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[ニュースという物語]


禁門の変(仮) 元治元年(一八六四)

地図を使って、焼失範囲を表す。作者、版元名が刻されている。

禁門の変(仮)
図182

禁門の変(仮)

元治元甲子年七月十九日
朝五ツ時川原町二条下ル辺焼失
同四ツ時堺町丸太町より出火いたし
それより四方へさかんニ広かり東ハ
上にて川原町下ハ加茂川西は堀川北ハ中立売南ハ野限り
焼ぬけ漸廿二日暮時ニ火鎮り申候依て遠国為お知らせ
くハしく相印申候
 
凡家数  二万五千計
凡かまど 四万七千計

 

極本しらべ 元治元年(一八六四)

購入者が、安政元年四月の火事の焼失場所を描きこんでいる。

極本しらべ
図183

極本しらべ

元治元甲子年七月十九日
朝五ツ時川原町二条下長州
御屋敷より焼失同四ツ時
堺町御門より出火いたし
夫より四方へさかんニ広かり
東は上にて川原町下は
加茂川西は堀川北は中立売南は野限り
焼ぬけ申候漸二十二日
暮時火鎮り申候
遠国為御知らせ委敷相印候
 
{奧}
極本しらべ
凡家数二万五六千計 凡土蔵落千百ケ所計
凡かまど四万■[判読不能]
神社仏閣五百ケ所計
 
{後筆 読者がメモとして書き込んだもの}
此墨筋ハ安政元年寅四月
六日火災仙洞裏御殿ヨリ
出火シ禁裏御所より追々西へ
拡かり浄福寺迄焼失ス

 

京都大火 元治元年(一八六四)

従来通りの火災図で、「極本しらべ」は、火災を伝える大坂や京都でのかわら版の常套文句であるが、江戸では、ほとんど使われなかった。「きわまり、ほんしらべ」と読む。

京都大火
図184

京都大火

京都大火
元治元甲子年
七月十九日朝五ツ時分
河原町二条下ル長州
御屋敷より出火
又堺町門辺よりも出火
折節北風はげしく
夫より追々四方江
焼広かり北ハ
中立売南ハ
焼ぬけ七条迄
西ハ堀川東ハ
加茂川迄二十一日暮
六ツ時分火鎮り候又
二十日九ツ時分嵯峨
天龍寺山崎天王山
両方共焼■[欠]相成候
其余筆紙つくしがたく
先はあらまし書記ス也
町数凡七百五十六町計
家数凡三万○二百四十軒
焼蔵凡千百三十四ケ所
極本しらべ

 

平安大火末代噺 元治元年(一八六四)

画面を分割して、一枚の摺物にさまざまな情報を描きこむことも、大坂や京都発行のかわら版に多くみられる。「末代噺」も、後世に伝えるべきほどの前代未聞の大事件という意味のかわら版の常套語である。

平安大火末代噺

元治元甲子七月十九日暁かわら町二条下ル辺より出火同四ツ時
堺町御門辺よりも出火益火はげしくして所々へ飛火又同日に
伏見出火山崎辺出火嵯峨天竜寺へ飛火暫時の間に洛中
一面の火と成候様見ゆる市中の混雑筆紙ニつくしがたし老若男女
共火勢ニ恐れ逃げさまよひけが人等も有之由誠ニ希代の大火ゆへ
近在ハ勿論大坂などへも若哉飛火もあらんかと逃支度の
外他事もなく安キ心もなき程の大火也同廿一日七ツ半頃火鎮り申候
洛外之部

平安大火末代噺
図185
{上段}
伏見 家数二百三十九軒
山崎村 焼失
天王山 焼失
円明寺 焼失
さが 天龍寺 焼失
二尊院 焼失
逃ル人
近郷 近在其外
江州 播州 丹波
丹後 和泉 河内
{下段}
洛中町数 五百六十七町
同家数 七千五百五十軒
同かまど 五万八千三百二十軒
同土蔵 五百七十八戸落
洛中洛外寺院堂  大小共百二十ケ所
同神社宮  大小共百ケ所
洛外家数 かまど五百軒余
けが人数多あるよし
[墨塗]七百余人有よし
{袖}
元治元年甲子七月火の用心
今まで出板せし早摺の画図を此
画図と御見合可被成候但し此図
ハ悉く細見せしを図ス
されバ遠近之縁者知音へ火難の
安危をしらする便りともならん
かと後篇を出す


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