南イタリアの大型記念墓と葬祭絵画

シュテファン・シュタイングレーバー


 南イタリアで実証される数多くの墓型には、墓室型、羨道や入口がなく上部を開閉した半墓室型、岩に粗く刳りぬいた洞窟型、石板で組み立てたカッソーネ型、石棺型、溝型、瓦型、瓦を切妻屋根型に組み合わせたカップッチーナ型、子供を陶器に土葬したエンキュトゥリスモス型、また井戸型などがあるが、その中で最も注目されるのは墓室型の墓に他ならない。この最もモニュメンタルで賛沢な墓型は石のブロックで構築されることもあれば、岩盤から刳りぬかれることもあった。その大多数は単室墓であるが、2〜3の墓室が前後か横に、あるいは十字形に並ぶ例証も見られる。Fig.115カノーサの最も大きな地下墓の中には最高で9つの墓室を数えるものもあった。墓室墓のほとんどが羨道と前室を備える。墓のファサードも内部も、構築的な仕上げに、漆喰塗りや彩色が施されることもあった。墓室墓は南イタリアのすべての地域で知見されるが、その分布状況はまちまちである。ターラントには170基以上と、群をぬいて数多くの例証が集中するが、残念なことに今日までその大部分が十分には公表されていない。墓の特に集中する地域は、ダウニア地方ではカノーサとアルピ、ペウケティア地方ではグラヴィーナ、メサッピア地方ではグナティアとルーディエ、カンパーニア地方ではカプア、クマエ、ナポリ、ルカーニア地方ではパエストゥム、そしてブルッティウム地方ではレッジョ・ディ・カラブリアであった。この墓型は植民ギリシア人とイタリ諸種族双方のネクロポリスに見出され、都市域にも、あるいは孤立して小さな集落や農場の付近にも分布した。墓室墓が一番集中するのはヘレニズム初期であるが、それは建築において全般的に大きな変化が見られた時代でもあり、モニュメンタル化の傾向が顕著である。墓室墓は、その後もヘレニズム盛期を通じて、また場合によっては同末期にいたるまで造られていった。ただしエトルリアのネクロポリスとは対照的に前4世紀半ばにさしかかる時期には比較的僅かな数の例証しか見られない。アルカイック時代の例証としては、カンパーニア地方のカプア、クマエ、ポンテ・カニャーノ出土の幾つかの墓の他、前6世紀末から前5世紀初めの数十年にわたるターラント出土の一連の墓が挙げられる。このターラント出土の墓群は、全アテネ祭の賞品のアンフォラといった副葬品からも明示されるように、貴族の競技者同盟の関係者専用であった。ターラントにおけるこれらのアルカイック後期の墓室墓は、ほとんどの場合、下部は岩盤から到りぬかれ、上部は最高2メートルもの長さに達する大きな石灰岩種のブロックで構築されており、切妻屋根、ドーリス式の円柱あるいは角柱、また土葬用の石棺に特色付けられた。カンパーニア地方(特にカプア)の墓室墓が初期の段階で、文化的、歴史的な背景からもエトルリアの手本から影響を受けている可能性があるのに対し、この時代のターラントの墓群は南イタリアではまさに類例を欠き、ターラントにおいてすら直接の継承例は欠如している。前480/470年以降、このような墓がほとんど見られなくなったことは、寡頭政治体制が終わりを告げ、その結果ターラントが政治的に民主化したこととも勿論関係するに違いない。前5世紀後半から前4世紀前半にかけては、ペウケティア地方のグラヴィーナとダウニア地方のカノーサに幾つかの大型墓が現れるが、その墓型はプーリア地方ですでに普及していた土着の洞窟型と墓室型とのちょうど中間に位置付けられる。墓室墓は前4世紀後半からようやく全盛する。とはいえそれらの墓は今日においても南イタリアのネクロポリスでは例外であるか少数例にすぎないことから、植民ギリシア人、イタリ人を問わずそれぞれの地域の文化的に非常にヘレニズム化された社会上層階級の人々だけに保留されていたことは自明である。彼らは軍人や高級公職者として、あるいは大土地所有者(穀物栽培や家畜の飼育)や国際交易者として傑出した地位を築いたのであった。盗掘をまぬがれ、まだ墓から出土する副葬品の数量や質も、これらの貴族墓に葬られた被葬者達の社会的に高い身分を強調している。前述のように南イタリアにおいては、類型的に異なるとはいえ墓室墓の先例が散発的に現れている。しかし最後に挙げた貴族墓の墓型はヘレニズム初期のギリシア文化圏から導入された新しい型と見なすべきであり、南イタリアの土着の例証から進化してきタイプとは据えがたい。ヘレニズム初期におけるプーリア地方とカンパーニア地方の特に半円ヴォールト天井を備える墓には、このようなギリシア(この場合は主にマケドニア)からの影響が顕著である。Fig.113Fig.123、124Pl.44Pl.51

 ここで特に注目されるのは南イタリアの葬祭絵画である。これはまだ余りよく知られていないとはいえ、ローマ以前のイタリアにおいては、エトルリア葬祭絵画に次ぐ古代絵画の集合体である。彩色装飾墓は南イタリアの広い地域に散在したが、その分布図からは、特にナポリ湾、サレルノ湾、またターラント湾の各周辺域および後背地に集中していることが明示される。すなわちダウニア地方ではアルピとカノーサ、ペウケティア地方ではモンテ・サンナーチェ、メサッピア地方ではグナティアとルーディエ、ターラントー帯ではターラント都市域、カンパーニア地方ではナポリとカプア、またルカーニア地方ではパエストゥムが重要中心地となる。Fig.114、116Pl.47-50Fig.120-123Fig.126-146中でもパエストゥムでは、南イタリアで最多の約130基にもおよぶ彩色装飾墓が発見されている。葬祭絵画のほとんどの例証は土着のイタリ諸種族の中心地で発見されているが、南イタリアのギリシア植民都市の中では、ターラントとナポリにおいてのみ例外的にかなりの出土例が記録される。他方、ローマ人ないしラテン人の新植民都市ではそのような現象は全く見当たらない。したがってこれらの葬祭絵画は、主として土着のイタリ諸種族(特にカンパーニア、ルカーニアおよびプーリア地方)によって継承されていった現象と理解される。時代的には、前6世紀から前5世紀への移行期から前2世紀後半にいたるほぼ4世紀余りめ期間であり、前4世紀後半から前3世紀前半にかけて全盛を極めたのである。この中で最も古いアルカイック後期の葬祭絵画はターラント(装飾文、植物文のみ)およびカプアとパエストゥム(画像入り)で発見されているが、一番年代が下るのはターラント出土の前2世紀の例証である。南イタリアの前7−6世紀のネクロポリスでは、エトルリアや小アジアなどとは異なり、まだ葬祭絵画は知られていなかったことが確認される。したがって葬祭絵画の現象はアルカイック後期の前500年頃に、一方ではギリシア植民都市ターラントから、もう一方ではエトルリア化されたカプアから周辺地域へ普及していったと見られるが、それに引き続くクラシック期には継続された発展はほとんど見られなかった。前390/380年頃に他の地域に先がけて始まったルカーニア地方パエストゥムの葬祭絵画に続いて、前4世紀半ばを過ぎるとこの現象は南イタリアの広範な地域で堰を切ったように全盛した。しかし葬祭絵画は、前3世紀半ばにはローマ化の進行とともにかなり急速に衰徴消滅し、政治的独立を失ったとはいえ文化的には重要性を保ち続けたギリシア植民都市ターラントにおいてのみ引き続き繁栄を享受したのである。南イタリアの葬祭絵画の最盛期はすなわち、マケドニア、トラキア、南ロシア、アレクサンドリアなど、ギリシア文化の他の辺境地域においても同様の繁栄が見られた時期に一致する。エトルリアなどとは対照的に、南イタリアの絵画は墓室墓だけではなく、半墓室型、石棺型、カッソーネ型、溝型など他のもっと単純な類型の墓をも装飾している。彩色装飾のある半墓室型および溝型の墓はほとんどプーリア地方でのみ発見されるのに対し、やはり彩色装飾されたカッソーネ型の墓の多くはカンパーニア地方とパエストゥムを中心にルカーニア地方で出土している。また南イタリアでは、画像入りの絵画が最も多く発見されるのはカッソーネ型の墓なのである。

 南イタリアの葬祭絵画の豊富なイコノグラフィーは、構築モチーフ、装飾文モチーフ、植物/花文モチーフ、武具/家具/什器などのモチーフ、また画像入りモチーフと、大きく5つの主要グループに分けられる。画像入りモチーフはさらに動物、神々や神話に登場する架空の生き物、また人像入りの情景に分けられる。画像入り絵画は一般的には、パエストゥム地域とカンパーニア地方北部の若干の中心地に集中していることから、その大部分が東イタリ/サムニウム諸種族のネクロポリスからの出土である。それに対し、プーリア地方の墓では構築および植物文モチーフがまさに優勢である。南イタリアの葬祭絵画では、ギリシア神話の情景はほとんど重要視されなかったと見られ、主題的には、馬車競走、格闘技、拳闘、武装しての決闘など、故人を記念して行われた葬祭競技に重きが置かれていた。男性被葬者の墓の主題としては、狩猟、また騎手や戦士の描かれた情景が挙げられるが、中でも被葬者を凱旋する戦士として称揚し英雄化した“戦士の帰還”のモチーフは最も特徴的である。他方、女性被葬者の墓に典型的であるのは、プロテシス(遺体安置場面)や哀弔、また故人が化粧をしたり糸を紡いだりする、婦人特有の家庭の情景を描いたものであった。この他にも幾つか、明らかに彼岸への旅が象徴されたと見られる情景が例証される。前330/320年頃のパエストゥムのある墓では、同時代の出来事を恐く意図的に示唆したと思われる情景に遭遇する。それはパエストゥムのルカーニア人と、モロッソイ族の王アレクサンドロスに率いられたターラント人との戦闘の図と想定されるが、その戦いで被葬者は戦没したのである。新しい出土を通じて例証数を増やし続けている南イタリアの葬祭絵画は、若干のケースでは類例を欠くまさに独特な現象であり、今後ともまだまだ新しい証言をもたらす可能性に大きな期待がよせられる。    (訳:大槻 泉)

 前1千年紀、よく知られるように南イタリアは起源もレベルも実に多様な数多くの民族や文化に特色付けられた。これらの民族や文化は、時には軍事紛争、また時には実り多い文化交流というように様々なかたちで接触し相互に影響を及ぼした。葬祭分野でよく見られる非常に多彩な表現も、この坩堝のような民族混在の結果である。最も重要な民族グループのひとつを形成したのは、エウボイア、アカイア、ラコニア、イオニア東部などの様々な地域から渡来したギリシア人で、南イタリア沿岸地帯にその勢力を広げていった。ギリシア人はティレニア海沿岸はナポリ湾まで、またイオニア海の東沿岸はターラント湾まで北上し数々の植民都市を建てたが、その最も古い例証は前8世紀の中葉から後半にかけてと時代を遡る。文化的に高度に発達したギリシア植民諸都市は、数多くの神殿など、重要な記念物や極めて上質の美術品を生み出し、土着のイタリ諸民族が居住する周辺地域や後背地にも様々なかたちで影響を及ぼしていった。南イタリアのイタリ諸民族の分布状況は次の通りである。カンパーニア地方北部はカンパーニア人(オスク人)、カンパーニア沿岸平野部の山がちな後背地はサムニウム人カンパーニア地方南部とバジリカータ地方はルカーニア人、カラブリア地方はブルッティア人、プーリア/アプリア地方は−北から南へ−ダウニア人、ペウケティア人、メサッピア人の領域であった。最後に挙げたプーリア地方の3種族は総称してヤピージ人とも呼ばれるが、イタリ諸民族の中では独自のグループを形成し、東イタリ人(あるいはウンブリ・サベッリ人)グループに属するその他の種族とは異なる集団であった。ヤピージ人はアドリア海を越えてまずはイリリア圏と、後にはバルカン圏とも強い繋がりを持ったのに対し、東イタリ人グループに属する諸種族は、戦闘的な性格やそこからくる侵略/領土拡大政策に特色付けられた。それはポセイドニア(パエストゥム)などのギリシア植民諸都市がその犠牲となったことからも示唆される。前8世紀初頭から前5世紀にいたるまでの時代的に古い段階では、エトルリア人がカンパーニア地方にかなりの影響を及ぼしたが、前4世紀後半には、さらにローマ人とラテン人が新来の民族要素として加わり、南イタリアでしだいに勢力を伸ばしていった。フェニキア人とカルタゴ人の民族諸要素が重要であるのは、シチリア島とサルデーニャ島に限られる。南イタリアのヘレニズム初期の歴史的、文化的な発展においては、ギリシア本土から渡来し様々な紛争に介入したモロッソイ族の王アレクサンドロスやピュロスのようなギリシア人の存在にも特別の意義が認められる。前3世紀のあいだにローマは南イタリアを軍事的には掌握したが、最終的なローマ化のプロセスは、第2次ポエニ戦争(ハンニバル戦争)の混乱によって中断された。帝政ローマ時代においても、ナポリなど幾つかの都市ではギリシアの言語や文化が生き長らえていったのである。


8 南イタリアとシチリア島


9 南イタリア:墓室墓の分布

 南イタリアの主としてプーリア地方の葬祭文化において、ヘレニズム初期に正に特徴的であるのは、墓建築が大型化されますます豪華に装飾される傾向、新考案の墓型(主に墓室墓)が導入されたこと、あるいはレリーフ装飾付きナイスコスや様々な石製セマータ(小型墓標)といった葬祭記念物が多数見られることである。他方、以前は散発的にしか見られなかった葬祭絵画の繁栄とならび、埋葬習慣(例えば、土葬における屈葬から伸展葬への移行、火葬の激増)、ネクロポリスや墓の立地条件や配置(以前よりも合理性、あるいは体面がずっと考慮されるようになる)、また死者祭礼や副葬品に関する慣例などにおける部分的な変化も枚挙される。最後に挙げた副葬品に関しては、葬祭専用の大型で非常に豪華な陶器、多彩色や金メッキを施した新しいジャンルに属する陶器、ある種の副葬品だけをたくさん積み重ねる習慣、様々な類型の容器のミニチュア化、ガラス製や銀製の“エキゾチックな”賛沢品、輸送用のアンフォラなどが特筆に価する新しい要素である。これらの多種多様な“革新”の中には以前からその萌芽が見られたものもある。加えてヘレニズム初期に典型的であるのは、社会上層階級の埋葬においてひとりの被葬者が強調されることや貴族の連帯性の誇張である。したがってある種の限られた墓やネクロポリスの区域においては、モニュメンタル性、構築的や絵画的な豪華な装飾、特別な埋葬習慣、目立つ立地条件、豊かで賛沢極まりない副葬品、また時には英雄崇拝を思わせる大掛かりな死者祭礼が特徴的であり、ネクロポリスの一般人用の区域や墓と意図的にはっきり分けられている。この傾向は地域によってはヘレニズム盛期に入るまで継続したが、第2次ポエニ戦争による混乱の結果、前3世紀末には多くのネクロポリスで消滅し、主にローマ・イタリア中部色の濃い新しい埋葬習慣に一部取って代わられたのである。


10 南イタリア:葬祭絵画の分布

(東京大学総合研究博物館)


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