なお、ル・コックは前述の探検記のまえがきで1926年開催のトルファン遺品の展覧会関係者・賛同者多数のいちいちに謝辞を述べており、中に「ニューヨークとロンドンの山中商会」の名が見える。山中商会は山中定次郎(1865〜1936年)が築き上げた一大古美術商店で、米英に支店を構えていた(註2)。山中は、東西の古美術品の蒐集・売買を行うと共に、東西古美術展を頻繁に開催、各地で多くの著名人の知遇を得ていたから、ル・コックと直接の取引があった可能性は十分にある(註3)。
註1 ル・コック、1960、『中央アジア発掘記』、木下龍也訳、昭森社
註2 山中定次郎翁傳編纂会、1939、『山中定次郎傳』、昭和14年
註3 なお山中は昭和7年5月大阪美術倶楽部に於てインド、中央アジアなどの発掘品を含む東西古美術展覧会を開催している。
展示歴(5点とも)
昭和51年11月26日、東京大学東洋文化研究所創立記念日研究所所蔵品展示(研究所長室)。目録には、下記のような品名が付されていた。「東トルキスタン(新疆ウイグル自治区)千仏洞壁画残欠将来品(唐?)」
『シルクロードの絵画—中国西域の古代絵画—展』、大和文華館、1988年
塑壁着色、額装
ホータン地域
7世紀頃
伝ル・コック将来品
縦15.4cm、横24.4cm
東洋文化研究所
これら絵画や浮彫は、壁面を格子状に仕切り、そのやや長方形の区画毎に同形同大で正面向き小仏坐像一体を容れ、上下左右に連続して多数を配列することから千仏、あるいは千体仏と呼ばれている。
さて本図は、千仏壁画のわずか1区画半の断片に過ぎない。しかも全身をあらわす向かって右の1体が良好な保存状態とはいえず、また後述する若干のホータン千仏画と多くの共通項を持ちながら、同一作例を知らず、出土地、伝来ルートも明確ではない。しかし、ホータン千仏画の特異な面貌の、おそらく初発的な表現を最もよく示し、またその作画過程をうかがわせる痕跡を遺すなど絵画史上興味深いものがある。
左右2体を総合しながら概略を述べると、各仏は縦約15センチ、横14センチほどの区画内に着衣を通肩にまとい、両手を腹前において、伏弁花の台座上に坐す。頭光、身光を伴うが、敦煌をはじめとする石窟壁画千仏に通有の天蓋や、短冊形は見あたらない。印相については、ほぼ全身を遺す向かって右の仏の、特に両手部分の剥落が著しく明確ではない。白色下地上におおよその形、すなわちホータン地方千仏をはじめ殆どの千仏に共通する定印(禅定印)を結んでいたと推察され、両手先の大雑把な輪郭が茶色線で示されている。なおその輪郭とは多少ずれるが、さらに太い灰色線で偏平な五角形様の形が描かれている。この灰色は衣の緑(緑青)が剥落した下にも認められるが、緑の衣の下全面に塗られていたかは、大部分が剥落して、下地のみが見えている現状では定かでない。向かって左の仏の着衣は茶褐色(註1)である。
左の仏の頭部は概して保存がよい。朱ではなく茶色の力強い鉄線描によって、丸々とはちきれそうな面貌全体が輪郭され、そのカ−ブが三道の線、さらに通肩にまとった衣の、首下から左肩へと廻した衣端がつくるカーブへと連なり、ここにすでに量塊感豊かな造形がみてとれる。墨細線のゆるやかなカーブが作るいわゆる連眉も優美さを添え、また2本の鼻陵をあらわす線もやや中高の独特なもので、頭部をより球形にみせている。目頭から発して上瞼の上へとカーブする眼窩線と下瞼線を茶色で引き、小鼻は茶点を打つのみで強調せず、唇も簡略なタッチでしっかり結ばれ、面貌全体を引き締めている。長めに輪郭をとった中に、2、3の小点を打って耳を表わすのは、後述のカダリク出土の千仏と共通する。
体部は正面向きながら、顔をやや左に向け、さらにあたかも睨むかのような強い眼差しを左へと投げかけているのは右の仏も同様で、強い印象を与える。それは上瞼を丸味のある墨線でくっきり描き、思いきり左に寄せて打った瞳の黒点によるところが大きい。装飾的に並べられた千仏画一般とは異なり、若々しい溌溂さと同時に尊厳さをも備えたこの像は、生命感に溢れ、一断片に過ぎない本図に高い価値を付与している。
右の仏の衣の緑青彩色の残存部分、両膝、蓮台伏弁には墨線による描き起こしの輪郭線、衣文線が残る。しかしその描線は緊張感に乏しく、隣の仏の褐色線を太く使って通肩の衣を力強く輪郭し、細い美しい衣文線を見せるのとは対照的である。また右の仏の顔面中央やや右寄りに制作の初期過程における下当りと思われる2本の茶色線が縦に引かれ両手部分に到っているが、向かって左の仏の顔面中央を髪際から三道にかけて、縦に通る線(顔の各部分の線と同じ茶色でかなり太い)は、右仏のそれと比べ、下描線とは思えないほど謹直に引かれて、むしろ左仏の持つ斉整感を一層際だたせているかのようである。
以下着衣・台座伏蓮弁・頭光・身光・区画内背景地の各色についてを表にまとめてみた。( )内には想定し得る限りにおいて顔料名を記入した。また壁画面は、塑壁におそらく目の細かい塑土を薄く塗り、さらに白色(石膏(註2))で画面下地を作った三層構造とみられる。
向かって左の仏 | 向かって右の仏 | ||
面貌 | 身色 | ごく淡い茶色 | 同左 |
輪郭@BR>唇など | 茶色線で 描き起こす | 同左 | |
頭髪 | 濃青(群青) | 同左か | |
着衣 | 地色 | ごく薄い褐色 (当初は丹) | 緑(緑青) |
衣文s線 | 濃い褐色 (ベンガラ) | 黒線(墨) | |
頭光背 <内側から外側へ> | 灰青色/茶/抹茶 | 薄鼠色/茶/淡色 | |
身光背 <内側から外側へ> | 濃青(群青)/ 濃褐色(ベンガラ) | 茶/濃青(群青) 淡青色/淡茶 | |
台座蓮弁 | 淡青色、墨線で 描き起こす | ||
区画内地色 | 緑(緑青) | 茶 |
千仏は寺院とりわけ石窟壁画の主要な主題であると同時に各区画の小仏の身色・着衣・頭光・身光・台座などの配色に変化と規則性をもたせ、寺院内部空間を荘厳したのである。小仏の各部の配色を8通り、あるいは4通りなどに変化させ、各々を一定の順序のもとに並べて1つのユニットとし、横に繰り返し描くとともにその、上・下段では同配色の像が1コマずつ斜めにずらして配されるため、壁面全体に美しい斜め格子文様が表される(註3)。本壁画断片では、2体の仏の区画に隣接する区画の地色もわずかに見えており、上部の2区画の左が茶色、右が青色、右の仏のさらに右の区画では青色が認められる。従ってこの千仏画の区画地色は、少なくとも緑、茶、青の3色が用いられ、右方へ一段下がりの斜行線的に同色のものが配置されていることが判る。このように各区画地色の配色を変化させるのもまたキジル・ベゼクリクなどの石窟に通有の装飾的手法であるが、敦煌石窟においては、長期にわたる千仏画の歴史において、地色も区画毎に変化させず、常に茶系色(後に緑など)であることは興味深い。なお前表各部の配色を勘案しても本千仏が全体で1ユニット何体構成であったかは判じ難い。
ところで本壁画の千仏が顔を正面に向けず、斜め横を向いているのは、各地に広汎に流布した千仏画像中、以下に述べるスタインの発掘にかかるダンダンウィリク、カダリクなどホ−タン地域出土のもののみに見られることが注目される。しかも他はすべて右を向いており、左を向く本図はさらに特異な存在としなければならない。
ダンダンウィリク第2、第6寺址の千仏壁画は、スタインが第1回探検(1900年)で発見し、撮影している。Ancient Khotan(註4)中の図版によれば、いずれも6体を1ユニットとし、身光背が頭光背を包むアーチ状になっているが、顔の向きは判別し難い。西ベルリン国立博物館に所蔵されているダンダンウィリク出土千仏壁画断片(註5)では、通肩に衣をまとって禅定印を結ぶ各仏が、一様にややうつむき加減で顔を右方に向けている。本壁画のくりくりとした眼を表す上瞼の墨線や思いきり左へ寄せた瞳はみられず、ここでは瞳は目の中心に点じられ、焦点も定かではない。鋭く走る描線もやや粗略な趣があり、全体に類型化がみられ、これを8世紀とすれば(註6)、本図はそれを遡る可能性がある。
スタインは1906年、カダリクの大寺院址の回廊部分から、倒壊してはいるもののかなり大きな千仏画の壁面を発見し、写真に収めている(註7)。下から十数段は千仏が並び、上部には千仏に囲まれて、一坐仏二立脇侍菩薩の説法図を収める一画がある(註8)。これは敦煌莫高窟の最初期から初唐期頃まで盛行した窟内の南北両壁面に仏説法図を描き、それを中心に全壁面を千仏で埋める荘厳法と関連して興味深い。ここでも千仏の顔はいずれも斜め右方を向いており、発見当初の写真からみてあるいはこの寺院堂内本尊へと向けられているのではないか、ひいては寺院内部空間における千仏画にホータン地方独自の意義・機能が存在するのではないかとも考えたが、同壁画は回廊部のものということであり、今後の課題としなければならない(註9)。ここでは千仏は6体をユニットとしており、各区画内では仏の身光が大きく頭光をも包み込んでアーチを形成し、壁面をそれらがリズミカルに彩り装飾効果を高めている。
スタインはこの祠堂遺址をはじめホータン地方の千仏壁画をステンシル使用による大量生産的なものと断定している(註10)。松本榮一氏は、スタインの見解が本壁画断片にも当てはまるか否かの詳細な検討を行い(註11)、前述した両仏の顔面中央部を竪に走る「朱色」(松本論文)の直線が、千体仏を壁画に割り付け、さらに細部をも形造る「見当」の役をなすものであること、向かって右の仏の、現在は全く剥落しているが定印を結んでいた手の部分に一部見える薄鼠色は、当初は板型によって緑衣の下地全面に刷かれ、仏の概略の形を示すためのものであったらしいことなどを観察結果として述べている。
しかし本壁画は、単なる大量生産品と見なすわけには行かない。松本氏が「眉目を引く線や赤衣の衣文を仕上げる描線などに見る手に入った旨味」と述べ、また筆者も先に強調したように数多い千仏遺例にあってむしろ際立って優れた容貌を示し、千仏画像のあるべき様を今日に遺しているとも思われるのである。
さて本壁画断片は、ホータン地域の寺院址から発掘されたと断定してよいが、前記ダンダンウィリク及びカダリク出土のもの(註12)とは一線を画し、いくつかの特徴的で初発性の強い表現から現存ホータン千仏画中では最も古い時期、恐らく7世紀も早い頃のものと思われる。
(田口榮一)
註1 表面は茶褐色であるが、細かく剥落した箇所に明るい茶に近いオレンジ色が見えており、鉛系の丹の使用が推察される。
塑壁着色、額装
ホータン地域・ヴァラワステ
7〜8世紀頃
伝ル・コック将来品
縦35.3cm、横29.0cm
東洋文化研究所
本壁画断片が、かなりな大壁の下部に当たることは、左上婦女像が何らかの尊像の踵を両手で支えていることから推定できよう。また描かれた足のおよその寸法から、その主尊がほぼ2分の1等身程度であったことも目安としてよいであろう。ホータン地域に石窟寺院はなく、寺院址には、地上の木と土とで作った建造物の側壁半分以下が砂中にほぼ埋もれた形で残っており、スタインによる発掘写真では、壁面に並ぶ塑像は胸や腹部以下、壁画は下部のみのものがほとんどである。本壁画もまた、8世紀を過ぎてホータン地域の衰退、イスラム化により倒壊し、おそらく流砂に埋没した寺院内壁画下部の一断片ではあるが、遺されたのが図像上のキーポイントとなる好個の部分であったことは幸いである。
壁画表面は平滑で、壁体中核をなす塑土は見えないが、壁画の中心を竪に走る剥落部分などに、下塗りの粒子の細かい粘土様の灰茶色の層が現れており、その上に明るい白色土(石膏か)が画面下地として薄く施されている。なおごく一部を除き描線はすべて茶褐色であることをまず記しておく。
図は、左上の尊像の両足の踵を両肘や腕で支える婦女像と駱駝に乗る男子像の上部とに分かたれる。尊像両足の踵や左足先の部分は白色を厚めに塗り、恐らくごくわずかに暈をつけ、茶褐色の力のこもった線で輪郭しており、左足では甲と足指の境目の線と指3本が辛うじて残る。尊像は婦人に支えられているとはいえ、足先は踏み割り式の蓮華座を踏まえて立つ。蓮華座の連肉部上面には、小円形を散らし、連肉の輪郭線を1本引いて、その外周に蕋(淡い褐色帯状の上に茶褐色の縦線を並べて表す)を描く。その下周りは緑青の蓮弁であったのがすべて剥落した様子で、緑青の粒子が多少残存している。なお、この足先と蓮華座連肉の表現法は記憶に留めておいて頂きたい。
婦人は、いわゆる胡服の、両襟を折り開きウェストを絞った上衣をつけるが、両手の袖は漏斗状に拡がって袖口を長く垂らしている。袴は大きく膨らんで球状をなし、足先が見えないことからやや不自然ではあるが跪いているのであろうと考えられる。上衣、袴とも純白色で、上衣の両袖、襟、前面衽の合わせ目、裾廻りに濃褐色地に白色の三角や四角の小点を斜めに連ねた模様(模様も2種を交互に並べる)のある縁取りをつけて飾りとしている。衣文線を両肘、胸、腰部にかなり的確に加え、衣下の肉身を感じさせることが注目されよう。
婦人面貌は額から上部を欠くが、白色顔料を厚く密に塗り、引き締まった太めの鉄線描一筆で、右斜め上を向くやや細面の顔がまずしっかり輪郭付けられる。目は右眼窩線と上下瞼の線が遺るのみであるが、長めの直線的な鼻稜線には細線をそえて鼻の隆起を示す。小鼻は描かず唇も短い線のみであるが十分に婦人の気迫が伝わって来る。一方、左手指を細やかに描き出し、支えている筈の足裏を掻いているような動きを見せているのも面白い。袴の下は周囲に飾りのついた敷物か、請け花式蓮華座か判然としない。婦人像の下方は、茶色い地面で緑青に白点2、3で花をあらわした小さな草叢がいくつか見える。
下は草の生えた地面を駱駝に乗った男子が進む。この画面を見る限り、婦人像および彼女が支える尊像との繋がりは全くない。大きな頭光背(楕円形光背で内側をごく淡いピンク、外側を淡青色に塗り分ける)をつけたこの人物は、小像ながら本格的な仏画にも似た面貌描写による。面長ながらふくよかな肉付きのよい白い肌の面貌全体を、粘り気の強いしっかりした輪郭線で形造り、そのカーブを繰り返すように首の三道の線(ここでは2本)が引かれる。眉目、鼻は剥落のため定かではないが、拡大して観察すると赤褐色の眼窩線や下瞼線、さらに上瞼の墨線が手堅い描法によって施され、口も筆先の短いタッチで、上下の唇を描き分け、両端のアクセントも確かに添えられている。大きい耳の耳朶には太い耳當が嵌められ唯一の装身具となっている。的確な鉄線描によるこの格調高い面貌は、キジルや敦煌の壁画よりも焼損した法隆寺金堂壁画諸尊を想起させる。
頭光背と仏教尊像の容貌を備えてはいるが宝冠はつけず、丸くて頂上が2つに分かれた独特の帽子を被り、その後ろからイラン風の2本のリボンが右へ靡いていることも見逃せない。婦女像同様、折襟の上衣をつけ、襟の折り返しにもまた濃褐色地に白色の点線模様が入る。上衣は概ね灰色に見えるが、右肩から下と左袖部分は暗緑の色調で輪郭や衣文は明確ではない。袖は婦女像とは異なり、細い筒袖である。胸前に唐突な感じで左手と指が見えるが、これは駱駝の手綱を引き寄せたポーズであって第2・3指を強く折り曲げて手綱を握る様子を表わし、指と甲に境界線を引く。手綱は、細墨線で輪郭されてやや太く、ゆったりとしたカーブを描いて駱駝の鼻孔に到る。
さて右手は、駱駝の頭上に伸び、白点線入りの袖縁飾りから手先が出ている。掌を上に向け、屈した第2〜第5指の指先が見えるが、手の左半分はちょうど上からの剥落帯にかかって何も確認できるものはない。手綱のもう一方を握るととれないこともないが後述のように右手の持ち物が図像上のキーポイントとなるだけに惜しまれる。駱駝は白色で鼻筋の長く通ったスマートな頭部から首と、1つ目のこぶだけが見えている。乗り手と共に駱駝もまた端正な表現といえよう。駱駝の前方は、灰黒色の刷毛目が見えるのみで、この断片のさらに左に描かれたモチーフについては何ら手がかりがない。
さて松本榮一氏は、尊像の足を両手に支えた婦女像を、金光明最勝王経巻第8「堅牢地神品」などに説かれる堅牢地神にアトリビュートされ、ホータンのラワク塔祉の塑像天部像の足元にあって両手でその足を承ける半身の女神(註1)などに例証を求められた。しかし松本氏は本壁画の図像的な核心をなす尊像主には詳しく言及せずに論を終えている。上記経典の内容からすれば、堅牢地神に足を支えられたのは世尊釈迦ということになろう。
金光明最勝王経には、堅牢地神を大地神女とも説いているが、堅牢地神を同体とするものに地天があり、天女形で地天女とも呼ばれる。一般に地天(地天女)といえば、我国においては、ただちに兜跋毘沙門天が想起される。同天は足下に唐風俗の地天女や尼藍婆・毘藍婆の二鬼を従え、特に地天女が左右に差し出す手を踏むのを形相上の特色としており、中国唐代の請来像で京都・東寺像を最古最優作として広く流布し、多くの遺品が現存する。東寺像が『東宝記』によれば、当初、平安京羅城門楼上に安置されていたように、中国では兜跋毘沙門天が都城の守護神として信仰されており、『宋高僧伝(註2)』によると、唐の玄宗の天宝元年(742年)、吐蕃(チベット)などが西域キジルの安西城を攻撃した時、玄宗の命により不空が毘沙門天に祈ったところ、北の城門に光明大王が現れて、敵群を退散させたとある。この伝説が中国唐代に兜跋毘沙門天の造像の由来になったとされる。
足下の二鬼が省略されて地天女のみが、同天の両足を支える作例も、少なからずあり、画像ではスタインによって敦煌より将来された9世紀末の絹本着色画幡や、五代晋開運四年(947年)銘の木版画像(いずれも大英博物館所蔵)が、また日本仏画ではボストン美術館所蔵で鎌倉時代初期の絹本着色画において、毘沙門天が、全身をあらわした唐装の美女の左右に差し伸べた両手の掌上に立っている。
ところで何らかの像(ここでは地天女のような女神)の両掌を踏まえて、あるいはそれに支えられて立つ尊像は、兜跋毘沙門天以外にはない。本壁画において婦女像が支える尊像もまた兜跋毘沙門天像と考えられる。ただしここで問題となるのは本図の尊像がまず裸足であること、次に婦女に支えられているとはいえ、同時に蓮華座(いわゆる踏割式蓮華座)を踏まえていることである。現存する兜跋毘沙門天は例外なく金鎖甲のような甲を着け、足も脚絆などで固め、沓をはいており、スタインがラワク塔祉で撮影した女神が支えている塑像も、下半身しか残らぬものの、甲を着け沓を履いた天部像に相違ない。松本氏が同写真像を例示しながら本壁画の足の主として兜跋毘沙門天の名を上げなかったのも前記の点を意識してのことであろう。
松本氏が本壁画について意を致したのは、婦女および男子像の服飾であり、特に婦女像の上衣の袖が、中央アジア一般にみられ本壁画男子像がそうであるような窄袖ではなく、漏斗状に拡がっている型式を示すのは、ホータン地方で採用、あるいは考察されたものと断じ、ホータン地域のターリシュラクよりスタインが将来した壁画の婦女の例を示している(註3)。
本壁画がホータン様式とも呼ぶべき優れた表現を示し、なおかつその婦女像の服飾がホータン地域独自のものであることは、再び筆者に、毘沙門天がホータンで特に信仰されたことを想起させる。その根拠は、まず『大唐西域記』巻12の22で、玄奘が長旅の終り、帰国間近に立ち寄った瞿薩旦那国(今日のホータン)について、「王は甚だ勇武で、篤く仏法を信じ、自ら毘沙門天の後裔であるといっている。」と記し、有名な桑蚕伝説と共に毘沙門天による建国の伝説を詳しく記している(註4)。これにより遅くとも7世紀前半までには、ホータンにおいて毘沙門天尊崇が始まっていたと考えられよう。また『図画見聞誌』巻5には、車道政が、玄宗の開元年間(713〜741年)に勅命を受けて于国(ホータン)まで赴き、北方毘沙門天様(兜跋毘沙門天)図像を将来したことが記されている。
毘沙門天、とりわけ兜跋毘沙門天の起源については例えば、ガンダーラ地方出土の3〜4世紀頃の「四天王奉鉢」図浮彫などにみられる四天王の1人、肩にマントを羽織り、脚絆を着けた北方遊牧民の王侯姿の人物に求める説があり(註5)、さらに最近では、ガンダーラ彫刻の「四天王奉鉢」ではなく「出家踰城」に描写された2種類の毘沙門天像の中のイラン風のタイプに直接的に起源するとする新説(註6)もある。毘沙門天信仰の盛んであったホータン地方はこうしたガンダーラの図像を継承し発展させ、その系譜は中央アジア、西域、中国、さらには日本へと展開した。本壁画において、裸足で蓮華座を踏まえるという図像上看過できない点はあるが、この尊像のアトリビューションにおいてホータン地域で様々に伝えられる毘沙門天信仰を全く無視することはできない。
そして、本壁画右下の駱駝に乗る男子像もまた毘沙門天との関連が考えられている。スタインはダンダンウィリクのある住居祉の南東角の砂中から3枚の奉納板を掘り出した。中の1枚は、馬に乗る男子と駱駝に乗る男子とを上下に描いたもので、上の人物は宝冠様のものを被り、頭光をつけ、下の人物も頭光をつける(スタインは両者の神性を示すものとする(註7))。上、下の貴人はいずれも左手に手綱を執り、右手で貝殻型の酒杯、もしくは碗を挙げており、上の貴人のそれには、黒い鳥がまさに飛び込もうとしている。スタインは、同じダンダンウィリクのDX寺院祉から、馬に乗る同様の男子を描いた板絵(こちらでは人物の後ろから鳥が杯を狙っている)を発見している他、DII寺院祉の有名な竜女伝説を絵画化した壁面下部に見える図について、「馬や駱駝に乗った若者たちの行列を描いたもので、若者達は各々右手を伸ばして杯を持ち、一方、その内の1人の上部からは鷹らしい1羽の鳥が、その供物めがけて飛び降りようとしている。このような主題は、この辺りで流行していたらしい」と述べている(註8)。
ところでここでこの人物群と毘沙門天との関連がいわれている。すなわちクレアモント・スクリーン卿がホータンで収集し、現在大英博物館に収蔵されている板絵(残念ながらこの写真図版を筆者はどこにも見ることが出来なかった)に見られる毘沙門天像に向かって騎馬人物が進んでおり、黒い鳥が2羽配されているという(註9)。ここでもう一度、壁画断片の駱駝に騎乗する人物に戻ろう。頭光をつけ、後ろに2本のリボンをなびかせるところ、左手で手綱を執り、右手は何を持っているのか不明であったが、掌と屈した指の描写は、前記2人物を描く板絵と近似しており、右手先の剥落箇所には鳥はともかく杯が描かれてあった可能性は大きい。本壁画の男子人物が、ホータン地方の壁画や板絵にしばしば見られる図像であり、毘沙門天と関連するこの地方のかなり重要な伝説に基づくらしいことも看過できない。しかし堅牢地神(地天女)とみられる婦女像が支える尊像(これまで兜跋毘沙門天の可能性を論じてきた)との関わりは未解決の課題として残ったままである。
最後に本壁画の出土地について、一試案を提示したい。ホータン地域の一遺跡ヴァラワステでスタインが収集した三面四臂のシヴァ神が描かれた壁画断片がインドのニューデリー国立博物館に所蔵されている。M. Bussagli のCentral Asian Painting(註10)に収載されたカラー図版(60頁)でみると、ダンダンウィリク将来の板絵シヴァ神(大英博物館所蔵)と図像的には近似しながら、はるかに動勢と立体感に富んだ像容が見られ、その優れた造形には、まさに鉄線描というにふさわしい強靭な線描力が大いに与っている様に思われる。三目の正面にみられる顔の引き締まった輪郭や首の三道の線、主たる強い線に細い線を沿え、複線を持って作る鼻稜、右脇面の簡略な筆致ながら要を得た口元、屈した指先の表現などは、本壁画の婦女(地天女)像や駱駝に乗る貴人と軌を一にする表現が少なくない(註11)。
しかしニューデリー画は前記のカラー図版を見る限り、全体に黄味が強く白を基調とした本壁画の色感とは異なる。ニューデリー画の基本的図録であるアンドリュースによる大型図録(註12)は巨大で芸大図書館の特別な書架にあったため捜し求め得ずにいたが、ようやく本稿脱稿の段階で発見、ひもといてみると、モノクロ図版ながらニューデリーの壁画断片の全図が収められており、シヴァ神像のさらに右上には蓮華座を踏まえた尊像の右足先端が見え、本壁画の尊像の左足が踏む蓮華座と同一の描写であることを同図録の本文や、1933年ニューデリーのCentral Asian Antiquities Museumで開かれた展覧会図録解説(註13)でも確かめ得た。また両壁画のそれぞれ2分の1の縮小コピーを作り、突き合わせたところ両足や左右の蓮華座の大きさが一致し、両断片の合わせ目の凸凹もほぼ当てはまる。尊像の右足裏を支える婦女像の右手先部分が残念ながら欠落しているものの、両壁画断片が当初連続していたと考えて大過あるまい。従って両壁画断片は大小さまざまな尊像を配したかなりの規模の壁画の連続する一部であったと思われ、そこにまた図像学上の新たな問題が浮かび上がって来る。今後、ニューデリー画の実見調査による検証を経て、さらなる考察を進めたい。
上記のごとく本壁画断片はヴァラワステの出土であること、また年代はとりあえず Bussagli およびニューデリー展図録の推定による7〜8世紀頃としておく。
(田口榮一)
註1 Stein, A., Ancient Khotan, Vol. II, pl. XIV.
塑壁着色、額装
ホータン地域か
8世紀頃
伝ル・コック将来品
縦21.2cm、横22.2cm
東洋文化研究所
同地方の寺院は石窟寺院ではなく地上の建造物で、スタインをはじめとする今世紀初頭の各国調査隊の調査時には、塔は別として多くの寺院はわずかにその最下部が流砂に埋もれていたに過ぎない。本壁画断片は、おそらく既に倒壊して砂中にあった壁画の一部が、本格的な学術調査や発掘とは別にたまたま掘り出され、スタインとは関わりなくヨ−ロッパへ(あるいはル・コックの手を経て)将来されたものと想像される。また他の4点に比べ壁画表面の破損が極めて少なく、衣の錦文様をよくとどめる一方、表面全体が白色様のもので薄く覆われているのも、永く砂中にあった事を示しているように思われる。
しかし保存状態がよく図柄が明瞭であるのに反して、描かれた着衣の表現は、細部の絵画的な処理において著しく曖昧であることをまず指摘しなければなるまい。腹前で衣の上に締めた濃褐色の帯は、幅が一定せず、結び目にも力が込められていない。左右相称的に波型をなす帯の先端部の図式化した描写、帯の輪郭に沿って引かれた粗略な白色線、帯の上に並行している意味不明の緑色(緑青)帯(墨線二条、黄色線一条の衣文線をもつ)、それらの上から手前に折り返すように垂れた衣の一端の無造作と言うよりあまりに無自覚的な造形などがそれである。しっかりした写実の上に理想化を加えた7・8世紀の東洋古典時代、しかも西域南道の要衝にあって、インド・イランからの新しい仏教と美術とをいちはやく自己のものとし、ホ−タン様式とも呼ぶべき独自の造形表現を持ったこの地からの伝来品としてはいささか判然としないものがある。さらに、連珠文や卍文などを構成要素とした衣の文様もまた管見の限り、ホ−タン遺物とほとんど関連せず(註1)、出土地・制作年代の手がかりを見いだし難いので、ここでは、画面細部、とりわけ衣の錦文様を詳察し、責を塞ぐこととする。
白色の画面下地を施した上に塗られた衣の地色は、現状ではくすんだ赤茶一色に見えるが、表面の変色した顔料が点々と剥落した箇所から当初の明るい赤茶色(丹ほど鮮やかなオレンジ色ではない)が認められる。そこに直径9.5センチほどの円文を7個(折り返し部分に見えるものを除く)を描くが、円文様の全容を現すものはない。3つの円文が作る間隙には卍文1個を配する。円文は、まず約3ミリ幅の墨線で円環を作り、そこに白色の珠形60個ほどを列状に並べて大きな連珠文をつくり、その連珠文内側に白色線1本を沿わせる。中心部にも地色上に直接白色の小珠20個ほどを連ねて小連珠文をつくり全体を重圏連珠文とするが、大小の連珠文間に広いスペ−スをとり、卍文と小円文を交互に4個ずつ配す。それらは円内で向かい合う同士をペアとして墨と濃褐色(朱であった可能性はほとんどない)に塗り分け、さらに白色の線で輪郭を施すなど細やかな装飾意識を示すものの、個々の文様の形や位置に精緻さを欠き、卍字の先端を逆方向に描いたものもあるなど杜撰なところが見受けられる。小連珠文の中心にも褐色と白色の丸を組み合わせた文様がある。小連珠文の各白丸の剥落箇所には赤紫色の見えるものが多く、各小連珠文周囲には赤紫系の暈しが施されていた可能性もある。
ところで連珠文様にとって命ともいうべきは、より完璧な円をなすことであり、重圏連珠文なら内外円の大小、連珠の丸の大きさ・数等々のバランスのとれたデザイン感覚が次に要求されよう。例えばキジル第8窟、ドイツ隊のいう十六帯剣者窟壁画の騎士達の着衣などに見る精緻でリズム感溢れる重圏連珠文などと比較して、一種弛緩した印象しか与えない本壁画の衣は、おそらく美しく織り上げられた錦を模しながらその技量及ばずといったところだろう。
なお、文様史の観点から、ササン朝に織り文様として盛行し、7〜8世紀の東アジアへと受け継がれ、中国を経て、正倉院や法隆寺の「獅子狩文錦」などに到る連珠文の系譜との関係、卍字文との組合せやその意義などが今後の課題となろう。またここにみる卍字は、現今日本で多く用いられているいわゆる左万字ではなく、インド彫刻の古いものや奈良薬師寺の薬師三尊像中尊(7〜8世紀)足裏指、応徳涅槃図の釈迦胸部(1086年)などに記されている右万字()であるが、前述のように一部字形を誤るなど、卍字が本来持つ意味、すなわち瑞兆や吉祥を示す徳の集まり、あるいは何等かの標識としての役割を担うものではなく、装飾文として用いられているに過ぎないと思われる。
(田口榮一)
註1 ホ−タン関係の連珠文として、ニュ−デリ−国立博物館所蔵のヴァラワステ将来の礼拝する菩薩を描いたインド風の濃厚な壁画断片(7世紀前期)の菩薩の裳の美しい連珠文がある。本壁画連珠文と同様に外連珠文の内側に白色線を沿わせる、中の文様は植物文で、葉が四つ手状の渦巻きをなし、卍字文風である。この壁画断片については、前記作品23の註13参照。
ところで前述の上野氏の労作である旧ル・コック・コレクション・キジル壁画断片一覧にも記載されているように、各断片のほとんどは、裏打ちの石膏に鉛筆もしくは彫り書きで、第何回探検、キジル石窟、窟寺名(ドイツ隊は各窟に何らかの特徴を見出しその名をつけて呼んだ)、壁面位置、番号などの覚書が施されている。本壁画断片2点も例外ではあるまいと思われるが、堅固な額縁に埋め込まれた上、背面は厚い板がきつくネジ止めされており、今回は敢えて裏板を外して覚書を読むことはしなかった。従って2点の壁画断片の原所在窟や位置、さらには制作年代の判定には、画面そのものの詳細な観察によって、その様式的特徴を把握すること、ドイツ隊が壁画を調査・採集、または撮影した窟についての諸資料・記録との照合作業が解説者に課せられることとなった。前記Sptantikeをはじめ、Alt Kutscha(註6)、Kultstttenを博捜する一方、壁画の現状を収めた各種図録にも手がかりを求めたが、徒労に終った。
しかしその結果として、後述するように2点の壁画断片それぞれに、他には見出し得ない表現をわずかではあるが認めることが出来た。むしろ将来、裏の覚書により原所在窟を明らかにした上で、それらの究明に努めるべきかと思われる。
(田口榮一)
註1 Le Coq, A. von, Die Buddhistische Sptantike in Mittelasien, 7 vols, Berlin, 1922-33
塑壁着色、額装
キジル石窟
7世紀前半頃
ル・コック将来品
縦17.8cm、横14.4cm
東洋文化研究所
やや左に向けられた菩薩の顔面から首下あたりまで遺る身色は白色下地上にやや青味を帯びた灰色が薄く塗られ、白亳の周囲、額の髪際付近、上下瞼の周辺、唇から頬、さらに顎にかけて、また首の三道の線(1本しか見えないが)に沿って、いずれも明るいオレンジ色、恐らく丹の隈が柔らかい調子で施されている。輪郭線をはじめとして面貌細部は茶色味の強い朱細線で描き出される。大きく緩やかなカーブを描く眉は白色線と朱線とが重なり、また長く通った鼻筋も鼻稜を表す白色を先端に行くに従って幅広く塗り、小鼻も白色のタッチを左右に小さく加え、小鼻も含め2本の朱線で描き起こす。やや幅のある上唇を朱線で輪郭し、その上端と人中に白線を引く。やや唇を開いたようにして下唇を小さく輪郭し、下唇の下にも白色線を添える。顎は隈をつけず白色の丸で微妙な突出感を与え、顎の輪郭線に沿って白線を引いている。両眼は、剥落と汚れで明瞭ではないが、右眼は白色の上に上瞼の墨線と朱の眼窩線が、左眼は目頭部分の白色が一部剥落した下に朱の三角が見えており瞳の位置を示す下描的なものであろうか。
キジル石窟の第3区マヤ窟(第5窟、中国編号224窟)壁画でも阿閣世王伝説・分舎利図などにみるような、粘りのある引き締まった描線によって細部まで完璧に洗練され、キジル様式の高みに達した感のある表現に比べると、本図の描線は概して穏やかに引かれ緊張感に乏しい。しかしそこがかえって少女のように初々しく、口元には微かに笑みがたたえられ、全体に癖のない素直さが魅力となっている。
頭飾は、キジル壁画通有の3つの大きなメダイヨンから成るが、一部しか遺らず、各メダイヨンは、白緑を中心に褐色の線と茶色の周縁を廻らすのみで、小白点を連ねた飾りも見られず簡素である。また宝冠のさらに外には頭光背に施されたとみられるラピスラズリの青が点々と遺っている。また左肩下には、何かを持つ手の痕跡が、右肩下には青色の珠を連ねた装身具がわずかに見える。 なおこの像では、髪際線に連なるように白点線が見え、宝冠の一部であろうが、これほど額の間際に施された例は、他に全く見られないようである。 キジル石窟のいわゆる第2インド=イラン様式盛期(7世紀前半頃)に属する愛すべき小品である。
(田口榮一)
塑壁着色
キジル石窟
7世紀
ル・コック将来品
縦13.0cm、横11.9cm
東洋文化研究所
(田口榮一)