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[ニュースという物語]


禁門の変(仮)

元治元年(一八六四)七月一九日
蛤御門の変ともいう。前年の文久三年八月一八日の政変で、長州藩など尊攘派が京都から追放されたが、勢力挽回を図る長州軍が元冶元年七月一八日夜から行動開始、発砲した弾丸が御所にも飛び込み、京都警護の会津・薩摩藩と衝突した。闘いは一九日一日で終了したが、京都の火災は二一日まで続き、市民は都から避難した。かわら版は、幕府や反長州の諸藩から、罹災民に施行が各所で行なわれたことを伝える。この政変についてのかわら版は多いが、紙面から戦闘による火災であることが分かるのは、図178、179のみで、他の五点は、政争のことには全く触れずにすべてこれを京都の大火としか表現していない。

禁門の変(仮)
図178
禁門の変(仮)

{上部書き込み}
東西御紋所様より
類焼之者へ
御救米
銭を
被下候
此外所々

施行
あり
四条
川原町
そうめん
ところてん
ほどこし
縄手四条上ルより
ミそ汁
ほど
こし
加州様より
類焼之者へ
川原にて
飯炊物を
被下
諸方
ひによう湯
暑気はらひ
其外
さとう水
せつたい
所々ニ
あり
祇園
絵馬堂にて
施行列
薩州
御屋敷
施行米
類焼之
面々被下
 
{中央部の文}
元治元甲子年七月十九日朝
五ツ時川原町二条下ル長州屋敷
焼失同四ツ半時堺町丸太町辺より
出火又烏丸中立売より出火折節
東北風強寺町へ焼出両側とも
錦天神迄此所より南ハ東側無別条
松原より東へ焼込木屋町両側七条
新地橋下不残西ハ東堀川南は
東本願寺七条野はつれ迄上ハ上長者丁
までやけぬけ爰にて火とまる但し本圀寺又ハ本願寺不思議ニ残る
北にても御霊社革堂壱も無別条
大寺之内妙満寺本能寺佛光寺誓願寺其外小堂御社末寺なと
数多にして不相分候火ハ廿一日朝
四ツ時ニ木屋町松原上ル寺辻橋ニて留る
南ハ廿二日朝七条野はづれまで鎮り申候

 

禁門の変(仮) 元治元年(一八六四)

戦闘のあったことを絵では描くが、文面は単なる大火として扱う。

禁門の変(仮)
図179
禁門の変(仮)

元治元年子七月十九日辰刻頃
河原町二条より出火仕少し鎮方相成
候所已刻より堺町丸太町辺より又候
出火仕候折節北東風つよく相成
丸太町通を寺町へ焼出革堂
残る夷川を河原町にて火留る西ハ
烏丸通を上長者町又下立売は
新町椹木町西洞院丸太町
東ほり川下ハ野原まて焼ぬけ
西堀川通別条なし並本国寺又
西本願寺御堂別条なし東本願寺
ハミなミな焼失不動堂にて火留る
又東は加茂川通り突抜寺町木や
町等ハことことく焼失併祇園
御旅道場ハ別条なく東辺も
同断依て東ハ河原町
上ハ下立売下ハ九条
西ハ堀川まて焼失仕候
凡家数
二万五千計
かまと数
四万七千計
土蔵落
千五百ケ所
神社仏閣
五百ケ所

 

禁門の変(仮) 元治元年(一八六四)

地図を使って、焼失範囲を表す。

禁門の変(仮)
図180

禁門の変(仮)元治元年(一八六四)

地図を使って、焼失範囲を表す。「戦争場」の貼りこみがある。

禁門の変(仮)
図181

禁門の変(仮)

元治元甲子年
七月十九日河原町
二条下ル 御屋敷
朝五ツ時出火四ツ時堺町
御門より焼出シ其より
四方江焼広かり東加茂川
北今出川南焼抜老若男女わか
ちなく東山あるいハ山しな北山辺へにげ
ゆき其そうどう筆紙ニいたしかたし
さが天龍寺山さき伏見出火廿二日火しず
まり


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