政治媒体としての新聞
84. 『大晩報』
上海で発行された抗日派の新聞。一九三二年に中国人曾虚白が創刊した。一九三七年、日本軍による上海占領の当初、抗日派の新聞社は内陸に移るか、あるいは廃刊を余儀なくされた。しかし、上海では占領地域に英米の租借区が含まれていなかったこともあり、抗日宣伝は一時中断しはするが、やがて新たな抗日新聞社がいくつも誕生することになった。日本軍の厳しい検閲の眼を避けるため、抗日新聞社の多くは表向き外商を装い続けた。こうしたなかで生まれたのが『大晩報』であり、『大英夜報』などの抗日新聞なのである。
85.『新申報』
上海で発行された親日派の新聞。日中戦争下の中国には三つの政権があった。蒋介石の重慶における国民政府、溥儀の満州国、汪精衛の南京における新政府である。戦争が膠着状態に陥ったさい、汪精衛は日本政府の指示にしたがって、北京、南京、上海で日本軍の駐兵権を認め、親日傀儡政権をうち立てた。これが「売国」、「漢奸」と弾劾されるゆえんである。『新申報』は「親汪」、「親日」の立場を明確にしている。日本軍による上海占領後、中国語新聞の大半が廃刊を余儀なくされ、『新申報』、『中華日報』、『新中国報』、『国民新聞』など数紙を残すのみとなったが、これらはいずれも親日派と目される新聞である。本紙では日英会談が新段階に入ったと報じられている。
86.『華美晩報』
上海の外国人租界で発行された抗日新聞。アメリカ人ミルズの創刊になる。
87.『大英夜報』
上海の外国租界で発行された抗日派の新聞。一九三九年四月九日天津のイギリス租界で親日派の天津海関監督である程揚庚が殺された。六月一四日日本政府は「天津イギリス租界事件」の犯人の引渡しを英国政府に要求するが、拒否されたため日本現地軍が英仏租界を閉鎖するに至った。七月一五日有田外相と日本駐在英国大使クレーギー(克莱琪)は、天津租界閉鎖について話し合うため、東京で第一回日英会談を行っている。本紙には日英会談について「保持英国権益的両条途径」という社説が掲げられている。英国政府は今回の会談で、英国は中国を支援し、日本に対し経済制裁を行うべきだ、というのがその主張である。
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