工業・ナショナリズム・美術

「美術」概念形成史素描


北澤憲昭 美術評論家・跡見学園女子大学



  暗さは生命の文明であって
  明るさは頭の文明だ  (西脇順三郎『近代の寓話』より)

 職業的な絵画制作は、かつては「工」ないしは「工業」に属していた。このことは「画工」という呼び名に、その痕跡をとどめている。「工」には、画工ばかりではなく仏工、大工、蒔絵師なども含まれていた。それは広く製造業一般を指す言葉であった。しかし、明治になると、こうした広い概念に亀裂が生じる。あるいは、そこに分化の動きが起こってくる。すなわち画工や仏工たちのしごとは「美術」に、蒔絵師のしごとは「工藝」に、また大工のしごとは広義の「建築」に、それぞれ属することになった。一方、「工業」の一角に「機械」という利器が配置されることによって「工業」概念じたいに変質が生じる。それまでの手技中心の在り方から、機械制工業を中心とする在り方へと変わってゆくのだ。そのことについて、明治10(1877)年の第1回内国勧業博覧会の出品解説は、「機械ノ製作我国ニ起リシハ実ニ近年欧米ノ諸機盛ンニ行ルヽニ原ツキ[1]」云々と記している。

 こうして「工」の領域は、新たな意味での工業と美術、工藝、建築へと分かれ、さらに、いわゆる第二次産業部門に属する諸ジャンルヘと分化してゆくことになるのだが、このうち美術は、ナショナリズムの台頭を機に理念や自己など精神的なものとのかかわりを深め、「機械」を中心に据える工業の対極に位置することになる。

 ただし、これによって「工」概念が解体してしまったわけでは必ずしもない。これらのジャンルのあいだには、ゆるやかな関係がみとめられる。普段は無縁を決め込んでいる美術と工業も例外ではない。デザインと工藝の存在がそのことを証している。

 もっとも、「美術」——なかんずく絵画——について「工」とのかかわりのみを指摘するのは不充分のそしりをまぬかれまい。『和漢三才図会』で絵画は「技藝」のうちに含まれており、「技藝」概念を「美術」の受容基盤として論じた佐藤道信の興味深い研究もすでにある[2]。また、文人画も視野に入れるならば、文事としての側面についても考察しなければならないだろう。たとえば『古事類苑』では絵師や仏師のしごとは「工業」として扱われているのだが、「絵画」は「文学部」に割り付けられているのである。また、現在とは趣を異にするとはいえ、「藝術」という語も古くから使われていた。すなわち、「美術」概念の形成を近世以前の発想法との関連から考察するためには、「工」のみならず、「技」「藝」「術」「文」などの諸概念に照らして考えをすすめるべきなのだが、ここは、とりあえず「工」に的を絞って、「美術」が「工業」から精神の高みへ向けて離陸してゆく過程を、工部美術学校の事例を中心にたどってみることにしたい。既知の歴史的文脈に照らして行論の計画を示しておけば、美術上の国粋主義運動と明治憲法体制の構築過程、そして、やや遅れて産業革命が時代的に重なりあうところに本論のトポスは形成されるはずである。


1 「工」としての絵画


 高橋由一と西洋画法の出会いについて語るあまりにも有名なくだり——「嘉永年間或ル友人ヨリ洋製石版画ヲ借観セシニ悉皆真ニ逼リタルガ上ニ一ノ趣味アルコトヲ発見シ[3]」云々という『高橋由一履歴』(以下『履歴』と略記)の一節には、日本という近代国家の起源と、その国における美術の始まりとが重なりあうようにして見いだされる。

「嘉永」とは、いうまでもなくペリー(Matthew Callbraith Perry)来航を示す年号であり、衝撃的ともいえる西洋画との出会いを、この年号のもとに由一が語っていることは、西洋列強の軍事的圧力のもとに歩みを始めた日本近代が必然的にとらざるをえなかった受動の姿勢、その受動の姿勢によって明治以後の絵画が準備されていったという事態を示している。由一が西洋画法の手ほどきを受けた洋書調所はペリー来航を機に、西洋の科学技術を研究するべく、そそくさと設けられた機関であり、西洋画法は、その一分科あるいは補助学として研究されたのであった。そればかりではない。由一が初めて眼にした「洋製石版画」というのはペリーが幕府への贈物として持参した石版画——それもアメリカ・メキシコ戦争や独立戦争を描いた石版画であったという推測さえもなされているのだ。こうした出発の記憶は、その後長く、日本近代絵画の上に影を引くことになる。最初の記憶を克服するべく日本の近代絵画は絶えず受身から能動へと転換する機会をねらいつつ、そのため、ますます受身の姿勢に複雑なかたちではまりこんでいくことになるのである。

 ところで、西洋画法が科学技術の一分科とみなされたのは、その優れた再現性によってであった。「悉皆真ニ逼」る描き方ゆえに西洋画は時の権力によって必要を認められたのである。これは由一じしんよく知るところであって、洋書調所時代(この機関は幾度も名を変えているが、ここでは由一入所時の名称に統一する)に由一が書いた激文「洋画局的言」(以下「的言」と略記)には西洋画法と権力の関係が端的なかたちで語られている。西洋画法の再現性について由一は、国民の教化や鼓舞、また伝達の場面を想定しながら「国家日用人事ニ関係スルコト軽キニ非ラズ[4]」と記しているのだ。

 また、由一は同様の発想から油絵を媒体として森羅万象を展観に供する博物館の構想を立ててもいるが、「展画閣」の名で呼ばれるこの施設は、現在の美術館とは厳しく一線を画して捉えるべきだろう。そこに見いだされるのはテクノクラートの発想であって、藝術家の発想ではないのである。のちに由一は、洋書調所の後身であり東大の前身にあたる南校で「図画」を受け持っているけれど、そして、その授業がどのようなものであったかは分明ではないのだけれど、そこで行われた授業が以上のような西洋画観に基づくものであったことだけは、まずまちがいあるまい。

 とはいえ、由一は再現的な西洋画法に「一ノ趣味」を——つまり、鑑賞性も感受していた。このことを見逃してはなるまい。この感受性ゆえに、由一は美術史の近代の始点に位置づけられてきたのである。だが、こうした従来の由一観を鵜呑みにするわけにも実はいかない。迫真性に重きを置く由一の絵画観は近世までに形成された絵画観のスタンダードとは相容れないものであり、「的言」のなかに「和漢ノ画法ハ筆意ニ起リテ物意ニ終リ、西洋画法ハ物意ニ起リテ筆意ニ終ル[5]」とあるのは、由一が、そのことを充分に意識していたことを示しているのだが、しかし、それでは、再現性に「一ノ趣味」を感受する由一の絵画観が、よくいわれるように近代のものであるのかというと、近代的絵画観とのあいだにも決定的なずれが見いだされるのだ。

 由一は伝来の正統的な絵画観からずれをもつ再現性の絵画こそ絵画の正統であるべきだと考えており、再現性重視の絵画は、由一の思惑どおり、やがて写実主義の名のもとに美術史に組み込まれることになる。しかし、「真ニ逼リタルガ上ニ一ノ趣昧アルコトヲ発見シ」という由一の言葉は、近世以来の正統とも与しえず、さりとて美術という近代の正統にも属しえない、そのどちらにも落ち着くことのない微妙な、バランスを「上ニ」という文節を支点として保っている。近世絵画からの離れの意識については既にみたが、この時点で由一は美術とのあいだにも決定的な距離をもっていたのだ。「美術」という概念は実は明治初期に外来の概念として形成の緒についたのであって、「嘉永年間」の由一は、「美術」という発想をもちようがなかったのである。

 では、由一にとって、結局のところ西洋画法は科学技術であったのかというと、むろんそうではない。再現性に「一ノ趣味」を見いだす発想は、冷厳な科学技術のものでは竟にありえないからだ。

 要するに、美術と科学技術を截然と区別する近代のものの見方に、由一の絵画観は馴染まないのであり、ここに由一の歴史的な例外性があるといえるのだが、この例外性を言い止める言葉をわれわれは未だ持ちえてはいない。横断性を身上とするアヴァンギャルディズムの時代を経てもなお、その言葉をわれわれは見いだしていない。だから、それを称して、たとえば、科学技術に詩を見いだす感受性とでもいうほかないのである。

 冒頭に引いたくだりを由一がノートしたのは明治20年代の半ばである。しかし、『履歴』の記述は40年前のことを語っているとは思えないほどの現在性を感じさせる。すなわち、由一は、かかる感受性を、どうやら晩年まで持ち続けたらしい。もっとも年月の流れのなかで迫真性と鑑賞性の結合の度合いに多少の差異のあったことは否めないものの、由一の絵画観の基本は決して変わらなかったといってよい。そうして、それゆえ由一は近代化が進展するなかで孤立を余儀なくされてゆくことになる。近代西洋にならう分類体系が浸透し、科学技術と美術の別が枠組みとして固定されてゆくにつれ、由一の発想は不可能なところへ追い込まれてゆく。由一は長老として祭り上げられ、やがて一旦は忘れ去られなければならなかったのである。

 ところで、科学技術としての絵画というのは、実際に絵を描く場面においては、工学的な構えを画家に要求するはずである。工学的というのは、たとえば透視画法が一種の作図法であるというようなことにかかわるばかりではない。それは物体としての絵画の組成にもかかわる事柄であった。由一たちが西洋画法習得に取り組んだ幕末には、油絵を描こうにも出来合いの絵具はなく、キャンヴァスも専用の油液もなかったから、油彩画法習得を目指す者たちは材料から作るほかなかったのである。『履歴』には、手近な間に合せの材料によってチューブ入りの絵具を作成するようすが克明に描き出されているが、それは荏油と銀密陀(一酸化鉛)を混ぜて天日にさらしたものに在来の顔料を混ぜて練り上げ、これを盤陀の薄板で巻いてチューブにつくるといったやり方であり[6]、この一節は、由一の絵が、近代のそれのように単に描くものではなく、その物的基礎から徐々に作り上げてゆくものであったということを示している。由一にとって油絵とは、まず一個の物体としてあったのだ。由一の博物館構想「螺旋展画閣創築主意」に見いだされる「油画ハ風雨蠧破ノ障害アラザルニヨリ美術中永久保存スベキノ要品タルヲ以テ[7]」云々という油絵にかんする文言は、由一にとって油絵というものが、その再現性においてばかりではなく、物的な永続性においても価値をもつものであったことを示している。什器のように代々伝えられるものであることを由一は重視していたのである。

 由一にとって油絵というのは、だから一個の工藝品であったのだといってもよい。しかも、このことは単なる比楡にとどまらない。『履歴』に記された絵具製造の工程では「漆箆」、「麦漆」など漆にかかわる材料や道具が登場するし、密陀僧を用いた絵具は、この当時、漆工藝の加飾に用いられていたのである。そればかりか、由一の絵は明治5(1872)年の博覧会の出品目録(草稿)では「油漆画」の名で呼ばれており[8]、また、油絵の仕上げに用いられるニスの訳語は今もって「仮漆」なのだ。これらの状況証拠から考えるに、油絵というのは、どうやら、漆工藝をモデルとして了解されていたらしく思われてくるのである。

 物体としての絵画を材料のレベルから科学的な合理性に従って作り上げてゆくこと——由一にとって絵画とは、このようなものであり、それを先には「工学的」と称したのだが、当時の言葉によって、これを言い表わすならば冒頭にも記したように「工業」ないしは「工」と呼ぶべきであろう。「工業」というと今日では——あるいは、今日でもなお——工場で行われる機械制工業のことを、まずもって意味するのだけれど、これが産業革命を経て定着した意味であることはいうまでもない。近世までの「工業」という言葉は物作りに携わる広範なジャンルを包括する名称として使われていたのである。たとえば『古事類苑』産業部の「工業総載」を覗くと大工、左官、指物師、蒔絵師、絵師、仏師など建設や製造に携わる数々の職名が古文献から拾われているのだが、ここで興味を引かれるのは、そこに画家や彫刻家が含まれていることだ[9]。つまり、近世までに形成された分類に従うならば絵画や彫刻は——そのすべてではないとしても——「工業」ないしは「工」の領域に含まれていたのであった。もうひとつ例を挙げれば、明治11(1878)年のパリ万国博参加を機に編纂された『工藝志料』は「仏工」の項を設けているし[10]、「画工」の項を続編で設けることを序で予告してもいる[11]

 ただし、『工藝志料』という書名については注釈がいるかもしれない。「工藝」という語は、今日では、美術と工業のあいだに位置づけられる鑑賞性と実用性を兼ね備えた作物を指すのだけれど、この当時にあっては「工業」とほぼ同義に用いられていたのである。このことは、たとえば初期の殖産興業政策を担った工部省の設置にかかわる明治3(1870)年の文書「工部省ヲ設クルノ旨」のなかに、「工藝」の例として「堅艦峨舶」「鉄路」「電信機」などが挙げられていることからも知られるとおりである[12]

 要するに、「工業」と呼ぶか「工藝」と呼ぶか、そのニュアンスはともかく、絵画は、いずれにせよ「工」概念に属するわけで、このことは日本で最初の「美術学校」の成立に、おそらく大きな影を落としていた。


2 工部美術学校


 この国最初の「美術学校」は明治9(1876)年に工部省の工学寮に、イタリア人教師たちを招いて設けられた。明治20(1887)年設置の東京美術学校以来、その後身の東京藝術大学美術学部に至るまで、美術学校は文部省の管下にあるのだが、明治の初めに西洋の造型技法を学ぶための「美術」の学校を作ろうというとき、それは工部省という第二次産業にたずさわる現業庁の管下に置かれることになったのである。美術史家のなかには、これを、美術のなんたるかを弁えぬしわざと慷慨する向きもあるようだけれど、明治の初めに、西洋の造型法を教授する機関を設けようとするとき、幕末以来の西洋画=科学技術観に照らしても、また、絵画を「工」概念で捉えるそれ以前からの発想からいっても、それを属せしむるのは工部省を措いてほかになかったのだ。

 ただし、「美術」という語については、ここで注意すべきことが少なくとも二つある。

 先にも触れたように、「美術」というのは、もとを正せば翻訳語であり、その初出は、明治6(1873)年のウィーン万国博に際してオーストリアから送付されてきた文書の訳文であった。出品分類にあるder Kunstgewerbe、der Kunst、die bildende Kunstなどに対応する語として造語されたのだが、その最初に出てくる部位で対応するドイツ語はKunstgewerbeすなわち今日いうところの工藝であった。すなわち、「美術」という語は、工藝の意味を担って登場してきたのである。そればかりか、ウィーン万国博では折しも西欧に広まりつつあったジャポネズリの流行に乗って、近世以来の工藝品が飛ぶような売れ行きを示し、不平等条約下で輸入超過に悩んでいた勧業官僚たちのたちまち注目するところとなった。そして、その後の「美術」行政はジャポネズリを常数として決定されてゆくことになる。つまり、これ以後、有力な輸出品として伝来の工藝が「美術」を代表するようになってゆくのだ。そればかりではない。こうした動きのなかから工藝意匠の改良にかかわって伝来の絵画が「美術」の根本をなすものとして見直されるようにさえなるのである。現行の美術のヒエラルキーにおいては、最も純粋に視覚的な絵画が項点を占め、建築を別格として、工藝がその底辺に据えられていることを考えると、ウィーン万国博に端を発する以上のような動きは皮肉な興味をそそらずにはいない。しかも、美術上の国粋主義は、やがて、政治・思想の上へと波紋を広げてゆくことになる。竹越與三郎が『新日本史』中巻に「今や此旧社会慕望の念は、単に美術の上に止まらず、文学の上にも起り、文学と共に、制度典章の上にも起り、制度典章より、直ちに政治思想の上にも起り、今は歴然たる政治的の意義となり[13]」云々と記しているのは、正にこのことを指すのである。

 以上が「美術」の初出にかんして注意を促したいことのひとつ、いまひとつは、「美術」の初出の箇所に訳官が付した注のことだ。「美術」という語が最初に出てくる箇所には「西洋ニテ音楽、画学、像ヲ作ル術、詩学等ヲ美術ト云フ」という割注が付されているのである[14]。つまり、「美術」は、現在のように視覚藝術の意味に限定されてはおらず、諸藝術の意味をもつ語として用いられはじめたわけだ。もっとも、現在でも「美術」が諸藝術の意味で用いられることがないではないものの、それはあくまでも第二義としてであろう。明治初期には、しかし、それが第一義だったのである。

 だが、こうした語史的背景にもかかわらず、工部省が設けた「美術学校」の「美術」とは、現在と同じく視覚藝術の意味に解されるものであった。この学校ではイタリア人教師たち——画家のアントニオ・フォンタネージ(Antonio Fontanesi)、(彫刻家のヴィンチェンツォ・ラグーザ(Vincenzo Ragusa)、建築家のジョヴァンニ・ヴィンチェンツォ・カペレッティ(Giovanni Vincenzo Cappelletti)、らによって視覚藝術のみが教えられたのである。つまり、意味の絞り込みがあったわけで、その動因としては西欧において視覚藝術が全藝術を代表するということからの影響が第一に考えられる。しかし、そのさらに底の方には、視覚を近代文明の第一の要件とする発想がはたらいていたのにちがいない。大久保利通がウィーン万国博の経験を踏まえて博物館の必要を太政官に訴えた明治8(1875)年の「博物館ノ議」の「人智ヲ開キ工藝ヲ進ルノ捷径簡易ナル方法ハ此ノ眼目ノ教ニ在ル而已[15]」というくだりは、視覚藝術を諸藝術の王に祭り上げ、「美術」の名を占有せしめることになった動因を示していると思われるのである。

 工部省という文明開化の先頭を行く現業庁が設けた「美術」の学校が視覚藝術のみを伝授したことは、それなりの影響力を斯界に与えたのにちがいない。しかし、それはあくまでも斯界を多少なりとも越える範囲での影響であったろう。しかし、同校が授業を開始した翌年には、工部美術学校の意味での「美術」を、工部美術学校を遙かに凌ぐ影響力を以て社会に広める催しが幕を開けることになる。内国勧業博覧会がそれである。この博覧会の会場の要の位置には「美術館」が設られ、そこでは工部美術学校の意味での「美術」の作物が展観に供されたのだ。視覚による近代化の推進装置である博覧会に如何にも相応しいこの施設は、明治36(1903)年の最終回まで毎回設けられ、視覚藝術としての「美術」は、博覧会を訪れた何百万というひとびとを通じて、また、ジャーナリズムの言説と相侯ちながら、やがて一般性を獲得してゆくことになるのである。万国博覧会を機に造語された「美術」が視覚藝術に絞り込まれていく最初の筋道——工部美術学校から内国勧業博へという経路は、とりもなおさず「文明開化」の路線であり、その思想的な基調は啓蒙主義にほかならなかった。lumiéres——物質的な合理性に基づく進歩の観念と光=視覚の力への信頼の結びつきのなかで、「美術」は視覚藝術へ向けて最初の意味限定を加えられたのである。これは、とりもなおさず、従来の絵画や彫刻が新たな光のもとで見直されることでもあり、この見直しは、とりあえず旧来の「工」概念のもとで開始された。次に引くのは、工部美術学校の規則に記された「学校ノ目的」の第一項である。文中の「百工」は工業を意味する。

「一、美術学校ハ欧州近世ノ技術ヲ以テ我日本国旧来ノ職風ニ移シ、百工ノ補助トナサンガ為ニ設ルモノナリ[16]」。

「百工ノ補助」の具体例としては、たとえば開校当初の一時だけとはいえ、紙幣局の技生らが紙幣の製版・印刷に役立てる技術を習得するべく同校に通ったことや、青木茂によって詳細に調査された出身者たちの経歴[17]——東大造家学科に教え東京高等工藝学校の校長となった松岡寿、守住勇魚や浅井忠による川島織物の綴織の下絵製作、同じく浅井忠による陶藝の意匠改良、写真館を開いて成功を収めた日下部(田中)美代二、印刷業を営むことになる山室(岡村)政子—一は工部美術学校の在り方と無縁であったとは思われない。また、ベルツ(Erwim von Bälz)の日記には工部美術学校の性格を示す興味深い記述が見られる。その明治9(1876)年11月15日の条で工部美術学校のイタリア人教師たちを、ベルツは「洋式の御所を建てるために招聘された人たち」と呼んでいるのである[18]。東遷以来宮殿として用いていた旧江戸城西の丸御殿が明治6(1873)年に炎上したために、太政官は明治9年5月に新宮殿の建設を決定、工部省がこれを担当することになるのだが、工部美術学校の教師たちは、この新宮殿建設のために雇われたのだとベルツはいうのである。これを裏付ける史料はない。しかし、赤坂に設けられていた仮御所の洋風建築の建設のために、ラグーザとカペレッティが寒水石の調査を行っていることや、ラグーザが新宮殿に据えるための天皇騎馬像や玉座の製作、それに玄関や階段などの装飾を依頼されていることは、工部美術学校が明治の新宮殿の建設と何らかの関係をもっていたことを強く印象づけずにはおかない。小野木重勝によるとラグーザの弟子である菊池鋳太郎、佐野昭らも皇居の造営に加わっていたのである[19]。また、青木茂は、フォンタネージが日本に残した『天人図』や『神女図』の素描は新宮殿のための壁画の下絵ではないかと推測しているし[20]、内務省による博物館建設のプランに「ポンタネジーカ(伊太利人)」が関わったとする証言もある[21]

 工部美術学校が、「百工」なかんずく建築と深いかかわりをもつ機関であったということを以上の状況証拠は指し示しているように思われるのだが、こういう同校の在り方については、尾埼尚文が、とびきり興味深い着想を平成元(1989)年の『松岡寿展』のカタログに書き記している。すなわち、「工学寮に予科・専門科・実地科のほかに新たに「技術科」を設置し、画学・建築装飾学・彫刻学の三学課を設けたとしたら、工学部門と建築・美術部門を併せ持った画期的な大学で、工学寮が必要とした事のすべてを網羅した工学・建築・美術を併せた大学を構想したことになる、と考えるのは当を得ていないであろうか[22]」、と尾埼はいうのだ。むろん、実証しなければならないことは沢山ある。しかし、絵画が——それから建築もまた——「工」概念で捉えられていた近世までの発想、また、高橋由一以来、西洋画法が科学技術にかかわる事柄として理解されてきたゆくたてを思うとき、この尾埼尚文の着想は、すくなくとも概念史の水準では正しいというほかない。

 しかし、結局のところ、こういう総合的な工科系の学校は実現されることなく、工部大学校に設けられるはずの「技術科」は、工学寮に付属する「美術学校」として相対的に独立させられてしまう。東大工学部に工部美術学校の備品が伝えられているのは、「技術科」構想の、いわば夢のなごりなのである。


3 フォンタネージの教え


 工部省内部の細かな事情を明らかにするいとまはないが、大局的な見方をするならば、以上のような成り行きは、「美術」が「工」から離陸する最初の兆とみなすことができる。思えば、そもそも「工」という領域のなかに、絵画と彫刻をひとまとめにする「美術」という外来の枠組みが設けられたことじたい分離の兆しとみられないではないのだ。尾埼は「工学・建築・美術を併せた大学」と書いているけれど、語史的にみるならば、これら三つのジャンルは、むしろ、工部大学校の時代以降に形成されたとみる方が実状に近いのである。「美術」概念の形成と工部美術学校の関係についてはすでに述べたが、「工学」もまた工学寮にちなむ近代語であり、「建築」というジャンル名が一般的に定着するのは明治30(1897)年に、「造家学会」が、工部大学校にちなむ自らの名称を「建築学会」と改めて以後のこととみてよいだろう。「建築」や「工学」については措くとしても、「美術」については、この時代になって現在の概念が形成の緒についたと確かにいうことができるのである。

 視覚藝術の意味へ絞り込まれていったいきさつについてはすでに述べた。しかし、事はそれにとどまらない。そこには更に決定的な変質がともなわれていた。一言でいえば、「美術」は、この頃をさかいに、「工」と相容れないものへと変わっていったのだ。もう少し具体的にいうと、「美術」は、科学や技術ということよりも、理念や精神や自己、あるいは内面といったものにかかわる事柄へと——いわば「製作」から「制作」へと——変容していったのである。

 そればかりか事は「工業」じたいの変質にもからんでいた。産業革命の進行に従って従来の手技中心の在り方から機械制工業中心の在り方へと「工業」概念じたいが、この時期以降、大きく変わっていくことによって、絵画や彫刻の在り所が「工」の領土から失われていったのだ。

 こうした動きに従って、「工」という近世以来の広範な領域から、新たな意味での「工業」と形成段階に入った「美術」とが分化してゆくことになるのであり、両者のあいだに働く引力と斥力が、その後の「工」の在り方と命運とを決してゆくのであるが、工部省は、こうした動きの全体に大きなかかわりをもつ位置にあった。工部省は、「工業」の機械化をおしすすめる一方で、工部美術学校において「美術」の変容を促しもしたのである。ここでは、そのうち「美術」の変質に焦点を絞って、さらに考察をすすめてゆくことにしよう。

 そもそも啓蒙主義の圏域に創設された工部美術学校は、現在の美術学校とは、かなり趣を異にしていた。現在の美術学校はモダニズムの発想個的表現の自律性と、ジャンルの自律性との二つの自律性を重視する発想を基本に据えているが、工部美術学校はちがっていた。すでにみたように、それは「百工ノ補助」を目的としていたのである。このような在り方は、当然ながら教師の募集条件にも反映された。その条件とは、いったいどのようなものであったのか。それについては「工学寮へ外国教師三名傭入伺ニ付副申」という明治8(1875)年4月20日付の公文書が残されている。時の工部卿伊藤博文から太政大臣三条実美に宛てた伺書である。その「覚書」から引く。

「日本政府其東京ノ学校ニ於テ技術科ヲ設ケ、画術井家屋装飾術及彫像術ヲ以テ日本生徒ヲ教導スベキ画工・彫工等三名ヲ傭用セント欲ス。/方今欧州ニ存スル如キ此等ノ技術ヲ日本ニ採取セント欲スルニ、今其生徒タルモノ曽テ此等ノ術ヲ全ク知ラザルモノナレバ、之ガ師タルモノハ一科ノ学術専業ノモノヨリハ却テ普通ノモノヲ得ン事ヲ欲ス。此故ニ専業ノモノハ現今此学校ノ希望スル所ニ適セズ。唯此等ノ技術ノ諸分課ヲ教導スルヲ得ベキモノヲ要スル也[23]」。

 このような求めに応じてフォンタネージ、ラグーザらが来日することになったのだが、彼らのうち、すくなくともフォンタネージは単に「普通ノモノ」であったわけではない。何にでも通じているという意味では「普通ノモノ」であったとしても、この言いまわしがともなうニュアンス、すなわち「画工」という意味合いはフォンタネージにはふさわしくない。フォンタネージは、やがてイタリア近代美術史の第一頁に孤高の名を残すことになる画家であった。「工」概念で処理しうる人材を求めたところが、むしろ文人に近い資質の人物が、つまりは藝術家がやってきてしまったのだ。このことが工部美術学校の在り方に影響を及ぼさないはずがない。フォンタネージは、「普通ノモノ」を求める明治政府の意向を汲んでデッサンの基礎から指導を行いつつ、その講義や自作を通じて西洋絵画の鑑賞的価値についても学生たちに多くのことを教えていったのである。しかも、逆光に特色のあるセピアがかったフォンタネージの風景画は、大まかな筆跡に画家の身体の痕跡をとどめつつ鬱没とした詩情を漂わせて、伝来の南画にも通ずる趣を有していた。それゆえ江戸時代末期生まれの弟子たちは、フォンタネージのタッチにエスニックな親近感を必ずや抱いたはずであるし、フォンタネージがリソルジメント運動に参加したナショナリストであったことも、建国のパトスが横溢する自由民権世代の弟子たち——小山正太郎は植木枝盛と同じ安政4(1857)年生まれ、浅井忠はそのひとつ下——には輝かしいものに思われたのにちがいない。また、師風を最もよく受け継いだ浅井忠は、後年、フランス留学中の水彩画において水墨画的な感覚を見事に息づかせることになるのだが、エスニシティに根ざすこうしたしごとへと浅井が赴くことになる、その最初のきっかけはフォンタネージによって与えられたといってよいだろう。フォンタネージの得意とした逆光の風景は、当時のひとびとには汚濁の印象を与えもしたのだけれど、その画風は、近世以来の画法に通ずる在り方において親近感を生徒たちに抱かせるようなものであったことを見逃すべきではないのだ。隈元謙次郎の『明治初期来朝伊太利亜美術家の研究』所載の藤雅三のノートから授業における師弟の応答を引いておこう。ここには巧まざる異文化間コミュニケーションがみとめられる。冒頭の「我」とは藤雅三、答えているのはもちろんフォンタネージ。問答は幕末以来の南画の流行を背景としている。工部美術学校に入る以前に帆足杏雨に南画を習ったことのある藤は本格的な南画を描くことができた。

「我問フテ曰ク、精密ノ画及ビ磊落ノ画世ニ流行スルコト敦レカ勝レリトスルヤ。答ヘテ云フ、精密ナリト雖モ、原物ニ違背スルトキハ、磊落ニシテ其真意ヲ失ハザルヲ却テ勝レリトス。又之ニ反シテ、磊落ニシテ其原物ニ違背スルトキハ、毫モ描カザルニ如カザルベシ[24]」。

フォンタネージは、この他にも色の釣り合いや描写対象の削除など、画面構成にかかわる事柄を説いているが、高橋由一の息子源吉のものと思われるノートには更に踏み込んだ発言が見いだされる。そこでフォンタネージは、「画ニナルベキ所ヲ選ブヲ画工ノ力ト云也」とピクチャレスクについて語り、また、「各自ノ考ヲ使用スル事要用ナリ。故ニ其天然物ニ人ノ考ヲ加へ一層之ヲ組立ルニヨル」と述べているのだ。それどころか、絵画の生命は「自己性質」であると主張し、自然描写において多少間違いがあったとしても、「味」によってそれを打ち消すことができるとさえフォンタネージは言っているのである[25]

 藤雅三や高橋源吉のノートを併せ読むと、フォンタネージが単に「百工ノ補助」という工学的発想からする基礎技術の伝授に熱心であったばかりではなく、工部美術学校規則の定める「学校ノ目的」の第二項についても意を用いていたことが分かる。すなわち、その第二項には次のような文言が見いだされるのだ。

「一、故ニ先ヅ生徒ヲシテ美術ノ要理ヲ知テ之ヲ実地ニ施行スルコトヲ教へ、漸ヲ逐フテ吾邦美術ノ短所テ補ヒ、新ニ真写ノ風ヲ講究シテ、欧洲ノ優等ナル美術学校ト同等ノ地位ニ達セシメントス[26]」。

「欧洲ノ優等ナル美術学校ト同等ノ地位」といっているが、これは、もちろん同質であることを意味するのではない。「吾邦美術ノ短所ヲ補ヒ」と述べているのも西洋風を目指すということではないだろう。また、「新ニ真写ノ風ヲ講究」することは、写実一点張りの構えをとることではあるまい。こう考えてくると、この文言には、かなり曖昧な点があるのだが、この曖昧さの拠って来るところは、思うに「吾邦美術」という発想にほかならない。「美術」という外来の概念が、「吾邦」という言葉と結びつき、実態は不明瞭ながら、何ものにも代えがたい「吾邦美術」という観念が成立していて、それが文意を曖昧化しているのである。いいかえれば、「美術」における国家レヴェルの「自己性質」が、この言説の前提として想定されているわけだ。もっとも、フォンタネージのいう「自己性質」とは、講義の文脈では作者個人にかかわる事柄であり、いわば近代藝術の常識に属する教えにすぎない。しかしながら、リソルジメント運動にかかわったフォンタネージにとって「自己性質」とは、つきつめてゆけば個人のレヴェルに決してとどまりえない事柄であったはずであり、同様の事柄は、明治10年代から20年代にかけての日本の思想状況についても指摘できるのだ。この時代において個の自覚は、フォンタネージを侯つまでもなく、たとえば植木枝盛が明治13(1880)年12月30日の日付のものに「人ハ須ラク自ラ世界ヲ造ルベシ[27]」と記したように、そろそろ明確なかたちをとりはじめていたのだが、しかし、それが個的な内面世界として把握されるまでには、民族のレヴェルを通過しなければならなかったのである。すなわち、時代は、「自己性質」への関心を、民族国家の建設へ向けて増幅させてゆき、やがて大音声にまで成長させることになる。国粋主義が広汎に台頭してくるのだ


4 国躰と美術


 フォンタネージが病を得て明治11(1878)年に離日したのと入れ替わるようにしてアメリカから弱冠24歳のアーネスト・フェノロサ(Ernest Francisco Fenollosa)が東京大学文学部に赴任してくる。専門の哲学以外に美術にも深い関心を抱くフェノロサは来日当初は由一の画塾を訪ねて、共に西洋画法の普及活動をしようなどと相談したりしていたのだが、時を経ずして国粋派に与することとなった。古典を称揚しつつ近代の日本文化の零落ぶりを嘆くという典型的なオリエンタリズムの発想から、フェノロサは国粋派のイデオローグとなっていったのである。国粋派フェノロサのデビューを飾ったのが明治15(1882)年の有名な『美術真説』の講演で、これは、「美術」という翻訳語の意味を明らかにすることを通じて、日本の造型の在り方を理論的に価値づける企てであった。理論の枠組みはおおむねへーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel)に拠っており、「美術」の本質は「妙想」(idea)にあるというのが主張の核心なのだが、フェノロサは、かかる発想から「日本画」の優秀性を弁証し、また、再現性への衝迫に支配されがちであった当時の西洋派画家たちを「理学ノ一派」にすぎないと批判したのである[28]

 しかしながら、西洋派の拠点ともいうべき工部美術学校の教師が「天然物ニ人ノ考ヲ加へ一層之ヲ組立ル」ことを教え、絵画の核心は「自己性質」を如何に打ち出すかにあると、すでに教えていたのだから、西洋派の画家の、すくなくともその先端部分は、すでに「理学ノ一派」であることから脱却しつつあったとみるべきだろう。『美術真説』が出版されたのは、ちょうど、フォンタネージの弟子たちの修業時代にあたっており、浅井忠のその当時のスケッチには、まさしく個人としての「自己性質」とエスニックな「自己性質」とが未熟ながら渾然となって滴り輝いている。フェノロサはまた、写実への偏りを戒めて、「能画家ハ常ニ択ンデ美術ノ形質ヲ具スルモノヲ採取スルモノトス」とも述べているが[29]、これは「画ニナルベキ所ヲ選ブヲ画工ノカト云也」と教えたフォンタネージの弟子たちにとっては先刻承知のことであった。

 フェノロサが二番煎じにすぎなかったとか、西洋派にかんする批判がデマゴーグであったなどといいたいのではない。当時の西洋派の多くが再現性に自らの存在理由を見いだしていたのは否定すべくもないことだし、高橋由一などは、再現性をアピールするべく、卑俗な日常の事物を殊更に描き出しさえしていたのである。そうであればこそフォンタネージも、講義において「自己性質」や「各自ノ考」を強調しなければならず、フェノロサもまた、批判の言葉を投げかけなければならなかったのだ。つまり、片や西洋派、こなた国粋派とそれぞれ志向を異にする二人の西洋人が、ほぼ同じ時期に「美術」観の大きな転換を準備したという、そのことが重要なのである。しかも、彼らが語ったことは、西洋近代を生きる藝術家にとっては、ごくあたりまえの事柄であったにちがいない。この二人の西洋人は、一般にいわれるほど遠い存在ではないのである。

 そこで、彼らの言説の共通点を「工」概念とのかかわりについて整理しておくと、まず、両者は「美術」を科学技術や工業から区別する点において一致している。フォンタネージが単にテクノロジカルなだけの迫真性を越える絵画の魅力——藤雅三のノートのなかの言葉でいえば、「画ノ画タル所以[30]」を説いたように、『美術真説』のフェノロサは「妙想」を以て絵画の絵画たる所以を説き、そこから次のように「美術家」を定義したのであった。

「故ニ美術家ヲ以テ通常職工ト同視シ或ハ人ニ役セラル、賎劣ノ工人トナスハ、甚ダ失当トナス。寧ロ之ヲ称シテ万象教会ニ於ケル高徳ノ僧ト謂フモ誣ヒザルナリ[31]」。

 龍池会による同書の「緒言」には「美術ノ工業」という言葉が見いだされるものの[32]、フェノロサは、そうした発想に捉われてはいない。フェノロサにとって「美術」は、むしろ宗教に近い存在であったのだ。

「工」ないし「工業」一般から区別される「美術」の特殊性が、このようにして見定められていったのであるが、これは、「美術」じたいの「自己性質」が問われたということでもあった。フォンタネージの「自己性質」とは、先にも指摘したように直接には作者本人の個性のことを指すのだとして、それを個別性の重視というように一般化して捉えるならば、それはまた、「美術」というジャンルの個別性の重視であり、「日本」という民族・国家の個別性のことでもありうるのだ。いうまでもなく、個と集団の別を弁えない行論は危険である。しかし、個別性を重視する発想が、個人から民族へ、そうして「美術」へと、いわば同心円状に波及していったことは歴史の教えるところであり、そのことは、たとえば『学問のすヽめ[33]』という啓蒙の書の「一身独立して一国独立する」という言葉のなかにさえ、微妙な思想的陰影としてみとめることができるだろう。もっとも、「自己性質」という観念を中心に広がる各同心円——たとえば個人と民族は常に協和的関係にあるとはかぎらず、互いに排除しあう関係に立つ場合もあるのだけれど、それは個別性の次元での差異にかかわる事柄にすぎない。いずれにせよ、「地球元来同一気[34]」という信念のもとに油絵の普及につとめた高橋由一の健康な啓蒙主義の地点から、時代が、「自己性質」をめぐって大きく回転しはじめたのは否定しようがないのである。

 宮川透は『日本精神史への序論』のなかで、明治10年代から20年代へかけての思想の動きについて、問題は、啓蒙主義が充分展開されることなく「早期のうちに民族的個別的な世界の論理として、また特殊内面的な感情の世界の論理として、屈折していった点」にあるとして、かかる「屈折」を「啓蒙主義からロマン主義への過程」と要約しつつ、そこにおいて日本回帰の運動が起こったことを指摘しているが[35]、このような「屈折」の現象は美術史の上にも、いま指摘したようなかたちで発生したのであった。というか、これによって「美術」は「工業」からの離陸の契機をつかんで、美術独自の在り方を形成してゆくことになるのである。宮川透のいう「ロマン主義」は、「工」としての「美術」に理念や自己や内面の次元を与えることで、現在の意味での美術を創出していったのだ。政治上のロマン主義の運動が日本回帰と見えながら、実は、江戸時代までに形成されたエスニシティを再編してネーションとしての「日本」を創出しようとする動きにほかならなかったように、美術は「工」の分化を通して創り出されていったのである。

 ただし、ネーションの創出と美術の創出のかかわりは単純な因果関係で把握しつくすことのできるものではない。国粋主義運動は「美術」と国家を同一視する発想をふくんでいたのである。東京美術学校が設置された一月後のある講演で、フェノロサは、同校の創設に深くかかわった自らの主張を振り返って、「日本美術は固有の妙所あり、之を維持するは日本の国躰を維持すると同一なれば、国躰上より之を保存発達せざるべからず[36]」と要約してみせているのだ。

 美術と「国躰」とを同定するこのような発想は、美術上の国粋主義が、明治憲法体制の構築とパラレルな関係にあったことを示唆している。自由民権運動を承けて、体制内部に憲法体制構築の動きが本格化すると、明治政府は、さっそく国民——明治憲法の言葉でいえば「日本臣民」——の造型にとりかかるのだが、興味深いことに、これとフェノロサの国粋主義への転向は時を同じくしているのである。宮川透が先に引いたくだりにすぐ続けて指摘しているように、「啓蒙主義からロマン主義への転化の方向にたち現われた《日本への回帰》運動は、自由民権運動に対する政治的な反動に伴われた[37]」のだ。イタリアやドイツを例に、国家は「文化的共同体」たる民族の伝統に根ざすべきことを主張するブルンチュリ(Johann Caspar Bluntschli)の『一般国家法』の一章が「族民的の建国並びに族民主義」の題で『独逸学協会雑誌』に訳出されたのが明治20(1887)年[38]、皇祖皇宗の神話的な徳性を理念とする『教育勅語』が、帝国議会の開設とセットで発布されるのが明治23(1890)年のことであった。このような筋道をたどって、ウィーン万国博を機に起こった造型上の国粋主義は、竹越與三郎のいうように「制度典章より、直ちに政治思想の上にも起り、今は歴然たる政治的の意義」へと転化していったのである。あるいは、こういってもよい。啓蒙主義の精神圏に発祥した「美術」は、憲法体制構築の動きを契機として神話に帰着したのだ、と。

 事柄は、いわゆる国粋系の絵画・彫刻にばかりにかかわるわけではない。むしろロマン主義的画題は西洋派の方に早くあらわれた。そのいきさつを簡単にみておくことにしよう。

 工部美術学校の「目的」にもみられるように、西洋派の造型に対する国家の価値づけは、明治初期には、もっぱらその「工」的側面に着目して行われたのだが、明治10年代に入って美術の機軸を「国躰」にもとめる国粋主義的な美術行政が支配するようになると、西洋派の造型家たちは「工」的な在り方によっては国家の後ろ盾を期待できなくなった。これは、彼らがテクノクラート的発想から離脱する重要な契機となったはずである。いいかえれば、彼らは「美術」としての絵画の在り方を真剣に問わざるをえないところに追いつめられたのだ。フォンタネージのいう「各自ノ考ヲ使用スルコト要用ナリ」という教えを否が応でも実践せざるを得ないところに立ち至ったわけである。だが、彼らは、「各自ノ考」を絵画や彫刻に表わすことを直ちに始めたわけではなかった。そこへ行くのに、彼らは、時代が準備した迂回路を経なければならなかった。彼らは「自己性質」を未だ画因にまでなしえず、したがって自らの主題を把握しえないまま、「美術」観の転換期に直面することとなったのである。

 明治23(1890)年——この年は大日本帝国憲法発布の翌年、第一通常議会が召集され、『教育勅語』が発布された年にあたる——に開かれた第3回内国勧業博覧会に、西洋派の代表的な画家たちが神話・歴史主題を以てのぞみ、外山正一は、これを「画人ハ信ズル所アツテ始メテ画クコトヲ努メヨ、感動スル所アッテ始メテ画クコトヲ努メヨ、「イスピレイション」ヲ得テ始メテ画クコトヲ努メヨ[39]」と批判した。主題の真空地帯に「国躰」の観念が急流を成して流れ込んだのである。

『美術真説』の講演と出版が明治15(1882)年、同じ年に油絵の受付を拒絶した内国絵画共進会が農商務省の主管で開かれ、その翌年には工部美術学校が廃校になってしまう。そうして、二番目の官立の美術学校である東京美術学校が国粋的な授業内容を以て開校するのが明治22(1889)年、同じ年に国粋派の雑誌『国華』が創刊され、翌年には第3回内国博に神話・歴史主題が花開き、帝室技藝員制度が施行される。こうして、ウィーン万国博以来の——ということは「美術」発祥以来の国粋主義的美術行政が遍く美術界にゆきわたり、権力と結んだ国粋派によって西洋派は圧伏されてしまう……従来の日本近代美術史は、しばしば、このような図式で明治10年代後半以降の「美術」史を捉えてきた。こういう見方からすれば、フォンタネージとフェノロサの言動を一つながりのものとしてみる以上のような見方は承服しかねることかもしれない。しかし、ここで注意をしなければならないのは、国粋派といわれるものは、藤岡作太郎が『近世絵画史』で「国粋発揮は即ち外国輸入の結果なり」と指摘したように[40]、実は欧化の筋道に展開された運動であったということだ。つまり、事はそれほど単純ではないのであって、そもそも「国粋」とは、ネーションとしての「日本」にかかわる事柄、つまり19世紀西洋の国家観念に基づくすぐれて近代的な発想だったのである。このことは「美術」という訳語の受容において明らかだろう。造型上の国粋主義運動の精華である東京美術学校は、江戸伝来の画法と江戸仏師系の木彫、それに若干の工藝技法を教授したのみで、西洋派を排除したけれど、この学校が、欧化がもたらした「美術」という近代的概念のもとに設立されたということを見過ごしてはならないのだ。


5 「工」からの離陸


 対外的な場面でのナショナリズムの芽生えは、造型分野においても、たとえばウィーン万国博に高橋由一が出品した巨大な富士山の絵にみられるように、早くから認められる。「洋画局的言」の「国家日用人事ニ関係スルコト軽キニ非ズ」という言葉のなかにもその芽生えは見いだされる。また、ウィーン万国博を契機とするジャポネズリヘの行政的対応は「工」の「日本」化であったにちがいない。むろん、そこには経済ナショナリズムもはたらいていた。そればかりではない。「工」の近代化は、合理性と進歩性に促されたばかりではなく、鈴木淳が『明治の機械工業』で指摘するように「工部省が存続していたころまでの初発の段階では、ナショナリズムが強く作用していた[41]」。つまり、「日本」という近代国家を成り立たせようとするナショナリスティクな情念にかかわってもいた。「工」の近代化は「機械」の導入をその重要な契機としたのであるが、その動きは、物質的な合理性と普遍性と進歩とを奉じながら、潜勢的なナショナリズムによって間接的に動機づけられていたのである。美術が、「自己性質」を梃子として「工」の領土から独立の動きを示したとき、その中心に「国躰」が、いちはやく居座ることになったのは、だから、「工」の間接的な動機が顕在化したのだとみることもできないではない。しかも、その顕在化は、「工」の変容によっても促されたのにちがいない。次に引くのは、明治22(1889)年に、博覧会官僚の山本五郎が金沢工業学校で行った講演の一節である。

「工業は元来独立のものにして美術と全く離るゝものなり。美術、工業共各々特異の性質を備へて決して同一のものにあらず。言少しく学理に渉ると雖ども工業は独逸語ゲウェルベ、美術は同クンストにして正しく其間に区別あるものなり。(……)両者とも特異の根元を有し、決してこれを混同すべからず。即ち美術の根元は近来世間に文字も顕れ意味も知れたる美学が第一の根元にして、其の他、哲学、精神学等の学も亦これが根元たるなり、工業の根元は右等と全く別にして、即ち化学、重学[力学——引用者註]等の学理を根元として発生したるものなり[42]」。

「美術」という翻訳語が初出時に当てられたKunstgewerbeは、こうしてKunstとGewerbeに分離させられてしまうことになるのだが、これは旧来の「工」概念の分極化にほかならなかった。これ以後、工業と美術の相反発する力によって、近世以来の「工」という領域は歴史の後景に退いてゆくことになるのである。そうして、「工業」が「化学、重学等の学理」に基礎づけられるようになると、手技のコノテーションとして発揮されてきたナショナリズムは「工」において行き場を失うことになる。科学的な合理性がナショナリズムに取って代わって「工業」の近代化の実質的な動因となるのである。「工業」の近代化に由来する、こうした動きは、ナショナリズムが「美術」において顕在化するのを大いに助長したのにちがいない。山本五郎の講演は、雑誌『日本人」創刊の翌年——すなわち国粋主義が政治・思想の上へと広がりをみせはじめた状況の下で行われたのであるが、このような動向のなかで画家たちは神話・歴史主題へと赴き、彫刻家たちは国家的なモニュメントの製作にいそしむことで、それぞれナショナリズムを実体化してゆくことになるのである。

「夫レ美術ハ国ノ精華ナリ。国民ノ尊敬、欽慕、愛重、企望スル所ノ意象観念、渾化凝結シテ形相ヲ成シタルモノナリ[43]」。

 これは、『国華』発刊の辞であるが、岡倉天心が草したとみられるこの文言に「百工」の文字はすでにない。「美術」は、「工」という実業を離れ、国家の華となった。なかに「工業経済ノ道ヲ開致セズンバアルベカラズ[44]」というくだりが僅かに見いだされるものの、これはほんの申し訳にすぎない。天心が来るべき絵画として挙げたのは「歴史画」であり、来るべき彫刻として称揚したのは国家的英雄の「銅像」であった。これは、「工」から離陸しはじめた「美術」の指針であり、また、離陸への促しでもあり、さらには、離陸の事実そのものでもあった。

 離陸の事実を示す事例はこれにつきない。たとえば、この国の博物館は明治5(1872)年の草創以来、工業を含む総合博物館として運営されてきたのだが、明治22(1889)年に帝国博物館となって以来、歴史および美術への傾きを強めはじめ、帝国博物館では存置された工業部門は、明治33(1900)年に帝室博物館となるや博物館から姿を消してしまう。ここには、文明開化の装置から国家のシンボルヘと変質してゆく博物館の在り方とともに、工業と美術を切り離して捉えようとする発想が制度的なかたちをとって示されているといえるだろう。また、岡倉天心らの東京美術学校は当初から建築を専修科目に挙げながら、その実それが明治20年代末まで有名無実の存在にすぎなかったことにも、美術と「工」との冷え切った関係がみてとれる。天心は、美術学校における建築の教育には乗り気ではなく、本来それは工科大学の造家学科において行われるべきだと考えていたのであった。かくして、工部大学校「技術科」のことは夢のまた夢となり、『国華」発刊の辞が示すように美術は国家とともに新しい夢を追いはじめ、明治23(1890)年の第3回内国勧業博覧会の美術館には歴史、伝説、神話に取材した絵画がたくさん並ぶことになるのである。審査員として同展に臨んだ岡倉天心は報告書で、「日本画」について「今回出品中ニ於テモ歴史上ノ事実ヲ描キ出セルモノ尠シトセズ。然レドモ是レ等ハ未ダ人心ヲ感動シ、忠君愛国ノ情性ヲ興起スルニ足ラズ。必ズヤ新ニ其法ヲ求メザルベカラズ」と記し、油絵については「進歩ノ最モ著大ナルモノハ、歴史画ノ人物画中ニ顕ハレタル是ナリ[45]」と記しながら、むろん、内心ほくそえむところがあったにちがいない。こうして第3回内国勧業博覧会は、フォンタネージのいう「自己性質」が民族の「自己性質」へと読み替えられてゆく過程の、その重要なメルクマールとなるのだが、この博覧会には注目すべき点が、この他にもまだいくつかある。

 その一つは、この回から、それまでの無鑑査方式を改め、「美術」部門に限って出品監査が行われるようになったことだ。公権力が「美術」を価値概念として確立しようと企図したわけだが、同時にこれは「美術」内部の価値序列を決定することでもあった。筆頭に絵画が置かれ、次に彫刻が位置づけられ、最後に工藝が来る現行の美術のヒエラルキーが——つまり、視覚藝術としての価値体系が、この回に至って内国博の分類に示されることになるのである。明治20(1887)年に開かれた東京府工藝品共進会では、もろもろの工業製品とともに「工藝」の名で一括されていた「和漢洋法の諸画[46]」は、制度的な気流にのって急角度で「工」の地平から上昇しはじめたわけだ。

 これと関連して注目すべき第二の点は、この回において「美術工業」という部門が設けられたことである。「美術工業」とは現在のいわゆる工藝にほかならない。すなわち、工藝というジャンルは、内国博の歴史に登場するなり絵画と彫刻の下風に立たされることとなったわけだが、明治初期の美術行政では美術の代表と目されていた工藝が、何故ここに至って絵画、彫刻の下に置かれるようになったのか。その理由としては、工藝が他のジャンルとの境界に位置するということが第一に考えられる。工藝に対する処遇の背景には、「工」からの自立の意識がはたらいていたのである。

 ただし、事柄は美術の自立性にばかりかかわっていたわけではない。そこには、近代の意味での工藝というジャンルが確立されてゆくいきさつもかかわっていた。実は、「工業」という内国博の部門もまた、第3回において初めて設けられたのだ。それまで「製造物」や「製造品」という名で呼ばれていたものが、この回に至って「工業」の名のもとにジャンルとして確立されたのである。ただし、その内容を見ると、陶器、七宝、金工、漆器など、その多くが「美術工業」と重なっており、実際、両部門の間で出品物の入れ替えが行われたりもしたのであった。しかし、「工業」部門各類のおよそ半分は「機械」部門と重なり合ってもいた。すなわち「機械」に基づく現在の在り方へと「工業」概念は再編されつつあったのである。

 こうした「工業」刷新の動きが、近世以来の手しごとの部分を周縁部に押しやることになるのはいうまでもない。そうして、その手しごとのうち「美術」とかかわる部分が「美術工業」という枠に収められることとなるのである。しかも、それは、理念の高みへ向けて「工」の地平から離陸しつつあった美術にとっても周縁的な存在でしかありえなかった。精神性を求める「美術」と機械的なものへと赴く「工業」のいずれの指向にも馴染むことのない曖昧な工藝は、こうして「美術」からも「工業」からも疎んじられるようになるのである。

 建築のことに一言だけふれておこう。「建築学会」命名の重要な契機となったと目される伊東忠太の評論「「アーキテクチユール」の本義を論じて其訳字を撰定し我が造家学会の改名を望む」のなかに「「アーキテクチユール」は果して一科の美術なる乎、将た又た一科の工藝なる乎、之を判定すること極めて難し[47]」というくだりがある。ここにいう「工藝」とは工業の意味であり、ここから当時、建築が工藝と同様の境遇にあったことがわかるのだが、建築はかかる中間的な在り方ゆえに「美術の最下等なるもの[48]」とさえ見られていたのであった。伊東のめざすところは、それを全うな美術として一般に認知させることであり、そのためには工部大学校に由来する「造家」に換えて、そのころ美術の用語として定着しつつあった「建築」を選ぶべきであると伊東は考えたのである。そうして、建築が美術としての内実をそなえるためには、まず以て「東洋人即ち日本人の主観的精神的の感覚[49]」を研究しなければならないと主張したのであった。「建築」という名の起源にも「国躰」は影を落としていたのである。


6 啓蒙の弁証法


 高橋由一の幕末からウィーン万国博、工部美術学校、そうして内国勧業博覧会へと至る啓蒙王義の流れのなかから、徐々に頭をもたげてきた「美術」は、啓蒙主義の反対物を孕むことで、少なくともひとたびは啓蒙に別れを告げなければならなかった。近代の光明の部分を啓蒙主義に代表させるならば、「国躰」と同定される美術は、近代の闇の部分を代表するといってもよいし、あるいは、それを反近代と呼ぶことも可能であろう。

 とはいえ、美術は常に反近代に止まっていたわけではない。闇に与しつづけてきたわけではない。むしろ、光こそ視覚藝術たる美術の本性にかなっているというべきであり、じっさい、反近代の闇との戦いの歴史を、美術はすでに充分築き上げている。しかしながら、西洋という名の文明圏に普遍を夢見ながら、それに倣い、それを追うことを進歩と信じる啓蒙の行いが、その果てで、みずからのうちに啓蒙の反対物を孕んでしまった成り行き、輝きのきわみで光が闇を孕むそのいきさつを、われわれは決して忘れてはなるまい。「工」の領域に翻訳によってもたらされた「美術」という言葉の意味を「自己性質」を求める近代の発想に従って追究してゆくあいだに、「美術」は、「工」の近代化を支えてきたナショナリズムの次元に吸い寄せられ、ひいてはそれの顕在化に一役買うことになる。そうして、「美術」は、その次元に沿って「工」の地平から離陸をはじめる。「美術」は啓蒙の理路にしたがいつつ、やがて啓蒙に対向することになるのである。

 離陸する「美術」の先端は、もちろん視覚藝術の雄たる絵画であり、彫刻がそれにつづいた。明治27(1894)年に刊行された横井時冬の『工藝鏡』には仏工についての記述はあっても、画工は取り上げられていない。黒川真頼が『工藝志料』の序で「画工」について記述することを予告してから十幾年かのあいだに起こったことを、この事実が何よりも雄弁に物語っている。『工藝志料』の漢文の序が「国用[50]」を重視しているのに対して、『工藝鏡』の擬古文の序が作者の「心」を重視しているのも、この間の変化を指し示す格好の事例といえるだろう[51]

 だが、むろん、かつての「工」に「心」がなかったというのではない。自娯の境地にまで達した職人たちの細工は、しばしば、そのことを示している。絵画が「工」という枠組みで捉えられる場合にも「心」が等閑視されたことは決してなかった。しかし、明治になると事情は一変する。殖産興業政策の下で「工」全般が物質的合理性や経済性への傾きを決定的なものにしはじめるのだ。その動きを表象するのが「機械」、とりわけ動力機械であったのだが、こういう状況のなかで「心」にかんする事柄が、いわば「機械」に抗するようにして回帰してきたのである。そして、かかる回帰の道筋はまた、絵画が「工」から分離する岐路でもあった。いいかえれば、これ以後、絵画は文事としての在り方を強めていくことになるのである。

 ただし、ここで注意しなければならないのは、ここで回帰してきた「心」が、たとえば「心延」と称するような、おおどかな在り方を脱して、急速に内面の翳りを帯びていったことだ。ここは、その筋道について論ずべき場ではないが、主題とのかかわりでひとつだけ指摘しておくと、ナショナリズム形成の主流が、対外的なものから国民の造型という対内的なものへと転換したことが内面性への傾きを強化したということができるように思う。すなわち、「自己性質」からネーションヘと広がる同心円の動きは、「自己性質」の核心へと向かう求心的な動きをも潜在させていたのである。

 まことにホルクハイマー(Max Horkheimer)とアドルノ(Theodor Wiesengrund Adorno)が『啓蒙の弁証法』でいうごとく「神話を解体し、知識によって空想の権威を失墜させることこそ、啓蒙の意図したことであった[52]」。しかし、またホルクハイマーとアドルノのいうごとく「啓蒙によって犠牲にされたさまざまの神話は、それ自体すでに、啓蒙自身が造り出したものであった[53]」のだ。



【注】

[1]大森惟中「例言」、1878年、『明治十年内国勧業博覧会出品解説第四区機械』、内国勧業博覧会事務局、1頁。[本文へ戻る]

[2]佐藤道信「「美術」と階層—近世の階層制と「美術」の形成」、『NUSEUM』第545号、東京国立博物館、1996年、57—76頁。[本文へ戻る]

[3]柳源吉編『高橋由一履歴』、1892年[青木茂・酒井忠康編『美術』(『日本近代思想大系』第17巻)、1996年、170頁]。[本文へ戻る]

[4]註[3]に同じ。171頁。[本文へ戻る]

[5]註[3]に同じ。172頁。[本文へ戻る]

[6]註[3]に同じ。174頁。[本文へ戻る]

[7]高橋由一「螺旋展画閣創築主意」、1881年[青木茂編『高橋由一油画史料』、中央公論美術出版、1984年、305頁]。[本文へ戻る]

[8]「明治五年博覧会出品目録草稿」、東京国立博物館編『東京国立博物館百年史資料編』、1973年、153頁。[本文へ戻る]

[9]古事類苑編纂事務所編「工業総載」、1908年[『古事類苑』産業部一、吉川弘文館、1970年、485—510頁]。[本文へ戻る]

[10]黒川真頼ほか編述『工藝志料』、博物局、1878年。[本文へ戻る]

[11]黒川真頼「工藝志料序」、1877年[黒川真頼ほか編述『工藝志料』、博物局、1878年、3頁]。[本文へ戻る]

[12]「工部省ヲ設クルノ旨」、『大隈文書』イ14−A455[本文へ戻る]

[13]竹越與三郎『新日本史 中』、1892年[松島榮一編『明治史論集(一)』(『明治文学全集』第77巻)、筑摩書房、1956年、167頁]。[本文へ戻る]

[14]「澳国維納府博覧会出品心得」、1872年[青木茂・酒井忠康編『美術』(『日本近代思想大系』第17巻)、岩波書店、1996年、404頁]。[本文へ戻る]

[15]大久保利通「博物館ノ議」、1875年[東京国立博物館編『東京国立博物館百年史』、東京国立博物館、1973年、128頁]。[本文へ戻る]

[16]「工部美術学校諸規則」、1876年[青木茂・酒井忠康編『美術』(『近代日本思想大系』第17巻)、岩波書店、1996年、429頁]。[本文へ戻る]

[17]青木茂編『フォンタネージと工部美術学校』(『近代の美術』第46号)、至文堂、1978年、46—78頁。[本文へ戻る]

[18]トク・ベルツ編、菅沼竜太郎訳『ベルツの日記(上)』、岩波書店、1979年、56頁。[本文へ戻る]

[19]小野木重勝「明治宮殿」、『明治宮殿の杉戸絵』展カタログ、博物館明治村、1991年105頁。[本文へ戻る]

[20]青木茂「解説(一)、青木茂・酒井忠康編『美術』(『日本近代思想大系』第17巻)、岩波書店、1989年、467頁。[本文へ戻る]

[21]「明治建築座談会(第二回)」、『建築雑誌』第566号、1933年、154頁。ジョサイア・コンドル設計の博物館の建設現場に工部大学校の「現場見習生」として勤務した河合浩蔵の発言。[本文へ戻る]

[22]尾埼尚文「松岡壽と工部美術学校」、『松岡壽展』カタログ、神奈川県立近代美術館・岡山県立美術館、1989年。[本文へ戻る]

[23]「工学寮へ外国教師三名傭入伺ニ付副申」、『公文録 工部省之部明治八年五月』。[本文へ戻る]

[24]「フォンタネージ講義(一)—藤雅三記録」、1876年[隈元謙次郎『明治初期来朝伊太利亜美術家の研究』、八潮書店、1978年、145—146頁]。[本文へ戻る]

[25]「ホンタネシイ氏講議」、青木茂編『高橋由一油画史料』、中央公論美術出版、1984年、394頁。[本文へ戻る]

[26]註[16]に同じ。429—430頁。[本文へ戻る]

[27]植木枝盛「無天雑録 未定稿 壱」、1880年[『植木枝盛集』第9巻、岩波書店、1991年、8頁]。[本文へ戻る]

[28]アーネスト・フェノロサ、大森惟中筆記『美術真説』1882年[青木茂・酒井忠康編『美術』(『日本近代思想大系』第17巻)、1996年、53頁]。[本文へ戻る]

[29]註[28]に同じ。39—40頁。[本文へ戻る]

[30]註[24]に同じ。145頁。[本文へ戻る]

[31]註[28]に同じ。45頁。[本文へ戻る]

[32]註[28]に同じ。35頁。[本文へ戻る]

[33]福沢諭吉『学問のすゝめ 三編』、1873年[(『岩波文庫』)、岩波書店、1997年、29頁]。[本文へ戻る]

[34]「三—四」、[青木茂編『高橋由一油絵史料』、中央公論美術出版、1984年、219頁]。[本文へ戻る]

[35]宮川透『日本精神史への序論』[(『紀伊國屋新書』)、紀伊國屋書店、1970年、15—16頁]。[本文へ戻る]

[36]フェノロサ「鑑画会フェノロサ氏〔帰朝〕演説筆記」、1887年[山口静一編『フェノロサ美術論集』、中央公論美術出版、1988年、133頁]。[本文へ戻る]

[37]註[35]に同じ。16頁。[本文へ戻る]

[38]ブルンチュリ、訳者不明「族民的の建国並びに族民主義」、1887年[田中彰・宮地正人編『歴史認識』(『日本近代思想大系』第13巻)、岩波書店、1911年、432—441頁]。[本文へ戻る]

[39]外山正一「日本絵画の未来」、1890年[青木茂・酒井忠康編『美術』(『日本近代思想大系』第17巻)、1996年、131頁]。[本文へ戻る]

[40]藤岡作太郎『近世絵画史』、1903年[(『日本芸術名著選』第1巻)、ぺりかん社、1983年、260頁]。[本文へ戻る]

[41]鈴木淳『明治の機械工業』(『MINERVA 日本史ライブラリー』第3巻)、ミネルヴァ書房、1996年、353頁。[本文へ戻る]

[42]山本五郎「美術ト工業トノ区別/博物舘ノ効用」、『日本美術協会報告』第21号、1889年、29—30頁。[本文へ戻る]

[43]岡倉天心「『国華』発刊ノ辞」、『岡倉天心全集』第3巻、平凡社、1889年、42頁。[本文へ戻る]

[44]註[43]に同じ。42頁。[本文へ戻る]

[45]岡倉天心「第三回内国勧業博覧会審査報告」、『岡倉天心全集』第3巻、平凡社。1891年、87頁、88頁。[本文へ戻る]

[46]「工藝品共進会出品人心得」第4項、『東京府工藝品共進会報告』、東京府、1888年、16頁。[本文へ戻る]

[47]伊東忠太「アーキテクチユール」の本義を論じて其訳字を撰定し我が造家学会の改名を望む」、『建築雑誌』第90号、1894年、195頁。[本文へ戻る]

[48]伊東忠太「建築術と美術との関係」、『建築雑誌』第75号、1893年、80頁。[本文へ戻る]

[49]註[48]に同じ。87頁。[本文へ戻る]

[50]村山徳淳「工藝志料序」、黒川真頼ほか編述『工藝志料』、博物局、1878年、3頁。[本文へ戻る]

[51]黒川真頼「工藝鏡序」、1894年[横井時冬『工藝鏡 上』、六合館、1927年、1頁]。[本文へ戻る]

[52]マックス・ホルクハイマー/テオドール・W・アドルノ「啓蒙の概念」、1947年[徳永拘訳『啓蒙の弁証法』、岩波書店、1994年、3頁]。[本文へ戻る]

[53]註[52]に同じ。9頁。松宮秀治「明治前期の博物館政策」(西川長夫・松宮秀治編『幕末明治期の国民国家形成と文化変容』、新曜社、1995年、253—278頁)が、この逆説によって日本近代における博物館史を論じている。本論とは直接かかわらぬとはいえ、示唆されるところがあった。また、本稿執筆にあたって青木茂、小野木重勝両氏はじめ多くの先学の業績から沢山のことを学ばせていただいた。この場を借りて感謝の意を表しておきたい。[本文へ戻る]

*引用した史料のなかには、句読点や濁点を付し、現行の漢字に改めるなど、読者の便を考えて若干手を加えたものが含まれている。引用文の「/」は段落を示す。



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