長門の国大火 元治元年(一八六四)八月四日
禁門の変による京都での戦闘で敗退した長州勢に対し、七月二三日長州藩征討すべしの幕命が、西国・中国・九州の各藩に下った。しかし、攘夷を主張し、前年の文久三年五月一五日を攘夷決行の日として、下関通過のアメリカ、フランス、オランダの船を攻撃した長州藩に対して、フランス、イギリス、オランダ、アメリカの四国が連合して下関砲撃すべしとの合意が元冶元年六月一九日決定した。幕府は静観するなか、連合艦隊が、七月二七日横浜を出港、八月五日に下関砲撃を開始、長州藩は八日にはたちまち敗退して、休戦を申し入れた。その結果、幕府軍は戦わずして、第一次長州征伐が終結した。このかわら版は、四国連合艦隊の動きを、蒸気船二〇隻(実際は一七隻)が以前より来ていたと伝え、各所での火事の様子を伝えるのみである。事件の原因などを述べることは一切していない。
図186 長門の国大火
元治元年
甲子八月
長門
の国
大火
小倉辺で逗留せし商
人の咄を聞に八月四日
前田より出火増々火さかん
になり六日壇の浦より出火
夫より杉谷三軒家八けんや
米土蔵とおぼしき四五ケ処
焼失之由七日朝より亀山
観音先米土蔵とおぼしき五六ケ処焼失
之由八日朝鎮り申候
九日朝又候てし松辺より
出火十日朝鎮り申候四日より
の騒動筆紙ニ尽しがたし
三都の外ニかかる大火
珍らしき事共なり
家数五千軒余
死人怪我人
数しれづ
但し其前より蒸気舩
のやうな船
二十艘程来り
居候よし長州藩家老首実検(仮)
元治元年(一八六四)一一月一三日
四国連合艦隊の下関砲撃で敗退した後、第一次長州征伐の総督に指名された徳川慶勝(前尾張藩主)が元冶元年一一月一日大坂を出発、広島に総督府を置いた。長州藩は、福原、益田、国司の三家老に切腹を命じ、幕府への恭順の意を表すこととした。総督府の置かれた広島の国泰寺に差し出された三家老の首実検の様子を伝えるかわら版。こうした、政治的事件がストレートにかわら版になることは、かつてなかった。「実検の節首すこし左り向きのよし」と添え書きがある。幕府側が発行したものであろうと小野は推定している(『かわら版物語』二六七頁)。
図187 長州藩家老首実検(仮)
元治元年甲子十一月十三日朝長州より三人之首を同家老
志路毛利之両人持来り其節国泰寺ニおいて実検有之候節ハ
家老両人長はつにて麻上下無刀ニて首白木の長持ニ入首桶浅黄
きぬニ包しゆろう縄ニてくくり首ハ白もめんニて包み有之を出して白木
の三宝ニ乗せ実検ニ備へ被給候由但し実検の節首
すこし左り向のよし
陰徳太平記新図
慶応二年(一八六六)六月
第二次長州征伐は、広島、石見、九州の小倉の三方から戦闘が開始された。小瀬川を挟んでの広島大野での六月一五日の長州軍(奇兵隊)と幕府軍(官軍)の激しい戦闘を描く。洋式の武器で装備された長州軍優勢のうちに戦闘が終始した。これを、戦国期から近世初頭の毛利家の興亡を描く「陰徳太平記」(一七一二年刊行)になぞらえて描く。
図188 尼子軍記石州津和野合戦 慶応二年(一八六六)六月
第二次長州征伐戦場となった石見での長州藩と幕府軍との闘いを伝えるが、戦国期毛利家と度々戦を交えた、終に毛利家に滅ばされた尼子家との戦闘になぞらえている。
尼子軍記 石州津和野合戦
図189