小野秀雄は『かわら版物語』を、彼がかわら版の収集を始めることになったきっかけについての二つのエピソードを語るところから始めている。
ひとつは大正五年(一九一六)、彼がまだ新聞記者だった頃、戸川残花を訪問して地震津波のかわら版をはじめて見せてもらったこと。また大正九年(一九二〇)に、杉浦丘園を訪れて嘉永七年の大地震と元治元年の京やけについての六〇枚に及ぶかわら版を見せてもらうこと。小野はこのときの思い出として、予想をはるかに超えるかわら版を目の当たりにして、「どうメモをとってよいかわからなかった」と書いている。とはいえ戸川のかわら版を見た後も、時々古本屋にかわら版を勧められて買うことがあっても、それらを「あまり気にとめなかった」とも書いているから、この時点ではまだ小野のかわら版に対する取り組みは本格的ではなかったようだ。
もうひとつは、ドイツのフルッグブラットやイギリスのブロードサイドとの出会いについてである。小野は海外の新聞史研究を学ぶなかで、ドイツにも一五世紀末からちょうど日本のかわら版に相当するような一枚刷りの印刷物があり、「フルッグブラット」と呼ばれていたこと、またイギリスにも「ブロードサイド」と呼ばれる同種の印刷物があることを知る。大正一二年(一九二三)、ヨーロッパを訪れた際にこれらについての研究書をかなり手に入れ、また昭和三年(一九二八)、ドイツを再訪した折にはミュンヘンの古書店でフルッグブラット十数種を含む資料を購入している。これらのいわば西洋のかわら版との出会いは、小野が日本でかわら版研究を本格化することになる大きなきっかけであった。
ここにはいささか複雑な問題が孕まれている。一方で、小野のかわら版や新聞錦絵の研究には、彼の狭義の新聞学には回収され尽くさない対象への広がりのある興味が充溢している。初期の小野は『日本新聞発達史』で、幕末維新期からの近代新聞の形成と発展を綿密な資料との格闘のなかから描き出した。晩年の『かわら版物語』にも、この初期の著作に通ずる、資料の細部から浮かび上がってくる問題の固有性を大切にしていく姿勢を見て取ることができる。だが他方、小野はそのかわら版研究においてすら、西洋との対比において日本の個性をエッセンシャルなものとして見出していくという、明治以来、多くの歴史研究やアカデミズムが陥ってきたパターンを抜け出してはいなかったのではないか。
実際、彼は同書で、かわら版のような大衆的なニュース出版物が継続的に刷られてきたのは、「東洋においては我方だけのことであって、久しく日本の文化が依存していた支那においても見られなかった現象」だが、このように「東洋においては日本にしかない文化財」であっても、「早く文化の発達した欧州においては、発生も遥かに早く、その量も日本を凌ぐ」と語っていた。ここに見られるのは、彼がかつて新聞の発達は、「地理的には其地方の文化と合致し、歴史的には時代の文化と一致」しなければならず、「我国の新聞紙も我国の文化と其起源発達を同じうすること欧米の新聞紙と異なるところがない」と述べていた発想の繰り返しである。多くの近代知と同様、ここで小野は、「西洋」という鏡に照らして「日本」の個性と「東洋」のなかでの優越性を確認する図式をほとんど無自覚なまま踏襲している。
小野のかわら版研究の前提をなしているこうした二面性は、日本における新聞学の確立に一生を賭けた彼の人生そのものの二面性とも密接に絡まりあっていた。一方で、小野は戦前、日本のアカデミズム体制のなかではあくまでマージナルな存在だった。もともと萬朝報の記者で、東京日日新聞に移ってから商業化していく新聞社に疑問を感じて研究の世界に入っていった小野は、一九二〇年代には石井研堂や宮武外骨などとともに明治文化研究会の主要なメンバーとなり、同研究会の機関誌に盛んに新聞史の論考を書いている。当時、新聞やジャーナリズムについて考えることは民間レベルで一種のブームであり、小野もそうした二〇年代の民間の新聞研究の興隆のなかから現われた研究者のひとりだったのだ。
しかし小野は、海外の新聞研究を学び、実際に欧米各国をまわってドイツやアメリカでの新聞学の研究教育機関の目覚しい発展を目の当たりにするなかで、日本の大学にもそれらをモデルにした新聞学の研究教育機関を作っていこうと本気で考えるようになる。そして帰国後、新聞界や渋沢栄一の協力を得て、東京帝国大学のなかに新聞学研究の寄付講座を開設する準備を整えるのである。ところがこの構想は、実現直前まできて文学部の反対でつぶされてしまう。直接には、「新聞学なるものの学問としての性質」が、「純学理上の研究」を旨とする帝国大学の講座としては不適当であるとの理由からであった。
結局、寄付講座の代替案として、翌年、東京帝大新聞研究室が発足し、小野はこの研究室の嘱託の身分で実質的な運営責任者となる。これが日本初の大学のなかに置かれた新聞学研究機関となっていくわけだが、ここでは小野が文学部嘱託という地位に甘んじなければならなかったことに留意しておきたい。やがて昭和一三年(一九三八)に五三歳で正規の講師になるまで、小野はそのまま不安定な嘱託生活を続けているのだ。戦後、日本における制度としての新聞学の中心に立つ小野は、しかし一九三〇年代に至ってもまだ当時の大学アカデミズムのなかではまったく周縁的な位置に押しやられていた。
ところがこの一九三〇年代には、新聞学や宣伝学、世論調査などをめぐる知が、この時代の総力戦体制にとって有用なものと見なされ始めてもいたのである。小野もまた、この動きに無縁ではありえなかった。昭和一二年(一九三七)、彼は発足したての内閣情報部の嘱託に就任する。その後、情報部は情報局となるが、小野はここでも嘱託に就任している。
つまり小野をはじめ、一九三〇年代に新聞学を構想していた人々の前には二つの現実が横たわっていた。一方で、彼らの新聞学が標榜するような応用的な知には、当時の大学アカデミズムのなかで周縁的な位置しか与えられなかった。その一方で、大学の外、つまり国家的な知の動員体制のなかでは、こうした応用的で実践的な知こそ必要とされていた。こうした緊張関係のなかで、小野は大学アカデミズムのなかに新聞学を制度として確立しようと努力を重ねていたのである。
かわら版は、このような新聞学の制度的構築へと向かう小野の実践のなかで、長らく背景化されてきた対象のようにも思われる。実際、小野がかわら版と出会い、その重要性を認識するのは一九二〇年代だったのに、彼が実際に『かわら版物語』を書いていくのは六〇年代のことである。この間、彼はかわら版の収集は続けるものの、これを自身の研究の前面に掲げてはいない。
そしてまさにこの三〇年間は、小野が日本の大学アカデミズムのなかでの新聞学の制度化に向けて邁進していた時代だった。戦中から戦後にかけて、小野はあくまで正統的な近代日本の新聞史を、またドイツにおける新聞学の理論的展開を視野に入れた議論を正面に立ててきた。そしてそうした新聞学設立の構想がほぼ成就される一九五〇年代を経て、六〇年代になってかわら版や新聞錦絵のような「前史」を本格的にまとめていくのである。そしてこのとき、かつてのかわら版との出会いの記憶が召還され、この「前近代」のメディアに「西洋」の新聞前史にも相当する、日本のメディア発達史の文化的固有性を証明するものという位置づけがなされていくのである。
今回、我々が試みたのは、このような小野のまなざしを、時代のイデオロギーとして外側から批判するのではなく、むしろ内側から、彼自身が集めた資料に内在しながら、問い直していくことであった。この作業が果たしてどこまで成功したか、その判断は、展覧会に来てくださった一人ひとりの皆様に委ねることとしよう。