わが国のジャーナリズム史研究の草分けである小野秀雄がかわら版のコレクションに取り組むにいたる最初のきっかけは、一九二二年(大正十一)から翌年にかけて行なわれたドイツとイギリスへの遊学だったようである。実際には、彼が本格的にかわら版の収集に着手するのは一九三一年(昭和六)以降のことであるが、小野自身が『かわら版物語』のはしがきで語っているこのエピソードが意味しているところを、ここで少し考えてみたい。
彼が二つの地を訪ねて知ったことは、ドイツではフルッグブラット(Flugblatt)、イギリスではブロードサイド(broadside)と呼ばれる、わが国のかわら版と同質の一枚摺りないしは数頁綴りの民衆読み物が数多くコレクションされ、またその研究も大いに盛んであるという事実であった。
当時、『日本新聞発達史』を書き上げ、ドイツ新聞研究に取り組もうとしていた小野は、この地でフルッグブラットのコレクションを見ようと手をつくしたが、どうやら機会を逸しているようだ。イギリスでは、大英博物館所蔵のコレクションを見ることができた。彼が閲覧したのは、おそらく一八世紀後半、ロクスバラ男爵によって収集されたもので、ケンブリッジ大学のピープス・コレクション、オックスフォード大学のボドリアン・コレクション、そしてグラスゴー大学のユーイング・コレクションと並ぶブロードサイドの一大コレクションである。
もっとも、ドイツで実際のコレクションを見ることができなかったことが、おそらくのちに彼をして、この地で最も古い年代に属する、いくつかのフルッグブラットの収集に駆りたてたといえよう。一五三〇年発行の「トルコ軍のウィーン包囲」の実物や、あるいはもっと古い一五〇八年発行の「ブラジル探検記」の複製などを入手しているのである( 図314)。
さて、小野秀雄がわが国の近代ジャーナリズムの前史としてのかわら版の重要性を意識するにいたる契機として、ヨーロッパにおける同種の民衆読み物の存在、そしてその膨大な収集と歴史的研究の蓄積への着目があったという事実には、いったいどのような意味がひそんでいるのだろうか。
ところで、一九四九年(昭和二四)に刊行された『内外新聞小史』と題された本の序文で、彼は大変興味深いことを語っている。この小著は、自分が現在取り組んでいる新聞の発生およびその発達に関する大部の書物の中からその要点だけを選んで書いたものだ。本論の方は完成も間近かだから、詳しいことはそちらが出たときにぜひ読んでほしい、と。残念なことに、その著作は世に出ることがなかったが、小野自身によれば、その本は「世界史的見地」から書き出されたものであったようである。
私は、小野秀雄をしてわが国のかわら版の収集に駆りたてたのも、この「世界史的見地」ではなかったかと推測する。というのも、彼がヨーロッパ遊学中に入手したフルッグブラットやブロードサイドに関する書物がことごとく文化史的研究書だったからだ。小野は、当時すでに歴史の闇の彼方に失われつつあったかわら版というエフェメラルな「文化現象」を、ただ単に近代ジャーナリズムの前史的存在として保存することの緊急性を意識していただけでなく、世界文化史的な地平で研究することの必要性を自覚していたにちがいないのである。
さらにこのような推測を裏づけるものとして、ここで、一九三二年(昭和七)の『新聞発生試論』の中で彼が唱えている「原報道」という概念に触れておきたい。
この小著は、一六世紀後半ドイツのケルンで発行された書簡新聞「フッガー・ツアイトゥンゲン」について書かれたものであるが、小野は、新聞記者の発生について論じる過程でこの概念を提示している。当時のドイツ初期新聞はヨーロッパ各地から送られてくるさまざまなニュースの断片の寄集めであることが多かったのだが、小野はそれらの中から、独自に取材されたオリジナルな報道を筆跡や紙質などから丹念に洗い出して、それを「原報道」と名づけているのである。
その意味では、小野は、この語を新聞発生期のニュースの伝達について限定して用いているのだが、このような事実の伝達にこだわる彼のまなざしは、のちのかわら版研究にも一貫して流れつづけている。『かわら版物語』の中で、事実の伝達よりも批判に重きを置いた「落首」を捨てて、たとえ印刷された記録がなくとも「語りもの」の類は「時代を反映する報道の一形式」として取り上げているのは、彼のそうした「原報道」に対する一貫した探求の姿勢を物語っているだろう。
さて、ちょっと私事にわたって恐縮だが、私がイギリス近代ジャーナリズムの成立についての研究を、その原初形態であるブロードサイドの調査からはじめたのは、小野秀雄がヨーロッパ遊学で入手した研究書を出発点としている。彼が挙げているジャクソンの『ピクトリアル・プレス』やシャーバーの『イギリス新聞の先駆者たち』がたどたどしい私の研究のアリアドーネの糸であった。一〇年がかりでようやく『近代ジャーナリズムの誕生』(岩波書店,一九九五年)という一書にまとめたのだが、こんなことを記すのはけっして自慢話をしたいためではない。本にまとめた後も、私はいまだ解けない謎に直面したままであることを記しておきたいのである。
その謎とは、一六一八年に発行された「コーンウォールのペンリンからのニュース」という数枚綴りのブロードサイド(ニュース・パンフレット)に関するものである。そのタイトルに「東インドから帰郷したばかりの息子を無慈悲な義母に唆されて父親が殺し、悲惨な結末をみた残酷かつ前例のない殺人」とあるように、トピックスは実の父親の旅篭と知らずに泊まった宿で金目当てに殺された息子の話である。その後、父親とその妻は自殺を遂げたと伝えている。
興味深いのは、このニュースが、ずっと時代が下って一九世紀半ばに、「リヴァプールの悲劇」という「数日前に起こった事件」のブロードサイドとして発行されていることである。こちらはやはり東インドから三〇年ぶりに故郷リヴァプールに帰ってきた船乗りの青年が実父母に誤まって殺される話である。H・メイヒューの『ロンドンの労働とロンドンの貧困』の中の呼び売りの証言によれば、このブロードサイドはヴィクトリア朝時代に最もよく読まれたものの一つであったという。
このようにリメイクされて「最近の」ニュースとして出回るブロードサイドを「コックス」というが、奇妙なことには、同じニュースがイギリス以外でも発行されている。
一九世紀半ばのフランスでも、同様の事件がチェコで起こったニュースとして大衆新聞に掲載されている。実存主義作家A・カミュがこれに題材をえて不条理劇『誤解』を書いていることは有名だが、実は、一七世紀初めに、フランスの不定期新聞にもすでに同じ事件が報道されているのである。
以上のような事実に出会った当初、私は、東インドからの帰郷というイギリスのブロードサイドの方が、一七世紀初めという大航海時代のエピソードとしてふさわしい「原報道」にちがいないと考えた。ところが、実際には、チェコで発生した事件として伝えるフランスの不定期新聞の方が先に発行されているのである。
では、フランスの不定期新聞の報道がほんとうに「原報道」と言いきることができるのか。私の調べは、ここで立ち往生したままなのである。
小野秀雄が企てた事実の伝達という「文化現象」に関する研究は、まさに彼のいう「世界史的見地」に立った比較文化論的なパースペクティヴを不可欠としている。彼のめざした企ては未完のプロジェクトとして、私たちの前にある。
小野秀雄が収集していたフルッグブラットの一種。内容は、オスマントルコ軍によるウィーン包囲の実況。当時、オスマントルコはヨーロッパに軍を進め、1529年にウィーンを包囲する。この戦争と、1526年のモハックスの戦い、1571年のレパントの敗北は人々の関心の的となり、無数のフルグブラットが発行されたという。1530年、アウグスブルク、エアハルト・エグリン発行
小野秀雄が収集したフルッグブラットの一種。内容は、ペドロ・アルバレス・カブラルのブラジル探検記。新発見のニュースや探検記も多くの人々の関心を呼んだフルッグブラットの題材であった。1508年、アウグスブルク、エアハルト・エグリン発行 (1920年複製)
小野秀雄が収集していたフルッグブラットの一種。内容は、オスマントルコ軍によるウィーン包囲の実況。当時、オスマントルコはヨーロッパに軍を進め、1529年にウィーンを包囲する。この戦争と、1526年のモハックスの戦い、1571年のレパントの敗北は人々の関心の的となり、無数のフルグブラットが発行されたという。1530年、アウグスブルク、エアハルト・エグリン発行
小野秀雄が収集したフルッグブラットの一種。内容は、ペドロ・アルバレス・カブラルのブラジル探検記。新発見のニュースや探検記も多くの人々の関心を呼んだフルッグブラットの題材であった。1508年、アウグスブルク、エアハルト・エグリン発行 (1920年複製)