第一部

記載の世界



記す、押す

文字は紙や布、金属や石、木や竹や土などを支持体とする。中世から近世にかけ文字を扱う人の数が飛躍的に増大し、それとともに支持体の種類も、また伝達の内容も多様性を増す。文字は記録や伝達の道具として一般化し始めた。こうした文字記載の広がりを保証したのは、墨や漆や柿渋など、耐久性のある媒材だった。



  刻印文字のレプリカ法による観察  —— 陶器の刻印文字
丑野 毅


  陶器を観察する上で重要なのは、言うまでもなく形、土、焼成、色、文様などであろう。同じように観察すべき大切な要素として、通常では目につきにくいところに印されている刻印をあげることができる。刻印は文字若しくは記号様の意匠を一センチ前後の判面に彫刻し、陶器の底部などに押捺しているのが一般的である。刻印は産地をあらわす窯印として使われる場合と、書画に使われる落款のような作者印として使用される場合とがあり、特に作者印と判断される刻印では真贋問題もからんで大きな話題になることが多い。したがって、報告書や美術書の中には刻印を述べている論考も少なからず読むことができる。このような論述の中で刻印を比較説明するために提示されている資料は、拓本や接写撮影した写真、あるいは模写である。陶器に印された刻印の字形を表面的に観察するだけであれば、このような方法でも十分まかなうことができよう。しかし、先述したように極めて小さな印であるため、拓本や接写撮影の写真だけでは見落としも起き易く、とりわけ細かな彫刻のなされた文字の特徴や印判面の情報を十分に得ることができない。本来、陶器に印された刻印は、使用された印判と共に論議されることが最も望ましいのであるが、古い時代の作品に関しては印判の残されている例がほとんどないことから、実際には大変困難なことといえる。

  以上のような理由から、刻印を観察するためにはこれまでの方法だけに頼るのではなく、元の印判がどのような形をしていたのかを視野に入れた観察方法が重要となろう。ここで試みたのは、印判面に彫刻された文字がどのような形をしていたのかを観察することである。以下に具体的な方法とそれによる刻印の観察結果を述べてみたい。


新しい観察方法としてのレプリカ法
  刻印を観察するための方法としてここに掲げたレプリカ法は、先史時代の土器に残されている圧痕を観察したり、石器の制作技術を解明するために開発した一方法である(丑野・田川一九九一、丑野一九九四)。

  先史時代の土器には、何等かの道具をつかって刻まれた紋様を見ることが多い。これらの紋様を、その施紋具まで遡って調べるためには実資料を表面から観察するだけでは十分とは言えない。胎土の中にもぐり込んでいる部分まで見ることは極めて難しいからである。そこで残された紋様の表面的な観察だけではなく、紋様を付けるために使用した道具を復元し観察することを提案した。すなわち、印象材を利用して紋様をポジ型にすることによって、施紋具が土器の胎土中にもぐり込んだ状態を、言い換えるならば施紋具をレプリカとして復元したのである。土器に残されている紋様は施紋具の運動の軌跡であって、必ずしも施紋具の形そのものの形がそっくり残されているわけではない。その上焼き物である以上、程度の差はあるにしても縮みが生じている。しかし、そのことを念頭においておけば、単なる土器の表面観察とは比較にならない量の情報を手に入れることができよう(丑野一九九三)。

  本稿ではこの方法を応用して、陶器に印された刻印を観察した結果を示した。手順を概観すると、元資料をよく洗浄して目的の場所に印象材を注入する。印象材の硬化を確認して元資料から印象材をはずす。印象材が直接刻印に当たっていた面は印判面のレプリカとなる。このレプリカを観察・計測の対象とした。観察には光学器械のほか、捜査型電子顕微鏡(以下SEMと略記する)を使用している。写真は、水平面で撮影したものと四五度の角度を付けて下側から撮影したものを上下に並べて掲げてある。

  レプリカを作成するために使用した印象材はCaulk社製「Reprosil」である。


観察
  陶器に押捺された刻印に関しては、これまでに飯田町遺跡(丑野一九九五)と汐留遺跡(丑野一九九六)からの出土遺物で試みている。今回掲げたのは、すべてこの飯田町・汐留の両遺跡から出土した陶器の刻印であることをあらかじめお断りしておく。また、刻印を網羅的に挙げるのではなく、観察の結果、特に大きな効果のあった資料に関して解説を加えながら掲載した。レプリカでは陶器の刻印と表裏逆さになる文字が印されている。写真を掲載するのにあたって、見やすくするために裏焼きにして使った。飯田町遺跡は東京都千代田区にある高松藩松平家の上屋敷跡、汐留遺跡は東京都港区の旧新橋駅構内に残されていた仙台藩伊達家の上屋敷跡である。以下の文中には、それぞれ(飯)、(汐)というように遺跡名の頭文字を付けておいた。なお、挿図6以降は、京焼き写しと呼ばれる陶器に付けられていた刻印である。

  観察と写真撮影には総合研究博物館に設置されているSEM、日立S-2250を使用している。


  「高」(飯)(挿図1−4)

  高松藩のお庭焼に指定されたことのある理兵衛焼の刻印。いずれも破風「高」とよばれる書体の文字が刻まれている。挿図1〜3はよく似た字形ではあるものの、それぞれが僅かながら違いを見せている。挿図1はナベブタの第一画が挿図2、3に比べて右に傾いているところに違いがあり、挿図2は「日」および「口」が挿図3と比較してみると詰まり気味になっているところに違いを見ることができる。次の挿図4では、逆に挿図3と全く同じ特徴を「日」や「口」の部分に見つけることができた。以上の観察結果から、挿図1、2、3はそれぞれ異なる印で押捺されているが、挿図3と4は同じ印判による刻印であるとすることができる。挿図1、2、3は器形が異なっているが、挿図3、4は全く同じ器形をした陶器であり、刻印と作品の関係を考える上で参考にしなければならない事柄と思われる。なお、挿図1、2では印判の一部も転写されていて、角に面取りを施した方形の印判面のほぼ全面に彫刻した文字であることも知ることができた。これらの理兵衛焼は、現在十四代を数える理兵衛(理平)の内、出土層位と年代の関係から五代理兵衛の作品である可能性が考えられている。


「仁清」(飯)(挿図5)

  野々村仁清の刻印。文字の上方には弧状をした印判面の一部が見えている。「仁清」印に見られる枠の中で繭形か小判形のものであろう。この刻印では、印判面に文字を彫刻する際にできたと思われる作業の痕跡が認められた。それは、「仁」字のニンベンの第一画外側に、第一画と同じ向きをを持つ線状の刻み跡と、第三画にあたる横棒をはさんで、上下に一本ずつ横棒を削り出した跡である。ニンベンの方は最後の仕上げの手をぬいたようにもみることはできるが、二本の横棒がこのように残されてしまった理由はよく解らない。「清」字のサンズイの上部が二股に別れてみえるのは、刻印を押しなおしたためと思われる。最初の押捺から一〇度ほど角度を変えている。

「?」(汐)(挿図6)

  読みは未詳。この刻印では、中央部の上方から左下に直線状の亀裂が入って、文字が二つに分けられている様子を見ることができる。それ程深く押されていないため、印判面の状態までは知ることができなかった。しかし、このようにまっすぐな線の形で割れるのは、石製や木製あるいは磁製などの緻密な素材で作られた印が使われた可能性が高いといえる。挿図6は写真を割れ目にそって切り、文字をつなげて貼りなおして元の形に復元している。

「朝日」(飯)(挿図7)

  右上方は資料の欠損。この刻印では「日」字の一部が欠けている。欠けた部分をよく観察すると、九〇度向きが違っているのにもかかわらず、二カ所とも鋭い直線状になってなっていることがわかる。この印は、一定の向きに割けやすい木ではなく、石や磁器のように緻密で固い材料が使われたのであろう。


「新」(汐)(挿図8、9)「新」(飯)(挿図10)

  挿図8は縦・横の比率が異なっていることから、他の二つと違った刻印であることは比紙的わかりやすい。挿図9と10では書体も同じであり、大きさもほぼ等しく、偏も全く同じといってよいほどである。しかし、旁の第一画と第四画では、挿図9に比べて10の方が長めに作られていることから違う印による刻印であることがわかった。実物資料の観察だけではなかなか気が付かないことでも、このような観察方法をとると違いがはっきり現れる。

「清水」(汐)(挿図11)「清水」(飯)(挿図12)

  結果を先に述べると、この二つの資料はまったく別の遺跡から出土した陶器につけられた刻印であるが、同じ印による押捺のおこなわれた可能性の高い作品でる。いずれも碗の底部、高台の内側に付けられていて、その位置も同じような所が選ばれている。OHP用紙にコピーした文字を重ねあわせて比較をしたが、違いを見つけることはできなかった。挿図11の資料でははじめに押した刻印から僅かに右にずらして再び押捺をおこなったため、二重の刻印になっている。二つの刻印ともども、「水」の最終画を止めているところに印判面の角が押されていて、この印の判面が角形をしていたのを知ることができた。以上の特徴を総合してみると、同じ印が使われただけでなく、同じ作者による製品であることも考えられよう。

「高木」(汐)(挿図13)「高木」(飯)(挿図14)

  この二つの刻印も、同一印によると思われる例である。隅丸長方形の枠の中に、てん書体の文字で彫刻された刻印。押捺されている場所も底部の中央という共通点を持っている。挿図14は下端の一部が欠けているものの、「清水」の場合と同様にOHP用紙にコピーして比較してみると、きれいに重なることが確認できた。特に「高」字の第一画が枠の線に接する部分、「口」部の上から右にかけての線の形、下半部の、特に右側の線の形などにとりわけ共通した特徴を持っている。このような点を合わせて、この二つの刻印は同一の印が使用されていると判断した。この判断を正しいとすれば、挿図14の刻印では「口」部や外枠の一部に欠けたところが認められることから、文字の欠けが全くない挿図13の刻印よりも後に押捺されたとすることができる。この二つの作品に関して言えば、汐留遺跡出土の陶器より飯田町遺跡の陶器の方が後から作られたとすることができる。


まとめ
  刻印をこのような形で観察するのは、いわば警察の指紋捜査のようなものである。レプリカの細部を観察することによって、印判面に残された数々の特徴を探し出すことができ、刻印の比較研究には大きな貢献をすることができると思っている。「仁清」印のような形で印判面に残こされた特徴は、先程の比楡で言えば、傷痕の残る指紋となり、同じ刻印を同定する大きな手掛かりとなろう。同じ印によると考えられる刻印に関しては、次のようなことが言える。離れた遺構や遺跡から出土している場合に、層位を認定する手掛かりとなるし、作品の流通を知る上でも役に立つ資料となる。刻印の押し直しの例は、ときたま見ることのできる資料である。ここに作者のこだわりを見るのは深読みであろうか。



【参考文献】

丑野毅・田川裕美、一九九一、「レプリカ法による圧痕の観察」『考古学と自然科学』第二四号、日本文化財科学会
丑野毅、一九九三、「レプリカ法による土器文様の観察」『環日本海における土器出現期の様相』、日本考古学協会新潟大会実行委員会
丑野毅、一九九四、「土器の中に残されている圧痕」『東京大学総合研究資料館ニュース』三〇号、東京大学総合研究資料館
丑野毅、一九九五、「陶磁器の刻印」、「理兵衛焼の「高」字刻印」『飯田町遺跡』、飯田町遺跡調査会
丑野毅、一九九六、「刻印のレプリカ法による観察」『汐留遺跡第三分冊』、汐留地区遺跡調査会
陶器全集刊行会、一九七三、『日本古陶銘款集』全六巻、平安堂書店 高田竹山(監)、一九九三、『五體字類』、西東書房

SEMの操作は総合研究博物館の清水敬子氏にお願いした。誌面をお借りして御礼申し上げます。



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