石井元章 東京大学大学院人文社会系研究科 |
1 はじめにエドワード・シルヴェスター・モース(Edward Sylvester Morse 1838—1925)は、『東京大学法理文学部第六年報』において日本国内での学術成果を外国諸国に紹介する効用を力説している[モース1879、上野1966、212頁]。すなわち、江ノ島で採集した動物標本を「外国諸博物館の諸見本類と交換して稀有の物品を増収するの益」がいかに大きいかを説いているのである。例えば、彼が「環蠢類」の標本を贈った「エール学校プロフェツソルエー、イー、ウェルリル氏」は、「珊瑚類多刺類等五十九種」を交換のために返送している。このような交換が、明治初期に諸外国の優れた著作や学術標本を我が国に蓄積させ、その結果我が国の動物学の発展を促したことは論を俟たないであろう。 モースが最終的に日本を去る1879年8月以降に行われた大森貝塚に関するこういった学術交流の例は、これまで我々に知られていなかったが、私が博士論文研究のために行った調査によって、1881年ヴェネツィア万国地理会議に付随して開催された博覧会に、同貝塚からの出土品を含む日本の学術成果が発表されたこと、また展示品の寄贈に応えてイタリアの諸博物館から日本政府に対して書籍、標本などが贈られたことが、初めて明らかとなった。本稿ではこの事実を取り上げて論じたいと考える。 しかし、ここでまず注意を促しておきたいのは、当該万国地理博覧会への出品が、モースの率先によってなされたものではないということである。後に詳述する如く、地理会議への参加要請は1880年8月7日のローマ駐箚日本公使の書簡によって初めて外務省になされているから、1年前に故国に戻っていたモースが参加を促したとは考えにくい。また、何よりも関係史料にモースの名は現れてこないのである。従って、このアメリカ人動物学者の考え方が彼の弟子や明治政府に受け継がれて、後者の意志によって参加が決定されたと考えるのが妥当ではなかろうか。 日本側に遺された当該地理会議関連の史料には、モースどころか大森貝塚の名前が一度も登場しない。このことは、当時の社会において大森貝塚の発見がどのように受け取られていたかを示す事実として興味深い。付け加えて言うならば、同博覧会関係の日本側史料は、ヴェネツィアで開かれた地理学博覧会を、「羅馬」(ローマ)での開催と取り違えているものが多く、地理学(geografia)を「地学」と翻訳することもたびたび行われていた。 大森貝塚からの出土品がこのヴェネッィア万国地理博覧会に陳列されたという事実は、日本側の史料では『日本外交文書』に掲載された「羅馬府文部卿代理フーヲレリ」(実は文部大臣フィオレッリその人)の書簡が「ヒダキ村并に大森村に於て御掘鑿之品」(oggetti preistorici, provenienti dalla provincia di Hidaki, e da Omori)[『日本外交文書』1951b、307頁]というように、わずかに言及していることから窺われるに過、ぎない。これに対して、イタリアでは、当時の日本名誉領事グリエルモ・ベルシェー(Guglielmo Berchet 1833—1913)、当時の外交公用語であるフランス語ではギヨーム・ベルシェー(Guillaume Berchet)が『ヴェネト科学・文学・芸術院紀要』(Atti dll' Istituto Veneto di Science, Lettere ed Arti)に「日本の大森貝塚」(I Shell Mounds di Omori-Giappone)と題する報告書を掲載したことにより、その出品が明らかとなった。このため、日本に残る史料のみを基礎としたこれまでの研究では、大森貝塚発掘の成果がヴェネツィアで発表された事実が明らかにはならなかったのである。さて、まずこの万国地理会議について簡単にまとめることから始めよう。 2 ヴェネツィア万国地理会議とグリエルモ・ベルシェー万国地理会議(Confrès géographique international)は、1871年ベルギーのアントヴェルペン(アンヴェール)での第1回を皮切りに、1875年にはパリで第2回会議が開催され、大成功を収めた[1]。この第2回には明治政府も日本地図を出品している。第3回会議は、前回の成功の上に立脚して、1881年9月15日から22日までの一週間ヴェネツィアで開催されたのである。参加国は英・仏・独・蘭・伊などのヨーロッパ諸国、合衆国・ブラジル・アルゼンチンなどのアメリカ諸国に加え、インド・日本など、アジアの国々をも含めた世界各国に及んだ。この会議と同時に、第2回パリ会議の例に倣って、9月1日から一カ月間「地学物品展覧会」(Exposition internationale de Géographie)[『日本外交文書』1951a、404頁]が開催された[2]。ここでは、万国地理博覧会という訳を採用することにしたい。大森貝塚の出土品[76]が展示されたのはこの博覧会の日本の部に於てである。 さて、当該会議・博覧会への日本政府の参加経緯は、外務省印刷局発行の『日本外交文書』の諸書簡から次のように要約できる。すなわち、ローマに結成された「万国地学会議管理委員(コミテーオルドナテール)」会は1880年7月1日付で、同会議の開催要項を発表したが[『日本外交文書』1951a、402—405頁]、それに基づく日本への出品要請は二つの経路を辿って東京の外務省に伝えられた。第一は、ローマに駐箚していた臨時代理公使中村博愛からの書簡であり、もう一つは東京駐箚イタリア公使バルボラーニ伯爵[3]からのものである。これを受けて外務卿井上馨は太政大臣三條實美に伺を立て、その結果ヴェネツィアの「無給領事ウエルセー」に万事を依託し、その謝金としてイタリアの通貨にして「八百フラン」(リラと同じ)が支払われることとなった。この決定は内務・陸軍・海軍・文部・工部の五省庁と北海道開拓使に伝えられ、日本政府の名の基にこの六機関が個別に博覧会に出展することとなったのである[『日本外交文書』1950年]。 当該史料を一読すれば理解できるように、中村臨時代理公使に参加を促したのは、「貿易事務官ウエルセー」である。これは、ヴェネツィア生まれの歴史家兼弁護士グリエルモ・ベルシェーのことである。彼と日本の関わりについては別途に詳しく述べたのでそれに譲るが[石井1997b]、必要最小限のことをここでまとめておきたい。 欧米諸国の調査と不平等条約の改正を目的とした明治期最初の海外特使、所謂岩倉使節団が1873年5月末にヴェネツィアを訪れた際、グリエルモ・ベルシェーはヴェネト州知事代理として一行を国鉄駅に出迎え、次いで国立古文書館に案内する。サンタ・マリア・デイ・フラーリ聖堂脇に現在でも存在するこの古文書館には、1585年にヴェネツィアを訪れた天正遣欧使節に関する史料が保存されており、それを目にした岩倉大使は、ベルシェーに命じてイタリアに残るその他の日本使節関連の記録を調査させた。ベルシェーの研究成果は、4年後の1877年に『日本使節考』(Le antiche Ambasciate giapponesi in Italia)として結実した。岩倉使節団の来訪をきっかけとしてベルシェーは、当時一年間だけヴェネツィアに置かれた日本領事館の現地職員として勤務し始める。1874年3月同領事館が閉鎖された後、明治政府の通達によって彼はローマ公使館付貿易事務取扱官として、1875年2月からヴェネツィア関係の職務を継続する。この間、名誉領事職への意欲を見せていたベルシェーに対して、外務省は1880年9月30日の通達を以て初めてこれを認め、彼はその後1913年の死に至るまで33年間にわたって在ヴェネッィア日本名誉領事を務めることになるのである。 ベルシェーが名誉領事となって初めての大きな仕事が、今回取り上げた万国地理会議および博覧会での明治政府の委任業務遂行であった。日本側史料において、ベルシェーの肩書きが「無給領事」(名誉領事に同じ)であったり、「貿易事務官」であったりするのは、名誉領事就任の通知が明治政府の官僚に徹底していなかったためと考えられる。ベルシェー自身がローマ駐箚日本公使を通じて会議への参加を明治政府に働き掛け、かつ発表を進んで受諾しようとしたことは、名誉領事職に対する彼の真摯な態度の表明であり、そのことが結果として近代日本最初の学術成果を世界に知らしめることになったのである。 地理会議は、前述のように9月15日から22日までの一週間開催され、毎日午前中、日によっては午後をも使って、「風土、地質、文字、歴史、統計、商学、教育、旅行」の八部会に分れて発表・討論が行われた[4][『日本外交文書』1951a、414頁]。9月15日にパラッツォ・ドュカーレのプレガーデイの間[5]で催された会議の開会式には、当時ローマ駐箚特命全権公使を務めていた鍋島直大が書記官斎藤桃太郎と共に出席した[6][『日本外交文書』1951a、410—413頁]。 鍋島公使は、この時のヴェネツィア行について、報告書を提出したが、それは会議の学術的内容よりは、式典としての側面に重点を置いたものであった[『日本外交文書』1951a、411—413頁]。これに対し、ベルシェーは学術的な討議・発表内容にまで及んで詳しく報告を行っている[『日本外交文書』1951a、413—421頁]。この点は本稿の目的から少々ずれるので、ここでは触れずにおきたい。 3 万国地理博覧会への日本参加一方、9月1日からパラッツォ・レアーレ(現在のプロクラトーリエ・ヌオーヴェ)と公園(現在のビエンナーレ会場)ですでに開催されていた博覧会には、内務省を始めとする六つの行政機構が出品した(日本の部はパラッツォ・レアーレの二階に展示された[7])が、その内容は出品物の現地処分を依頼した外務大輔上野景範の鍋島公使宛1881年7月22日の書簡から窺い知ることができる[『日本外交文書』1951a、408—410頁]。それを引用すると次の如くである。 [内務省出品] 一、大日本全図 一、東京実測図 一、亜細亜東部図 一、伊賀伊勢志摩尾張四州図 一、相模武蔵二州図 一、駿河甲斐伊豆三州図 一、日本地誌提要 一、三角測量報告 一、気象表 一、測絵図譜 該会於て右物品需求を要する義も有之候はば彼国地理に関する有用の図書類と交換之義最も所望に候得共都て該品処分方の義は在羅馬公使の意見に相任せ度旨内務卿より依頼の事 [海軍省出品] 一、海図壱箱目録併海図解説 右海図之義該会へ寄贈可致旨海軍卿より申越候事 [文部省出品] 一、岩石金石及化石類 目録 和文一冊、仏文一冊 一、百工応用鉱物類 同 同 一、動物及古器物標品 同 同 一、植物写生図扁類 同 同 一、日本植物葉 同 同 一、文部省出品惣目録 同上 該品閉場之後返付には不及候間同国在留我領事に預置彼国教育品にして文部省出陳中東京大学理学部調整に係る者に対しては該学部教科に其他調整に係る者に対しては普通教育に裨益可有之者と交換致度旨文部卿より照会之事 [工部省出品] 一、灯台光線入本邦地図 壱軸 一、諸標便覧欧文 拾部 右出品之義は該会閉場後同国政府其筋へ致寄贈度旨工部卿より照会之事 [開拓使出品] 甲号 一、第一二三四五 貝類の化石 日高国浦川郡イカンタイ産 一、第六 同 石狩国厚田郡産 一、第七 植物の化石 渡志国岩内石炭山産 一、第八 雷斧石 同国高嶋郡 一、第九 矢の根石 同上但し七箇 一、第十 古土鍋 同上 一、第十一 土碗 同上 一、第十二 小壷 同上 一、第十三 茶碗 同上 以上番号を以区別す 一、札幌気候周歳表 四葉欧文 一、留萌気候周歳表 貮葉 同 一、北海道測量報告書 壱冊石版図九葉添同上 一、木材見本 五拾種 一、幌内産石炭 壱塊 一、缺々 同 一、郁春別同 同 一、岩内同 同 一、蝦夷地質報告書 壱冊 欧文石版図壱葉添 乙号 一、土人写真拾三種 各二葉づつ(中略) 貮拾六葉 陸軍からは返送を条件として、次の4点を出品している[『日本外交文書』1951b、309頁]。 一 軍用諸地図 壱巻 一 陸軍省出品目録 壱冊 一 同兵学校用出品目録 壱冊 一 米国軍務省出品報告并地図等の目録 壱冊 これらの品々は、この処分依頼(内務省は鍋島公使、文部省はベルシェー領事への依託を明言している)に基づくベルシェーの配慮によって、ヴェネツィアばかりでなく、フィレンツェやローマの諸博物館、学会などに寄贈されたことが、1881年10月13日の『ガゼッタ・ディ・ヴェネツィア』紙[資料3]によって理解できる。寄贈品のうち、ヴェネツィア市立コルレル美術館に贈られた日本大地図が、内務省出品に掛かる「大日本全図」であろうことは予想がつくものの、日本語講座の設けられていた王立商業高等学校に贈られた鉱物、土、石炭の標本が、文部省の出品になるものか、それとも開拓使の提出したものかは、これらの史料だけからでは断言できない。そのことは、フィレンツェやローマの博物館への寄贈についても同様である。 ベルシェーは博覧会の開会に合わせて、日本の部の詳細な目録を準備した(Ecposition internationale de Géographie Venise 1881, Catalogue général de la section japonaise)。その序文を資料1に掲げたが、その中でベルシェーは日本の出品を近代日本初の科学的成果として高く評価している。 4 大森貝塚からの出土品前節で見た文部省出品の中には「動物及古器物標品」が和仏両言語の目録と共に出品されており、また「東京大学理学部調整に係る者に対しては該学部教科に(中略)裨益可有之者と交換致度」と但し書きが付いている。 一方ベルシェーは、1882年に『ヴェネト科学・文学・芸術院紀要』に短いレポートを発表したが、それが「日本の大森貝塚」(I Shell Mounds di Omori-Giappone)である。この本文は翻訳と共に資料2に掲げた。モースの報告書としては英文で刊行された『メモア』(Memoirs of the Science Department, University of Tokio, Japan[77-1]が著名である。この著作はフランス語でなく、英語で書かれているが、これらの状況を勘案すると、大森貝塚からの出土品は、前述の「動物及古器物標品」に間違いないであろうと推察される。 さて、ここでイタリア人の注目を引いた大森貝塚の発見が、なぜ日本側の史料ではほとんど言及されていないのかを少々考えてみる必要があろう。北海道開拓使の発掘の成果は、こと細かく記載されているのに対し、文部省の出品物記述はいかにも曖昧である。単なる偶然の産物とも考えられるが、大森貝塚の衝撃的発見から3年を経て、日本人の手による発掘調査も進み、その研究結果を前面に押し出すことで、世界に対する近代日本の面目を保ちたいとする明治政府の意図をそこに読み取るのは、行き過ぎであろうか。 ベルシェーの報告書は、スカンジナヴィアやイギリス、ア メリカの貝塚が共通してもつ特徴と全く異なる、大森貝塚独自の特質として、次の三点を挙げる。第一に出土した土器の数の多さ、第二に鏃が破片すらも発見されていないこと、第三に居住民が食人習慣があったことである。特に第三点は、日本に人食いの種族が存在したという証拠がそれまで全くなかっただけに、注目に値すると述べている。 私は博士論文執筆時に、ベルシェーのレポートが、題名から考えて、おそらくは出土品に添付されてヴェネツィアに送られたであろうモースの報告書「大森貝塚」(Shell Mounds of Omori)(『東京大学法理文学部第六年報』ではなく、英文で刊行された『メモア』)から要約されたものであろうと推察した。ベルシェーは、題名や本文中の「貝塚」という言葉を、イタリア語でammassi di conchigliaとすることもできたはずなのに、意識的に英語を用いているからである。この推測は、その後に行った『メモア』との比較によって裏付けられた。 例えば、ベルシェーの次の一節は、その後に掲げる『メモア』(1879年)から取られていると考えられる。 Come tutti gli altri depositi, essi sono i rimasugli ammonticchiati di razza selvaggie (sic) che venivano sulle spiaggie (sic) a certe epoche dell' anno, o che le occupavano permanentemente, prevalendosi del cibo cosi facilmente assicurato dalle acque, sotto la forma di molluschi o di pesci. Che quegli aborigeni poi fossero cacciatori quanto pescatori è attestato dalla presenza di ossa di animali selvaggi, come orsi, cervi, cinghiali e di certi uccelli. Le ossa, che si trovano rotte in frammenti, dimostrano che essi li riducevano così per procurarsene la midolla, o per farle più comodamente cuocere nei loro vasi culinari. Che il cibo cuocessero in recipienti di creta è manifesto dai rimasugli carbonizzati di cibo che si trovano in certi frammenti di stoviglie. In tutti questi depositi si trovano altresi primitivi ordigni, fabbricati con ossa, corna, sassi e conchiglie. The shell mounds, or deposits, in various parts of the world have many features in common. They also have their distinguishing peculiarities. Their similarity arises from the fact that they are the refuse piles of savage races who came to the shore at certain times of the year, or who occupied the shore permanently and there availed themselves of the food so easily secured from the water, in the shape of mollusks and fishes. That they were hunters as well as fishermen is attested by the presence of the bones of wild animals, such as the deer, bear, and wild boar, as well as the bones of certain birds. The bones being in nearly every case broken into fragments, show that they did this to secure the marrow, or to more conveniently get them into their cooking pots. That they cooked their food in clay vessels, is evident from the carbonized remains of the food found on certain fragments of pottery. In all these deposits various primitive implements are found, fabricated out of either bone, horn, stone or shell. [Morse 1879, p. 5] もう一つの例を挙げておこう。次に挙げる部分は、日本列島の原住民に食人習慣があったとする箇所である。 Ossa umane furono rinvenute assieme ad ossa di cinghiali, d' orsi e di altri animali. Esse erano tutte fratturate nella stessa maniera o per trarne la midolla o per poterle cuocere entro recipienti incapaci di contenerle intere. Quando queste ossa umane furono scoperte erano del tutto scornpagnate fra loro, e per quante ricerche siansi fatte per rintracciare una continuità di serie nelle ossa, colla speranza di dover conchiudere che il luogo servisse di sepoltura, nessuna prova si ottenne a sostegno di questa congettura. Le ossa umane erano mescolate con altri avanzi di festevoli banchetti. Alcune si trovarono fortemente incise con graffiature o tagli, specialmente in quei punti dove i muscoli vengono difficilmente separati dalle ossa. In generale si riscontrarono, sotto questo aspetto, negli amassi di Omori, gli stessi caratteri e le stesse evidenze che il prof. Wyman riscontò negli amassi della Florida, a dimostrare la esistenza di antropofagi. The human bones were found mixed with bones of the wild boar, deer and other animals. They were all fractured in a similar manner, either with the object of extracting the marrow or for convenience of cooking in vessels of too small dimensions to admit them at length. When discovered, they were entirely unrelated to each other. Some hopes were entertained that the place might have been used for purposes of burial, and special search was made for a continuous series of bones; but no proof was obtained in support of this supposition. (...) The bones were mixed indiscriminately with other remains of feasts. Some of them are strongly marked with scratches and cuts, especially in those areas of muscular attachment where the muscles are separated from the bones with difficulty. The very mode of fracture in some cases is conspicuously artificial, and the surfaces for the attachment of muscles are strongly incised. These testimonials of cannibalism are of precisely the same nature as those educed by Professor Wyman in his memoir on the shell mounds of Florida (...).[Morse 1879, p.17] 以上の二例で明らかなように、ベルシェーは部分的には『メモア』を一字一句違えずにイタリア語に翻訳している。また、これ以外の多くの部分では、省略と要約を行って、36頁にわたるアメリカ人の報告書の中心部分を4頁にまとめ上げているのである。 大森貝塚からの出土品は、博覧会の閉会後、ヴェネト科学・文学・芸術院にすべて寄贈された[8]。これら18点の品々は、1923年同院からヴェネツィア自然史博物館に依託され、現在でも展示されているため我々も見ることができる。そのうちの13例を写真で追っておきたい。土器破片の写真が入手できなかったこと、貝殻の大きさが不明なことが残念である[9]。貝類の名称に関しては、このベルシェーの報告書と『メモア』[Morse 1879、モース1879]を比較したが、古い学名でもあり、ベルシェーの報告書[資料2]の5、7、11、13に関しては疑義が残った。この点の解決にあたって、そして写真[挿図1]を基にした現在の学名の同定にあたっては、国立科学博物館の斎藤寛博士にお世話になった。この場を借りて謝意を表したい。 日本の出品に対しては数々の賞が贈られたが、その中で大森貝塚を中心とした「東京大学部」には名誉賞状(Diplome d' honneur)が与えられた[『日本外交文書』1951a、419頁]。 5 イタリアから日本への寄贈品すでに引用した1881年10月13日の『ガゼッタ・ディ・ヴェネツィア』紙[資料3]が伝えるように、日本の部に展示された出品物は、一部を除いてイタリアの博物館や研究所に寄付された。これに対してイタリアの文部大臣フィオレッリは日本の文部大臣に、地理協会会長は外務大臣に対して感謝状を送った[『日本外交文書』1951b、306—311頁]。 加えて、ベルシェーを通じて次のような交換品が日本へと発送された[『日本外交文書』1951b、308—309頁]。 [目録] 一 書物文庫誌 四冊 一 伊国地理大会器物目録 参冊 一 コントマルチエロ氏著作 壱冊 一 動物考 貮冊 一 植物考 壱冊 一 河海考 貮冊 一 魯国博覧会目録 壱冊 一 河海学用機械誌 壱冊 一 瑞西区目録 壱冊 一 問題表 壱書 一 地理に関する発見物目録 壱冊 一 西班牙区陳列出品目録 壱冊 一 統計学進歩考 壱冊 一 地質考 壱冊 一 和蘭国地理に関する報告 壱冊 一 日光の地球表面に及ぼす感及考 壱冊 一 保険事業の区分表 壱冊 一 第三万国地理博覧会出品目録 壱冊 一 ラムロイ氏博覧会報告 壱冊 一 伊国羅馬地図 壱軸 一 日本器物目録伊仏文 貮冊づつ 外に雑書籍類拾五冊(別紙) [目録] 一 威尼斯学校誌 貮冊 一 威尼斯風俗誌 貮冊 一 地図会新聞 壱包 一 諸刷物 壱括 一 魯国慣習法 貮冊 一 地理其他学術上著述目録 壱冊 一 ラウピエール論 壱冊 一 日本器物目録伊仏文 貮冊づつ フィレンツェの博物館長からは「一 鳥類入箱、一文部卿宛書簡」、ローマの博物館長からは「一 古器物入り箱、一領事ベルシェー宛書簡」が贈られた[『日本外交文書』1951b、312頁]。 ここに見るように、科学上の成果を積極的に発表して諸外国と交流し、日本の学術発展を助けようとするモースの考えは、ベルシェーの手を経て、また一つ実を結んだのである。 6 ベルシェーへの報奨ベルシェーは同会議でフランスの書記官を兼務し、同政府はその功に報いてレジオン・ドヌール勲章五等を彼に授けた[10]。これに比べて日本政府はベルシェーに何も報賞しなかったため、当時ローマ駐箚特命全権大使であった浅野長勲は、1882年外務卿井上馨にベルシェーへの四等叙勲を申し出、これが1884年2月29日に認可された。地理会議での功績に加えて名誉領事としての活動が日本政府から認められたのである[資料4]。 その後もベルシェーは、二度にわたって学問的に日本のことをヴェネツィアで紹介した。名誉領事になって日本からの情報も得やすくなったのであろう(「私が収集に行き、または日本から送られてくる書物」という言葉が報告書の冒頭に見える)、1878年に開校した東京大学や衛生局等に関する1883年の報告書の紹介[Berchet 1884]、発布直後の大日本帝国憲法に関する報告[Berchet 1889]を『ヴェネト科学・文学・芸術院紀要』に載せている。この「日本学者(ヤマトロゴ)」としてのベルシェーの功績は、同時代の研究者によっても広く認められていたところであり、ベルシェーの公開した史料の補遺を刊行したザイヨッティはその序文で次のように述べている。 「ここヴェネツィアで、ベルシェーと日本とは、かくも密接に繋がったものであるため、ほとんど同義語とも言え、かくも見事に日本の名を高めたコンメンダトーレを思いださずに日本のことを考えるヴェネツィア人は一人もいないし、またベルシェーのことをあの遠隔の地の注解者、代表者として考えないものも一人もいないのである。 君は歴史研究、特にヴェネツィア史の研究において多くの著名な功績を残しているが、この分野には君のライバルも数多くいるし、君の研究を盗もうとする者もいる。日本に関する分野では、ポンテ・デラ・グエルラに店を持ち、あまり大した研究も残していないブジネッロ以外にはライバルもいない。従って、日本は君の強みであり、正当なる誇りの源泉である」[Zajotti 1884]。 このようにベルシェーは、親日的なヴェネツィアで、日本と同市との友好の要とも言える「日本学者」として知られていくことになる。 7 結語モースが明治10(1877)年に日本に残した科学的成果、大森貝塚の発見は、本稿で見たように第3回ヴェネツィア万国地理会議付属博覧会で発表され、注目を集めた。それは近代日本にヨーロッパの科学的研究方法に基づく学問が根付いたことを示す重要な証左であった。しかし、明治政府の意図は、御雇外国人であったモースが直接残した業績よりも、彼の跡を引き継いだ日本人の研究者達が着々と上げていた研究成果を世界に知らしめることにあったように見える。日本側の史料にモースの名が一度も現れないのは、そのあたりの事情を物語っているのではないかと私には思われるのである。 しかしながら、万国地理博覧会で行われたように近代的な学術調査の結果を海外に発表することでその意味を問い、かつ優れた著作・標本を交換によって取得するという方針は、まさにモースの目指したところである。その意味でモースの精神は、確実に日本の研究者達に受け継がれたと言ってよいであろう。大森貝塚の発見という素晴らしい業績を残したエドワード・モースは、学問発展のための貴重な指針をも我々に与えてくれたのである。 |
【註】[1]第2回への日本参加に関して言及している日本側の史料は、管見の限りでは[『日本外交文書』1950、488頁]の外務卿片上馨の太政大臣三條實美宛書簡(1880年12月21日)のみである。「右万国地学会議之儀は去る明治7年仏国巴黎に於て初回相開き其節は別紙丙号写し之通御沙汰相成地図其他出品一等賞牌を得大に名誉を得候事も有之」と伝える。なお、資料の旧漢字、片仮名表記は、すべて新漢字、平仮名表記に改めた。[本文へ戻る][2]イタリアで最も古い日刊新聞『ガゼッタ・ディ・ヴェネツィア紙』1881年9月1日号は同博覧会の開会を、10月1日号は閉会を伝える。[本文へ戻る] [3]1878年から81年まで日本に滞在。彫刻家長沼守敬(ながぬまもりよし)は彼の帰国に従ってイタリアに渡っている。長沼の留学時代に関しては[石井1996]を参照されたい。[本文へ戻る] [4]これは[『日本外交文書』1951a、402頁]の管理委員会発行の要項が伝える七科目(第一、地躰学(ジエオグラヒーマテマチック)、地理測量学(ジエオデジー)、地勢学(トポグラヒー)、第二、水理学(ヒドグラヒー)、海上地理学(ジエオグラヒーマリチーム)、第三、地質気候(ジエオグラヒーヒジツクメトロジー)、気象、地質(ジエオロジー)、本草動物地学(ボタニツクゾーロジー)、第四、歴史地学(ジエオグラヒーヒストリツク)、人種学(エトグラヒツク)、語学(ヒロージツク)に関る地学及び地理歴史(ヒストウアールドラジエオグラヒー)、第五、経済通商統計に関する地学、第六、地学教授及び此学術を普通ならしむる方法、第七、地学に関する実験及び旅行)とは一致しないが、ここでは事後にもたらされたベルシェーの報告書に依拠したいと考える。[本文へ戻る] [5]『ガゼッタ・ディ・ヴェネツィア紙』1881年9月15日号。また[『日本外交文書』1551a、413頁]は開会式の開催場所を「フレガヂノ大」と伝える。[本文へ戻る] [6]長沼守敬は彼の自伝とも言える[長沼1936]で彼自身がヴェネツィア商業高等学校の日本語教師に決定した際、この齋藤桃大郎が先代教師であった画家川村清雄を説得したことについて、「依然河村(ママ)は先生をやめるとは云はぬ。そこで百武氏はわざわざ書記生の齋藤桃太郎といふ人をヴェニス迄やつて、君は官費生でしかも日本語教師の俸給まで貰つてゐていゝかも知れぬが、長沼は遙々母や妻を故国に残して伊太利へ来たものの、占むべき椅子とてなく居候の有様である、それに君には帰朝命令が来てゐるのだから、此の際是非勇退して欲しいと説得した(ものであらう、斎藤氏が格別の要事もなくヴェニスヘゆく筈はないのである)ので、河村も漸くやめる気になり、私は愈念願叶つてのヴェニス行とはなつたのである」と述べている。[『日本外交文書』1951a、410—413頁]とこの長沼の言葉を考慮すると、斎藤は鍋島侯爵に付き従って万国地理会議の開会式に参加するためにヴェネツィアに赴き、その訪問を利用として川村清雄を説得したと考えるのが妥当ではないか。なお、日本語講座の開設に関しては拙論[石井1995、石井1997a]を参照されたい。[本文へ戻る] [7]『ガゼッタ・ディ・ヴェネツィア紙』、1881年9月1日号。[本文へ戻る] [8]資料2を参照されたい。[『日本外交文書』1951b、307頁]のイタリア文部大臣フィオレッリからの感謝状には「大森村に於て御掘鑿之品御恵送に預り」とあることから、出土品の一部がローマの博物館に送られた可能性も否定できないが、ベルシェーは出品された18点すべてをヴェネト科学・文学・芸術院に寄贈したと明言している。[本文へ戻る] [9]これらの写真複製の入手に際しては、ヴェネト科学・文学・芸術院院長アレッサンドロ・フランキーニ(Alessandro Franchini)氏のお手を煩わせた。この場を借りて、心よりの謝意を表したい。[本文へ戻る] [10]『明治期外国人叙勲史料集成』、京都、1991年、445—447頁。「ベルシエー氏は仏国より該曾議書記官兼務之廉を以て同国政府よりも叙勲相成候」。[本文へ戻る] 【資料1】(イタリア語のものを中心に、未刊行の外交史料館所蔵の史料を加えた)Exposition internationale de Géographie Venise 1881, Catalogue général de la section japonaise (Introduction par Guillaume Berchet) On pourrait affirmer que c' est la première fois que le Japon scientifique se fait connaître en Europe par 1' exposition de ses études, de ses recherches, et de ses travaux. En effet, si le Japon industriel a fait grand éclat à l' Exposition universelle de Vienne en 1873 et à celle de Paris en 1878, il avait envoyé aux Expositions internationales géographiques d' Anvers et de Paris seulement quelques cartes, tandis qu' à l' Exposition de Venise le grand Empire du Soleil Levant a envoyé tant d' objets, et sìi bien choisis et classés que, sans doute, sa position, dans les études qui se rapportent à la géographie, sera hautement apprécié et solidement établie par le monde scientifique. Si on compare les objets relatifs à ces études, présentés aux Expositions précédantes, avec ceux qui sont à l' Exposition de Venise, on est frappé du progrès fait en si peu d' années. J' espère donc que, Ie catalogue, détaillé et possiblement illustré de la Section japonaise à l' Exposition internationale de Venise, en faisant connaître les efforts et les progrès du pays que j' ai l' honneur de représenter, apportera aussi quelque avantage à la science.
1881年ヴェネツィア万国地理博覧会日本の部総目録 (グリエルモ・ベルシェーによる序文) 科学の日本が、その研究、調査、結果を展示することによってヨーロッパに自分を知らしめるのは今回が初めてだと言えるであろう。事実、1873年のウィーン万博、1878年のパリ万博で産業の日本が素晴らしい成果を上げたにしても、アントヴェルペンとパリの万国地理博覧会には数点の地図しか送られていないのに比べ、大日本帝国はヴェネツィアの博覧会にはかくも選択・整理された多くの品々を送って寄越したのである。これによって地理学研究分野における日本の位置は間違いなく高く評価され、科学者達によってしっかりと認められることになるであろう。これまでの博覧会に提出されたこの研究に関する品々を、今回のヴェネツィア博覧会のそれと比較するならば、我々はほんの数年間になされた進歩に目を見張ることであろう。従って私はここに、ヴェネツィア万国博覧会日本の部の詳細かつ可能な限り図版入りのこの総目録が、私が代表する栄誉を持つ国の努力と進歩を知らしめる点で、何等かの利益を地理学という科学にもたらすことを望むものである。
【資料2】I Shell Mounds di Omori-Giapponedel Dott. Guglielmo Berchet S del R. Istituto Veneto di Scienze, Lettere ed Arti Nella sezione giapponese della Esposizione internazionale geografica del 1881, fu ammirata sopratutto (sic) e fu decorata del maggior premio, una collezione di oggetti preistorici, di recente scoperti al Giappone, costruendosi la ferrovia dalla capitale a Yokohama. Questa collezione di shell mounds, o ammassi di conchiglie e di oggetti appartenenti a razze umane primitive, conteneva 18 capi, cioè uno di rottami di stoviglie, due di ossa di animali e 15 conchiglie fossili. Tra quest' ultime notavasi l' Arca granosa di Linneo, la quale trovasi in quasi tutti gli antichi depositi, ma non si riscontra nelle più recenti formazioni. La località ove si è scoperto questo ammasso è il paese di Omori a sei miglia da Tokio ed a mezzo miglio dalla spiaggia della baja (sic) di Yeddo. La lunghezza del deposito è di circa 80 metri e la sua profondità di quattro. Di questi shell mounds, o antichissimi avanzi e rigetti di umana commestione se ne scopersero successivamente al Giappone, nelle coste occidentali dell' isola di Yesso, in quella di Kiushiu, in Higo ed Hakodate. In generale tutti hanno gli stessi caratteri di somiglianza con quelli della Scandinavia, illustrati dallo Steenstrup, con quelli della Florida illustrati dal Wyman, e con molti altri che si trovano qua e là per tutto il mondo, non però tutti dell' epoca stessa. Però i shell mounds di Omori, illustrati dal sig. Morse prof. di zoologia all' università di Tokio, se hanno caratteri comuni con quelli degli altri depositi della Scandinavia, della Florida, dell' Inghilterra, delle coste francesi, della valle del Misissipi (sic), della California, Tasmania e dell' arcipelago malese, si distinguono per un carattere particolare loro proprio. Come tutti gli altri depositi, essi sono i rimasugli ammonticchiati di razza selvaggie (sic) che venivano sulle spiaggie (sic) a certe epoche dell' anno, o che le occupavano permanentemente, prevalendosi del cibo così facilmente assicurato dalle acque, sotto la forma di molluschi o di pesci. Che quegli aborigeni poi fossero cacciatori quanto pescatori è attestato dalla presenza di ossa di animali selvaggi, come orsi, cervi, cinghiali e di certi uccelli. Le ossa, che si trovano rotte in frammenti, dimostrano che essi li riducevano così per procurarsene la midolla, o per farle più comodamente cuocere nei loro vasi culinari. Che il cibo cuocessero in recipienti di creta è manifesto dai rimasugli carbonizzati di cibo che si trovano in certi frammenti di stoviglie. In tutti questi depositi si trovano altresì primitivi ordigni, fabbricati con ossa, corna, sassi e conchiglie. Mail carattere particolare dei depositi di Omori consiste: Primo: nella presenza di una enorme quantità di stoviglie e vasi di forme molto differenti e con una infinita varietà di ornamentazione. E' poi notevole, come di preferenza le stoviglie portino la ben nota impronta della corda, come I' hanno precisamente quelle lavorate nelle altre parti del globo. Secondç: nella grande scarsezza di ogni altro prodotto di umana industria e di ordigni di pietra, e nell' assenza pur anco di punte di freccia, od altri appuntiti istromenti (sic) di pietra. Non una sola punta di frecci o una scheggia fu ritrovata negli scavi di Omori, mentre se ne trovarono negli scavi fatti poi ad Hokkaido nell' isola di Yesso al nord del Giappone. Terzo: per la prova riscontratavi che gli uomini del periodo di questi ammassi erano antropofagi. Questo fatto è tanto più degno di nota, in quanto che nelle storie giapponesi che si hanno ordinate e minute da oltre due mila anni, non si trova accenno che tra quei popoli primitivi esistesse il cannibalismo. Ossa umane furono rinvenute assieme ad ossa di cinghiali, d' orsi e di altri animali. Esse erano tutte fratturate nella stessa maniera o per trarne la midolla o per poterle cuocere entro recipienti incapaci di contenerle intere. Quando queste ossa umane furono scoperte erano del tutto scompagnate fra loro, e per quante ricerche siansi fatte per rintracciare una continuità di serie nelle ossa, colla speranza di dover conchiudere che il luogo servisse di sepoltura, nessuna prova si ottenne a sostegno di questa congettura. Le ossa umane erano mescolate con altri avanzi di festevoli banchetti. Alcune si trovarono fortemente incise con graffiature o tagli, specialmente in quei punti dove i muscoli vengono difficilmente separati dalle ossa. In generale si riscontrarono, sotto questo aspetto, negli amassi di Omori, gli stessi caratteri e le stesse evidenze che il prof. Wyman riscontrò negli amassi della Florida, a dimostrare la esistenza di antropofagi. Fu anche fatto un esame di queste ossa, e si trovò nella tibia una notevole differenza fra la tibia dell' uomo antico e quella dell' uomo attuale. Comunque sia, e senza posare nonchè risolvere questioni lungamente dibattute, e non sempre con criterii scientifici, ho procurato di raccogliere un saggio di tutte le 18 qualità degli avanzi di Omori, esposti alla mostra geografica, e mi permetto di offrirlo in omaggio all' Istituto, che conserva con amore, ad utilità degli studii, altre collezioni cospicue, ben lieto, se da questo potrà essere gradito. ELENCO DEGLI OGGETTI 1. Frammenti di stoviglie. 2. Rapana bezoar, Linneo. 3. Eburna japonica, Lischke. 4. Purpura luteostoma, Chemnitz. 5. Lampania zonalis, Lamark. 6. Turbo granulatus, Chemnitz. 7. Globulus monilifer, Lamark. 8. Natica Lamarkiana, Duclos. 9. Mya arenaria, Linneo. 10. Mactra veneriformis, Deshayes. 11. Tapes decupatus, Linneo. 12. Cytherea meretrix, Linneo. 13. Dosinia exoleta, Linneo. 14. Arca iuflata, Reeve. 15. Arca granosa, Linneo. 16. Ostrea denslamellosa, Lischke. 17. Corna di cervo. 18. Ossa di ruminante. 「日本の大森貝塚」 ヴェネト科学・文学・芸術院会員 学士グリエルモ・ベルシェー 1881年の国際地理展覧会の日本部において特に称賛され、大賞を受けたのは、最近首都から横浜に鉄道を建設する際に発見された先史時代の品々のコレクションである。 貝塚からの出土品や原始人の用いていた品物のコレクションには18品目ある。すなわち、食器の破片1片、動物の骨2片、15の貝の化石である。その中で注目すべきは、「シシガヒ」で、これはほとんどすべての古い貝塚に見られるものの、最近のものには発見されていない。 この貝塚が見つかった場所は、東京から6マイル、江戸湾から半マイルの大森村である。 このような貝塚や、人間の食生活の残り物や廃棄物は、その後も日本各地、蝦夷島の西海岸や九州で、つまり肥後や函館で発見された。 これらはすべて、概してステーンストルプが示したスカンジナヴィアの貝塚、ワイマンの示したフロリダの貝塚、同じ時代ではないにしても、全世界のそこここで発見されている他の貝塚と類似の特徴を持つ。 しかし、東京大学の動物学教授であるモース氏が示した大森貝塚は、スカンジナヴィアやフロリダ、イギリス、フランスの海岸、ミシシッピ、カリフォルニア、タスマニア、マレー諸島の貝塚と共通の特徴があるにしても、独自の特徴によって区別される。 他の貝塚と同じく、大森貝塚は原始人の食べ残しの堆積物であり、彼らはある特定の季節だけ海岸にやってきたり、また一年中海岸に住んだりしては、容易に海が与えてくれる食べ物である軟体動物や魚類を利用していたのである。それらの土着民が漁労ばかりでなく狩猟をも行っていたことは、熊、鹿、猪などの野生の動物や、特定の鳥の骨の存在によって証明される。破片で見つかるこれらの骨は、骨髄を食べるためか、または煮物の鍋で料理しやすくするために彼らが骨を粉々に砕いたことを示している。 彼らが食物を土器で料理したことは、食器の破片に見つかる、炭化した食物滓によって明らかである。これらすべての貝塚では、このほかに骨や角、砂、貝などで作られた原始的な道具が発見されている。 しかし、大森貝塚独特の特徴は次の三点にある。第一に形態が非常に異なり、数えきれないほど様々な装飾の施された食器や壷が大量に存在すること。装飾の好みとして食器は縄文模様を持ち、それが地球上の他の場所で見られるものと全く同じであるのは注目に値する。 第二に、人の営為が創りだす他の産物や、石器が非常に少なく、鏃や尖った石器が存在しないこと。大森の発掘現場からは鏃やその破片すら見つからなかったのに対して、北日本の蝦夷島、つまり北海道で行われた発掘では、発見されている。 第三に、この貝塚の時代の人々は食人種であったとする証拠が見つかった。 この事実は、2千年以上にわたって形作られ、詳述されてきた北日本の歴史の中で、あの原始人の間に食人習慣があったとする印が見つかっていないだけに、注目に値する。 人間の骨は、猪や熊、その他の動物の骨と一緒に発見された。これらの骨は骨髄を取り出すため、または丸ごとでは入らない調理用具に入れるために、同じ方法で砕かれていた。これらの人骨が発見されたとき、それぞれの人骨破片の間には何の関連もなかった。発見場所が埋葬地ではないかとの結論を引き出すべく、一連の骨の連続性を確かめるための調査がなされたが、この推測を裏付けるような証拠は全く得られなかった。人骨は宴の時の他の残飯と混ざっていたのである。骨のいくつかには深いひっかき傷や切り込みが見られる。それは特に、筋肉が骨から引き離しにくい部分に認められるのである。この点を考慮すると、一般に大森貝塚においては、ワイマン教授がフロリダの貝塚で証明したのと全く同じ特徴や証拠が認められ、食人種の存在が証明されるのである。 またこれらの骨の調査も行われ、古代人の脛骨と現代人のそれとの間には顕著な差異が認められた。 どちらにしても、長い問、時に非科学的方法で討論されてきた問題を提示することも解決することもなかったが、私は地理展覧会に出品された大森の出土品18品目すべてを入手したので、それを、その他の重要なコレクションを研究のために愛情を以て保存する貴学院に、もし受け入れて戴けるなら、喜んで提供する次第である。 [展示品リスト] 1 食器の破片 2 「アカニシ」 3 「バイ」 4 「イハニシ」(斎藤氏の見解ではイボニシ) 5 「カハヒガヒ一種」(斎藤氏の見解では、学名クリフレイシガイ、写真判断はイボウミニナ) 6 「コサザエ」 7 斎藤氏の見解ではイボキサゴ 8 「ツメタガヒ」 9 「オホノガヒ」 10 「シホフキガヒ」 11 「アサリ」 12 「ハマグリ」 13 「サヽメカヒ」(斎藤氏の見解ではカガミガイ) 14 「アカヾヒ」 15 「シシガヒ」(斎藤氏の見解ではハイガイ) 16 「カキ」(斎藤氏の見解ではイタボガキ) 17 鹿の角 18 反芻動物の骨 【資料3】13. 10. 1881Cospicuo dono del Governo giapponese. - Tutti gli oggetti e tutte le collezioni, inviati dal Governo giapponese alla Mostra geografica, rimangono in Italia. Il console del Giappone a Venezia, comm. Berchet, per ordine di quel Governo, oggi ha consegnato al Municipio di Venezia la grande Carta dell' Impero giapponese, che si meritò la lettera di alta distinzione del Giurì internazionale, con preghiera che sia collocata nel Museo Civico a ricordo della parte presa dal Giappone nella Mostra geografica; - ha consegnato alla R. Scuola superiore di commercio la collezione completa dei minerali, terre, carboni, ec., che si trovano nel Giappone, e che venne fatta sotto il punto di vista delle industrie; - ed ha consegnato all' Osservatorio meteorologico una raccolta di 21 volumi di osservazioni meteorologiche ed astronomiche fatte nelle diverse Stazioni del Giappone. Inoltre ha spedito: Al Museo geologico di Firenze, la collezione degli uccelli giapponesi e degli anfibii, insieme alle fotografie degli Ainos di Saghalin; A1 Museo preistorico di Roma, la interessantissima collezione degli avanzi dell' umana industria e delle conchiglie fossili scavate in Omori ed Hidatchi; Alla Società geografica italiana, la collezione delle 98 carte eseguite dall' Ufficio idrografico del Giappone; Al Ministero dei lavori pubblici, la grande carta dei Fari sulle coste del Giappone, e manuali relativi; Al Ministero degli affari esteri, tutto il rimanente, cioè carte geografiche e topografiche, libri, collezioni, un erbario completo di 720 piante giapponesi, i lavori e le carte dell' Università e della Scuola Normale di Tokio, ec. ec., con preghiera di farne la distribuzione che crederà più opportuna ai varii Istituti italiani. (Gazzetta di Venezia) 1881年10月13日 日本政府からの重要な寄贈。日本政府から地理展覧会のために送られたすべての品々および収集品はイタリアに残ることとなった。ヴェネツィア駐在日本領事、コンメンダトーレ勲章佩勲者ベルシェー氏は、かの政府の命令に基づき展覧会において国際的なメンバーからなる審査委員会の高い評価を得た日本帝国の大地図を、本日ヴェネツィア市庁舎に届けた。地理博覧会において日本が果した役割を記念して、市立美術館[1]に保管してもらうためである。王立商業高等学校には、産業的見地から集められた日本の鉱物、土、石炭などの完壁なコレクションを届けた。そして天文台には21巻からなる日本各地の天文台での天文気象観測結果を届けたのである。 この他にも次の寄贈をなした。 フィレンツェ地質学博物館[2]には、日本に生息する鳥類、両生類の標本を樺太のアイヌの写真と共に寄贈。 ローマ先史博物館[3]には、大森、日立で採掘された古代の道具の破片や貝殻の化石の非常に興味深いコレクションを寄贈。 イタリア地理学協会には、日本の治水局が制作した98枚の水路図のコレクションを寄贈。 労働省には日本沿岸の灯台の大地図とその説明書を寄贈。 外務省には残りすべて、すなわち地勢図や都市図、書物、コレクション、720に及ぶ日本の植物標本全体、東京大学および東京師範学校の著作と地図等などを適当と思われるイタリアの各種の研究所に配分してもらうべく寄贈した。 『ガゼッタ・ディ・ヴェネツィア』紙 [1]コルレル美術館のこと。 [2]1775年にトスカーナ大公ピエトロ・レオポルド・ディ・ロレーナが創設した物理・自然史博物館が元となって分岐した博物館。収蔵品および蔵書の増加から19世紀末にいくつかの博物館に分かれた。日本の鳥類・両生類の標本は現在フィレンツェ動物学博物館「天文台」(La Specola)に、一方アイヌの写真は人類学・民族学博物館に所蔵が確認される。 [3]1875年にルイジ・ピゴリー二が基礎を置いたエウルにある先史・文化人類学博物館(Museo Preistorico ed Etnografico Luigi Pigorini)のこと。ヴィンチェンツォ・ラグーザの持ち帰った日本美術収集品も収蔵されている。 【資料4】外務省外交史料館 六、二、一、五—三『外国人叙勲雑件(伊太利人之部)』第一巻 自明治十四年 威尼斯在留領事伊国人ギヨーム ベルセー勲四等被叙旭日小綬章賜与一件 明治十四年八月十九日在伊国百武二等書記官より外務卿公信第二十五号抜書 威尼斯在留領事コンマンドル伊国勲三等ベルセー氏義今般同所萬国地理曾議委員被仰付頻に盡力罷在同氏我通商上の事務にも能く注意致置候間向後尚一層奨励し筋とも被存候に付地理会議事務勉励候兼を以て四等勲章御下賜相成度此段合而得貴意度也 【参考文献】石井元章「川村清雄とヴェネツィアにおける日本語教育」、『近代画説』4号、1995年、72—79頁。石井元章「彫刻家長沼守敬のヴェネツィア留学時代についての一考察新史料に基づく再構成の試み」、『SPAZIO』54号、1996年、20—39頁。 石井元章「川村清雄とヴェネツィアにおける日本語教育 補遺」、『近代画説』5号、1997年a、125—131頁。 石井元章「グリエルモ・ベルシェーと日本」、『SPAZIO』55号、1997年b、35—50頁。 上野益三「自然科学」、『お雇い外国人 第三巻」、鹿島研究会出版会、1966年。 Zajotti. P., L'ambasciata Giappoleese del MDLXXXV, Venezia, 1884. 長沼守敬「現代美術の揺藍時代」、高村光太郎編『中央公論』584号、1936年、214—244頁。 『日本外交文書』、「伊国万国地理学会」第13巻、1950年、486—489頁。 『日本外交文書』、「羅馬万国地理学会」第14巻、1951年a、402—421頁。 『日本外交文書』、「羅馬万国地理学会」第15巻、1951年b、306—314頁。 Berchet, G., “Relazione sulla università di Tokio, sull' ufficio centrale di Sanita ecc. nel Giappone.” in: Atti del regio Istituto veneto di Scienze lettere ed arti, tomo II serie VI, 1884. Berchet, G., “La costituizione nel Giappone.” in : Atti del regio Istituto veneto di Scieleze lettere ed arti, tomo VII serie VI, 1889. モース、エドワード「動物學教授エドワルド・モールス氏申報」、『東京大学法理文学部第六年報』、1879年、64—77頁。 Morse, E. S., Memoirs of the Science Department, University of Tokio, Japan, 1879. |
[エドワード・シルヴェスター・モースの遺品]76-1 深鉢土器 縄文時代後期、重要文化財、高25.0cm、総合研究博物館人類先史部門(BD-12400, P1.I-4) 76-8 石斧 縄文時代後期、重要文化財、長13.0cm、総合研究博物館人類先史部門(BD-5719, P1.XVII-1) エドワード・シルヴェスター・モース(1838—1925)は明治10年に発足したばかりの東京大学法理文学部で動物学・生理学教授として同年7月から明治12年8月まで教鞭を執っている。元々動物学を専攻していたモースは日本の腕足類の研究を来日の目的としていたが、横浜に到着し、翌々日に新橋へ向かう汽車の窓から大森貝塚を発見した。同年7月、江ノ島での調査研究を行ったのち、9月から10月にかけ大森貝塚の本格的な調査を行う。進化論についての講義をはじめ、国内で動物学、人類学、考古学の基礎を築いた。モースは明治11年10月20日、矢田部良吉(1851—1899)らと協力して「東京大学生物学会」を創設。この学会はモース在職中は活発な活動を繰り広げたが、後継者の第二代動物学教授チャールズ・オティス・ホイットマン(1842—1910)の時代になると、植物学研究者が学会活動に熱心でなくなり、実質的な動物学会となる。 モースは大森の出土品を展示するための総合博物館の建設を大学に働きかけると同時に、大学構内の一角に標本展示室を設け、動物標本と併せてそれらを学生や研究者のために公開してみせていた。これらの展示品は「縄文時代」という考古学的な概念を画定する上で決定的な意味をもった標本であり、製作時期はおよそ3千年前に遡る。(西野) 77 大森貝塚関連資料 77-1 Edward S. Morse, ‘Shell Mounds of Omori’, Memoirs of the Science Department, University of Tokio, Japan, Volume I. Part I. Published by The University. Tokio, Japan, 2539(1879).(2冊) 縦28.5cm、横15.5cm、理学系研究科人類学図書館、理学系研究科動物学図書室 文部大臣田中不二麿と法理文学部綜理加藤弘之(1836—1916)に働きかけ、欧米で通用する学術研究雑誌の出版を実現したのは明治12年のことである。当初から欧文と和文の両方での出版が企図されており、国内で出版された最初の大学紀要となった。出土物がそれぞれの用途に応じて分類されている点に特徴があり、図版の複製に使われている石版技術もまた国内にもたらされて日の浅いものであった。欧米での評価も高く、小部数の冊子はたちまち底をついたという。動物学教室所蔵の佐々木忠次郎旧蔵本には、「明治十三年春二月東京大学三學部綜理加藤弘之君之所贈於余者也 佐々木忠次郎」の墨記が見返しにある。(西野) 77-2 エドワルド・エス・モールス撰著「大森介墟古物編」(理学部教授矢田部良吉口訳、寺内章明筆記)、『理科曾粹』第1帙上冊 明治12(1879)年、東京大学法理文学部印行、縦28.5cm、横19.6cm、総合研究博物館人類先史部門 欧文編の出版後、4カ月して和文で刊行された発掘報告書。訳者は植物学者の矢田部良吉。『理科會粹』はモースの在職していた東京大学法理文学部から刊行されたが、他の部局からの反発もあり第3帙第2巻から以降は「東京大学印行」へ変更される。主として御雇外国人教師の研究発表雑誌としてあり、通巻5帙7冊を数える。(西野) 77-3 『モールス氏大森介墟編(原稿図)』 大森貝塚発掘報告書図版実測原図、縦25.5cm、横21.0cm、理学系研究科人類学図書室 日本人画工木村がモースの指導で実測し、製図したもの。モース自身のメモが鉛筆で記入されている。モースは左右どちらの手でも字や図が書けたというが、その悪筆ぶりは有名であった。全18の紙挟みに総計255枚の原図が収められている。(西野) 77-4 大森貝塚発掘風景(モース考案の額入) 竹に木材、縦32.0cm、横43.0cm、「東京帝國大學人類學教室、四百九十三番」の登録シール、理学系研究科動物学図書室 裏に「大森貝塚の図、額縁はモールスの意匠に成り図は大森介墟古物編の口絵、氏の在職当時より其のまま保存」とある。石版画は亀井至一の手になる。(西野) 77-5 「モース肖像」、明治6(1873)年、写真に署名、裏に「Benj. F. Jones, 214 Essex St. Salem」の印刷あり、理学系研究科動物学図書室 来日以前、ボードイン大学教授時代のモース。35歳。(西野) 78 日本古陶磁器コレクション 78-1 乾山水仙絵色紙重皿 18—19世紀、京焼、高2.7cm、長径17.3cm、総合研究博物館人類先史部門(262) 78-2 織部片口 19世紀前半、瀬戸赤津焼、高6.0cm、最大径17.0cm、総合研究博物館人類先史部門(264) 78-6 色絵木瓜文小皿 19世紀、九谷焼、高2.2cm、最大径10.5cm、総合研究博物館人類先史部門(263) 78-7 「モールス先生蒐集日本陶磁器陳列室」 大正4(1925)年、写真のコロタイプ印刷、縦17.7cm、横28.8cm、理学系研究科動物学教室 モースはわずか2年足らずの日本滞在中に北海道から九州まで国内を広く旅行し、その間に3千点以上の日本陶磁器を蒐集している。有名な見聞記『日本その日その日』によると、蒐集品の第一号はホタテガイに似た小皿であったという。明治12(1879)年8月、それらの陶磁器を本国に持ち帰り、明治15年6月の再来日のさいにはビゲローやフェノロサとともに人力車、駕籠、帆船、汽車を使って関西方面への旅行を行い、陶磁器の系統的な蒐集を精力的に行っている。この数も3千点近くに及んだという。これら日本陶磁器は郷里セーラムのピーボディ博物館に保存されていたが、ビゲローの蒐集品と併せて1890年にボストン美術館へ譲られ、総数7千点を超えるモース蒐集日本古陶磁器コレクションとして広く知られている。 昭和13(1938)年夏、長谷部言人、三上次男他が東京大学理学部人類学教室の地下室倉庫を整理中、鳥居龍蔵の蒐集品をはじめとする学術標本の山の中から、平箱二つに収められた、モース蒐集の古陶器を発見した。そのことを伝えた小山冨士夫は、これらの古陶器がモースの建言を承けて創られた旧東京大学法理文学部附属博物場の「第五区古器物」の列品物の一部であったことを明治16年起草の欧文目録(Catalogue of Archeological Collections. Scientific Museum. Depart. of science University of Tokio, 1883[参1]から確認し、明治19年に大学博物場が廃されると同時に理科大学人類学教室へ移管され、教室の物置に放置されるに至ったことを明らかにしている(「東京帝國大學人類學教室にあるモールス・コレクション」、『陶磁』第11巻第3号、東洋陶磁研究所刊、1939年3月、18—23頁)。 上掲目録に掲げられた古陶器のうち佐々木忠次郎の寄贈品(No.683—710)を別にするとモース蒐集品(No.252—273)は18点に上ったことがわかる。後に加えられたものを併せて総数81点の人類学教室古陶磁器コレクションの多くには朱で目録番号が附されており、その中の十数点には日本古器物に関する知識をモースに授けた蜷川式胤の自筆のラベルが添付されている。これらを調査した小山によると、佐々木蒐集品については4点が紛失し、モース蒐集品については目録に「符合するものが十三点、番号は消失しているがこれに比定すべき遺品が五点、これに当嵌るものを発見し得ないものが四点」となっている。 古陶器の専門家小山冨士夫はこれらを評して「ガラクタ」としているが、大学博物場にモースの残した経緯と来歴の確認できる稀少な学術標本であることは間違いない。(西野) |
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