大地震火事略図 安政二年(一八五五)
地震や噴火などの天変地異を陰陽の気の乱れと説明する前文は、かわら版の場合にもよくみられる。本文はほとんど各所の被害が書き連ねられ、最後に御救い小屋などの幕府の救済の厚いことを詠う。これは、そうした常套表現で埋められた内容であるが、添えられた炎上する家並みの図は迫力に満ちている。
大地震火事略図
乾坤和順せざるときハ陰地中ニ満て一時に発す是地上に地震といひ海上に津浪といふ山中に発する時ハ洞のぬけたるなど
皆風雨不順の為す所にして恐るべきの大事なり干茲安政二年乙卯冬十月二日夜四ツ時過るころ関東の国々ハ
地震のととろかさることなく一時に舎坊を崩し人命を絶こと風前のともしびの如し其中尓先御符内焼亡ノ地ハ千住小塚原
不残焼け千住宿ハ大半崩れ山谷橋ハのこらす崩れ今戸橋きハ数十軒やける新吉原ハ五丁共不残焼死人おひただしく
田丁壱丁目弐丁目山川町浅草竹門北馬道聖天横町芝居町三町北谷中谷の寺院南馬道花川戸半町程やける山の宿町
聖天町ハ崩る浅草寺ハ無事にて雷門の雷神ゆるぎ出す廣小路並木辺残らす崩れ駒形町中頃より出火
翌三日より七日迄明日すこしづつふるひけれ共別にさハることなく追々静鑑におよひ下々へハ
御救を被下置御救小屋三ヶ所へ御立被下御仁徳の御国恩を拝謝し奉らん人こそなかりけれあらありがたき
事共なり 但シ出火のせつわ三十二口なれともやけるところハ図のことし 火の用心火の用心
{上左枠内}
図162
御救小屋場所
幸橋御門外
浅草広小路
深川海辺新田
同 永代寺境内
上野御山下火除地
東叡山宮様より
御山下右同断
十一月二日焼死人のため
諸宗十三ケ寺へ施我
鬼被 御付修行被致候
御屋鋪弐万四千六百四十軒
町数五千三百七拾余町也
寺院一万六千二ケ寺
土蔵焼失之分
六千八百戸前
崩之分
七億二万六千三十八也
男女生死人之分
十万九千七百余人也
男女死人怪我人書上之写
東京大学地震研究所蔵
町奉行所による死傷者の調査二回のうち、第一回は、早くも、地震発生直後の一〇月四日に行なわれている。各町番組ごとに集計された死傷者数がかわら版情報として市中に流れた。幕府が管理する情報が民間情報としてかわら版で流布することは、それまではあまり例なかった。そのことを表すかのように、縦長帖という、帳簿類と同じ形態の冊子である点も注目される。
図163
{表紙}
地震出火 安政二稔乙卯十月二日夜四ツ時過
男女死人怪我人書上之写
第一丁
今般(こんばん)
地震并ニ出火ニ付
変死(へんし)人怪我(けが)人取調(とりしらべ)候処
凡書面之通ニ御座候勿論(もちろん)
本所深川始メ潰(つぶれ)家等未タ
取片付も行届(ゆきととき)不申町々多分ニ
有之死人之義者此上相増
可申哉且又怪我人之義も親類
縁者亦者近在等え
立去り
候者も有之未タ調(しらべ)方行届
不申町々茂御座候間■■
取調候ハハ是又多分相増
可申哉(や)ニ奉存候依(よつて)与別紙
書上帳相済此段申上候
以上
卯
十月
{第二丁}
十月二日地震并ニ出火ニ付
変死人怪我人書上
日本橋北一番組
変死人 九十六人
内 男 四十七人女 四十九人
同組
怪我人 二十四人
内 男 十一人女 十三人
両国辺一番組
変死人 八十六人
内 男 三十一人女 五十五人
同組
怪我人 七十五人
内 男 四十四人女 三十一人
浅草三番組
変死人 五百七十八人
内 男 二百六十九人女 二百九十七人
男女不分者十二人
怪我人 二百七十一人
内 男 百五十二人女 百十九人
日本橋南四番組
変死人 十七人
内 男 八人女 九人
同組
怪我人 五人
内 男 三人女 二人
京橋辺五番組
変死人 二十九人
内 男 十二人女 十七人{中略}
惣
合四千弐百九拾八人
内 男千七百五人
女弐千五百八十一人
男女不分もの拾弐人
惣怪我人
合弐千七百八拾七人
内 男千五百八拾一人
女千弐百六人
東都珍事実録咄 安政二年(一八五五)
大坂で出た江戸の地震を伝えるかわら版。「御立退の図」は、武家屋敷の奥方達が屋敷から逃れる様子を、「水汲の図」は、上水が止まり、堀抜井戸まで人々は水汲みに忙しいと伝える。その他、各所の被害を書き連ねるが、不忍池の水が津波の如く池之端辺に打ち上げたなど、市中の様子や人々の動きを客観的に伝えている。江戸で出版されたかわら版にこうした細かい観察がみられない点は一考を要する。
図164 東都珍事実録咄
十月二日亥ノ刻より大地震差をこり
人家崩れ夫より出火となり市中八方へ
火の手上り大火となり市中の人々是ニ
おどろき其混雑めもあてられぬ
しだい也又御家敷様方御殿様
御奥様方御立退或鑓長刀
を携御切捨市中の騒動上を下へと
申方なし大坂表と市中の事替り
或ハ押にうたれ或ハ火にまかれ死
すも有○亥の刻より地震止事なし
故ニ老若男女たすけくれの大声上り
助くる事不能見ごろしなる事数
しれず又江戸表ハ諸国より入込たる
人多く土地不案内にてあれハ逃
てハ門ニむかひすわやといふ内大火
山の如くむらがり来り其横死の声
今ニやまずあわれなる事たとゑ
がたし寺院社宮ハ申ニおよハす
土蔵崩れあるハいろいろわれ
たる数筆紙につくしがたし大震
の場所人形町辺人家七分通
潰れ尤橋々ハ格別の事無之
市中所によりてハこけ家山の如く
かさなり山の如し前代未聞の次
第なり
此度番付外々ニも数多く有之
候へ共外方のよりハ別してくわしく故
江戸表より所々細ぎんミいたし書面参り候
中にも諸国ニて出火所わけいたし
まま図ニてうつしとんと間違なし
猶死人数ハ相わからずしれ
しだい小付にて差出し申候
麹町五丁目岩城
升や大崩レニて
家内死人多し
崩れ出火五ケ口崩れ
四ッ谷伝馬丁通り
二十四五軒くづれ
市ヶ谷町家
十五六軒たをれ
御屋敷ハ数
多くねつ谷
中くづれ家
少々土蔵并
蔵造りの家
不残くづれ
本郷湯島外
神田旅籠丁
又さくま丁くつれ家二百七八十けん
くつれ但し出火なし
地震大ふるいの部
日本橋室町小田原丁此近辺
十軒店本町するか丁越後屋道辺
大伝馬丁大丸辺油丁横山丁人形
丁田所丁堀江丁此辺又富沢町
長谷丁新乗物丁高砂丁川岸どふり
両国広小路浅草御門外福井丁
かや丁御蔵通り又日本はし通り白木屋
すハしゃ但し蔵造土蔵とも人家八分
どふりだをれ又日本橋より芝大木戸
までくづれ家数しれず高なハ大半
くづれ品川上宿少々下宿六分通りくづれ
中にもあわれなるハ旅人又ハめしもり女ハ
とう方ニくれやみもいふ内ぢごくのさたを
見るが如く其時のこへ蚊のなく如く
あわれなる事此上なし
水汲の図
此度大じしんニ付水道とま[ママ]
われ水の手とまり水きれ
にて町々人々大ニこまり
ほりぬき井戸迄
くみニゆく事二丁
三丁五丁七丁
とゑんほうへ
くみにゆくこん
さつ一通ならす
井戸はたハ
たがひに
こうろう
のようたい
なるへし
大地震ニて七分くづれ其上出火と
相成不残焼失五十軒茶や町
田町引手茶やのこらず馬道通
不残東ハ聖天町瓦町猿若町
三芝居役者町楽屋新みち
其外諸両人のこらず焼失役者
衆即死も有又ハ片岡我堂丈ハ疵
多く山の宿花川戸北馬道川岸
通材木町並木町駒形すわ町
黒ふね町御馬屋川岸辺不残
又ハ三間町のこらす焼失別して
新吉原女郎客衆其ほか
歳より若き者横死する人数
千人ニおよぶ浅草辺観世音を見かけ境内へにけ込幾万とも数
しれす時の声上ケ観世音を
ねんじ其御利益か壱人も怪
我人なし霊験あらたか恐へし
但シ下谷金杉三丁やけ
本所ハ石原町番之南わり下水吉田町
吉岡町清水町長崎町入江町
緑り町花町あいをい町立川通り
津軽中屋敷又ハ御大名御旗本
御組屋敷御与力衆又ハあまた
御屋敷焼失凡廿二丁四方
焼失崩れ家少々深川永代ばし
向少々残し富よし町はまぐり町
黒へ町熊井町大和町大島丁矢倉
下すそつぎ仲町通一ノ鳥居まて
佃しま八まん宮残り森下町より
六けんぼり神明町ときわ町
高ばし通りいせ崎冬木町凡
十二丁四方焼失くづれの部
其数それず北しんぼり二乃
橋よりれいがんじま此辺ハ少々
焼失大川端鉄砲づ舟松町
十けん町焼失焼残りの家ハ
地震にてつぶれ
佃しまくづれ丸やけニ相成
北ハ下谷池端仲丁茅丁廣小路三枚はしより
南へ焼失長者町おかち町辺
御なり道其外代地御大名御中
屋敷御下屋敷御組屋しき
御かち組御先手組御はた本焼
但し池のハた池の水津波の如くおかへ
打上ヶ龍の登るがごとくさも
おそろしきふぜいなり
{下札}
新吉原のこらずやけ
江戸丁一丁目同二丁目
京町一丁目同二丁目
角丁ふしみ町
あげや町
中の丁そのほか
西がし小ごうし
十けん数多の切見世
江戸大地震巨細録
袖珍本、つまり着物の袖に入れるメモ帳用の小型の冊子で、地震の被害を伝えるタイプのものも多数出版されている。日を追って改定版も出された。地域ごとに武家屋敷、町屋の被害を書き連ねる。出火と崩れた場所について報じていて、武家屋敷の死傷者の数などは上げられていない。これらのことは、従来政治向きのこととして、かわら版業者にとって触れて成らない事柄であったからである。
図165 江戸大地震巨細録
江戸 大地震臣細録
{中表紙}
山王権現 日本橋より二十六丁
神田明神 同十六丁
湯島天神 同二十三丁
深川八幡 同二十五丁
浅草観音 同一り二丁
市ヶ谷八幡 同二十五丁
平川天神 同二十七丁
氷川明神 同三十一丁
芝明神 同二十七丁
亀井戸天神 同一り八丁
王子権現 同一り二十丁
{第一丁}
夫天変大にして諸民これ尓窮
す時は安政二乙卯年十月二日
夜四ツ時過より俄尓大地震ゆり
いだし所々出火となりまことに
奇意の思ひをなし家に不住
して野宿す只夜明るを待
わびぬ翌朝五ツとき所々の火
鎮り初めて安堵のおもひをなし
依之臣細にあらハし終ぬ
目録
一 千住宿より小塚原へん
二 新吉原より田町へん
三 浅草金蔵山門前へん
四 箕輪金杉坂本へん
五 千駄木へん
六 湯島より妻乞坂へん
七 本郷より白山へん
八 下谷廣小路へん九 御成道へん
十 浅草見付内へん
十一 一ツ橋辺りへん
十二 赤坂御門外へん
十三 牛込御門外へん
十四 小石川へん
十五 小川町へん
十六 両国より横山丁へん
十七 丸の内辺所々
十八 日本橋より京橋辺
十九 京橋向より小梅へん
二十 永代橋向より洲崎辺
終(中略)
{第十五丁}
土蔵五十三万九百二十余損じ
同 焼失の分ハ数しれず
寺院堂社の破損ハ
壱万二千三百余損じ
死亡の者十三万五百二十人余
怪俄人の数ハしれず
かくなる大地震にて難渋のもの多
きゆへ 御仁徳の君よりそれそれ
御手当の救米被下且家をうしなひ
たる軽きものにハ御救小屋立おき
被下候ハ実に難在次第なり御救
場所左に印し候
幸橋御門外
浅草広小路
上野広小路
深川海辺新田
同八幡社内