(1959a)では加曽利B期の貝塚とされ、酒詰(1959)では土師期とされている。近年、弘法寺の発掘で古墳時代の貝ブロックが発見され、古墳時代遺跡の可能性が高いとされている(堀越、1997a)。
第三は、国府台台地全体を下総国府の遺跡として捉えた近年での国府台遺跡である。和洋学園地区、弘法寺地区、市営総合運動場地区などと区分される(堀越,1997a)。広い範囲で継続的な発掘調査が行なわれ、弥生から平安時代に渡る巨大な環濠跡や住居跡などが確認されている(松本,1998)。伊藤(1959a)の国府台は国府台遺跡の弘法寺地区に含まれる(堀越,1997a)。
本館に収蔵されている国府ノ台遺跡の人骨と考えられる標本は以下のものからなる。
この標本は成人1個体である。本館の標本資料報告No.3(遠藤・遠藤,1979)では、採集地「千葉県市川市国府台 丸山遺跡」とされ、発掘年は1938(昭和13)年3月と記されている。原記録地名は「千葉県市川市国府ノ台」とあることから、遺跡名、発掘年とも標本に付属する「十三年三月市川市国府台付近にて掘り出せしもの」と記された紙片によるものと思われる。
丸山遺跡は1954(昭和29)年に明治大学考古学研究室により発掘調査が行なわれ、その直後に土採工事により消滅した(杉原・大塚,1955、杉原,1971、杉原・小林,1971)。旧石器および古墳時代の遺跡として報告されており、縄文時代の遺物は確認されていない。しかし、この標本は縄文土器片を伴っており、縄文時代人骨である。さらに、遺跡の発掘年と標本採集年が一致しないなど、この標本を丸山遺跡出土とするには矛盾がある。
標本名の表記が国府ノ台であること、および付随している土器片が主に堀之内期であることから、酒詰(1959)における国府ノ台から出土した人骨であろうと推定される。しかし、標本採集年と遺跡発見年は異なっており、文献に人骨が出土したとの記載もない(酒詰,1959、2001)。
なお、この標本には上述の紙片の他、「石器時代後期人骨(加曽利B式)」と記された紙片が付属している。しかし、土器片は堀之内期が中心であり、この紙片は他標本からの混入か土器時期を誤って記入したものと思われる。
現在1標本として本館の標本資料報告No.3に登録。
保存資料: なし
房総半島南部は三浦半島と並び、海食洞穴遺跡が特に集中している地域として知られている(岡本・赤星,1967、千葉大学文学部考古学研究室,2000a)。その中でも守谷海岸付近の洞穴群(荒熊洞穴、蝙蝠穴洞穴、本寿寺洞穴、弁天崎洞穴)は富山県大境洞窟や神奈川県鴨居鳥ヶ崎洞窟などと共に、日本の洞窟遺跡研究の端緒となった遺跡群である(人類学雑誌の雑報,1925、大場,1934)。ここでは、これらを一括して守谷・興津海食洞穴群とした。以下、各遺跡の概要を記す。
荒熊洞穴遺跡は1924(大正13)年8月に江上波夫により発見された(人類学雑誌の雑報,1925、江上,1926、八幡,1963、江上,1985)。同年11月2日、江上の案内で東京大学人類学教室の小金井良精・山崎直方・松村瞭・甲野勇・八幡一郎らが守谷海岸付近を踏査した(八幡,1963)。本館には、八幡による踏査の様子を写した写真(人類学教室古写真アルバムNo.175)が保存されている。関東大震災による海岸の隆起が発見に繋がったこともあり、地理学者の山崎直方は洞穴内の堆積層の層序に強い関心を示し、先史時代の陸地昇降の過程を推察している (山崎,1925a、1925b、江上,1985)。ついで、同年11月中旬、内務省史跡調査員であった柴田常恵・田沢金吾により発掘が行なわれた(千葉県,1926b、大場,1934、岡本・赤星,1967)。さらに、同年12月6日から9日には東京大学人類学教室の松村・甲野・八幡により発掘された(八幡,1963)。近年では、2000(平成12)年5月に千葉大学考古学研究室により、改めて測量調査が実施されている(千葉大学文学部考古学研究室,2001)。本遺跡は発見当初には守谷海岸洞窟、守谷洞穴などと呼ばれていたが、後に同じ湾内に蝙蝠穴、本寿寺の洞穴が発見されたため、荒熊洞穴の呼称が主に使用されてきた(江上,1926)。他に小浦洞穴、畑尻洞穴の異名もある(酒詰,1959、江上,1996、千葉県文化財センター,2003)。近年の南房総における海食洞穴遺跡分布調査に関する報告では、守谷洞穴または近接する二つの洞穴と共に守谷海食洞穴群と表記され、遺跡が属する時代区分は縄文時代から中世とされている(千葉大学文学部考古学研究室,2000a、千葉県文化財センター,2003)。
いずれの発掘調査においても人骨出土の報告はない(山崎,1925a、1925b、千葉県,1926b、八幡,1963)。大場(1934)には荒熊洞穴について「房総資料に人骨十二と陶器二個を出したと記載せられてゐる洞穴も恐らく同一のものであろう」と記されているが、その文献資料を特定することができない。
蝙蝠穴洞穴は荒熊洞穴と同じ守谷湾の対岸に位置している。1924年12月の東京大学人類学教室による荒熊洞穴の調査時に発見されたようである(江上,1926)。1926(大正15)年夏に江上が調査し、小金井が視察に訪れている(江上,1926)。翌1927(昭和2)年9月には江上と増井経夫が発掘調査を行なった(増井,1927)。近年では、千葉大学考古学研究室により2000年5月に測量調査が、2001(平成13)年と2002(平成14)年に発掘調査が行なわれた(千葉大学文学部考古学研究室,2001、2002、2003)。弥生時代の卜骨が30点以上も出土し、外房地域での卜占習俗を探る資料として注目されている。なお、近年の報告ではこうもり穴と表記され、遺跡が属する時代区分は縄文時代後期、および弥生時代後期から古墳時代前期とされている(千葉大学文学部考古学研究室,2002、千葉県文化財センター,2003、千葉大学文学部考古学研究室,2003)。
人骨については1927年の江上と増井による調査において屈葬人骨一体の出土が報告されている(増井,1927)。千葉県文化財センター(2003)には、この人骨が本館に収蔵されているとの記述があるが、現在のところ該当する標本は確認されていない。2001年の千葉大学考古学研究室の調査においても人骨が出土したようであるが、詳細は報告されていない(千葉大学文学部考古学研究室,2002)。
同じ守谷湾にある荒熊洞穴、蝙蝠穴洞穴が海岸沿いであるのとは異なり、本寿寺洞穴は180mほど内陸に位置している。1926年夏に江上が発見して調査し、小金井が視察に訪れたようである(江上,1926)。さらに翌年9月に江上と増井で発掘を行なっている(増井,1927)。1999年および2000年に千葉大学考古学研究室により再び発掘調査が行なわれた(千葉大学文学部考古学研究室,2000a、2001、千葉県文化財センター,2003)。外房地域で初となる卜骨が出土し、卜骨で名高い三浦半島の海食洞穴遺跡との関連が興味を持たれる。なお、遺跡が属する時代区分は縄文時代後期から奈良時代とされている(千葉大学文学部考古学研究室,2003)。
人骨は1926年の江上による調査で腓骨1個が発見されている(江上,1926)。その後、1999年の調査で古墳時代に属すると思われる頭骨と大腿骨が、2000年の調査では時期不明の頭骨、肋骨、脛骨などの骨片が出土したと報告されている(千葉大学文学部考古学研究室,2000b、2001)。
弁天崎洞窟は荒熊、蝙蝠穴、本寿寺洞穴のある守谷湾に隣接する興津湾にあり、荒熊洞穴と同じく1924年8月に江上により発見された(江上,1926)。同年11月の東京大学人類学教室による守谷海岸の踏査時に、弁天崎洞穴の探査も行なわれている(山崎,1925a、1925b、江上,1926)。さらに、1926年夏に江上が、翌年9月には江上と増井が発掘を行なった(江上,1926、増井,1927)。後に弥生人骨の採集を目的として日本医科大学の横尾安夫により調査されたというが、詳細は不明である(江上,1996)。なお、遺跡の属する時代区分は弥生時代から奈良時代とされている(江上,1926、千葉大学文学部考古学研究室,2003)。
人骨に関する記述としては、1924年11月の東京大学人類学教室による探査で「人類の大腿骨の欠片が露出して附近に横たはつてゐた」(山崎,1925a、1925b)とあるが、人骨を収集し持ち帰ったのか不明である。1926年の江上による調査では脛骨と大腿骨が出土し、小金井に託したと記されているが(江上,1926)、現在のところ所在が不明である。さらに、1927年の江上と増井の調査で頭蓋骨、歯牙、四肢骨など、散乱した状態で多量の人骨が出たと記載されている(増井,1927)。
本館における守谷・興津海食洞穴群の人骨は計5標本の断片骨である。下記に示すとおり、個々の標本は各遺跡、各調査、および文献の記述内容との対応が多くは不明であり、これらの標本が縄文時代人骨であると見なすべき根拠はない。
本館に収蔵されている守谷・興津海食洞穴群の人骨は以下の標本群からなる。
本館の標本資料報告No.3(遠藤・遠藤,1979)によると、原記録地名「上総国」、採集地「千葉県勝浦市興津 興津遺跡」と記されている。上総国との表記は蝙蝠穴標本の原記録地表記と共通し、興津と蝙蝠穴の双方が同時期に採集された可能性がある。また、興津遺跡との表記は、守谷海岸の洞穴群が一時期は興津洞窟遺跡と呼ばれていたことに由来すると思われる(人類学雑誌の雑報,1925)。本館に保管されている1924年12月の荒熊洞穴発掘の際に撮影された写真(人類学教室古写真アルバムNo.105)の表題も「上総興津洞窟遺跡」と記されている。
標本に付属する紙片には「東京市外松○村上北沢八七七 江上波夫君」と書かれ、守谷・興津海食洞穴群のおおまかな位置関係が図示されている。江上は洞穴群発見当時、関東大震災により被災して「中野の祖父の家に身を寄せた」(江上,1985)とあり、紙片に記された住所にほど近い。図の筆跡が江上(1926)と酷似していること、本寿寺洞穴が図中に示されていることから、江上自身が1926年夏の発掘調査後に遺跡の場所を図示したものであろうと推測される。この紙片が付属することからは、興津標本が1926年夏の江上による調査で蝙蝠穴、本寿寺、または弁天崎洞穴から出土した人骨であろうと示唆される。しかし、採集地として記録されている興津遺跡の呼称が使用されたのは文献上では1926年以前のようであり、人骨出土は1924年から1925年であった可能性もある。
今回の再整理作業において新たに特定された下記の興津荒熊標本は、1924年12月の東京大学人類学教室による荒熊洞穴での発掘に由来すると推定された。これらの標本内容と平箱ラベル、および八幡(1963)の記述から、興津標本も同時期に荒熊洞穴から発掘された可能性がある。ただし文献には興津標本に該当すると思われる人骨出土の記述はない(山崎,1925a、1925b、江上,1926、増井,1927、八幡,1963、江上,1985)。
現在1標本として本館の標本資料報告No.3に登録。
保存資料: 人類学教室古写真アルバムNo.105
今回の再整理作業において「興津(獣骨)」と記された平箱を新たに特定した。ヒトの左上腕骨片と複数の動物骨が収められ、付属紙片には「大正十三年十二月 千葉 興津洞窟発掘獣骨 牛他 年代不明」と記されている。標本内容、付属紙片の情報、および八幡(1963)の記述から判断して、これらの標本は1924年12月の東京大学人類学教室による荒熊洞穴での発掘に由来するものと思われる。なお、上記のように興津標本も同時期に荒熊洞穴から発掘された可能性がある。
本館の標本資料報告No.3には登録されていない。ここでは上記の左上腕骨片を、新規のUMUT番号を設定せず「興津荒熊」の1標本として記録した。
保存資料: 人類学教室古写真アルバムNo.105
本館の標本資料報告No.3(遠藤・遠藤,1979)によると、原記録地名が「千葉県勝浦市」と記されている。勝浦町から勝浦市となったのは1958(昭和33)年のことであるから、後に守谷海岸付近から出土した人骨とも考えられる。しかし、標本に「ナガトロ」と注記された礫と、岩石の名称とともに「大正十五年三月二十九日 山崎直方教授室ニ於テ」と書かれた紙片が付属している。これらはこの標本と直接の関係はなく後から混入したものと思われるが、標本が1926年前後に採集された可能性を窺わせる。また、後述の蝙蝠穴標本には他標本から混入した「上総国守谷海岸鉄道布設工事ノ際地表ヨリ四.五尺ノトコロ 断面ヨリ出○ル人骨 全体アリ ○五年八月」と記された紙片がある。記述内容と標本名が共通する点から守谷海岸標本のものである可能性が高い。紙片の日付は1926年の江上による調査時期と重なるが、文献にこの標本に該当すると思われる人骨出土の記載はない(江上,1926、増井,1927)。
現在1標本として本館の標本資料報告No.3に登録。
保存資料: なし
本館の標本資料報告No.3(遠藤・遠藤,1979)によると、原記録地名は「上総国守谷」とされている。上総国の表記は興津標本と共通し、興津と蝙蝠穴の双方が同時期に採集されたと思われる。標本には「上総国夷隅郡 カウモリ穴洞窟 土器片 土塊 大正十五年八月」、および「上総国守谷海岸鉄道布設工事ノ際地表ヨリ四.五尺ノトコロ 断面ヨリ出○ル人骨 全体アリ ○五年八月」と同じ筆跡で記された二つの紙片が付属している。標本の状態から前述の紙片が蝙蝠穴標本に付属するもので、後述の紙片は他標本から混入したと同定される。紙片の日付から1926年夏の江上による調査で蝙蝠穴洞穴より出土した人骨と考えられるが、文献に人骨出土の記述はない(江上,1926)。
また、この標本は頭骨、上腕骨、大腿骨の骨片のみであることから、1927年の江上と増井による調査において発見された屈葬人骨には該当しない(増井,1927)。
現在1標本として本館の標本資料報告No.3に登録。
保存資料: なし
本館の標本資料報告No.3(遠藤・遠藤,1979)によると、採集地は「千葉県勝浦市興津 興津遺跡?」とされ、原記録地名は不明である。標本名から弁天崎洞穴出土の人骨と考えられる。文献では1924年の東京大学人類学教室による踏査時に大腿骨片を洞内に確認したことが記され、1926年の江上による調査で脛骨と大腿骨が、翌年の江上と増井による調査で大量の散乱人骨が出土したと報告されている(山崎,1925a、1925b、江上,1926、増井,1927)。しかし、本標本は頭骨、上腕骨、脛骨の骨片1個体分のみであり、文献の記述とは部位や量が一致しない。いずれの調査によって採集された人骨であるか同定できない。
現在1標本として本館の標本資料報告No.3に登録。
保存資料: なし
曽谷貝塚は南北240m、東西210mに広がる不連続な馬蹄形貝塚であり、単独の馬蹄形貝塚としては本邦で最大級の規模を誇る。また、山内清男(1937、1939-1941)が提示した曽谷式土器の標式遺跡として有名である。本貝塚が属する時代区分は主として縄文時代後期とされている(堀越,1997b、2000a)。
曽谷貝塚の初期の遺跡実査としては1883(明治16)年11月25日の佐藤勇太郎・坪井正五郎・澤井廉・斎藤賢治によるものがあり(坪井,1904)、その後、1893(明治26)年に山崎直方・佐藤伝蔵により初の発掘が実施された(山崎,1893)。また、明治末から大正初めにかけて高橋百太郎・中澤澄男・柴田常恵らにより盛んに発掘が行なわれたというが(堀越,1997b)、成果は報告されていない。本貝塚の学史的意義は堀越(1997b、2000a)に詳しい。
文献で確認できる人骨の収集は1935(昭和10)年の大場磐雄の調査に始まる(大場,1936)。大場は國學院大學上代文化研究会の発掘遠足に際して2体の人骨を得ている。また、1950(昭和25)年の東京大学人類学教室の鈴木尚・山内清男・酒詰仲男らによる発掘では、d地点から人骨1体が発見されている(土曜会,1950)。このときの酒詰仲男による調査記録(人類学教室酒詰仲男調査報告、日録7)と人骨の出土状況写真等(保存資料)が本館に収められているが、これに相当する標本は現在のところ確認されていない。その後、1959(昭和34)年の杉原荘介を中心とする明治大学考古学研究室、1960(昭和35)年の早稲田大学考古学研究室の菊池義次・金子浩昌ら、1962(昭和37)年の杉原荘介ら明治大学考古学研究室、1965(昭和40)年の千葉県教育委員会・早稲田大学考古学研究室の平野元三郎・滝口宏・江崎武、1974(昭和49)年から1977(昭和52)年にわたる杉原荘介を中心とする曽谷貝塚発掘調査団によって、人骨の収集が行なわれた(戸沢,1964、杉原・工楽,1967、平野・江崎,1970、杉原・戸沢,1971c、堀越・田川,1975、馬目,1976、堀越,1978)。以上の発掘による出土人骨数はおよそ20体分と推算され、そのうちの15体は成人の埋葬骨、その他は幼児骨や部分骨である。
上記のうち本館に収蔵されている標本は、1959年と1962年の明治大学考古学研究室および1974年の曽谷貝塚発掘調査団の発掘によるものである。このほか、1906(明治39)年に収集されたと思われる1標本が収蔵されているが、該当する発掘報告は見当たらない。これらは成人の埋葬骨9体とその他の幼児骨や部分骨からなる。
本館に収蔵されている曽谷貝塚の人骨は以下の標本群からなる。
この標本に関する文献は見当たらないが、標本付属の紙片に「東葛飾郡曽谷村貝塚 明治三十九年十月二十九日」、標本自体に朱書きで「曽谷」もしくは「東葛飾郡曽谷」と由来が記されている。この表記から判断して、本標本は文献記録にはない1906年の発掘、採集に由来する可能性が高い。
現在1標本として本館の標本資料報告No.3に登録。
保存資料: なし
これらの標本は1962年の10月から11月にかけて明治大学考古学研究室により発掘された人骨である。人骨の記載報告はないが発掘報告として杉原・工楽(1967)と杉原・戸沢(1971c)がある。発掘に際して貝塚を横断する全長230m、幅2mのトレンチが設定され、貝塚南東部の7区から埋葬骨2体、9区から埋葬骨1体、貝塚南西部の16区から人骨片、17区から埋葬骨3体および頭蓋骨が出土した(杉原・戸沢,1971c)。これらの人骨は縄文時代後期中葉に属するものとされている(堀越,1997b)。ただし南西部16区の人骨片については時代記載がない。
現在7標本として本館の標本資料報告No.3に登録。
保存資料: なし
これらの標本は1974年の8月から9月にかけて、杉原荘介を団長とする曽谷貝塚発掘調査団により発掘された人骨である。人骨の記載報告はないが発掘報告として堀越・田川(1975)がある。貝塚の南西部、1962年の発掘における16・17区の南西約30m付近のA地点から新生児骨2体が出土している。一方は縄文時代後期初頭、他方は縄文時代後期前葉に属するものとされている(堀越,1997b)。
現在2標本として本館の標本資料報告No.3に登録。
保存資料: なし
これらの標本は1959年5月に明治大学考古学研究室により発掘された人骨である。人骨の記載報告はないが発掘報告として戸沢(1964)がある。調査地点は貝塚の南西部にあたり、第Ⅳ地点から埋葬骨3体、第Ⅶ地点から土器棺葬の胎児骨1体が発見された。前者は縄文時代後期前葉から中葉、後者は縄文時代後期初頭に属するものとされている(堀越,1997b)。本標本は出土人骨のうち成人の埋葬骨2体(第1号および第3号)に当たる(領塚、私信)。
現在3標本として本館の標本資料報告No.3に登録。
保存資料: 篠塚正浩による私信
鹿島川と手繰川に挟まれた印旛沼南岸に面する台地は江原台と呼ばれ、古くから大小の貝塚、土器包含層が点在することが知られていた(八木・下村,1894、八木,1904)。江原台遺跡の名称は元々この台地一帯の遺跡群全体を示していたが(大野,1927)、現在では狭義には曲輪ノ内貝塚を指し、広義には遠部台遺跡、江原台第一遺跡などを含んだ遺跡群の総称として使用されている(横田,1993、菅谷,2000)。台地の西北端に位置する遠部台遺跡は縄文時代の後期中葉から晩期に属し(阿部・遠部台遺跡調査団,2000)、南には吉見台遺跡や千代田遺跡、西方には間野台遺跡、対岸には天神前遺跡と多数の同時代遺跡に囲まれている(横田,1993、阿部・小口,2000、菅谷,2000)。
本遺跡に関する初の個別報告は、永倉(1894)の印旛沼南岸に存在する貝塚のうち第四貝塚として記された紹介文とされている(和島,1939、横田,1993、阿部・小口,2000)。この前後から遺跡ごとに小字によって遠部台、曲輪内等と明確に区分されるようになり、1932(昭和7)年に大山史前学研究所による本格的な発掘調査が行なわれた(池上,1937)。その後、1939(昭和14)年に東京大学人類学教室が調査し(甲野・和島,1939、酒詰・和島,1939、和島,1939)、安行式、加曽利B式、堀之内式土器の層位関係が初めて実証的に把握された(酒詰,1939、和島,1939)。以後、多量の土器を遺跡内局所に集積した土器塚を有する遺跡として広く学界に知られてきた。大山史前学研究所の調査で出土した土器のうち16点は、後に山内清男によって加曽利B式および安行1式の標式資料とされた(山内,1939-1941)。山内は加曽利B2式から安行1式にかけての型式設定にあたり、遠部台遺跡の出土状況に影響を受けたと言われている(菅谷,2000)。1999(平成11)年からは土器塚の形成時期や形成過程の検討を目的として、明治大学を中心とした遠部台遺跡調査団による学術調査と理化学的分析が行なわれている(阿部・小口,2000、阿部・遠部台遺跡調査団,2000)。
いずれの発掘調査においても人骨の出土は報告されていない(池上,1937、甲野・和島,1939、酒詰・和島,1939、和島,1939、阿部・小口,2000、阿部・遠部台遺跡調査団,2000)。
本館には成人骨1個体と部分骨が収蔵されている。
本館に収蔵されている遠部台遺跡の人骨と考えられる標本は以下のものからなる。
本館の標本資料報告No.3(遠藤・遠藤,1979)によると、採集地は「千葉県佐倉市遠辺台 遠辺台貝塚?」とされているが、佐倉市遠辺台という地名はない。標本名から遠部台遺跡出土の人骨と考えると、本館と関連の深い1939(昭和14)年4月に行なわれた東京大学人類学教室の調査で採取された標本である可能性が高い。しかし、文献に人骨出土の記述はない(甲野・和島,1939、酒詰,1939、酒詰・和島,1939、和島,1939)。
現在1標本として本館の標本資料報告No.3に登録。
保存資料:酒詰仲男「貝塚所在地名考 関東地方Ⅲ」(大学ノート)
蕨立貝塚は、直径約100mの範囲で環状に点在する8ヶ所の大規模な貝ブロックからなり(千葉市,1976)、縄文時代中期に属する遺跡とされている(武田,1953、後藤,1974a、古内,2000b)。加曽利貝塚の南東約1.8 kmに位置し、周辺地域には同時代のさら坊貝塚、坂月台貝塚、味噌草野遺跡が分布している。特にさら坊貝塚は同一台地上に立地し、本貝塚と同一の遺跡である可能性が指摘されてきたが(岡崎・石井,1982)、現在では宅地造成のために両貝塚とも大半の旧状が失われている(後藤,1974a、岡崎・石井,1982)。本貝塚の研究史は古内(2000b)がまとめている。
人骨の収集は1951(昭和26)年と1965(昭和40)年の2度の発掘調査により行なわれた。まず1951年には、「千葉市誌」(千葉市誌編纂委員会,1953)編纂の一環としての調査で、武田宗久と千葉市誌編纂委員会等のグループにより個体埋葬骨2体と散乱人骨1体分が発掘された(武田,1953、1955)。1965年には、宅地造成工事に先立ち同じく武田を中心とした調査が行なわれ、個体埋葬骨6体と甕棺葬の幼児断片骨のほか、No.9住居址内から人骨が発掘された(千葉市,1976)。以上の発掘による出土人骨数は少なくとも11体分と推算される。これらの人骨は全て貝ブロックの環状構造の西側半分から出土している(千葉市,1976)。
本館には2標本が収蔵されていたが、現在のところ所在が不明である。
なお、本貝塚の出土人骨は、土器編年により縄文時代中期後葉(加曽利E1期)に属する住居址や大型ピット等の遺構から出土したとされている(千葉市,1976)。
本館に収蔵されていた蕨立貝塚の人骨は以下の標本からなる。
本館の標本資料報告No.3(遠藤・遠藤,1979)の年月日欄に「1951」と記されている点から、武田宗久と千葉市誌編纂委員会等のグループによる1951年の発掘に由来すると考えられる。人骨の記載報告はないが、発掘報告として武田(1953、1955)がある。登録されている2標本の所在は現在のところ不明であり、各標本が個体埋葬骨2体と散乱人骨1体分のいずれに相当するのかは明らかでない。
現在2標本として本館の標本資料報告No.3に登録。
保存資料: なし
山崎貝塚は約130m四方の広がりをもつ馬蹄形貝塚であり、縄文時代中期から晩期にわたる土器が確認されている(飯塚,2000)。
本貝塚の存在を学界に初めて報告したのは若林勝邦(1892)と考えられる。若林は関東地方において15ヶ所の貝塚を発見し、それらの所在を紹介した中で、「下総国東葛飾郡山崎村溜台」と記した遺跡が現在の山崎貝塚とされている(飯塚,2000)。1927(昭和2)年には東京人類学会が遠足会を行なっており、その成果を八幡一郎(1927)が報告した。このときの発掘風景や出土土器を撮影したものと考えられる写真(人類学教室古写真アルバムNo.6)が本館に収められている。本貝塚の研究史は飯塚(2000)がまとめている。
人骨の収集は、1960(昭和35)年5月の麗澤高校歴史同好会、および同年11月から12月にわたる藤原音松・伊藤隆吉を中心とする麗澤・成蹊両大学の発掘調査により行なわれた。麗澤高校歴史同好会により得られた人骨は東京大学人類学教室の鈴木尚が鑑定を行ない、頭骨、手指骨、橈骨、右大腿骨からなると判定された。麗澤・成蹊両大学の調査では、鈴木尚と佐倉朔の指導のもと、住居址内から伸展位の個体埋葬骨1体、散乱人骨、甕棺葬の乳児骨が発掘された(伊藤・桜井,1963)。以上の発掘による出土人骨数は少なくとも4体分と推算される。
本館には上記のうち麗澤・成蹊両大学の発掘による人骨が収蔵されている。これらは成人の個体骨1体、胎児ないし乳児骨1体、その他の部分骨からなる。
本館に収蔵されている山崎貝塚の人骨は以下の標本からなる。
この標本は1960年の11月から12月にかけて麗澤・成蹊両大学の合同調査により発掘された人骨である。人骨の発掘報告と記載報告として伊藤・桜井(1963)がある。報告では個体埋葬骨、散乱人骨、乳児骨と個々に記載されているが、標本はひとつの平箱内で混在し、保管されていた。今回の再整理作業では伊藤・桜井(1963)の人骨写真に基づいて再区分し、個体埋葬骨をUMUT131828、散乱人骨を一括してUMUT131828(第2個体)、乳児骨をUMUT131828(第3個体)として記録した。
伊藤・桜井(1963)では、出土土器は中期のものが6割、後期のものが4割であると報告されていることから、上記の人骨が属する時代区分は縄文時代中期から後期であると推測される。また、乳児骨が納められていた甕棺は縄文時代後期中葉(加曽利B期)のものとされている。
現在1標本として本館の標本資料報告No.3に登録。
保存資料: なし
本館収蔵の標本に千葉県夷隅郡長者町三門の洞窟から出土したとされる人骨がある。夷隅郡長者町三門は現在の夷隅郡岬町長者地区大字三門に相当する(岬町,1983)。三門には横穴墓を中心に多くの遺跡が知られているが(文化庁文化財保護部,1974、千葉県文化財センター,2003)、長者町という名称の遺跡は報告されていない。人骨については近年の千葉県文化財センターの調査により東前横穴群で複数の個体骨が発見されている(千葉県文化財センター,2003)。
本館に収蔵されているのは少なくとも6体分からなる断片骨である。ここでは遺跡名を仮に「長者町」と呼称することとした。
本館に収蔵されている長者町の人骨と考えられる標本は以下のものからなる。
標本付属の紙片に「千葉県夷隅郡長者町三門 国道建設中に発見したもので、地下7mの洞窟の中にあったもの」と由来が記されている。夷隅郡長者町は1961(昭和36)年8月1日をもって太東町と合併し、夷隅郡岬町となった(岬町,1983)。紙片に「長者町」と記されている点から、人骨の収集時期は少なくとも1961年8月1日以前に遡るものと思われるが、長者地区大字三門のいずれの遺跡から出土したかは不明である。本館では縄文時代人骨として保管されてきたが、縄文時代に属するという確かな根拠はない。
本館の標本資料報告No.3には登録されていない。今回は縄文時代に属する可能性もあるとみなし、新規のUMUT番号を設定せず、「長者町」の1標本として記録した。
保存資料: なし
台門貝塚は北の荒屋敷貝塚や草刈場貝塚とともに貝塚町所在の舌状台地上に位置し、いわゆる貝塚町貝塚群の一部をなす遺跡である(後藤,1974c)。貝層部は馬蹄形を呈していたとされるが、現在では宅地化のためにその大半の旧状が失われている(古内,2000c)。現在までに縄文時代中期から晩期にわたる土器が確認されている(伊藤,1959a、酒詰,1959、後藤,1974c、千葉市,1976)。かつては千葉貝塚、貝塚町貝塚、貝殻ベタ貝塚、浜ベタ貝塚と呼ばれ(酒詰,1959)、周辺地域の貝塚とともに1872(明治5)年より石灰利用の目的で地元の人々に採掘されていたという(上田,1887)。
本貝塚では1947(昭和22)年に酒詰仲男が踏査を行ない(宍倉,1976、酒詰,2001)、その後、武田宗久が「千葉市誌」(千葉市誌編纂委員会,1953)で紹介したことにより、その存在が一般に知られることとなった。本貝塚の研究史は古内(2000c)がまとめている。
本貝塚において縄文時代人骨が収集されたという報告はない。酒詰仲男は「日本貝塚地名表」(1959)でヒトが出土した旨を記しているが、その所属時代についての情報はない。
本館には部分骨1体分が収蔵されている。
本館に収蔵されている台門貝塚の人骨と考えられる標本は以下のものからなる。
頭蓋骨の内側に「堀内式 一九五七・十一・二十三 内田文宏(72) 五一〇七 千葉貝塚町台門」と由来が記されている。人骨の発掘報告と記載報告はともになく、また本館の標本資料報告No.3には登録されていない。今回は新規のUMUT番号を設定せず、「台門」の1標本として記録した。
保存資料: なし
本館に収蔵されている人骨に「千葉県松戸貝塚」と記された標本がある。千葉県内には松戸貝塚という名称の遺跡は見当らない(東京帝国大学,1928、伊藤,1959a、酒詰,1959、文化庁文化財保護部,1974)。今回、整理作業の一環として行なった調査では、松戸市の紙敷貝塚に由来する可能性が高いことが判明した。
紙敷貝塚は堀之内貝塚のある国分谷の奥、紙敷支谷沿いの台地に位置している。周辺には小谷を挟んで西方に中峠貝塚、支谷の北岸には河原塚貝塚、東南方には西金楠台遺跡など、縄文中期を中心とした著名な遺跡が密集している(可児・増田,1951、堀越,1998)。遺物の分布範囲は南北約260m、東西約170mにおよぶとされ、松戸市では珍しい大規模な馬蹄形貝塚であろうと目されている(大村,2000)。貝塚の形成時期は阿玉台期と加曽利E期を中心とした縄文中期初頭から後期中葉とされている(湯浅,1971、湯浅・小山,1984、堀越,1998)。
地元で古くから知られていたこの貝塚は、1949(昭和24)年秋の姥山貝塚発掘調査の折に湯浅喜代治が酒詰仲男に教示したのを契機として、その存在が学界へと広まった(大村,2000)。酒詰は翌1950(昭和25)年3月に現地を訪れ実査し、立派な馬蹄形貝塚であることを確認したという(川上ほか,1950、湯浅,1971)。同年5月と11月に酒詰に薦められた都立江北高校郷土部が発掘調査を行なった(可児・増田,1951)。さらに江北高校とは別に同年5月、酒詰仲男・川上聡・廣瀬榮一・岡田茂弘らが試掘している(川上ほか,1950)。
人骨の出土については、1949年に貝塚部分からやや東方の畑地が天地返しされた際に、土器を被せた、いわゆる甕被葬の頭蓋骨が報告されている(湯浅,1971)。発見者から引き取った1~2年後に湯浅自ら東京大学人類学教室に赴き、鈴木尚に手渡したという(保存資料)。また、1949年には宅地建設の際に人骨が3、4体出土し、翌年の都立江北高校郷土部による発掘では頭蓋骨片一個が採集されている(可児・増田,1951)。
本館に収蔵されている成人頭蓋骨一個体は1949年に畑の天地返しにより出土し、湯浅から鈴木へと預けられた人骨であろうと思われる。人骨の年代は被されていた土器が加曽利E式であることから縄文時代中期と考えられる(湯浅・大村,2001)。
本館に収蔵されている紙敷遺跡の人骨と考えられる標本は以下のものからなる。
本標本は1970(昭和45)年度の時点では、他時代の頭骨標本数点とともに国立科学博物館へ継続貸し出中であったことが事務記録から確認できる。また、1960(昭和35)年頃から貸し出していることを鈴木尚に確認した旨、高橋昌子により付記されている。国立科学博物館の地学研究部常設展示において縄文時代人骨として長年展示された後、2003(平成15)年に本館に返却された。長らく鈴木の元で管理・運営されていた標本であり、本館の標本資料報告No.3にも登録されていない。鈴木が東京大学人類学教室講師に就任したのは1943(昭和18)年のことであるから、本標本はそれ以後に鈴木が入手したものと推測される。標本箱に「千葉県松戸貝塚」と記されているのみで、由来に関する記録は付随していない。出土状況時の写真などもなく、本標本が紙敷貝塚人骨であるのかどうかを厳密に検証することはできない。しかし、鈴木尚が深く関与していたこと、推測される入手時期と人骨の出土時期に矛盾がないこと、標本の保存部位と出土部位の一致、さらに標本名松戸貝塚が貝塚所在地を示唆することを鑑み、本標本は1949年に畑の天地返しにより紙敷貝塚から出土した人骨である可能性が高いと判断される。2005(平成17)年3月には湯浅喜代治とともに標本の確認を試みた(保存資料)。発見時には紙敷頭骨は破片となっていたとのことであり、本標本は破片から修復されている。半世紀前の事柄であるのに加え、復元された状態のため明言できないが、松戸貝塚標本はおそらく湯浅が鈴木に託した人骨だろうとのことであった。
今回は新規のUMUT番号を設定せず、標本名を「松戸貝塚」の1標本として記載することとした。
保存資料: 佐宗亜衣子による松戸貝塚標本調査記録
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2000 日本の遺跡 千葉県遠部台遺跡 縄文時代後期の「土器塚」と呼ばれる大量の土器集積層を形成する規模の大きな集落遺跡.考古学研究 47:118-120.
2000 遺跡研究の目的と方法を考える -千葉県遠部台遺跡における縄文時代後期の土器塚の形成過程の解明を主題とした調査研究の事例から-.駿台史学 110:127-162.
2000 山崎貝塚.千葉県史料研究財団編「千葉県の歴史」資料編 考古1(旧石器・縄文時代) 県史シリーズ 9,pp:676-679.千葉県.
1934 最近発見の古作貝塚の人骨.史前学雑誌 6:288.
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