第一部

記載の世界



19a (右)礫石経
戦国時代(?)石に墨書、黒川金山遺跡寺屋敷地点出土
縦一二・〇cm、横八・五cm
総合研究博物館考古部門蔵
19b (左上)礫石経
戦国時代(?)石に墨書、黒川金山遺跡寺屋敷地点出土
縦九・〇cm、横八・〇cm総合研究博物館考古部門蔵
19c (中央上)礫石経
戦国時代(?)石に墨書、黒川金山遺跡寺屋敷地点出土
縦六・五cm、横七・八cm総合研究博物館考古部門蔵
19d (左下)礫石経
戦国時代(?)石に墨書、黒川金山遺跡寺屋敷地点出土
縦七・二cm、横五・五cm総合研究博物館考古部門蔵
19e (中央下)礫石経
戦国時代(?)石に墨書、黒川金山遺跡寺屋敷地点出土
縦七・〇cm、横四・八cm総合研究博物館考古部門蔵

  平安時代の西暦一一世紀頃、仏の教えが段階を追って滅びていくという末法思想が流行すると、弥勒菩薩が人間界に下生する五十六億七千万年後まで経典を残すため、塚に埋納することが行われるようになった。これを経塚と呼ぶ。平安時代のタイムカプセルである。埋める経は紙製のものを経筒に入れ甕などに納めるのが本来の形であったが、やがて保存を確実にするため、粘土板に経文を刻書したものを焼成して埋めたり(瓦経)、銅板に刻むことが行われるようになった。これが簡略化したのが礫石経で、一個の川原石に一字を墨書することが多いので一字一石経とも呼ばれる。江戸時代ごろから行われ現在でも見られる風習であるが、本来の経典の保存という目的は忘れられ、極楽往生・現世利益・追善供養などを祈願して営まれるようになった。

  展示した資料は、戦国の甲斐武田家に仕えた金山衆によって採掘された黒川金山の鉱山町跡である「黒川千軒」から少し離れて位置する「寺屋敷」で発掘されたもので、この地には「妙善寺平」の地名もあるが、妙善寺は金山の衰退にともなって現在の塩山市下於曽の地に移転したとみられるから、この経塚は戦国時代にまでさかのぼる可能性がある。

  この経塚で発掘された礫石経も一字一石のものが大部分であったが、なかに、片面に「一心称名」、もう一面に「主甚□□ 観世音菩薩則時」(口は消えて読めない字)と墨書されたものがある。これは法華経の巻第八、観世音菩薩普門品第二十五のなかにある「一心称名、観世音菩薩、即時」という部分とほぼ一致している。また片面に「為 □□□□自□ 衒賣女色如是之人皆」、もう一面に、「勿□瞼 種種□□□戯 盡勿親近」と墨書されたものがある。これも、法華経巻第五、安楽行品第十四のなかにある「為利殺害 販肉自活 衒賣女色如是之人 皆勿親近 狂險相撲 種種嬉戯 諸淫女等 盡勿親近」という部分とほぼ一致している。これち二点の多字一石経から、寺屋敷遺跡の礫石経に書かれた経典は、法華経と言うことができる。この経塚は完全に発掘することはできなかったが、礫石経の体積から総数は七〜八万個とみられる。法華経の総文字数が六万余字であることを考えると、法華経の文字すべてを書写して経塚を築いたのであろう。

  なお墨が、私たちが日頃使うインキ類のなかでもっとも耐久性に富むものであることは、このような礫石経のほか、各地の遺跡で発掘された木簡や墨書土器からもわかる。
(今村啓爾)

20a 灰釉緑釉流しこね鉢(断片)
一九世紀前半
瀬戸美濃窯、陶器断片に墨書、本郷構内
御殿下記念館地点築山五〇号遺構出土
推定口径二四・〇cm、底径一一・七cm、器高一四・三cm
埋蔵文化財調査室蔵

瀬戸・美濃窯で生産された灰釉緑粕流しこね鉢である。高台は幅広の蛇の目高台で、体部内湾しながら立ち上がる。口縁部は強く外折し、器面に接着している。胎土は黄白色を呈し、やや軟質で気泡などが見られる。成形はラフで、体部にはロクロ目が観察される。粕は底部以外の内外面に透明感のある灰釉が施され、外面には縁釉が流し掛けられている。見込みには窯積みのための円形の釉剥ぎが円状に五カ所認められる。底部裏には三行にわたり右から「梅殿 福印膳所」と墨書が施されている。

20b 灰釉緑紬流しこね鉢(断片)
一九世紀前半
瀬戸美濃窯、陶器断片に墨書、本郷構内
御殿下記念館地点築山五〇号遺構出土
推定口径二〇・一cm、底径一三・三cm、器高一一・六cm
埋蔵文化財調査室蔵

瀬戸・美濃窯で生産された灰釉縁釉流しこね鉢である。高台は幅広の蛇の目高台で、体部内湾しながら立ち上がり、口縁部強く外折するが、本例は体部に接着していない。胎土は灰褐色を呈し、前例よりも硬質であるが気泡・亀裂は多く認められる。成形はラフで、体部にはロクロ目が観察される。粕は底部以外の内外面に透明感のある灰釉が施され、器面や口縁部には縁釉が斑状に掛けられている。見込みにはa同様窯積みのための円形の釉剥ぎが円状に五カ所付けられていると推定されるが、欠損のため四カ所のみ確認されている。底部裏には三行にわたり右から「梅御殿 福印 御……」と墨書が施されているが、左の行は欠損のため「御」以下は判読できない。

  日本の窯業は安土桃山期から江戸初期にかけて大きな転換期を迎える、特に豊臣秀吉による文緑・慶長の朝鮮出兵は半島の多くの陶工が日本に流入する大きなきっかけを作り、別名「焼物戦争」とも称されている。これら帰化した陶工らによって唐津、萩、薩摩、有田など西日本各地で同時多発的に窯が作られたのは周知の事実である。朝鮮の陶工たちは多くの先進的な技術を持っており、一度に大量の生産ができる連房式登窯、及び磁器の製法は以後の日本の窯業の発展に大きく寄与することになる。

  瀬戸では古代より須恵器生産が行われており、中世には多様な器種を製造し、汎日本的な分布をするほどの窯になる。しかし、近世初頭に興った唐津諸窯の製品は西日本から裏日本にかけて販路を広げ、また、東日本においても飲食具を中心に肥前磁器が瀬戸・美濃諸窯の製品をほぼ駆逐するに至る。一八世紀段階の瀬戸・美濃窯は西日本の市場は失ったものの東日本の遺跡から多くその製品が確認できる。器種は以上の経緯から陶器で成功を収めていた京焼や伊万里磁器を模倣した廉価な碗、皿なども作られているが、貯蔵具(嚢、壷、徳利など)、調理具(揺鉢、こね鉢など)などの大型の陶器製品に生産の中心をシフトせざるを得ない状況であった。一九世紀初頭に瀬戸・美濃で焼成に成功した磁器は「新製物」と称され、これまでの陶器の「本業焼」と区別されていた。この新製物は瞬く間に東日本に広がり、次第に西日本の遺跡にも出土してくるようになる。

  今回出展したこね鉢は、後述する出土層位や墨書の内容から梅之御殿に伴うものであることが明確であり、一八世紀末から一九世紀初頭にかけての製品であることは間違いない。瀬戸本業焼の研究ではこね鉢は「練鉢」と分類されており、第八小期(一八世紀末中心)には焼かれているとされているようであるが図示されていない(挿図1)。次の第九小期から第一一小期までの実測が掲載されている。これを見ると第九小期(一九世紀第1四半期)から第一一小期(一九世紀第3四半期)にかけて口唇部の外反および底部に漸移的変化があることが窺える。第九小期の製品では口唇部が強く外反するが、第一一小期ではさらに屈曲し器面に接し、折返し口縁になっている。また、底部はその当初から蛇の目高台に成形されているが、第一一小期ではさらに幅広の畳付になっている。以上のような瀬戸の編年観から本遺物の位置づけを考えてみると、折返し口縁の状況(a)や幅広の蛇の目高台(a、b)は第一〇から第一一小期の特徴に近似しており、第九小期のそれではない。梅之御殿の年代を考えると上記のような特徴を持つ製品はすくなくとも一九世紀の第1四半期には焼かれていたことが指摘できよう。

挿図1 本業焼編年表

墨書について
  ここに記されている墨書の「梅殿」、「梅御殿」はともに梅之御殿を指している。梅之御殿は『加賀藩史料』によると、享和二(一八〇二)年九月四日の条に「今般御普請被仰付候寿光院様御殿、是以後梅之御殿与相唱候様、従相公様被仰出候条、此段一統可被申談候事」と書かれ、享和二年に当時の十二代加賀藩主前田斉広の命で寿光院(十代藩主重数の正室)のために新築されたことがわかる。同一〇月一日に寿光院は梅之御殿に移るがその直後の一〇月二九日に五十八歳で急死している。その後、翌享和三(一八〇三年三月一八日先代藩主治脩の正室である法梁院が移り、隠居所となる。法梁院は文政二(一八一九)年に五十六歳で死去し、その後、梅之御殿は解体されるがその正確な時期については文献が残っていないため不明である。現時点での推定は文政六(一八二 三)年十三代藩主斉泰が婚約した十一代将軍徳川家斉の娘の降嫁のため用意した「御守殿」新築に伴う屋敷内再編の過程で文政六〜八(一八二三〜二五)年頃取り壊されたと考えられている。前述のように梅之御殿の主人は寿光院と法梁院のふたりおり、墨書で記された「福印」はどちらの印であるか不明であるが、居住期間から法梁院の可能性が強いと考えている。梅之御殿の中央部には御台所及びその関連施設があり、墨書に書かれた「膳所」も御膳所方としてやや北側に位置している(挿図2)。本遺物は調査区南西隅の築山(五〇号遺構)から出土しており、膳所からはやや離れている。使用している中で破損し、御殿から離れた場所に廃棄したものと推定される。

挿図2 梅之御殿図

  陶磁器類に墨書を施した例はこのほか東大構内の遺跡からも多数確認されている。年代的には江戸初期には少なく、一八世紀後半以降に急激に増加する。墨書は周知のように使用者側で付されるものであり、窯で押される刻印とは性格が異なる。江戸時代の陶磁器には例外を除いて窯元で使用する個人や屋号などの団体名を入れることはない。それは使用する個人や集団と工人集団のあいだに現在のような需要に応じた生産を行うシステムを有していなかったと理解できる。遺跡より出土している墨書のバリエーションは多く、個人名、団体名、紀年銘、購入場所などが書かれている。個人名やそれを短縮した一字を漢字で記したと推定されるものがもっとも多く、特に碗類等小型の器種に多く書かれている。所有形態の変化とみられるこれらの事象は、大名屋敷というある種の公的な場の中においても一八世紀後半以降個別・小単位化が進行していると判断される資料であろう。

(堀内秀樹)


21a 寛永六年銘木簡
一七世紀前半
木に墨書、本郷構内医学部付属病院地点
池出土
全長一七・八cm、幅四・五cm、厚〇・七cm
埋蔵文化財調査室蔵

白木の木札で、完形である。上部中央には小さい孔が穿たれ、両端は斜めに面取りされている。墨書は図の様に三段にわたり、判読できる部分は「寛永六年/三……井□□左衛門/……」、裏面にはやはり三行にわたり「……/三百……拾弐……/此……」と書かれている。
21b 寛永六年銘木簡
一七世紀前半
木に墨書、本郷構内医学部付属病院地点
池出土
遺存部全長一八・〇cm、遺存部幅四・七cm、厚〇・八cm
埋蔵文化財調査室蔵

白木の木札で、脇及び下部を欠損している。上部中央には小さい孔が穿たれ、欠損していない片側の端は斜めに面取りされている。墨書は二段で、判読できる部分は「寛永六年/三月十九日井……」、裏面には三行にわたり「七千六百五拾弐ノ内五百/九貫目 あゆハた□/……」と書かれている。
21c 寛永六年銘木簡
一七世紀前半
木に墨書、本郷構内医学部付属病院地点
池出土
長二二・〇cm、幅三・五cm、厚一・一cm
埋蔵文化財調査室蔵

白木の木簡で、完形である。上部は切り込みが入っている。墨書は二段で、判読できる部分は「[富カ]山二有之[御カ]時[柄カ]之□/雁九ツ入」、裏面には一行「雁九ツ入」と書かれている。

  東京大学本郷キャンパスは周知のように江戸時代を通じて加賀藩上屋敷が経営されていたが、加賀藩が当該地を拝領する元和二〜三(一六一六〜一七)年頃以前には大久保忠隣の屋敷があったとされている。大久保忠隣は本多正純らとの政権抗争に敗れ、慶長一六(一六一五)年に改易となっている。加賀藩は本郷邸拝領当初、下屋敷として使っており、当時上屋敷だった神田筋違邸ともども消失した八百屋お七の大火(天和二[一六八二]年)以降本郷邸が上屋敷となった。医学部附属病院地点の調査区は藩邸の東側、不忍池側に落ちる斜面地に位置している。本郷邸付近の台地東側の地形は複雑に谷が入り組んでおり、加賀藩および加賀藩から当該地を与えられた支藩の大聖寺藩は屋敷地拡大のため、一七世紀代に数メートルに及ぶ大規模な谷の埋立を行っている。今回木簡が出土した池はその谷底付近に確認され、墨書の年代の寛永期は埋立が行われる前であったことがわかる。

  池は不整形を呈しており、南北九メートル、東西七・三メートル、深さ最大二・四メートルを計測し、池盆状のくぼみや尾根状の隆起を有することや鉄分が浸透し硬化した壁面、ヘドロ状の坑底部付近の覆土などの状況から「池」であろうと推定された(挿図1)。ここからは展示される木簡とともに大量のかわらけや白木の折敷、箸などの木製品が出土した(挿図2、3、4)。これら日常生活用具とは異なる同一器種の大量廃棄は非日常的な行為の結果と推定できる。特に白木の折敷や箸は「式正」と呼ばれた正式な接待料理の際に用いられる道具であり、かわらけは折敷の上に料理を盛る皿である(挿図5)。これら出土遺物と木札に記された墨書との関係は極めて深いと考えられる。墨書にみえる寛永六(一六二九)年三月一九日は将軍家、大御所の御成を間近に控え、その準備が行われていたと推定される。その状況を記した『三壷記』からは「其の御用意の品々は御分国は申すに及ばず、京・長崎・出羽・奥州まで……」と各地域から調達していたことが窺える。墨書にみえる「雁」、「あゆ」、または「富山」などの食物名や地名はまさにこの文書を裏付けるような字句であり、この木簡はその輸送に使用された木札であろう。

挿図1 池平面図 挿図2 池出土遺物
挿図4 折敷復元図 挿図3 池出土折敷
挿図5 七五三膳

本郷邸への御成
  墨書の記された寛永六年(一六二九)年は四月二四日に将軍徳川家光、二九日に当時大御所であった徳川秀忠が相次いで本郷邸に御成している。この御成は幕府の権威のデモンストレーション的な性格を持つ「式正の御成」といわれるもので(佐藤一九七四〜八六)、接待する加賀藩も寛永三(一六二六)年から三年がかりで御成御殿を造営し、格式に乗っ取った接待をしている。この「式正の御成」は室町時代後半にほぼ規式が固まり、前半には寝殿における主従関係確認のための「式三献」と称する儀式、後半には演能を含めた餐宴とされた。この寛永六年の御成でも茶事、猿楽能、饗宴、式三献、賜物、献物など「式正の御成」の形式通り行われている。この際家光の時には徳川忠長(駿河)、藤堂高虎、立花宗茂、秀忠の時には徳川頼房(水戸)、藤堂高虎、立花宗茂などがご相伴として来たと記録されているが、その他御伴衆、御徒歩衆、御中間衆、御足軽衆など相当数にのぼったに違いない。それに伴い饗された膳の数もかなりの数にのぼったと推定される。

  周知のように加賀前田家は江戸時代最大の雄藩で、豊臣秀吉死後、一時徳川家と覇権を争う時期があった大名である。こうした経緯ゆえにこの時期には幕藩体制の安定期に入ったとはいえあえて将軍家がこうしたデモンストレーションを行ったと考えられる。前述した佐藤氏の論考によると寛永七(一六三〇)年行われた島津家への御成を最後に外様大名に対する「式正の御成」は行われなくなり、以後親藩・譜代大名に対して私的遊興的な性格が強い御成へと変化するそうである。こうした意味では前田家や島津家は最後まで徳川家が牽制を行うべき大名であったといえるだろう。
(堀内秀樹)



【参考文献】

佐藤豊三、一九七四〜八六、「将軍家「御成」について(一)〜(九)『当流節用料理大全』(『金競叢書』)、徳川黎明会
藤本強・宮崎勝美・萩尾昌枝、一九八七、「東京・東京大学構内遺跡」『木簡研究』九
藤本強、一九九〇、『埋もれた江戸』、平凡社



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