− 西田 泰民 −
土器製作の始まりの頃2万年前にピークを迎えた氷河期が終わる頃、東アジア全体で見れば北よりに細石器文化がそして南よりに剥片・礫器文化が広く分布しており、日本列島は細石器の分布域にあった。しかし幅が1cmにもみたない細石刃を一つの石核から次々と量産する技術には北海道と九州では大きな違いがあり、列島内にもそのバリエーションがあり、すでに1系統ではなかったことを伺わせている。そうした中で次第に土器が生活の中に取り入れられていったようであり、同時期に石器の組み合わせも大きな変化を見せた。東北日本では細石器が姿を消して大型石器が特徴的な1時期があり、その時には土器が作られ始めている。そしてほどなく大きさからも形からも矢尻に違いない石器が現れる。ところが九州では土器作りが本格化しても細石器が使われ続けるのである。大型石器の組み合わせは沿海州地域のオシポフカ文化に類似しており、北方系と言われているが、ルートに当たるべき北海道では未だに1万年を越える草創期の遺跡がほとんど見つかっていない問題がある。またもう一方の九州への渡り道に当たる朝鮮半島でも土器出現期の遺跡がまだ見つかっていないため、大陸側との対応がつけられない状態にある。中国では南部で土器が出土する遺跡の年代がさかのぼりつつあるが、未だその上限は見えておらず、無土器の時代から土器のある時代への推移が確実につかめる遺跡の報告がない。大陸側ではようやく土器初現期の遺跡が発見され始めた段階なのである。
したがって日本列島最初の土器文化が外来からの持ち込みによって成立したか、独自に成立したかはまだ判断がつかない状態であるが、先に述べたような石器の内容に差があり、外来の文化が一様に拡散したようには見えない。もっとも縄文時代の始まりの頃は気候変動の大きな時期でもあり、変化に富む列島の環境の中で均質な内容の生活が送られるはずもなかった。
さて、土器つくり導入のきっかけであるが、食生活に関わっていたことは間違いないが、もちろん自然条件が異なる東アジアのどこでも同じ食物の調理に使ったわけではない。中国では早くから稲やその他の穀物栽培が始まっていた可能性が高いが、ドングリ類の比重も高い時期があったらしいことが浙江省跨湖橋遺跡のドングリ貯蔵穴の例でも知られる。確実なのは、一定期間の定住生活や多くの燃料を必要とする土器作りを受け入れる下地がかなり早い段階にこの地域にあったということであり、おそらくその労力以上のメリットを土器が提供したと言うことである。
縄文時代の遺跡から出土する大陸系文物
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これまでごくわずかに大陸のものに酷似する遺物が国内から出土しているが、明確に伝播ルートが解明されたり、直接の系譜関係が明らかにされた例は極めて少ない。たとえば、山形県内で青銅のナイフが採集されており、形態としては殷代のものに類似し、周辺から縄文時代後期から晩期の遺物が出土するが、確実に縄文時代のどの時期の層に入っていたのかはもはやわからず、その他の青銅製品も大陸系遺物も発見されていない。
後に述べる極東平底土器の時代の前半期に石刃鏃という独特の矢尻を用いる文化が広く東北アジアに分布していた。これと同じ形態の矢尻を持つ文化が縄文時代早期に北海道の東部にだけ現れる時期があり、狩猟主体の道具が目立ち、同時期の他地域の遺跡にはある植物加工用の石器が見られないことから、異質性がうかがえ、おそらく大陸系統の文化の直接の到来があったのではないかと想像できる。縄文時代の中では終末期に九州北部に水田耕作や磨製石剣など大陸からの技術や道具がもたらされた時までこれほど明確に異文化の渡来が明らかな例はない。
この石刃鏃文化の遺跡で知られ、また最近類例が増えて注目を集めているのが、石製アクセサリーである。石製の装身具の中でも、細い切り込みのある環形の耳飾り(状耳飾り)が中国からも出土することは以前から気づかれていた。しかし、分布が長江流域の中国南部に偏っていたために直接の関係を想定しがたい状況であったが、より古いタイプのものが中国北部や沿海州の遺跡からも発見されるようになり、北回りの結びつきが想定できるようになった。重要なのは同じような形態の耳飾りだけが出土しているのではなく、その他の数種の特定の石製アクセサリーと一緒にまとまりとして出土することである。このことから、単に形態だけが類似する他人のそら似ではなく、どのような形の装身具を用いるかの情報が共有されていた可能性が高いのである。ただし、それ以外の遺物には共通点は見いだせず、装身具のみが伝わったかのように見えるので、どのような形の情報交換が行われたのかの解釈は今後の課題である。
アジア北東部の先史文化と日本列島最近、朝鮮半島北部から遼東半島、アムール川流域、沿海州にかけての地域に展開した初期の土器を極東平底土器と呼ぶことが提唱されている。土器を持ちながらも狩猟採集を主とした未だ農耕が本格化していない生活形態をとる人々が暮らしていた地域が多かったと見られ、海岸部には貝塚も形成されるなど、縄文時代の人々と共通点を持つ。まだ調査遺跡が少ないこともあって土器出現期から連綿と文化の変遷がたどられているわけではないが、現在のところ各地域で集落が出そろうのが前6千年紀頃で、前4千年紀に後半段階へ変容し、前2千年紀に終わる。中国北部に広がる興隆窪文化には2万平方メートルにも及ぶ広さの集落があり、どうしてこのような大集落が成立しえたかが問題になっている。日本でも青森県三内丸山遺跡のような大規模集落の成立の問題があり、日本の研究者からも注目を集めている。
やや粗い数字ではあるが、この文化の画期となっている前4千年紀、前2千年紀はそれぞれ縄文時代で言えば、前者は早期と前期、後者は中期と後期の境にあたる。前者は世界的な温暖期のピークを迎えた時期でもあり、安定した集落が成立するのが縄文前期であり、爆発的な中期の高揚の後におそらくは冷涼化にともなう環境の変化にも影響されて、土器だけでなく、集落の立地も大きく変容するのが後期である。マクロに見れば、東アジアの中で同じような時期に変化が起きていると見ることもできよう。ただし大陸での2千年紀の変化は国家とよべる巨大な社会組織が黄河流域に形成されたことと無関係ではない。
東アジアの中の縄文時代の前提では、縄文文化を極東平底土器の時代の文化の一つと考えてよいのだろうか。実は日本と大陸側の先史文化相互の比較をする前に、日本とその他のアジア地域では考古学で言う「文化」の意味する範囲が違うので、認識しておく必要がある。
大まかな捉え方で言うならば、北海道から九州の4島では土器の製作開始から水田耕作が本格化するまで、他の地域とは区別できる独自の物質文化を持っており、沖縄でもそのバリエーションととらえることが出来る文化の推移が見られた。普通に用いられている縄文文化とはその期間の文化の総称であり、どちらかといえば拡大解釈をした結果の名称である。それに対して、大陸側ではいくつか特徴のある遺跡に代表される出土物の内容から文化が定義されており、はるかに細かな単位で文化名が使用されている。縄文時代に当てはめるならば、亀が岡文化とか黒色磨研土器文化というくらいの単位である。逆に縄文時代が1万年続いたと言う表現は、たとえば新石器時代が1万年続いたというのにほぼ等しいのであり、縄文文化と良渚文化や紅山文化をもし直接比較するならば、初めから単位が違うものを比較していることになる。縄文文化が多様性に富むといわれるのもその点から見れば当然であって、きわめて長期間にわたる様々な地域の出土資料を総合して縄文文化像を作り上げているために、やや極端な言い方になるが、縄文文化の要素すべてを備えた遺跡は現実には存在しないのである。縄文時代の見直しとはマスメディアでも言われるようになった文化内容の再評価だけでは不十分なのである。
文献について、大貫静夫、中村慎一、川崎保の3方に御世話になったことを記して謝辞としたい。