第1章 プロジェクト「建築復元」

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ジョヴァンニ・サッキと建築模型製作の伝統


 現在ミラノで木工細工工房を営むジョヴァンニ・サッキは、ミラノ近郊セスト・サン・ジョヴァンニに生れた。彼の経歴は、鋳造工場のための模型製作工房(Caresa e Boretti)での見習工から始まる。23歳で模型製作工房を開いたが、折悪しく第2次世界大戦が勃発。徴兵、レジスタンス活動を経て、再び模型製作に戻る。転機となったのは1945年、産業デザイナーのマルチェッロ・ニッツォーリとの出会いである。当時サッキは既に自分の工房で機械模型の製作を行っていたが、ニッツォーリから受けた依頼はこれまで彼の製作していた、工場で使用する機械のためのものではなく、タイプライターやミシンなどオフィス機器や家庭用品の模型であった。彼が最初に手がけたのはオリヴェッティ社のタイプライターの模型で、これこそが後に「オリヴェッティ・レキシコン」として有名になったモデルである。これを契機に彼は模型の素材として木材のみを用いることとなる。彼が製作した模型は時計、ラジオ、計算機、電話、テレビ、アイロンなど多岐に亘り、カスティリオーニ、ザヌーゾ、ベッリーニ、アルド・ロッシ、ムナーリなどイタリア内外の多くの産業デザイナーが彼のもとを訪れた。

 すべて手作りによる彼の仕事場は、さながらルネサンス期の職人工房内部の様相を呈している。こうした工房での模型製作という製作態度とその旺盛な好奇心が、彼をしてレオナルドによる機械デザインの模型製作に向かわしめたのは当然の帰結であった。彼はレオナルドのアトランテイコ写本に見られる機械デザインを、木という素材のみならず技術においても当時のそれを用い、細部に亘るまでレオナルドの指示に忠実に復元してみせたのである(ミラノのレオナルド・ダ・ヴィンチ博物館所蔵)。

 これらの活動と平行して、彼は多くの著名な建築家のために建築模型を製作している。ルクセンブルグの新国会議事堂の模型、ガオ・アウレンティの設計によるパリのオルリー空港の模型、アルド・ロッシによるマーストリヒト博物館の模型などがその代表作である。すでに述べたようにサッキの仕事場はしばしばルネサンス期の職人工房にたとえられるが、この建築模型の製作もルネサンス以来の伝統に支えられたものである。

 1994年にヴェネツィアのパラッツォ・グラッシで開催された『ブルネッレスキからミケランジェロへのルネサンス・建築の表現』展によって、われわれはルネサンス建築における建築模型の重要性を再認識させられたが、ここでは同展カタログを参考に建築模型(modello)の歴史を概観してみよう(特にH.A.Millon, "I modelli architettonici nel Rinascimento", in Rinascimento da Brunelleschi a Michelangelo. La rappresentazione dell'architettura, Milano 1994, pp.18-73を参照)。

 これまでの発掘が明らかにしたように古代ギリシアやローマ、エトルリアでも神殿などの模型が製作されていたが、これらは主に奉納用のものであったと考えられる。中世イタリアにおいて建築模型が製作されたことは多くの史料の証するところである。

 14世紀にミラノ、フィレンツェ、ボローニャなどで大聖堂建築のために模型が用いられたことも記録から確認されるが、ここではルネサンス建築史の黎明を告げるブルネッレスキ(1377-1446)の例を見てみよう。フィレンツェ大聖堂クーポラの建造にあたってはブルネッレスキも模型を用いている。マネッティのブルネッレスキ伝が伝えるように、彼はレンガと木材による巨大な模型を製作し、クーポラ建設の受注を得た。工事中、彼は多くの部分模型を製作した。また1436年にブルネッレスキ、ギベルティを始め多くの建築家がクーポラの上に載せるランタンのための模型を提出し、結局ブルネッレスキ案が選択された。さらに、カレネッレスキがサント・スピリト聖堂のための模型を製作したことも記録から知られており、おそらくはサンタ・マリア・デリ・アンジェリ聖堂、サンタ・クローチェ聖堂のパッツィ家礼拝堂、サン・ロレンツォ聖堂等の建築にあたっても同様であったろうと思われる。

 これらのことからもわかるように、建築模型にはいくつかの重要な役割があった。すなわち注文主に完成のモデルを示すことがひとつ。仕事の発注に際してコンペティションが行われるとき、建築家たちは建築模型を提出させられたから。そしてもうひとつは現場の職人への見本という役割である。

 これに対して、建築模型の新たな意義を主張したのはレオン・バッティスタ・アルベルティ(1404-1472)である。彼は「建築論」の中で以下のように述べる、「……という訳で次のような古い優れた建築習慣は今日でも推奨できると思われる。すなわち、仕上図やスケッチだけでなく厚板か何かの材料で作った模型によって、作品の全体と各部のすべての寸法を、秩序立った観察を通じて、再三再四熟考し吟味すること。……模型製作によって確かになるのは地域の地形、敷地の状況、建築諸部分の数および配置、壁の形、屋根の安定ならびに最後には、前書で概述してきたすべての事象の理論と形態、以上の諸点を十分に観察し考慮できることである。また模型では、すべてのことが正しく適合し納得されるまで、自由に加減、交換、更新が可能で、完全に逆にすることも可能である」(「建築論」2-1、相川浩訳、中央公論美術出版、1982年)。アルベルティは、建築において創意(idea)は模型製作を介して実現されると考えたのである。彼によれば頭の中で形成された創意はそれだけでは不完全であり、建築模型を製作する過程で修正されなければならなかった。これはブルネッレスキや後のミケランジェロにとって、模型がすでに頭の中で完成された創意を3次元化したものに過ぎなかったことと対照的である。またアルベルティは「調べられるのは作者の創意であって、模型製作の熟練した腕ではないのであるから、模型は精巧に仕上げ磨き光らせる必要はなく、飾らず簡明なものが与えられればよいと思う」と述べている。この点も、しばしば彩色され細かい彫刻さえ施されることの多かった当時の一般的な建築模型と異なるところであろう。

 さてそれではルネサンス期に著されたその他の建築論は、建築模型についてどのように述べているのだろうか。アントニオ・アヴェッリーノ、通称フィラレーテ(1400頃-1465以後)は、その「建築論」の中で、注文主から同意を得るための贈り物としての木製模型の製作を推奨し(上掲カタログ、40頁)、また設計図と同じスケールの木製模型を製作し、それを設計図の上に載せることによって双方の連関を確固たるものにするという使用法について述べている(同上、207頁)。もう一人の建築理論家フランチェスコ・ディ・ジョルジョ(1439-1501)は、たとえばサンタ・マリア・カルチナイオ聖堂建設において建築模型を自ら製作していたにもかかわらず、その「建築論」の中で建築模型について言及していない。

 ルネサンス期最大の建築プロジェクトであるサン・ピエトロ大聖堂の再建にあたっては、ブラマンテ、ラファエッロ、ペルッツィ、アントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョーヴァネ、ミケランジェロ、デッラ・ポルタ、マデルノなど多くの建築家がかかわったが、そのうち建築模型が残っているのはサンガッロによるものが1点とミケランジェロによるものが2点のみである。サンガッロの製作した模型は随分大きなもので、その内部に人が入ることも可能である。ミケランジェロは他にもフィレンツェのサン・ロレンツォ聖堂正面のための建築模型なども残している。しかしルネサンス期に製作された建築模型はそのほとんどが失われてしまった。残されたものの多くは宗教的な建築のためのもので、われわれは今日も聖堂付属博物館などでそれらを眼にすることができる。

 その後、建築模型の使用は17、18世紀を通じても行われた。今日わずかに残されている当時の模型の中には、フィリッポ・ユヴァッラによるリヴォリ城やスペルガのバジリカの模型などが数えられる。19世紀になるとこの伝統は衰微したが、20世紀に入り、ガウディ、ル・コルビジェ、フランク・ロイド・ライトといった建築家たちがこれを復活させた。

 以上のようにサッキの仕事の重要な一部分を占める建築模型の製作は、ルネサンス期以来の豊かな歴史を有するものである。今回出品の復元模型にも、このように連綿と受け継がれてきたイタリア木工細工の伝統の技術を見いだすことができよう。(京谷)




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