− 西秋 良宏 −
定住、農耕、都市縄文時代と同じ頃、アジア大陸の反対側にある西アジアでは、どんなことがおこっていたのか。図1でわかるように、西アジアは、その間に、旧石器時代から新石器、銅石器時代はもとより金属器の時代、歴史時代にまで移りかわった。社会の体制でいえば、狩猟採集民の世界から、農耕牧畜村落、さらには都市や帝国の時代まで駆け抜けている。1万年もの間、縄文という一つの時代でくくって考えられるほどの安定性、継続性がみられる日本列島の場合とは、きわだった違いだ。
めまぐるしく文化が変遷した西アジアではあるが、歴史的にみると少なくとも次の三つの事件が重要である。定住、農耕、そして都市ないし国家の成立だ。それらが、次の時代の発展をみちびく契機をつくりだしたからである。それぞれを「〜革命」とよぶ考古学者さえいる。
定住は1万2500年前ころ(非補正の放射性炭素年代)に始まった。生活の基本は旧石器時代以来の採集狩猟だから、そのような人々は定住的採集狩猟民ということになる。かれらの文化をナトゥーフ文化という。家屋は円形の竪穴住居で、石の壁や貯蔵穴をもっていた。遺跡から出土する遺物は、後の新石器時代を彷彿とさせるものが多い。たとえば、穀物収穫用の石鎌や、製粉具である石皿、石鉢、石杵が大量に見つかる。農耕が実施されていたのではないかと推察した研究者がいたほどだ。以前から穀物は利用されてはいたが、それよりも格段に重点的な利用がなされていたことは間違いない。穀物の貯蔵が定住を可能にしたのである。
農耕は、1万300年前頃に始まった。これ以降が新石器時代となる。主作物はムギ類とマメ類である。ヤギ、ヒツジなど中形有蹄類の飼育が始まるのはやや遅れる。したがって、新石器時代の前半は穀物栽培と野生動物の狩猟をくみあわせて生活しており、後半になってようやく穀物栽培と家畜飼育にもとづいた本格的な食料生産が始まったことになる。そうした経済の転換が完成したのは、8000年前くらいである。それは、土器が使われ始める時期とほぼ同じ頃にあたる。それをもとに、新石器時代は前期(先土器期)と後期(土器期)に分けられる。
新石器時代の住居は地上式が一般的で、日干しレンガを用いた長方形の建物が好まれた。貯蔵施設やパン焼き窯も備えられており、現在の農村にみられる家屋とほぼ同じ構造をもっている。集落は大形化し、先土器期後半の遺跡では10haに達する集落があらわれている。大形のモニュメントがつくられるのもこの頃である。高さ8mをこえるジェリコの搭はよく知られている。かつては集落防御用とも考えられたが、今では宗教的施設とみる解釈が有力である。当時に戦乱があった証拠は皆無だからだ。また、最近、トルコ領では、まるで古代アンデス神殿を連想させるような巨大石彫が発見され始めている。大きなものでは、高さが3mにも達しており、ライオンや蛇などの動物彫刻がなされている。これもイデオロギーにかかわるものと解釈される。
新石器時代がおわり、金属の使用が徐々に一般化しつつあったのが銅石器時代である。その後半、紀元前4千年紀なかごろに第三の事件がおこった。いわゆる都市文明の出現である。最初の都市は南メソポタミアでうまれた。都市の出現は集落のサイズからみると、画期的な出来事である。数十ha、あるいは100haをこえるものが出現しており、それまでの集落とは比較にならない。イラクのウルク、シリアのハブーバ・カビーラなど広域発掘がなされた遺跡をみると、城壁、神殿、道路、排水路などが計画的かつ密集して建造されていることがわかる。住人は一次産業従事者だけでなく、多種の二次産業にかかわる者が多数おり、行政・宗教地区、軍事地区、工房地区、居住地区などにわかれて居住していた。政治的権力をもったリーダーを頂点とする複雑な階級社会がうまれていたことは明かである。
リーダーたちは権威を維持するための威信材として各地から貴石や特産物を輸入し、同じく権威の象徴であった金属器の製造を独占するためかれらに従属する工芸職人をうみだした。財と権力の集中がいかに高度なものだったかは、シュメール王墓の豪華な副葬品やジッグラットの壮大さをみれば一目瞭然である。
いったんそのような社会がうまれると、その発展は急速であった。最初の都市が生まれてから1000年たらずの間に帝国が誕生し、遠征と征服が繰り返された時代に突入した。アッカドやアッシリア、バビロニアなど都市国家の興亡は、メソポタミア古代文明の華であった。それは、ちょうど縄文時代が終わる前330年頃、アレクサンダー大王の征服までつづいた。
西アジアと縄文
写真1 神像祭祀具(青銅、イラン、ルリスターン、前900-700年頃)。二匹の怪獣を捕まえた神の像。棒にさしこまれたらしいが、どんな使い方をされたのかは不明である。 |
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さて、一方の縄文はどうだろう。西アジアが経験した三つの事件という点からみると、定住は縄文時代にも確実、農耕はやや心もとないが証拠あり、都市については全くその形跡なし、ということになろう。
写真3 石皿と石杵(イラク、テル・サラサート、前6000年頃)。
おそらく穀物の処理にもちいられたもの。
類例は世界各地の先史時代に知られている。
定住が始まったのは一般に早期以降とされている。堅果類を主とした植物質食料と多様な水産資源の開発が始まるのと同じ頃である。西アジアであえて似た文化を探すとすれば、食糧資源のメニューが違うとはいえ、定住型採集狩猟民という点でナトゥーフ文化に対比できる。縄文時代の農耕については、クリの管理、栽培、あるいは、エゴマ、リョクトウ、ヒョウタンなどの小規模栽培がなされていた証拠がみつかっている。さらにはイネすら栽培された地域があったらしい。だが、縄文人の農耕は、採集、狩猟、漁労とくみあわせた総合的な自然開発システムの一部であったから、ほとんどそれのみで生計を維持していた西アジア型の農耕とは大きく違っている。西アジアの新石器時代に匹敵する農耕が始まったのは弥生時代以降である。また、都市は、縄文時代にはついに現れなかった。前期以降になると三内丸山遺跡のように比較的、大きなムラが出現するが、数千人から数万の人口を擁し、階級とフルタイムの分業を社会の基本としていた西アジアのような都市は発達しなかった。
更新世末の遊動的採集狩猟民から定住型採集狩猟民への移行、というところまでは両地域で似ている。ナトゥーフ文化は農耕によらないで定住を達成した文化という点で、縄文研究の比較対象にされることもある。だが、その後、ナトゥーフの社会は数度の大幅なモデルチェンジをへて全く違う社会に変貌してしまった。一方で、縄文の変化は漸進的かつ推移的であって、基本的に定住型狩猟採集社会を維持し続けたようだ。どちらが進んでいたとか優れていたとかではなく、なぜ、そのような進路の違いが生まれたのかを考えてみることは意味がある。
ところで、異なった歩みをみせた両地域にあっても、文化に重大な変化が起こった時期は、実は似ている。西アジアで定住と農耕が始まった時期は、それぞれ縄文時代の草創期、早期の開始期とほぼ一致しているし、都市が誕生したのは縄文がもっとも典型的な姿をみせるようになった前期頃のことだ。一致は、おそらく偶然ではないのだろう。というのは、西アジアで三つの変革がなされたのは、いずれも深刻な気候変動があった時期と一致しているからだ。気候変動が地球規模のものであるのならば、縄文の場合も関連した事件だと推察したくなる。ここでは縄文については述べない。西アジアについて、気候変動と文化変化のプロセスとの関係について簡単にスケッチしておこう。
西アジアで定住的な生活様式がうまれたのは、13000年前ごろから数百年続いたオールデスト・ドリアス期の気候乾燥・寒冷化がきっかけではないかと考えられている。つまり、晩氷期に進んでいた温暖・湿潤化にともなって旧石器時代末の狩猟採集民は、内陸ステップを含む広域に展開していた。ところが、その気候悪化によって、死海地溝帯周辺に集中するようになった。そこは比較的湿潤なため、疎林地域が残っていたからだ。そして人口集中によって生じた資源をめぐるストレスの増加が、集約的な穀物利用、その貯蔵、そして定住という新しい生業・集落システムの発生につながったと考えられるのである。
写真4 死海周辺。
ナトゥーフ文化、初期農耕発展の舞台となった地域。
写真5 ジェリコ。
発掘トレンチ。下層に煉瓦壁の建物がみえる。
また、農耕の開始も気候変動と密接にかかわった現象であったことがわかっている。1万800年前ころから始まるヤンガー・ドリアス期といわれる寒の戻りを引き金にして、ナトゥーフ社会が変質したのである。オールデスト・ドリアス期後の温暖期にふたたび人口を増大させていたナトゥーフ人が、この気候悪化によってまたしても死海地溝帯に集中し、限られた資源を有効に利用するため穀物の集約的開発を選択したらしい。地溝帯低地部に自生していた野生のムギ類を栽培化したのである。そして、気候が湿潤化した先土器新石器時代には西アジア各地に農耕がひろがる。
写真6 ニムルドのジッグラト。
ジッグラトとは煉瓦でつくった基壇をかさねたピラミッド状の建造物。頂丘には聖殿がたてられ、儀式がとりおこなわれた。この例は新アッシリア時代(前900-600年ごろ)のもの。
都市型の社会がうまれた背景は複雑だが、ひとつ確実なのは都市の基本要件である人口の集中が神殿を中心におこったことである。それを南メソポタミアの人々の穀物栽培への傾倒と、ヒプシサーマル期以降に進行した気候乾燥化に対するかれらの適応の結果とみる解釈も可能だ。神殿は都市が出現する前からつくられていた。当初の神殿は集団の精神的結束を象徴するものであると同時に、食料の収集・備蓄機能ももっていたらしい。野生食料が全く乏しい南メソポタミアの大平原に進出した集団の生計基盤は食料生産しかなかった。飢饉への備えとしての穀物類の備蓄ないし奉納がおこなわれ、それを管理する人物が登場したことは想像にかたくない。やがてその権威が世俗化し、奉納を徴税とするような新しい社会を作り出したようだ。文字の使用も、当初は神殿へのモノの出入りを記録するための道具として始まっている。
以上、述べたのは非常に単純化した説明だ。実際には時々の人々のおかれていた歴史的、技術的条件、また周辺集団との関係、およびかれらの文化的特性など、多くの要因を考慮しないと満足な説明はできない。ただ、自然環境が文化の変化にとって重要なファクターの一つであったことも一方で事実であろう。自然が変化した時期と文化変化の時期が一致することのみを強調しても意味がない。自然環境の変化は大なり小なり、ほとんどいつの時期にも認められるからだ。文化的な適応の中身やメカニズム、それを必要とした社会の背景に思いをよせることが肝要である。
西アジアの自然環境の特徴は、その多様性にある。海もあれば、山岳、湿地、草原、大河、そして砂漠まで変異に富んでいる。日本列島も資源が多様といわれるが、決定的に違うのは分布のありかただ。狭い地域にいながら水陸ともさまざまな資源が得られるのが日本列島であるならば、一歩、地域を違えれば資源の性質ががらっと変わるのが西アジアである。環境のモザイクが粗いのである。狭い地域にあっては資源が単調でさえある。しかも、植物相も動物相も日本列島ほど豊かではなく、雨量との微妙なバランスの中で保たれている。時間的にも、微妙な気候変動で資源の質が一変する余地が常にあるのである。そんな状況にあったからこそ、乾燥期には湿潤地帯の資源をめぐる競合対策が必要になったし、潅漑農耕以外生存のすべがない南メソポタミアでは飢饉対策が必要になったのであろう。
ずいぶん異なった環境にあって生計の基本も違っていたのに、西アジアとほぼ同じ頃、社会を変えていった縄文人の適応のメカニズムはどう説明されるのか、他の地域の研究者も興味をよせている。