近世人物誌 やまと新聞付録
第一新聞錦絵の一部分は、やがて新聞社が発行する新聞の付録のなかに取り込まれていく。近世人物誌と題されたこのシリーズは、やまと新聞が発刊にあたり一ケ月に一回の特別付録として付けた新聞錦絵である。芳年を絵師に起用し、文章の配置も錦昇堂版の郵便報知新聞錦絵を下敷きにしている。刊記の形式も変わり、この天璋院の錦絵は明治一九年一〇月一二日発行の第二号の付録であった。
図228
近世人物誌 やまと新聞付録 第一
天璋院殿/天璋院殿ハ御名を敬子と申す松平薩摩守/斉彬朝臣の御女にして近衛家の御養女となり/安政三年十一月柳営に御入輿あり徳川十三代将軍/家定公の御台所とならせ玉ふ家定公薨去の/後落飾ありて天璋院殿と号し静に風月を楽/ミ先公の御菩提をのミ吊ハせ玉ひしに転変ハ有/為の世の習ひとて戊辰の戦乱俄に起り修羅闘/場の吶喊に却風真如の月を掠めケり此折徳川/家存立の事につき御心を労し玉へる事少からず/斯て此乱平らぎて世上の波風治まりし後ハ千駄ケ/谷の邸に在して後生善所の御勤の外平生好/ませ玉ふ謡曲の御慰ミより他事もなく蓬窓/雨滴る夕にハ三思惟心の理を諦め拾ふ木の実の/数々に五衰滅色の秋を観じ斯して歳月を送/り玉ひしが明治十六年十一月二十日仮初御痛り/重らせ玉ひて御年四十九と申すにれ玉/ふ此君平生慈悲深くまして仁愛の御心年頃/畜馴し玉へる猫に迄も及ぼせり御隠棲の/後ハ常に御身を慎ミて諸事事省ぎたる/御有様にて在せしが然りとてつきづきの女中/方にハ不時の賜物多ありされバ人々と其/御恩を辱ながりて名ハ主従といふも情ハ猶/母子の如く懐き慕ひ奉らざるも無りしといふ/渋柿園主人謹しんで識す
朝野新聞 第千三百七十一号 甲
朝野新聞 第千三百七十一号 乙
この段階になると、「明治十一年三月十八日御届」という形で具体的な日付が明記され、出版人の名も記されるようになる。また同じ『朝野新聞』の同じ号から採ったものを「甲」「乙」を付けて区別している点も、錦昇堂版の郵便報知新聞錦絵とは異なっている。
図229 朝野新聞 第千三百七十一号甲
広島県下備後国笠岡町に住む/川上松助といへるハ妻の名を春とよび/明治二年の頃よりして互ひに浮気の/転び合ひ友白髪迄約束し夫婦と/なりて九年ごし常に夫が大酒を/好ミ女狂ひの放埒に笑つてくらす日ハ/少く泣々数度の異見さへ聞いれも/なく打たたき手荒き事の多くして/止る気色もあらざる故所詮行すゑ/覚束なしいかがハせんと心を悩まし暫し/歎きに沈ミしがきつと思案を定めつつ/昨明治十年十一月五日の夜半に松助が/例の大酒に酔伏たる折こそよしと出刃/包丁逆手に持て只一ト突咽喉ふえ深/く貫けバ松助ハ七転八倒其儘息たえ/果けれバ同じ刃に我が胸へ突立しか共/死にしらずその筋にて療治をくハへ/全快の上去る十五日十一年二月遂に梟首に/所せられたり
朝野新聞 第千三百七十一号乙
昔ハ或藩の士族なりしが今ハ小網町辺の箱屋にて/親ハ先年没し長子何某が跡相続せしが其頃/旧同藩の娘に恋こがれ女房にしたいと思ひしが/果さず遂に病死なしけるにぞ其弟が順養子と/なり不計兄が恋慕ひし娘を世話する者がありて/妻に迎へ夫婦睦敷くらす内弟もいつとなく病つき/折々幽霊が出る故定めし兄ならんと思ひの外親父/の亡霊出かけて曰く其方が妻ハ兄が念のかかりし/女故此儘差置バ身の為にならず早々離縁すべし/と云ふ御尤の仰なれど妻にも其よし御申聞被下たしといふに或夜夫婦の居る処へ出細かに説得し/且我と兄の追福の事杯ハ堀江町二丁目の差配人/某に相談すべしと云終りて消失けれバ早速彼/方へ至り法事も済し其れから離縁の談判中/との事其中一つの不審といふハ右差配人の親ハ別/居して其妻ハ今離縁をされかかつて居る箱やの/妻の実母にて夫に別れて後娘を箱やへ縁づけ/自分ハ差配人の親の妻となりたるなり幽霊の代/理といひチト不都合な事だと噂なり
図230