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[ニュースという物語]

安政大地震

北原糸子


なにか変だ!

安政江戸地震は安政二年一〇月二日の夜十時ごろ発生した。前兆現象については、井戸の水が減ったとか、鼠がいなくなったとかさまざまな記録がある。

ここにあげる「江戸大地震之図」にみるように、空に見上げたり、袖に手を入れ身を硬くしたりして、なにか変だと身構える人々の感じがよく描かれているものはあまりない。もちろん地震発生は夜なので、実際にはこのように見えることはなかったと思われる。しかし、サーッと変な風が吹き、次ぎの瞬間、家が壊れる場面に転換する。思わず引き込まれるようなこの情景描写は、技量の高い画家が描いたものではないかと想像される。

図160

家が壊れた、火が出た!

 同じ絵巻での次ぎの場面では、倒れた家からすぐに火が出て、燃え広がる様子が描かれる。安政地震は、震度六、それも七に近いといわれている。江戸は、沖積地に下町の町屋、また、江戸城の内曲輪の大名小路などには武家屋敷が集中していた。そうした地盤の悪いところに建てられた木造家屋は倒れ、即出火したといわれている。幸なことに、夜も遅く、多くの人々は寝入ろうとしていたので、震度のわりには、出火件数は少なかったといわれている。江戸中で、三二口とか、五十口の出火口とかわら版は伝えている。

図161

安政江戸地震の大名屋敷の被害(被害地図データベースによる)

江戸府内の大名屋敷(黄色)のうち、破損あるいは類焼などの被害が確認された屋敷(茶色)を示した。江戸の大名屋敷内では、少なくとも二〇〇〇人は死亡したと推定されている。

安政江戸地震による町地の被害(被害地図データベースによる)

町地では、どの家が焼けたか、倒壊したかといった場所を特定できる資料は残されていないが、町番組ごとの倒壊家屋や死傷者数は判明する。図は、町番組の区画を色で示し、そのうち、死者の出た町々をトーンを濃くして図示した。町奉行所が調べた被害数値は、町方の死者四三〇〇人弱、負傷者二八〇〇人弱、倒壊家屋一万五千軒と一七〇〇棟、土蔵一四〇〇戸ほどであった。

スワッ、上様一大事!

こんな時でも、大名たちがまず、成すべきことと考えたのは、江戸城へ駆けつけ、将軍の無事を確認すること、あるいは将軍の安否を気遣って、我が身を捨て登城したことを周知させることであった。また、それぞれの藩邸では、殿様、奥様、御子息無事といった知らせを国元に早便で知らせた。その殿様御無事の第一報が国元に届いた例を確認できたものが次ぎの図である。江戸から必しも、同心円状に情報が広がるわけではないが、この報が届く範囲内では、ほぼ江戸の変事が、飛脚の番士を通じて途中の街道の町々へも広がったと考えてよいだろう。

江戸地震の情報が日本中に伝わるのに、どのくらいの日数を必要としたかを各藩の日記をもとに調べたもの。図中の数字は、当該藩に江戸地震、および藩邸での被害などの報が届いた日付である。江戸地震は二日の夜発生したので、各藩に飛脚番士などによって届けられた日付から二を引いた数が、当該藩に江戸大変の情報がもたらされるのに掛かった日数ということになる。

災害速報、つづいて戯画が続々出る!

災害発生の様子を伝えるさまざまなタイプのかわら版が発行された。


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