広い視野で縄文時代を見る

縄文文化

− 西本 豊弘 −



はじめに

氷河期が終わった後の後氷期、紀元前約1万年から紀元前約500年頃の間、日本列島には縄文文化がみられた。この時代には、狩猟・漁労・採集活動が行われ、縄文土器が多量に使用された。最近の研究によると、縄文文化は日本列島の中のみで自立発展したのではなく、約1万年の間に様々な列島外からの影響を受けていたことが明らかとなった。また、当時の人々は単純な狩猟採集民ではなく、野菜類の栽培や、後には穀物の生産を行い、イヌとブタも飼育を行っていたことが明らかになりつつある。そして、現在、縄文文化の成立の問題や、北と南の文化的差異や時代的変遷が問題になっている。


縄文文化のはじまり

旧石器時代の終末から縄文時代への移行、つまり縄文時代草創期の状況については、現在のところよく分からなかっていない。細石刃石器をもつグループが、大陸と同様に日本にも存在したが、そのグループの旧石器文化から縄文文化への変化はたどれていない。南九州では、上野原遺跡でみられるように縄文早期の段階で、精緻な土器を伴う文化がみられたが、それ以降、継続されたか否かは不明である。一方、北海道では、後氷期以降の寒冷気候のためか、北海道北半から東部にかけては縄文早期の文化は見られない。当時、北海道には、石刃鏃をもつグループが北方から南下したといわれている。この転換期の生業は、おそらく旧石器時代以来の狩猟・漁労・採集が主体であったと思われる。


縄文文化の地域性

一般に、縄文土器が多く作られるのは、縄文早期末葉以降である。縄文早期末葉の土器は、沖縄、九州から北海道南部まで北上し、縄文前期にはほぼ日本列島全域が縄文文化圏となる。この縄文文化の拡散の要因の1つは、後氷期の温暖化現象(縄文海進)によるもので、南方から北方への縄文人の北上があったと思われる。これは、東アジアにおける新石器文化の北上の一環である。この縄文人はイヌをつれており、ヒョウタンやウリ、ゴボウなどの栽培植物を伴っていたと思われる。それらの栽培の起源は、縄文早期初頭まで遡るかもしれない。これ以降、徐々に寒冷化するにしたがって、日本列島各地では縄文文化に様々な地域性がみられるようになる。

縄文中期後半から後期初頭には、新たな外からの文化の伝来があったと推測される。少なくとも縄文後期以降になると、遺跡の立地は低地に下り、集落が小さくなる傾向がある。土器も小型化し、精製土器と粗製土器が明確に区分されるようになる。また、西日本においては、稲作が行われていた可能性がある。

縄文時代は、東日本に遺跡が多く、西日本では少ないといわれているが、このような縄文文化の西と東の差異は、縄文時代中期から後期にかけて明瞭化する。この差異は、気候によるものだけではなく、農耕を含む生業の相違やそれにともなう社会組織の差異も反映したものであろう。


三内丸山遺跡の縄文文化

東日本の縄文文化の中で、円筒土器をもつグループは、土器を多用したことで知られている。円筒土器文化は縄文前期後半から中期まで存在したが、その特徴とされる円筒型の土器の由来は、明らかではない。この円筒土器文化圏は、北海道中部から東北地方北部の範囲に限られており、その遺跡は巨大な集落を構成することで知られている。その代表の1つが青森市三内丸山遺跡である。この遺跡では、800件以上の竪穴式住居が発掘され、高床式建物も数百以上が検出された。また、この遺跡の縄文中期の段階では、3種類の墓がつくられており、直径5m程度の竪穴式住居と直径30mの大型住居の相違など、一般に考えられるような平等な社会ではなかったと考えられている。多くの高床式倉庫の存在から、安定した生活が営まれていたことが推測される。さらに、この遺跡を中心として、ヒスイや黒曜石の交換だけではなく、海魚も山奥の遺跡にまで持ち込まれているなど、交換活動がさかんであったことが分かっている。


縄文時代の終末

縄文時代は、北九州に大陸からの渡来人が大挙流入し、弥生文化がはじまったことにより終末を迎えた。渡来した人々がどれくらいの人数であったのか、また、西日本の縄文人がどのように弥生文化を受け入れていったのかに関する研究が進められており、弥生文化は、徐々に北上していったものと考えられている。渡来人の日本列島流入は、南方と北方にも広がり、北海道では続縄文文化を生み出した。その流入のきっかけは、大陸での政治的変動であろう。


おわりに

これまで述べたように、縄文文化についての一般的な考え方は、東日本の縄文文化で知られているものである。それに対して西日本では、縄文土器が少なく、竪穴式住居も少ない。そのため西日本においては、縄文時代の遺跡が少なく、人口も少なかったと思われているが、低湿地の調査が進むにつれ、遺跡の検出量は多くなってきている。このことから、日本列島の北と南においてみられる縄文文化の地域性を無視することはできない。また、時代的変化もかなり大きかったと考えられる。今後、縄文文化の研究においては、地域性および時代的変遷の再検討が必要である。