第一部

記載の世界



書く、鋳る、打ち出す、摺る

流通貨幣は文字と切り離せない。金、銀、銅、あるいは紙を素材とする貨幣は、文字を鋳られ、打ち出され、摺られることで、素材価値の上に流通価値を付加される。流通貨幣の文字は社会的な承認の証であり、これなくしては機能を全うしない。墨書を欠いた大判は重量で価値の計られるただの金地金にすぎないし、墨書や印版を欠いた古札はただの紙切れにすぎない。貨幣に記載される文字は、いたずらに真似のできぬよう複雑な形態をとることになる。

  また、金属貨幣の鋳造技術は、後に活字の鋳造にそのまま転用されることになる。そのことは、前者について「種銭」(鋳造貨幣の原基となる彫母銭)と言い、後者について「種字」(鋳造活字の原基となる活字)と言うがごとき共通性によってばかりでなく、駿河版活字のような初期鋳造金属活字の成分組成が一部の銅貨のそれと同一であることによっても立証されている。

  なお、今回展示するのは、故藤井栄三郎氏が蒐集した東洋諸国の古代から近代にいたるまでの古貨幣コレクションであり、昭和二(一九二七)年に経済学部へ寄贈されたものである。総数一万二千二百九枚におよぶコレクションは、日本銀行の貨幣博物館と並ぶ、日本で最大規模の東洋古貨幣コレクションである。





5 反首布

刀幣、長一八・二cm、重四八・八g
経済学部図書館蔵

戦国時代の青銅の刀幣で、幣面の文字が大字なので大字刀ともいわれる。この文字は、従来は「齋造邦長法化(=貨)」と読むことが多かったが、近年「齋造邦長大化」と読む説が有力になってきており、「齋」の開国記念貨幣であることがわかる。齋刀にはいくつかの種類があるが、史料や出土状況からみて、この「齋造邦長法(大)化」は同類の反首刀のなかでもっとも少なく、貴重な史料である。  (郡司勇夫)
6 和同開珎(隷開)
慶雲五(七〇八)年以降
銀貨、径二・二九cm、重六・七g
経済学部図書館蔵(A-1-1)

わが国の政府によって最初に作られた貨幣。慶雲五年、武蔵国秩父郡から自然銅が産出し、朝廷に献上された。めでたいこととして年号を和銅と改め、鋳銭司を置き、遣唐使が持ち帰った「開元通寶」をモデルとして和同開称(銀銭、銅銭)を鋳造した。銀銭は現存するものきわめて稀である。また、一緒に展示する銅銭は、字体によって別称を持つ。次鋳または隷開、小称、潤縁、禾和同、降和、長称、三つはね、四つはね、鋳造ミス銭である。  (郡司勇夫)

  わが国で最初に鋳造された貨幣、和同開珎(寳)の銀銭である。

  「和同開珎」の銭名については、これを「かいちん」と読むべきという説があるが、ここでは同が銅の省略であるごとく珎は寳の省略とする説に従いたい。

  和同開寳には大きくわけて二種類がある。「古和同」と呼ばれるものは鋳造技術が未熟でやや厚手、文字が古朴でくっきりとしていないのに対し、「新和同」はすぐれた技術で鋳造され、文字は彫りが深く明瞭で、周囲はろくろ仕上げによったため縁の角がシャープである。「古和同」は多くが銀銭で銅銭は少ないの対し、「新和同」はほとんどが銅銭である。

  『続目本紀』によれば、慶雲五(七〇八)年一月一一日、武蔵国秩父郡より和銅が献上され、元明天皇はこれを喜び、年号を和銅に改めたという。そしてその二月一一日には従五位上多治比真人三宅麻呂を催鋳銭司に任命し、五月一一日にまず銀銭を、ついで八月一〇日から銅銭を発行した。銭名についての記載はなく、さまざまな異説はあるが、この銀銭が「古和同」銀銭であることはまず間違いないところである。「新和同」がいつから鋳造されたのかは十分明らかでないが、次節の貨幣の鋳造で言及する既発見の和同開寳鋳型はすべて「新和同」のものである。銀銭と銅銭の交換比率は養老五(七二一)年の詔では、銀銭一枚が銅銭二十五に当てられている。

  なぜ先に銀銭が鋳造されたのか。この問題は、わが国における貨幣の流通に関して大きな問題を提起しているようにみえる。この銀銭が記念・贈答・恩賞といった特殊な用途のものでなく、実際に流通していたことは、翌和銅二年に出された、高額の物品の購入に限って銀銭を用いてもよいという銀銭の使用制限令、翌三年に出された「天下の銀銭の使用を禁ず」といった禁令が証言するところである。政府は銀銭よりも銅銭の流通を促進しようとしていた。不思議なことに、『日本書紀』によれば、和同開寳より二十五年も前の天武一二(六八三)年四月の条に「今より以後必ず銅銭を用い、銀銭を用いるなかれ」という詔が出されている。しかしこの時期に国産銅銭の存在を認めることは困難であり、記事自体に問題があるのか、輸入銭が使用されていたとみるほかない。

  さて一部の古銭収集家は、円形で中央に小円を穿った「無文銀銭」を、和同開寳にさきだつわが国最古の貨幣ではないかと考えていた。しかるに昨年京都府小倉町別当町遺跡で七世紀後半の土坑の中から「春志」と刻まれた無文銀銭が出土し、偶然にも同じ年、滋賀県甲良町尼子西遺跡(九世紀)でも「伴」「大」と刻まれた無文銀銭が出土した。後者はかなりの伝世を経たものであろう。無文銀銭は天智七(六六八)年創建とされる滋賀県大津市崇福寺塔心礎から十一枚が発見されたことがあり、そのほか大阪、奈良、三重などで同種銀銭の発見例があり、このような貴重なものはめったに紛失、遺棄されるものではないであろうことを考えるならば、このような形の銀製品が予想以上に広く存在したことは間違いなく、素朴な形態や重量を補正するために貼付された銀小片からも、その用途が銀の価値にもとづく交換材であることが首肯される。

  この無文銀銭の流通を傍証すると思われるのが和同開寳の発行から十三年後の養老五(七二一)年に出された詔である。すなわち銀銭(もちろん和同銀銭)・銅銭・銀地金の交換比率について

    銀銭一枚=銅銭二十五枚
    銀地金一両(十匁)=銅銭百枚

  と規定している。これが和同開寳初鋳時の交換比率と同じである保証はないのであるが、これから計算すると、銀銭一枚=銅銭二十五枚=銀地金二・五匁となる。和同銀銭の重さにはばらつきが大きいが、多くは一・五〜一・七匁であるから、この銀銭に対して、地金の約一・五倍の価値を与えようとしたことになる。注意すべきことに、この二・五匁とは無文銀銭一枚のだいたいの重さなのである(崇福寺塔心礎出土品の中に特別に大きな一枚があるが、これは約十匁、すなわち当時の一両で、一般のものの四倍の重さである)。この符合はとても偶然とは思えない。上記交換比率は、地金価値で流通していた無文銀銭を意識して、和銅銀銭一枚=無文銀銭一枚となるように決められたのであろう。ときの政府はその権威によって、約一・五匁の和同銀銭をもって約二・五匁の無文銀銭と等価に交換させ、市中に流通する無文銀銭の回収と和同銀銭への改鋳で利益を挙げることを目論んだといえよう。

  和同銀銭が発行された翌年には早くも銀銭(銅銭には言及なし!)の私鋳を禁ずる詔が出されているが、この早さは尋常でない。この法令の目的が、無文銀銭の流通を阻止して和同銀銭への切り替えを促進することでなければ、政府と同様に民間でも密かに無文銀銭を和同銀銭に改鋳して利益をあげる(正確にいえば価値を確保する)ことが行われていたとしてはじめて理解できることである。

  なお翌養老六年には上記銀地金と銅銭の交換比率を

    銀地金一両(十匁)=銅銭二百枚

  と改めた。銀貨・銅貨の交換比率には触れられていないが、もし従来通りとすると、

    銀地金一両(十匁)=和同銀銭八枚

  となり、一・五匁の銀銭八枚では十二匁になってしまい逆に政府不利となってしまうからこの交換比率はありえない。したがって、養老六年の詔は言外に、銀地金対和同銀銭の旧来の交換比率は当然従来通り、

    銀地金一両(十匁)=和同銀銭四枚

  の維持の意が込められていた(もしくは和同銀銭が地金価値で交換されることを黙認)と理解しなければならない。そしてこの交換比率は次の理由から和同銭初鋳以来のことと思われる。

  和同銀銭は初鋳以来一枚=銀地金二・五匁相当とされていたのであるが、この比率がどの法令にも記されていないのは、当時それが誰にでもわかることであってわざわざ言う必要がなかった。つまり一枚二・五匁の無文銀銭が世の中に広く存在し、和同銀銭一枚=無文銀銭一枚であったためと理解することはできないだろうか。

  養老六年の詔が銅と銀の実勢交換率の急激な変化によって出されたとは考えられないから、それ以前の公定交換比率が、いかに実情を無視した発行者の都合のものであったかがわかる。政府は自分に有利な銀地金:銀銭の交換比率、および銀銭:銅銭の交換比率によって二重に利ザヤを稼ごうとしていたのである。養老六年の交換率はやむをえず実勢に歩みよったものであろう。

  さて最後に問題にしなければならないのは、先述した和銅二年・三年の銀銭の使用制限令、禁止令の意味である。背景として国民の銀使用への愛着があると思われるが、問題の根源は、銀地金:銀銭:銅銭の三者の矛盾した交換比率にあり、どれかを捨てなければこの矛盾は解決できない。おそらく銀地金と和同銀銭の実質価値が近づいていくことは避け難かったであろう。それよりも当時国産化なった銅の対銀価値を維持することがもっとも有利と判断されたのではないだろうか。こう考えると和銅四(七一一)年の蓄銭叙位令にも、単なる貨幣流通促進策とは異なった目論見が見えてくるのである。蓄銭が奨励されたのは、前年に銀銭の使用が禁止されていることからも、単位が貫であることからも銅銭をさすこと疑いない。この法令は一連の、銀銭に対する銅銭強化策の一端として理解されるべきであろう。そもそも蓄銭が貨幣流通にとって好ましいことであるはずがないのである。

  政府は和同開寳に始まる皇朝十二銭改鋳のたびに新銭一枚をもって旧銭十枚にあてるという流通経済にとっての暴挙を繰り返した。当時の政権の貨幣発行の基本的な目的がどこにあったかを見てとることができる。そしてこの目的は和同銭初鋳の段階にまでさかのぼるのである。

  七世紀に無文銀銭という自生的な貨幣流通の萌芽をみながらも、それが順調な発展をとげなかったのは、経済活動の停滞ということもあろうが、むしろ当時の政権が貨幣流通の発達を阻害するような政策を取り続けたことこそ注意されるべきであろう。『続目本紀』貨幣関係記事の字面にとらわれず、本当の意義を理解し、わが国貨幣流通史を根本的に見直すことが必要であると思う。
(今村啓爾)




【註】

匁(銭)という単位は、和同開寳の手本となった唐の開元通賓一枚の重量(当時十分の一両に定められた)に起源にする。重量単位として公定されたのは宋代のことであるが、この単位は中国・日本、過去・現在を通じてほとんど変化しなかったため、本稿にとって都合のよい単位である。匁をもって記述したのはそのためである。



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