第一部

記載の世界



7a和同開珎(次鋳または隷開)
慶雲五(七〇八)年以降
銅貨、径二・四七cm、重五・六五g

経済学部図書館蔵(1-D-1)普通は「開」字が隷書風に戸になっているのであるが、本品は閉戸のものである。現存は稀れ。(郡司勇夫)
7b和同開珎(小珎)
慶雲五(七〇八)年以降
銅貨、径二・五〇cm、重丁九g

経済学部図書館蔵(2-B-1)本品は「珎」字が他の三文字に比して小さく、「小珎」と呼ばれ、珍重されている。(郡司勇夫)
7c和同開珎(濶縁)
慶雲五(七〇八)年以降
銅貨、径二・四六cm、重二・八五g

経済学部図書館蔵(2-D-3)外縁がやや広いもの。濶縁と呼ばれる。(郡司勇夫)
7d和同開珎(禾和銅)
慶雲五(七〇八)年以降銅貨、径二・三四cm、重四・五g
経済学部図書館蔵(3-A-2)

四文字が比較的大きい。「同」字の口画が特に目立って大きい。また「和」字の禾の末画が長い。和同銭の鋳造末期銭で「禾和同」と呼んでいる。(郡司勇夫)
7e和同開珎(降和)
慶雲五(七〇八)年以降銅貨、径二・四四cm、重二・九g
経済学部図書館蔵(3-E-1)

末期銭。本品は「和」字の口がやや降っており、「降和」と呼ばれる。(郡司勇夫)
7f和同開珎(長珎)
慶雲五(七〇八)年以降銅貨、径二・四七cm、重一・九g
経済学部図書館蔵(3-E-3)

末期銭。本品は「珎」のつくりの竪画が長く、「長珎」と呼ばれる。(郡司勇夫)
7g和同開珎(三つはね)
慶雲五(七〇八)年以降銅貨、径二・四五cm、重二・九g
経済学部図書館蔵(3-F-2)

末期銭。本品は和、同、珎の三文字の、和は扁の末端、同、珎は終画がはねており、これを「三つはね」と呼ぶ。(郡司勇夫)
7h和同開珎(四つはね)
慶雲五(七〇八)年以降銅貨、径二・五〇cm、重四・〇g
経済学部図書館蔵(3-F-3)

末期銭。文字は小さく、濶縁で四文字の末画がはねており、「四つはね」と呼ばれる。(郡司勇夫)
7i和同開珠(鋳造ミス銭)
慶雲五(七〇八)年以降銅貨、径二・四八cm、重二・七五g
経済学部図書館蔵(3-F-1)

末期銭。本品は文字がダブっている鋳造ミスのもの。(郡司勇夫)
8上代判金
一六世紀末金貨、縦一二・九cm、横七・八三cm、重一六六g
経済学部図書館蔵

一六世紀末、日本で鋳造された金貨である。当時の金貨は不定量目であり、裏面に量目が墨書されている。のちに一定金額を表す計数貨幣へと発達する前提として貴重な資料である。裏面に四十四匁一分と墨書されており、足利将軍家の彫金師「後藤家」のサインがあり、天正大判の前身として注目される。(郡司勇夫)
9a天正大判
慶長一七(一六一二)年
金貨、縦一五・六cm、横九・七九cm、重一六五g
経済学部図書館蔵(80-A-1)

天正大判は、豊臣氏により創始され、天正年代のもの、文禄以降のもの、慶長一七年以後のものと三種ある。本品は、慶長期のもの。表面の文字(拾両、後藤、花押)は墨書されたもの。金の品位は推定七三パーセント位。(郡司勇夫)
9b享保大判
享保一〇(一七二五)年
金貨、縦一五・四cm、横九・四八cm、重一六六g
経済学部図書館蔵(83-A-1)

形式は慶長大判とだいたい同じものであるが、表面上下左右に桐極印がやや大きい。裏面左下部の検印「久・石・竹」。品位六七・七。パーセント。(郡司勇夫)
9c万延大判
万延元(一八六〇)年
金貨、縦一三・六cm、横八・一〇cm、重一一四g
経済学部図書館蔵(86-B-1)

万延大判は、他の大判と異なり、小型であり、品位も劣っているので年代印なくとも区別される。表面の切り込みに二種あり。本品は「タガネ」切りのもの。やや少ない。裏面の検印は「吉・宇・寺」。品位は三六・六パーセント。(郡司勇夫)
10a駿河墨書小判
文禄年間(一五九二〜九六)
金貨、縦七・七四cm、横五・一〇cm、重一六・八g
経済学部図書館蔵(80-D-1)

表面「京目壱両(不明字)花押」「駿河」と墨書されている。この様式に類似しているものに「武蔵」とあるものがあり、両者と共に徳川氏による慶長小判の先駆をなすものとされている。本品についての鋳造記録がないが、当時、駿河を領有していた豊臣氏の家臣中村氏によるものとみられている。(郡司勇夫)
10b正徳小判
正徳四(一七一四)年
金貨、縦六・九四cm、横三・七一cm、重一七・六g
経済学部図書館蔵(83-C-2)

形式的には慶長小判と大体同じであるが、文字の書風は大分異なっている。本品は裏面左下部の検印「堺・甚」。別に右下部に「弘」字がある。この極印の意味は究明されていない。品位八四・三パーセント。(郡司勇夫)
10c万延小判
万延元(一八六〇)年
金貨、縦三・六〇cm、横二・五〇cm、重三・三g
経済学部図書館蔵(86-G-1)

万延小判は、他の年代の小判よりもはるかに小型であるので、年代印がつけられていない。あまり小型なので俗間「姫小判」。本品の裏面検印は「大吉」。(郡司勇夫)
11永楽通宝御紋金銭
天正一五(一五八七)年
以降金貨、径二・四三cm、重四・三g
経済学部図書館蔵(70-F-1)

鋳物製ではなく、打刻製のもの。裏面に桐文がある。豊臣秀吉が島津征伐した際、戦功のあった家臣に与えたものといわれている。(郡司勇夫)
12寛永通宝彫母銭
明和六(一七六九)年
銅貨、径二・九五cm、重四・三g
経済学部図書館蔵(53-E-1)

明和六年鋳造のものは、表面の文字大きく、裏面の波紋の数をへらし(十一波と呼ばれた)たので、鋳造量も一段と多くなっている。本品は、分類上、「大玉宝」と呼ばれ、通用銭は未発見の原型彫母銭。(郡司勇夫)
13盛岡七匁銀判
慶応四(一八六八)年
銀判、縦七・二二cm、横五・一〇cm、重二六・二五g
経済学部図書館蔵(95-D-1)

表面に「七匁」、裏面右下部に[山」字の極印が打たれている。八匁銀判製作の折、試鋳されたものといわれている。現存本品のみ。(郡司勇夫)
14安政一分銀
安政六(一八五九)年
銀判、縦二・四六cm、横一・六〇cm、重八・八g
経済学部図書館蔵(93-D-3)

天保一分銀と外観上、ほとんど変わりはないが、区別点は表面の「分」字が入分となっていること、裏面の「是」字の第八画と第九画が交差していないことである。(郡司勇夫)

  江戸時代に広く鋳造・流通した寛永通賓のうち、明和五(一七六八)年から深川十万坪(千田新田)で鋳造が始まった四文通用の大型銭である(細かい話になるが、このような背十一波の四文銭は明和六年から鋳造された)。

  実は、この標本は一般の通用銭ではなく、彫母銭(母銭)と呼ばれるもので、通用銭の凹部に見られる砂目がなく、代わりに繊細な鑿跡が認められる。貨幣鋳造に際して最初に作られる手彫の一枚で、これを母型として鋳型をつくって錫母銭(錫種銭)を鋳し、同じようにくりかえして唐金母銭(唐金種銭)を鋳し、さらにこれによって一般通用銭を鋳造したのである。したがって彫母銭は一種類の寛永通賓(寛永通賓は日本各地で長期にわたり鋳造されたため、字体や大きさ、風貌のちがうものが多数存在する)に対して一枚しか存在しないはずの超珍品ということになる。現存する彫母銭は、何らかの事情によって通用銭が作られることなく終わったものが多いが、本標本も対応する通用銭の実在が知られていない。

  上記のような順序で彫母銭から通用銭を鋳造するようになったのは、寛文年間以後のことであって、寛永通賓が初鋳された寛永一三(一六三六)年から明暦年間のものは、彫母銭から母銭を鋳造し、この母銭に加刀して整え(鋳浚母銭(いさらいぼせん))、これから通用銭を鋳造する方式によった。きれいな通用銭を鋳浚って母銭とすることも行われたらしい。古銭収集家は寛永年間から明暦二年にかけて第二の方法で鋳造されたものを「古寛永」、以後の、第一の方法で鋳造されたものを「新寛永」と呼んで区別しているが、「古寛永」は字体が太く、鋳浚による字体の変異が多いのに対し、「新寛永」は上記のような順序で鋳造され、錫母銭は鋳造が容易であったために字体が繊細で修正がほとんどなく、これによって画一的な銭貨が作られるに至ったのである。

  以上は母銭と通用銭の関係であるが、通用銭の具体的な鋳造の工程は、享保一三(一七二八)年仙台藩石巻における寛永通賓鋳造を描いた絵巻によって知ることができる。原料の調整過程は省略して、鋳造の工程のみを記すと、まず木枠に砂をつめたものを置き、その上に何列にも母銭を並べる。次に上から別の砂を詰めた枠を重ね、上からよく踏んで両面の型を取る。一度開いて溶銅を流し込む湯道を彫り、母銭を外したあと、松のかがり火であぶり、油煙を鋳型表面に付着させる。このあと上下二枚の鋳型の枠を頑丈に縛って固定させ、垂直に立てた位置で溶銅を流し込む。これで湯道の銅でつながった樹枝状のものができる。銭を切り離し、棒に通して周囲を砥石で磨くなどさまざまな調整の工程を経て完成品となる。

  ついでながら、本資料と離れて、わが国における貨幣の鋳造技術について大事な点を一つだけつけ加えると、和銅元(七〇八)年から鋳造された日本最初の貨幣「和同開賓」は、その手本となった唐の「開元通賓」同様、「焼型」すなわち粘土を焼いた鋳型を用いたため、鋳型が残る。事実、山口県長府町長門鋳銭所跡や奈良県平城京右京五条四坊三坪ではその鋳型が出土している。以後の銅銭は、鋳型の残らない「砂型」で鋳造されたらしく一部の私鋳銭を除き鋳型は発見されていない。皇朝十二銭の第五番、富寿神賓以下を鋳型した山口市周防鋳銭司跡でも、多次の発掘調査にかかわらず鋳型はまったく発見されていない。

  なお、明治以後の貨幣は、円盤状の地金を超硬合金のスタンプでプレスして作るのであって、鋳造ではない。この点、刻印を押捺した江戸時代の金銀貨に近いと言えるかもしれない。
(今村啓爾)



古札コレクションは安田保善社総長であった実業家二代目安田善次郎氏が大正二(一九一三)年に経済学部に寄贈したものである。コレクションの総数は約二万五千枚に及び、日本銀行所蔵のものとともに日本古札収集界における有数のものと言われている。内容は藩札三百八種、私札九十六種をはじめ、準藩札、旗本札、模造札、大蔵省押捺札、蔵米切手、中国紙幣等が含まれる。

  今回、展示するのは四種の古札であるが、このうち、福井藩札は万治三(一六六〇)年頃発行された日本最初の藩札で、名古屋藩札はそれに次ぐものと言われている。なお、日本最初の紙幣は慶長五(一六〇〇)年頃発行された伊勢の山田羽書である。



15尾張名古屋藩米金札金一分
寛政四(一七九二)年
古礼、縦一二・四cm、横四・九cm
経済学部図書館蔵(1-29-1)

寛政四年の発行。額面は金壱分(米壱斗五升)。引換所は引替所平田。通用地域は名古屋藩領内。名古屋藩の藩札は寛文六(一六六六)年から発行されている。本札と同類のものに一両、二朱の両札が現存している。本札には※のすかしが入っている。本札の用紙は黄色紙。  (郡司勇夫)
16肥後熊本藩銀札銭百目
享和元(一八〇一)年
古礼、縦一二・八cm、横一九・一cm
経済学部図書館蔵(3-9-1)

享和元年三月の発行。額面は銭百目。引換所は御銀所取扱の松永、西沢、宮田。通用地域は肥後熊本藩領内。同種のものでは銭五十目、二十目、五匁が現存している。取扱者名多数あり。すべて表面墨書。  (郡司勇夫)
17越前福井藩銀札銀二匁
文化九(一八一二)年
古札、縦一六・〇cm、横四・四cm
経済学部図書館蔵(2-4-17)

文化九年の発行。額面は銀弐匁。引換所は駒屋荒木。通用地域は越前福井藩領内。額面は墨書。同類に銀十匁、一匁、五分がある。  (郡司勇夫)
18出雲松江藩連判札銭一貫目
明治二(一八六九)年
古札、縦一八・〇cm、横一二・八cm経済学部図書館蔵(2-15-30)

明治二年七月未三月限の発行。額面は銭壱貫文。引換所は四連名意字郡安津田村役所。通用地域は松江藩領内。本札は五名の連判のもので、連判札と呼ばれる。  (郡司勇夫)




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