パエストゥムの葬祭絵画

アンジェラ・ポントゥランドルフォ


歴史的・文化的位置づけ

 パエストゥムは現代のサレルノ湾の中心に位置しているが、この湾は古代ではまさにこの都市の名をとって、パエストゥム湾と呼ばれていた。

 パエストゥムについては、アウグストゥス時代の歴史地理学者ストラボンが記録を残している。彼によれば、ポセイドニアと命名されたこのギリシア人都市は、セーレ川の南方50スタディオン(約9km)のところに、イオニア海岸沿いの都市シュバリスによって建設された。シュバリスは、コリント湾に面するペロポネソス半島北部のアカイア地方出身のギリシア人によって建設された植民都市である。ポセイドニアはのちにサムニウム族系のルカーニア人によって征服されてパエストゥムとよばれるようになり、前273年にはローマ人によってラテン人植民地となるに至った。文献資料は乏しいが、考古学的証拠から、ポセイドニアの建設は前7世紀終わり頃、またルカーニア人による征服は前5世紀最後の数十年の間とされている。

 ルカーニア人の支配は、都市の機構に何の変化ももたらさなかったかわりに、葬祭の儀式を根本的に変質させたが、これはまさにイタリア先住民族がギリシア都市を征服したということの顕示にほかならない。


11 パエストゥム一帯:ネクロポリス分布図


 前4世紀においては、豊富な埋葬品や内部を装飾する壁画でいくつか際立った墓があるが、この時期の無数の墓の中で絵画装飾されているものはわずか80基のみであることを考え合わせると、これらの墓と他の墓との間に明らかな差異があることがわかる。

 絵画は、溝型に掘った墓の四方に壁をしつらえたのちに、その場所で描かれた。
 葬祭絵画は、葬儀に参加する限られた人々のためのものであり、またのちに被葬者とともに封じられてしまうため、葬儀の間しか見ることができないものであった。いずれの絵画も、筆遣いの違いから明らかなように、ふたりの職人によってフレスコ画法ですばやく描かれた。狭い場所で描くことが困難であったことは、漆喰に残る指先やひじの痕から察せられ、また縄や木の葉の痕は、死者を埋葬する時点でまだ絵画が乾いていなかったことを示している。

 パエストゥムには絵画装飾が施された墓が多数あり、またそれらは年代的、類型学的なまとまりを持ち、さらに限られた支配階級の権力を顕示するという役割を担っている。したがってこれらの葬祭絵画は、いわば民俗学的地図としての研究対象であると同時に、ギリシア都市を征服したルカーニア人のイタリア先住民族としての共同体が、いかに存在し、ものを考え、かつ自分たちを表現しようとしていたかを探る糸口ともなっているのである。



初期の作品例 前480/70年頃のものとされるあまりにも有名な『飛び込む男の墓』は、ギリシア都市の葬祭壁画としては異例のものである。その後パエストゥムでは、同時期のマグナ・グラエキアの他都市と同様に、琴の内壁は幾何学文様あるいは植物文様で装飾されている。
 何十年か後、人物描写を基本とした新しい型の絵画が現れたが、これはルカーニア人の支配がもたらした葬祭絵画の根本的な変容を示している。
 装飾絵画は墓の四方の壁に描かれており、それらは、様式や趣味の違いこそあれ、行き当たりばったりではなく、確固とした造形プランを持つ一定の型に則っている。それらの絵画はさまざまな表現手法を通して、それら自体が実現された全時代のありさまを語る言葉としての機能を持つ。つまり、死を迎えるに際し独自の手法で理想的イメージを描写した当時の社会の価値観を知る手掛かりを、現代の我々に与えてくれるのである。

 前380年頃、当時を代表する工房によって、戦士の帰還の場面を中心とした表現プランが考案された。戦士の帰還は、必ず被葬者の頭の後ろにある主要石盤に描かれ、ふたつの横長の石盤には、戦車競技、拳闘、格闘技という3つの運動競技が描かれている。残りの短い石盤を飾っているのは大きな花冠である。
 ある墓室墓に原型を見出すことのできるこの表現プランは、男性の被葬者の場合に限られ、女性や年少者の場合は、戦士の帰還の場面の代わりに別の花冠かシカ狩りの場面が描かれた。



男性表現
 上記の表現プランを持つ絵画においては、戦士の帰還という象徴的な場面で男性の功績を讃えるということが重要となっている。この場面は上層階級の男性の墓にのみ描かれ、このような墓では、クラテール(酒宴の際にぶどう酒と水を混ぜるための器)やぶどう酒を飲むための器も副葬品に含まれている。
 騎士は必ずひげをたくわえ、チュニカをまとって腰に太いベルトを巻き、イタリ民族型の武具を着けている。3つの円盤で装飾された鎧や白く長い羽飾りのついた兜などの武具は、被葬者が実際身に付けた状態で墓から出土することもある。武具を身に付けた戦士は戦利品を携えて馬に乗り、献酒の儀式のための器を差し出す女性に迎えられつつ、勝者として共同体に凱旋している。
 女性は典型的なこの土地の服装で描かれている。頭部は帯状の髪飾りで留められた長いヴェールで覆われ、前部に縦縞のある長い服を身に付け、黒い履物を履いている。


葬祭競技
 上述の表現プランを締めくくる葬祭競技の場面については、それぞれの工房によって様式や姿形そのものに多少の違いはあるものの、一定の絵画の構図が繰り返し用いられている。それは、前5世紀までのエトルリア葬祭絵画によく見られるもののその後消滅してしまったアルカイック期における貴族社会の伝統的な儀式の場面を、あたかもそれを存続させたいかのように再現している。運動競技を描くモチーフについても同じことが言える。特に戦車競技は、アルカイック末期のアッティカ地方においてはルトロフォロス(婚礼を象徴する陶器)を飾ったり、あるいは墓を取り囲むテラコリタ板に描かれた働突の場面に登場したりしている。死者の功績を讃えるためにこれらの場面を描くことは、その被葬者の社会的地位の重要度を際立たせることにもなる。
 戦士の帰還場面の有無が全体の構成において重要になっている壁画の場合、葬祭競技は横長の石盤に展開し、戦車競技が拳闘と格闘技と共に描かれる。いずれの競技も勝者を讃える最終的な瞬間をとらえているようである。
 戦車競技の場面で石盤の中央に描かれている円柱は、戦車がその周りを回る折り返し地点を表している。最古の例では、御者はギリシア風の長いチュニカをまとい、円錐形の帽子を被っていたり、または何も被らずに髪を肩になびかせていたりする。反対に前4世紀半ばになると、御者はエトルリアで最も普及していた型のような短いチュニカを身に付け、短い頭髪の上に兜を被るようになる。

 拳闘の場面では、頬にバンド(フォルビア)を付けた笛吹きが試合の拍子をとっている。剣闘士達は裸でグローブをはめており、顔をつたう血が試合の激しさを物語っている。
 格闘技の場面では、勝者に戴冠しようとしている審判がその勝者の後ろに描かれているが、こういった細部が試合の競技性を際立たせている。競技者は裸かあるいは腰布のみをまとっていて、すね当て、カルキス型の兜に楯、また時には鎧などの防具を身に付けている。この場面は、アンドゥリウオーロの第58墓にみられるスフィンクスのように、時に空想上の動物を描くことによって、英雄的な意味あいを持つこともある。

 パエストウムの葬祭絵画においてこの主題が成功を収めたことは、作品例の多さとその図式の多様性が立証している。細部を描くことによってふたりの戦士による格闘という一般的な図式を発展させており、格闘競技そのもののイメージが変わったことをはっきりと表している。また、英雄的要素を取り入れることによって見世物としての度合いが強まったが、これは剣闘士競技の起源でもある。これは、ローマ人の伝統である葬祭競技がイタリア先住民族の風俗に強く結びついていたことを示すものである。

 同じく、とりわけパエストゥムの北部のネクロポリス(ガウドやヴァンヌッロ)で出土した拳闘の場面の競技者も、プルチネッラのような反り返って突き出た鼻のある半仮面をつけている。
 このような細部は絵画描写の中に演劇性を加えると共に、イタリア先住民族の世界で葬祭競技と演劇上演によるカタルシス作用とが密接に結びつき始めたことを如実に物語っている。ここで特に思い出されるのは仮面劇である。

 ティトゥス・リウィウスやウァレリウス・マクシムスが古典劇の起源に関して言及するところによると、カンパーニア地方発祥のこのような笑劇は、ローマの若者たちの祭儀的あるいはこっけいな出し物と関連があるが、これはのちにローマ文学上で確かな地位を得ることになった。
 したがってパエストゥムの葬祭絵画は、当時のイタリア半島南部において仮面劇のようなこっけいな出し物が存在し、他の伝統的な喜劇、とりわけマグナ・グラエキアやシチリアなどのギリシア植民都市の風俗喜劇と共存していたことを裏付けている。これらのふたつの演劇は、ペエストゥムの支配階級の葬祭に際してのみ上演された。またこれらの演劇は集団の儀式に属するものであるが、それはまさに、人類学者がさまざまな文化、時代において分析するような、社会構造の再構築の手がかりとなる集団儀式にほかならない。

 大きな花冠および戦士の帰還場面を伴う葬祭競技の絵画プランは、前4世紀後半まで用いられた。のちにあらわれた他の工房も、若干の部分的な変更を加えながらこのプランを採用したが、都市に注文主を持つ以前の工房と違い、主に土地の有力者を相手に活動した。



絵画の最盛期および女性表現の創造
 ルカーニアの支配が堅固になるに伴い、都市の機構が整備され経済的繁栄が実現した結果、洗練された技法で新しい絵画表現を生み出す工房が現れた。
 古い工房の創造力が枯渇する一方で、三次元表現に関する豊富な知識に加え、鋭い色彩感覚を持つ工房が次々と生まれ、絵画プログラムも被葬者の性や年齢によって、それぞれの墓で異なるようにまでなってきた。
 中でも最も重要な変化は、女性のためにのみ用いられる表現レパートリーが現れたということである。
 よく見られる女性像は、座って糸を紡いでいる女主人で、彼女の前には女召使いが立ったままかしずいている。召使いの髪は短く、長い単一色のチュニカからは腕が出ている。

 またしばしばこの場面と共に、遺体の安置の場面および家の中に運び込むときの哀悼の儀式の場面が描かれる。
 結婚や子供の出産、また家族の世話や家財管理などによって描かれる女性の美徳の理想的な姿は、イタリア先住民族の慣習、またのちにはロ一マ世界の慣習に基づき、葬儀の際に表される栄誉を通して最大限に高められるのである。



葬礼の描写
 女性の墓のみに見られる絵画は、パエストゥムの人々が死に際してどのように対応したかを描いており、葬礼の一部始終を説明している。
 儀式は被葬者の身繕いをすることから始まる。続いて、白い麻布にくるまれ頭に髪飾りを付け寝台に横たわった死者は安置されて(プロテシス)、その周囲は激しい身振りで慟哭する家族の女性たちの嘆き(プランクトゥス)に包まれる。このような女性達の動作は即興的なものではなく、場面の端に描かれた笛吹きの奏でる音で拍子をとった、規則的なものであった。また別の笛吹きが、死者を埋葬地に運ぶ葬列を導いている。葬列の人々は、手あるいは頭の上の盆にのせて、ザクロ、卵、パンや小さな香油壷を運んでいる。
 しばしば葬列の中あるいは死者の寝台の周りで、若者や子供が嘆き悲しむ様子が描かれるが、これはおそらく被葬者の息子達である。彼らが場面に登場することで、女性が子宝に恵まれたことを際立たせながら、種の存続と家系の継続という基本的な女性としての役割が強調されている。Fig.131-132

 生前の女主人としての威厳をたたえた理想像で始まるアンドゥリウオーロ第47墓の絵画は、葬礼におけるいくつかの異なった場面を描写しており、共同体において死者が果していた役割に応じて捧げられる供物の重要性を明らかにしている。この墓の場合は、犠牲となる牡牛が斧を振りかざした男性に引かれている様子がみえる。この一連の絵画の最後では、死後の世界への旅という主題が極めて豊かな表現で描かれている。被葬者は、有翼のゲニウスが待つ冥界の小舟に乗ろうとしている。ギリシア世界におけるカロンとエトルリア世界のウァントの特徴を合わせたようなこのゲニウスは、土地の神々に列されており、冥界への船頭の役割を担っていた。



英雄化の象徴
 前4世紀の後半には、一定の規格に基づいた絵画プランは徐々に減り、ある特定の人物を讃えるための新たなプランが必要になってきた。
 絵画プランに変化が生じてきたということは、各々の家柄を強調し共同体の他の者たちから自分たちを区別しようとした注文主がいたことを示している。
 このことから、貴族政治体制が整い、頭角を現そうとする者たちの競争が激化していた社会の様子がうかがえる。また同時に、生から死に移行することへの不安に対する個人的な反応が、ますますはっきり示されるようになった。
 その結果生じた絵画表現の多様性は、未知の世界や無の世界に対する恐怖を克服する術をさまざまな形で与えた終末論の信仰が、人々の間で広く普及していたことを示す、明らかなしるしである。

 一方、共通した要素もある。それは、被葬者を英雄化しようとするイメージやシンボルが採り入れられていることである。
 競技におけ多勝利を強調しながらも、同時に死を超越した概念を両義的に表そうとする隠楡的な表現がある。
 例えばアンドゥリウオーロ第58墓では、被葬者である騎士を英雄化しようとする隠楡表現が数多く見て取れる。2枚の横長の石盤には、お互いが呼応しあうふたつの闘いの場面が展開している。北側の壁には、審判の代わりとして1体のスフィンクスが勝者の後ろに描かれ、南側の壁では2匹の巨大なグリュプスがヒョウに襲いかかっている。短い方の石盤には、騎士が大きく描かれ、その前には香草のようなものを入れたクラテールがある。戦士の装いはギリシア風だが細部にはイタリア先住民族の騎士特有の飾りを付けており、珍しいことに、文献資料で知られる同時期にローマで建てられたという騎士像との間に、表現の一致が認められる。Fig.136-137

 アンドゥリウオーロ第114墓では、同様の概念が異なった表現方法で描かれている。ここでは、弔辞と同様の意味を持つような絵画描写による叙述表現を試みている。決まり切った儀式の様子を通して、被葬者の戦功、つまりローマ世界の伝統におけるレース・ゲスタエ(功業)を讃えようとしている。

 死者の重要性は、戦士の帰還および軍馬の横に勇壮に立つ騎士というふたつの理想像によって裏付けられる。さらに横長の石盤2枚に、儀式の様子をまとめた場面と戦闘の場面が描かれて、一連の絵画は完結する。ここで被葬者は勝利者としての中心人物であり、大きさや顔の表現、また兜などから、二手に分かれた部隊からなる戦士達と区別される。死者が属する部隊は、裸の人物に率いられている。その人物は楯を腕に持ち、頭には2枚の黒い羽がついた兜を付け、敵の部隊に向かって槍を振りかざしている。そこには、死者の属する部隊の勝利を特徴づける軍神マルスの存在がある。これらの描写の中には、前4世紀の前半にみられた葬祭競技のように、男性と女性の墓で共通している題材がある。最も流布したモチーフのうちのひとつは、4頭立て戦車が疾走する場面である。戦車を操る御者は時にマントをまとい、風に吹かれて背の部分が膨らんでいる。

 御者の代わりに勝利の寓意像であるニケが描かれることもある。アンドゥリウオーロ第86墓では、伝統的な戦士の帰還の場面に加え、旅のモチーフとしてラバの引く車に乗った人物が描かれ、さらに有翼の勝利の女神の御する2頭立て戦車によって勇壮に仕上げられている。横長の石盤2枚に描かれた戦車は、全体の場面に円を描くような動きを与え、際限なく被葬者を讃えようとする試みをあらわにしている。Fig.133-135

 同様の変化は女性の墓にもみられる。伝統的な主題(寝台の上の被葬者や毛糸を紡ぐ女性)の絵画に4頭立て戦車を駆る有翼の女神像が加わったり、ラバの引く車に座った女主人のような新しい題材が採り入れられたりしている。後者のモチーフは、家族や周囲の関係者の内部での彼女の杜会的役割を,想起させて被葬者を讃えているが、それは同時に、家長に対するのと同じ方法で上流階級の家系が彼女のために用意した最終的なあの世への旅の隠喩でもある。

 この主題は、アンドゥリウオーロ第80墓ではさらに完成した形となっている。基本となっているのは2組の行列の出会いの場面である。最初の行列は墓の2側面を占め、奥の壁には車に乗った女主人、右の壁にはふたりの女召使い、男の従者、そして荷物を積んだラバという従者の一行が描かれている。残りの壁には、召使いとラバを伴った騎士がみえる。ローマ化を間近に控えたパエストゥムでの貴族政治の新しいあり方を示すこのような表現方法は、後のスピナッツォの墓における絵画プランの最初のあらわれと解釈できるのである。



絵画表現の統合
 前4世紀末期の何十年かの間の絵画にみられる文化に密接に結びついた表現の豊富さから、パエストゥムもマグナ・グラエキアが直面した政治的緊張にさらされていたことがうかがえる。マグナ・グラエキアは、エペイロス王アレクサンドロスのような外国勢力の領土拡張政策の狙いとなっていたうえ、マケドニア王国に対抗するためのローマとターラントの勢力争いにもまきこまれていた。

 絵画が施された墓は墓室墓のみとなり、その数は急速に減少し、この時期に初めて建設されたスピナッツォのネクロポリスにのみ集中するようになった。Pl.53-55Fig.126-130

 調査の行われた地区内には、120基のカッソーネ型と溝型の墓がある一方、墓室型のものは12基のみで、その中の7基に絵画が施されている。墓室墓は3つのグループに分かれ輪になって整然と集まっており、その他の全ての墓を統合している。

 この時期に絵画は唯一の工房で製作され、それらは職人の作風で区別される。等身大で描かれた人物像は、何の制限をうけることもなく空間を埋め、コーニス部分までを占めることもある。輪郭は細い黒線で縁取られ、卓越したピンク色の筆触は肌の様子をつたえ、さらに量感のある肉付きをはっきりと際立たせている。これらの絵画は、まさにメガログラフィア(大絵画)と称することのできるものであり、その時代の工房がすでに、同時代のギリシア絵画における最も進んだ技術を獲得していたことを示している。それは、釘およびだまし絵の技法で描かれた壁に吊り下がる品々(冠、あかすりべら、扇)に影がつけられていること、奥行きを持った人物の配置がなされていること、人物の四分の三正面の表現がみられることなどに端的に表れている。また、絵画の細部表現や写実性への傾倒も明らかである。たとえば、漆喰に線を刻んだり、鮮やかな色やスカイブルーのような珍しい色を使って明るさを採り入れたりしながら、冠やそのほかの金属器の質感を描写しようと試みている。

絵画の表現手法は徐々に画一化し、そこには他よりも抜きん出た一族の考え方が明示されるようになる。中心に据えられるのは、入り口の正面にある奥壁に描かれたふたりの人物の出会いの場面である。両側面の壁に続くように描かれたそれぞれの行列の様子から、このふたりがどのような人物なのかを知ることができる。

 新興の貴族階級は、家族を場面に登場させて家系の重要性を知らしめている。
 ふたりの中心人物は、同性であったり異性であったりするが、必ず年齢に差が見られる。
 左側に配置される人物は被葬者で、一族の神々の祠で先祖に迎えられている。
 どの場合も、ふたりの人物の出会いは手の動きによって表現されている。家長が女主人を自然な様子で招き入れるしぐさをしていたり、年齢の差はあるものの同性同士の場合は、互いに面と向き合って、信頼を示すかのように握手をしていたりする。

 行列は、率いる人物の社会的役割や年齢によってさまざまに形成されている。馬は、騎士貴族階級を示す基本的構成要素である。重要人物は、槍と楯を携えた従者に引かれた馬を従えている。あるふたつの作品では、荷物運搬用のもう1頭の馬がおり・背中にしつらえられた鞍には、ギリシアやローマ世界において高級な動物とみなされたマルチーズのような犬が乗っている。ただ1例のみであるが凱旋行列を描いたある墓では、騎士は武具を付けずにチュニカをまとい、腰の周りにマントを巻き、花弁装飾でぜいたくに包まれた動物にまたがっている。
 女性の行列には、家族だけでなく祭具入れや袋を運ぶ女召使いがみられる。
 成人の男性は、赤い縁取りがされた白いチュニカをまとい、いくつもの留め金のついたベルトで腰を締め、右肩を出すようにしてマントにくるまっている。若者の場合は、短い衣服を着ているがやはりベルトで留めている。男性は皆、ローマの元老院議員が履くようなひも付きの靴を履いており、頭に冠を載せている。
 女主人は頭をヴェールに包み髪飾りで留めているが、若い女性はヴェールは付けず、首すじまでの長さの短い髪の毛をしている。
 装いは統一されているものの、それぞれの人物は個々の目鼻立ちで区別できる。比類なき家族のアルバムのようになったこの絵画では、ひとりの老人の表情が際立っている。彼は、行政官の象徴である、左の薬指にはめた彫り物のある指輪を見せるようにしている。低い鼻に丸い目、しわが何本も刻まれた額などの顔の細部はまさに写実的な肖像であり、ローマの貴族階級の肖像(イウス・イマギネス)が即座に思い出される。つまり、この時期のパエストゥムは、共和制時代中期の見事なブロンズ像、たとえば、カピトリーノのブルータス像やサン・ジョヴァンニ・リピオーニで出土したパリ国立図書館所蔵の頭部像などと対等の絵画作品を生み出しているのである。ブロンズ像の後者の例は、おそらくサムニウム人の貴族の肖像であろう。

 ローマ化を目前にした時代の他のイタリア先住民族の貴族階級のように、スピナッツォに埋葬されたある一族の墓の絵画では、ヘレニズムの強い影響を受けた様式のもと、一連の特色のある細部を描き込んで、自らを称賛している。冠の描写は、この一族がさらに英雄的要素を加えようとしたことをうかがわせる。
 パエストゥムの伝統であった戦士の帰還の場面は、人物が手に持つ月桂樹の枝が示しているように、まさしく凱旋の場面へと変容している。こうした情景は、アレクサンドロス大王の戦勝記念や、またローマにおいて毎年7月15日に行われた、年長者(パトレス)と壮年の騎士階級(エクイテス)との和睦を祝う行進とも呼応するものである。スピナッツォの最も重要な墓では、凱旋の行列と一族の神々の祠に向かう行列のふたつの場面が組み合わされるが、この結合によって、英雄化と不死は、その人物の生前の功績によって達成されうるものであり、由緒ある家柄から切り離されることはないということが、誰の目にも明らかになっている。

 こうして公的な役割も、一族のヒエラルキーの一部となる。そしてこのヒエラルキーこそ、被葬者の個々の年齢に応じた名誉や社会的役割を表現する際の必要条件を決定しているのである。    (訳:飯塚 隆,飯塚 泉)

(サレルノ大学古典考古学科教授)
Angela Pontrandolfo


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