灰陶加彩
中国
東魏(544年頃)
高さ23.0cm
資料館建築史部門(K0033)
胎土はきめ細かく灰色。身は中空で、足の下の部分が開いている。身は前半分と後ろ半分が別々の型で作られ、接合されたもので、側面に継ぎ目が残っている。頭は身とは別に作って接合したもののようである。全身に薄く白色の顔料が残り、さらには一部でややくすんだ朱色の顔料が見られる。もとは色鮮やかに塗り分けられていたのであろう。
これと同じ型を利用して作ったと思われるほどよく似た武人俑が、1956年に河北省呉橋県小馬廠村で発見された東魏時代の夫婦合葬墓に副葬されていた。墓から出土した刻字に、妻は興和3年(541年)に、夫は武定2年(544年)に、死亡したことが記されていたので、この武人俑もこの頃につくられたことが分る。
(谷豊信)
灰陶加彩
中国
北朝(6世紀)
高さ23.0cm
資料館建築史部門(K0031)
(谷豊信)
今日では両者あわせて600を超える墓が発掘され、埋葬された人物がミイラとなったもののほか、壁画を含む絵画類、染織品、文書類、陶(木)製明器、儀仗兵を含む人物、動物を表わす塑造俑や木俑など多様な副葬品の存在が知られている。またアスターナから出土した文書類や百点を超える墓誌の研究を通じて、西晋泰始9年(273年)に始まり唐建中三年(782年)にいたる文書の存在が確認されている。この期間は、晋から十六国にいたる第1期(3〜5世紀)、麹氏高昌国の第2期(6〜7世紀中頃)および唐の西州に属していた第3期(7世紀中〜8世紀)に分けられる。大谷探検隊の将来品にはアスターナ出土のものとカラ・ホージャ出土のものの両方が含まれている(「旅順博物館所蔵品展——幻の西域コレクション」図録、1992年12月12日〜1993年1月10日、京都文化博物館、図版39〜43参照)。
一般に木芯塑造像の場合、木片の一端に胸から上の部分に粘土(干割れを防ぐために、草を切ったものや綿、獣毛などを混ぜ合わせる)を巻き付けて頭部を整形し、下地の上から彩色し俑の頭部を仕上げ、細い棒2本で下肢をあらわす(スタイン、Innermost Asia, Ast. iii.2.010など参照)が馬の鞍などに差し込んだ(同書、Ast. iii.2.012など参照)と思われる。両肩から鉄の棒が出るか穴があいていることがあり、これらを利用して紙ないし布製の着物を着せていたと思われる。木造彩色俑の場合、きわめて軽い木で人物像を整形し、ついで下地の上から彩色を加え、墨線を用いて目や髪の生え際などを表現している。
木芯塑像彩色
中国
新疆ウイグル自治区トルファン
唐時代(8世紀)
高さ30.0cm
山中商会より昭和8年3月30日に購入。
大谷探検隊将来品(「特別展シルクロードの絵画」、大和文華館図録による)。
昭和51年11月26日、「東京大学東洋文化研究所創立記念日研究所所蔵品展示」において展示(目録番号26)。
昭和63年4月22日〜5月22日、「特別展シルクロードの絵画—中国西域の古代絵画」(大和文華館)において展示(目録番号64)。
東洋文化研究所
(信祐爾)
木芯塑像彩色
中国
新疆ウイグル自治区トルファン
唐時代(8世紀)
高さ19.0cm
山中商会より昭和8年3月30日に購入。
大谷探検隊将来品(「特別展シルクロードの絵画」、大和文華館図録による)。
昭和51年11月26日、「東京大学東洋文化研究所創立記念日研究所所蔵品展示」において展示(目録番号29)。
昭和63年4月22日〜5月22日、「特別展シルクロードの絵画—中国西域の古代絵画」(大和文華館)において展示(目録番号67)。
東洋文化研究所
(信祐爾)
木造彩色
中国
新疆ウイグル自治区トルファン
唐時代(8世紀)
高さ33.0cm
山中商会より昭和8年3月30日に購入。
大谷探検隊将来品(「特別展シルクロードの絵画」、大和文華館図録による)。
昭和51年11月26日、「東京大学東洋文化研究所創立記念日研究所所蔵品展示」において展示(目録番号27)。
昭和63年4月22日〜5月22日、「特別展シルクロードの絵画—中国西域の古代絵画」(大和文華館)において展示(目録番号66)。
東洋文化研究所
(信祐爾)
木造彩色
中国
新疆ウイグル自治区トルファン
唐時代(8世紀)
高さ11.5cm
山中商会より昭和8年3月30日に購入。
大谷探検隊将来品(「特別展シルクロードの絵画」、大和文華館図録による)。
昭和51年11月26日、「東京大学東洋文化研究所創立記念日研究所所蔵品展示」において展示(目録番号26)。
昭和63年4月22日〜5月22日、「特別展シルクロードの絵画—中国西域の古代絵画」(大和文華館)において展示(目録番号68)。
東洋文化研究所
(信祐爾)
木造彩色
中国
新疆ウイグル自治区トルファン
唐時代(8世紀)
高さ13.0cm、長さ13.0cm
山中商会より昭和8年3月30日に購入。
大谷探検隊将来品(「特別展シルクロードの絵画」、大和文華館図録による)。
昭和51年11月26日、「東京大学東洋文化研究所創立記念日研究所所蔵品展示」において展示(目録番号31)。
東洋文化研究所
(信祐爾)
塑造彩色
中国
唐時代(8世紀)
高さ69.0cm
文学部考古学研究室・列品室
頭に被った兜は前立飾りをはじめ幾つかの装飾がつき、耳を覆う部分は外向きに翻っている。身体に纏った鎧は、頚護、龍頭形の被膊、前胸円護、腹護、護臍円護、骸尾、膝裾、吊腿などからなるいわゆる唐甲制によるものである。
白下地の上に施されていた彩色はかなり剥落しているが、眼の墨彩、甲に朱で描かれた文様などがわずかに残存している。
ずんぐりとした体部に比して頭部がかなり大ぶりにつくられ、全体にやや形式化した表現ながらも、頬から顎にかけての豊かな肉付けや、下半身の纏った衣をリズミカルに反転させるなど工夫を凝らした造形は、敵を威嚇するようなしぐさや恐ろしい形相とあいまって、天王像本来の迫力をよく表わしたものとなっている。
(小泉惠英)
灰色素焼き
中国
西晋時代(3世紀)
通尾高24.3cm、長さ28.0cm
大正3年10月12日、工学部建築史講座受け入れ。
資料館建築史部門(K0010)
西晋時代の墓には、これと類似した、頭や背に角やいぼをもつ獣の像がしばしば副葬される。多くは灰陶(灰色の素焼土器)製であるが、青銅製あるいは青磁製(邵伝国1987、図564)のものもある。尾を高く挙げ、後ろ足を一歩引いて身構える姿勢も共通する。この一群の動物の像には、現実の犀をかなり忠実に模したものがあるため、一般に「犀」と呼ばれている。しかしこれら西晋時代の「犀」の中には、実際の犀とは違った特徴を持つものが少なくない。翼を持つものすらあるのである(河南省1957)。これらの動物像は、犀をモデルとしたにせよ、実は多分に空想的な、特殊な力をもつ動物であったことがわかる。
展示の獣も、背に1本の細長い角を持つこと、顔が豚・牛を思わせることなど、現実の犀を正確に表わしたものとは言い難いが、西晋時代のいわゆる「犀」に属するものと考えられる。出土地は不明であるが、西晋時代の灰陶の「犀」の分布から見て、華北地方であった可能性が高い。
漢時代以降、中国では焼きものなど安価な材料を用いて、人・家畜・家屋・什器などの模型を作り、墓に納める風が盛んになった。この非実用の品物を明器(めいき)と呼んでいる。これもそうした明器の1つである。
西晋の「犀」の特色は、角を前に向けて身構えるという攻撃的な姿勢をとっていることである。外部から侵入する敵から墓を守る役割を与えられていたであろうことは、容易に想像できることである。
漢時代の画像石・画像・青銅鏡などの図像には、頭から前に1本の角を突き出し、足を踏ん張り、尾を高く挙げている獣がしばしば登場する。また数は多くないが、灰陶や木でそうした獣を作り墓に納めた例もある(張朋川・呉怡如)。これらは普通「一角獣」と呼ばれ、西晋時代の「犀」とは区別されている。しかし角を前に突出し、尾を高く挙げ、足を踏ん張るさまはよく似ており、両者が無関係とは思えない。「一角獣」も「犀」も現代の学者が用いている名称である。当時の人々がこれらをどう呼んでいたかを含め、両者の関係を検討する必要があろう。
(谷豊信)