幕末から明治初期における医学教育


神谷敏郎 東京大学総合研究博物館



1 東京大学医学部の源流


 江戸時代に最も恐れられていた流行病は、高熱と身体各所の疼痛に苦しみ、短時日の間に死を迎える天然痘(疱瘡・痘瘡)であった。その予防としては病人を山深い疱瘡小屋に隔離するしか策がなく、人びとはただ「鬼神の仕業」と恐れおののいた。「天然痘にかかったことのない子供は、我が子と思うな」と言われたほど死亡率が高く、生命をとりとめた者も失明したり、瘢痕を顔に残したりと後遺症に悩まされた。

 天然痘に一度かかった人は二度とはかからないという体験から、軽い痘苗を使って発病させ免疫をつくる予防法が試みられてきた。1796年に英国の医師ジェンナー(Edward Jenner)によって牛痘種痘法が発明され、やがてそのすぐれた予防効果は世界に広められ、多くの人びとを救済した。ジェンナーの種痘の情報は、発見から数年後には日本にも伝わっていた。長崎の和蘭商館の医師として来日したシーボルト(Philipp Franz von Siebold)も文政6(1823)年に痘苗を持って来日したが、長い航海の間に腐敗してしまい接種に成功しなかった。ジェンナーの種痘法発明から約半世紀後の嘉永2(1849)年7月に、和蘭商館医のモーニッケ(Otto Mohnike)がバタビア(ジャカルタ)から長崎に持参した痘痂(かさぶた)によって本邦における最初の接種が成功した。この吉報はたちまち国内各地に伝播され、同年末には江戸にも伝えられた。その後各地の蘭方医たちの大変な努力で絶大の効果をあげ、多くの小児を救った。この種痘事業の著しい成果は、それまで漢方医学一辺倒であった幕府の医療政策を西洋医学へと転換させる源流となった。

 昭和33(1958)年5月7日に「東京大学医学部創立百年記念」の式典が東京大学大講堂で盛大に挙行された。この日から100年前の安政5(1858)年5月7日は江戸の蘭方医82名の拠金によって「お玉ヶ池種痘所」が開所された日である。東京大学医学部のみなもとを、内容的に連続性をたたないようにさかのぼれるだけさかのぼると、明治維新をこえて、お玉ヶ池種痘所に達するので、この日が東京大学医学部創立の日と定められている。東京大学そのものの創立は明治10(1877)年4月12日で、それより約20年後になる。ただし、東京大学の創立の日というのは、「東京大学」という「総合大学」が成立した日を指していて、当時この総合大学を構成した法・理・文・医の4つの学部の前身は、それよりずっと前から存在していた。したがってこの4つの学部の実質的な創立の日が、それよりさかのぼるのは当然のことである。

 東京大学医学部は創立百年記念事業として、[一]医学部総合中央館(医学図書館)の建設、[二]『東京大学医学部百年史』の編纂の二大事業をおこなった。医学部総合中央館は昭和36(1961)年11月3日文化の日に竣工式が挙行され開館した。『東京大学医学部百年史』は、故小川鼎三名誉教授、故緒方富雄名誉教授を中心とした編集委員の方がたが、10年の歳月をかけられて完成され、昭和42(1967)年12月20日に刊行された。今回、私に与えられた「医学部創設期から明治前期の東京大学での医学教育の変遷」の課題についても、医学部百年史に、仔細な考察による格調高い論述と解説が記載されている。したがって、本稿では医学部百年史から抜粋した該当項目の断片的な史実を述べ、これに医学教育においてはいかに教育標本が重要であったかを、2つの実例を通して紹介することとした。その第1例は江戸末期に、大阪の整骨医各務文献によって創り出された「各務(かがみ)木骨」である[22]。第2例は、幕府の西洋医学導入計画によって招聘され、安政4(1857)年9月に来日したオランダ海軍軍医ポンペ・ファン・メールデルフォールト(J.L.C.Pompe van Meerdervoort)が、教育標本として持参したオランダ青年の頭蓋骨にまつわるものである[27]。ポンペは5年間滞在して、愛弟子の松本良順(後に幕府の医学所第3代頭取に就く)の絶大な援助のもとにその難事業を遂行し、日本に最初の系統だった西洋式の医学教育を伝授し、その担い手を教育した。

 これに加えて、東京大学創立時の頃の学生はどのようにして勉学に励んでいたのかの一端を、明治10(1877)年に医学部医学本科に在学した、森林太郎(鴎外)が残した学習ノートを通して触れ、私の責をはたさせていただく。


2 ドイツ医学制度の導入と外国人教師


 幕府は万延元年(1860)10月、お玉ヶ池種痘所を接収して直轄とし、公式に「種痘所」と名付けた。かくて2年前に設けられた有志共同の私立の機関が官立となり、大槻俊斎を初代の頭取とし、「教授職及び治療医員」がおかれ、本来の「種痘」に加えて「蘭方治療」と「蘭方医術」の修得と研修をおこなう西洋医学の教育機関となった。その後、種痘所といいながら、西洋医学の教育を行っていることから、文久2(1862)年10月から「西洋医学所」と改称された。さらに文久3年2月に西洋医学所は、ただ「医学所」と呼ばれることになった(幕府は伝統的な漢方医学の研究機関として別に官立の「医学館」を置いていた)。

 維新政府は明治元(1868)年6月9日に幕府直轄の医育施設を接収して一時閉鎖したが、医学所は27日後の6月26日に新政府による「医学所」として復活させた。また、8月には漢方医学の医学館を「種痘所」と改め開所した(種痘所は明治4年に閉鎖される)。医学所は明治2年2月には「医学校兼病院」と称され、さらに、同年12月には「大学東校」と改称された。同年、新政府はドイツ医学の導入による日本の医学教育制度の確立を決議し、大学東校を日本全体の医学教育の中核とする方針で外人教師の招聘を決めた。明治3年2月に日本政府とドイツ北部連邦公使のフォン・ブラント(Max August Scipio von Brandt)との間に、プロシアより医学教師2名を3年間契約で大学東校に招聘することが調印された。その契約書にはドイツ人教師は大学別当(大臣)のすぐ下に立って日本の医者たちに自由に命令できること、両人とも、あるいは少なくともその1人は日本皇帝の侍医となることなどの条件が書かれていた。

 ドイツからは軍医2名、レオポルド・ミュルレル(Benjamin Carl Leopold Müller)[挿図1]と、テオドール・ホフマン(Theodor Eduard Hoffmann)が明治4(1871)年8月に「東校」に着任した。前者は外科、後者は内科を受け持った。両名の来日は折から普仏戦争(1870—71年)がおこり着任が大幅におくれ、着任直前の7月には大学東校は「東校」と改称されていた。

挿図1 ミュルレルの胸像。最初のドイツ人医学教師として来日し、日本の医学教育制度の確立に尽くした。その功績を記念して明治28年に建てられた。

 日本の医学教育制度確立についての全権をあたえられた、ミュルレルとホフマンは、東校の制度を根本より改革した。それは一挙にドイツ医科大学を取り込むことであった。修業年限は予科3年、本科5年とした。入学は毎年1回9月と定め、入学する生徒の年齢も制限された。定員は本科生約40名、予科生約60名とされた。この教育制度実行のために教養課程と基礎医学および臨床医学の3分野の外国人教師の充足が進められた。予科の教育担当教師としては、シモンス(O.Simmons)にラテン語、ドイツ語、数学を担当させ、大学南校の教師ワグネル(Gottfried Wagener)に兼担で物理学、化学、数学を受け持たせ、後に動植物学のヒルゲンドルフ(Franz Martin Hilgendorf)、理化学および数学のコッフュス(Hermann Cochius)、ドイツ語、ラテン語のフンク(Hermann Funck)をドイツから招聘して、予科教育の充実がはかられた。

 文部省は明治5年(1872)8月に学制を定め、学区制を布き、東校を「第一大学区医学校」と改称した。さらに明治7年5月の学制改革により校名が「東京医学校」と改められた。この間ドイツより明治5年11月に製薬学教師ニーウェルト(Niewerth)が、また明治6年7月に基礎医学の専任の解剖学者デーニッツ(Wilhelm Dönitz)が来任している。この年に日本の医学教育の基本学制を整え、その基盤を築いたミュルレルとホフマンは3年間の任務を終えた(帰国は翌明治8年11月)。彼らの後任者、臨床医学担当として内科のウェルニヒ(A. L. Agathon Wernich)が明治7年11月に、外科のシュルツェ(Emil A. W. Schultze)が同じく12月に相次いで着任した。さらに、明治9年6月にドイツ人教師ベルツ(Erwin Bälz)が来任し内科を、年末には教師チーゲル(Ernst Tiegel)が赴任し生理学を担当した。

 明治10年4月12日、東京医学校と東京開成学校は合併し、4学部を設け総合大学としての「東京大学」が創立された。東京大学の一学部として面目を改めた医学部は、すでに東京医学校時代に教育指針を大いに改めたので、総合大学となっても教科内容に格別の変更はなく、医学本科は予科3年本科5年の制度を踏襲し、そして製薬教場、医学通学生教場、製薬通学生教場、医院をも包含することも従前と同じであった。この間の東京大学医学部の名称と所在地の変遷は表1の通りである。



3 医学部発足当時の教授陣と教科目


 明治10(1877)年東京大学発足時における医学部本科の教授は次の通りである。

 解剖学=田口和美、生理学=大沢謙二、病理学=三宅秀、薬剤学=樫原清徳、外科総論=桐原真節・赤星研造、製薬学=柴田承桂。

 また、外人教師は本科に関係した人として、

 解剖学=ギールケ(Hans P. B. Gierke)、生理学=チーゲル(Ernst Tiegel)、内科=ベルツ(Erwin Bälz)、外科=シュルツェ(Emil A. W. Schultze)、製薬学=マルチン(Georg Martin)、製薬化学=コルシェルト(Oskar Korschelt)の6名で、すべてドイツ人であった。

 この頃の医学部本科生の教育課程はおよそ次のようなものであった(予科と通学生は省略)。

[医学本科課程]
5等 第1年
(下級)物理学・化学・医科動物学・解剖学
(上級)物理学・化学・医科植物学・各部解剖学・組織学
4等 第2年
(下級)物理学・化学・実地解剖学
(上級)物理学・化学・顕微鏡用法・生理学
3等 第3年
(下級)外科総論・内科総論・生理学実地演習
(上級)外科総論・内科総論及病理解剖・薬物学・毒物学・製剤学実地演習・分析学実地演習
2等 第4年
(下級)外科各論・病理各論・外科臨床講義・内科臨床講義
(上級)外科各論・病理各論・外科臨床講義・内科臨床講義
1等 第5年
(下級)外科各論及眼科学・病理各論・外科臨床講義・外科手術実地演習

[製薬学本科課程]
3等 第1年
(下級)物理学・薬用動物学・鉱物学・化学
(上級)物理学・薬用植物学・無機化学・顕微鏡学
2等 第2年
(下級)物理学・化学・薬品学・製薬化学・定性分析学
(上級)物理学・有機化学・薬品学・製薬化学・定量分析術
1等 第3年
(下級)製薬実地演習・薬物試験実地演習
(上級)薬局調剤実地演習

 当時は1学年2学期制で、夏学期を下級、冬学期を上級として右のように定めたもので、医学本科の最終学期は卒業試験にあてられていた。医学本科を修了して一人前の医師になるのには前後10年の歳月を要し、しかも講義の大部分は外人教師によって行われたので、ドイツ語にはとくに精通せざるをえなかった。

 東京大学成立後、はじめての卒業生の出たのは明治10年7月、理学部化学科の3名である。しかし、西南の役の最中であったことなどから、半年遅れて12月19日に卒業式が挙行され証書が渡された。医学部の最初の卒業生は明治11年3月29日にできた製薬学の本科を修了した9名である。

 医学本科生の第1回卒業は明治12年10月で、18名が卒業した。この学生たちは明治5年7月29日に、東校の医学規則が改められ、新入予科生60名の入学が布告された時、受験して入学を許可されたもので、ここに本格的な医師の誕生をみた。


4 製薬教場・医学別課制度


 明治政府は明治6(1873)年6月に、第一大学区医学校に製薬教場設置を決め、予科2年、本科3年の薬学教育制度を定めた。製薬科は明治10年、東京大学設置とともに3年制の製薬学本科となり、同時に2年制の通学生制度(別課)も設けられた。後の東京大学医学部薬学科、今日の薬学部の発端である(製薬学通学生制度は明治12年度で製薬学本科に統合され廃止された)。

 一方、新医学教育制度が確立し、将来の医学界を担う新鋭を養成する制度が発足したものの、当時全国の医師の8割あまりが漢方医で、洋方医はひどく払底していた実状から、洋方医を速成的に養成する必要にせまられていた。政府はこの解決策として、明治8年5月、東京医学校に実地教育を主眼とした通学生制度(のちに別課生と称した)を設けた。生徒は年齢20歳以上で修業年限は3年間、講義はすべて日本人教師により国語で行われた。当時、医学教育をうける者は寄宿舎に入寮する建て前であったが、自宅より通学するこの人たちを医学通学生と称して本科と区別することになった。医学科のほかに製薬科の通学生制度も設けられ、修業年限は医学科3年(6学期)、製薬科2年(4学期)で、毎年2回生徒を入学させた。定員は医学科、製薬科それぞれ60名で、なお番外として40名の入学が許可された。明治10年東京大学発足後も、医学部の医学通学生制度は存続して修業年限3ヵ年(7学期)と定められ、さらに明治12年3月から4ヵ年(8学期)に延長された。明治13年10月に名称が「別課」と改められ、入学年齢は18歳以上と定められた。臨床教育は神田泉町の第二医院で行われた。

 過度期の医学教育としてこのような変則的制度は止むをえないにしても、本来の医学教育にとっては望ましいことでなかったので、明治18(1885)年4月をもって別課医学生の募集は停止され、10年間におよぶ速成医学教育は終焉を迎えた。医学別課(通学生教場)の卒業生は、明治12年5月にはじまり、明治21年にいたるまで1111名を数え、明治、大正時代の実地医療を担い、医学教育や医療行政面でも大きく貢献した人材を輩出した。


5 ポンペ持参の頭蓋骨


 長崎でポンペについてその助手として、もっとも本格的な西洋医学を修めた松本良順は、文久3(1863)年、32歳で医学所の3代目頭取に就いた。良順は医学所での教育をポンペが長崎で行っていた教則に従い、基礎と臨床とに分け、物理、化学、解剖、生理、病理、内科、外科を医学7科とし、ポンペの講義を筆記した「朋百(ポンペ)伝習医学七科」によった教育を行った。この当時の医学所内部の様子については、慶応元(1867)年に入学した石黒忠悳(後の東京大学医学部心得[医学部長]として活躍、さらに陸軍軍医総監を務める)の『懐旧九十年』に記録されている。この懐古録を引用してみると、「私が入学したのは、松本頭取時代で、職員は、頭取一人、教授五人、助教授四人、事務長一人、事務員三人であって、学生は、通学生三十人ばかり、寄宿生三十余名。学科担当は、松本良順頭取自ら内科、次に坪井芳洲(為春)薬剤学、島村鼎甫(鼎)生理学、石井謙道(謙)病理学、桐原玄海(真節)解剖学、外に助教授は足立寛(藤三郎)蘭学理化学、田代一徳(基徳)蘭学数学を各受け持ち、学科の中で一番時間を費やしたのは内科、外科、薬学などの書物を読むことで、つまり読書に一番多くに時間を要した。人体解剖は、私の在学中唯だ一度しかなく、何時も犬や猫で間に合わせた。松本良順の寄付した人の頭蓋骨が一つあって、是が江戸にたった一つの品であったので、方々から引張凧の形で、我々は容易に見ることができなかった。

 解剖学を学ぶには、第一に解剖書を読み、第二に教室で講義を聞くのであるが、解剖書としては、解体新書の外フレスの著、又はボックの著があり、付図もあった。またウェーベルの解剖図なども参考にした。キンストレーキという張り子紙製の人体模型があり、第三は、犬猫を解剖するので、人体解剖は、何年に一度という位で、容易に機会が得られなかった。上述のウェーベルの図やキンストレーキとても、江戸の医学所に1つ、長崎の精得館に一つとて、日本に二つしかなかった。

 医学所備え付けの書籍はかなり沢山あったようだが、同じものは多くも二部で、三部とはなかったので、各自写して読んだ。その頃最も声価のあった本としては、ハンデンブルグの理学書、ワグネルの化学書、ボックの解剖書及び解剖図、コステルの生理学、ウーレ、ワグネル共著の病理学、ウンデルリヒの内科学、ストロマイルの外科学などで、多くは独乙原書の和蘭復刻のものであった。この外ボムホフの英仏独蘭の四国辞書、カラーメルの術語辞書など頗る珍重された。朋百(ポンペ)医学七科書も、各自が筆写した。蘭文を写すにしても、ペンもインキもないので、皆自分で造るのである。先ず紙は、土佐半紙に、明礬と膠を煎じて之を刷毛で塗り、乾いてから子安貝の殻でよく磨いて滑らかにする。ペンは下谷宏徳寺前の羽根問屋から、太い鳥の羽根を買ってきて、剃刀でそいて、鵞ペンを作くり、インキは緑礬や没食子で造った」と記述されている。

 江戸時代も中期以降では、京都や江戸で官許の腑分けが行われ、『解体新書』の刊行にみられるように、西洋医学の積極的な導入が進むなかで、東洋医学・蘭方医学の医師にかかわらず人体の「骨」を所有することは社会的に容認されていなかった。医学所で活用された頭蓋骨については、司馬遼太郎(1923—1996)の幕末における歴史小説『胡蝶の舞』の中で、主人公の一人として登場する松本良順が、師のオランダ海軍軍医ポンペから伝承した「髑髏」が重要な話題になる部分がある。

 ポンペは長崎で本邦最初の正式な西洋医学教育にあたること5年、帰国に際してこの髑髏を愛弟子の松本良順(1832—1907)に「西洋医学の印可」として贈った。良順はやがて幕府直轄の西洋医学の医育機関である、江戸の医学所の3代目頭取に就くが、恩師ポンペから託された髑髏も江戸へ持ち帰り医学所で活用した。当時の医学所には人骨の標本は一つもなく、この頭蓋骨は江戸でたった一つの貴重な標本として、医学生の間で奪い合いであった。「大勢の学生が日夕手にとって観察したので手垢で黒光して、まるで漆で塗った様になった」という記録も残されている。この由緒あるポンペ持参のオランダ人頭蓋骨はその後、松本良順が明治政府の陸軍軍医総監に就いてから、東京大学医学部解剖学教室に寄贈され、今日においても研究標本として活用されている。

 このように医学の教育では人体の「骨格」がいかに重要であるかがうかがえるが、たとえ医学教育上であっても、人骨の保存活用が許されなかった社会的な背景の時代に、「百聞は一見にしかず」ならぬ「手撫目察」こそ治療の基礎であるとして、人体骨格の所有が許可されないのであれば、実物大の正確に模刻をした木の骨を作成して、診療と弟子の教育にあたった整骨医が残した、世界にも類をみない人体木骨があった。


6 木でつくられた人体骨格


 江戸時代においては、医療行為のためとはいえ人間の骨格を所有することは許されていなかった。このため、整骨医の中には診療および門下生の教育・指導に用いるために精巧な実物大の木製の骨格を作り実用に供した先覚者がいた。なかでも、広島の整骨医・星野良悦(1753—1802)が製した「星野木骨」と、次いで、大阪の整骨医・各務文献(かがみぶんけん)(1765—1829)が指導、模刻させた木製の全身骨格模型「各務木骨」は医史学上わが国独特の貴重な資料として知られている[挿図2]([22])。星野木骨のいわば基準木骨は現在、広島県立美術館に保管されている。一方の各務文献の原型木骨は東京大学医学部に保存されてきていて、今回の創立120年記念展示で見ることができる。木骨に関する医学史的な考察は、すでに多くの先人によって詳しく行われてきているが、木骨を真骨と比較し解剖学的に再吟味した報告は殆どない。だいぶ前になるが私は、各務木骨の特徴について若干の考察を行ったので、ここで改めて紹介させていただく。

挿図2 各務木片の頭蓋骨(左)とポンペ持参の青年の頭蓋骨。木片の出来は真骨と区別ができないほど精巧である。

 頭蓋骨で最も複雑な部分は頭蓋底の構造であるが、木骨の頭蓋底は真骨に極めて忠実につくられている。脳神経、血管が貫通する管や裂孔をはじめとして、嗅神経が貫く篩骨の篩板小孔にいたるまで存在する。試みに篩板小孔を数えてみると23個ある。真骨でも20個前後であるから、この点からも細かい構造までが忠実につくられていることがわかる。

 鼻腔を形成している骨の様子を観るために、軟エックス線の撮影を行った。鼻中隔、左右の中鼻甲介および下鼻甲介を構成している部分は軟エックス線を通さなかった。この部分は軟らかな金属板を細工して芯が作られていることがわかる。地金は恐らく赤金でなかろうか。歯も人工歯である。歯の表面を拡大して観ると蝋状の緻密な鉱物の像を呈している。滑石(蝋石)であろう。ちなみに江戸時代後期における義歯の素材の多くは蝋石と黄楊(つげ)の木が用いられ、稀に大理石が使われている。歯の形状はやや粗雑であるが、歯冠、歯冠尖頭、歯頸といった歯の基本構造は正しく備わっている。木骨頭蓋は数多くの細木を糊で接着させて組み立てられていて、金属が使われている部分は鼻腔に関係した部分と、頭蓋冠を固定するための3本の小さな鉄釘だけである。

 木骨の上顎骨をみると歯槽弓には3本の歯が残存しているだけであるが、歯槽は左右に8孔ずつ、すなわち第3大臼歯の歯槽までが模刻されている。下顎骨は左右の下顎枝とも7孔、第2大臼歯まである。上顎の第3大臼歯の咬合面をみると、左右歯とも完全萌出した状態ではなく、やっと歯冠尖頭が歯肉から顔をのぞかせた状態でつくられている。この親不知の歯が出かかった状態の像から、木骨の年齢を推定してみれば20歳前後といえよう。

 さらに脱落した右下顎第1大臼歯の歯槽を詳しく観てみると根間中隔(同一歯槽内で多根歯の歯根間を隔てるきわめて薄い骨壁)までが存在している。真骨に忠実な臼歯を作る一方、この歯を容れる歯槽にも根間中隔まで整えて歯をはめこんだものか、第1大臼歯はもともと脱落した状態を現すために歯槽の構造が精巧に作られたものかであろう。こうなると木骨の側頭骨岩様部(錐体乳突部=内耳を内蔵している)を削り取っていったら、蝸牛や骨半規管が剖出されてくるのではないかとすら思えてくるほどの精巧な細工である。

 各務文献は大阪の人で、字は子徴、通称は相二といい、文献は号である。明和2(1765)年の生まれで、文政12(1829)年に65歳で亡くなっている。初め産科を修めたが、後に整骨術に転じその道を究め、45歳の文化7(1810)年に『整骨新書』を著した。文献は整骨術の基礎は自然骨の「手撫目察」にありとして、数多くの遺体解剖を行い、真骨に忠実な木骨を整え座右において子弟の教育に当たった。私は各務木骨を詳しく観察する機会を得て、改めて文献の鋭い観察力に深い感銘をうけた。また同時に複製を担当した工人の技術にも、匠の道を究めた人の心意気を垣間みた思いであった。歳月を費やして一つ一つの骨を模刻・複製していった各務文献と工人との努力の結晶が、今日世界に誇りうる解剖学資料を生み出した。医史学の観点からは何故に木骨を作り出さしめたかという江戸期の社会背景を、また、工芸史上からは江戸後期における、優れた木工芸の技術を語ってくれる隠れた作品の一つとして、木骨は末永く私たちに語りかけていってくれるであろう。


7 医学生森林太郎(鴎外)の学習記録


 東京医学校から東京大学医学部へと教育制度の改革の時期に、どのような教育が行われていたかを、生徒・学生側から見た記録はほとんど残されていない。明治14(1881)年に医学科本科を30名が卒業した。この中に森林太郎(1862—1922)がいる。森林太郎は弱冠19歳という最少年齢で卒業後、陸軍に入り、衛生学研究のために4年間ドイツに留学、後に陸軍省医務局長、軍医総監として活躍し、同時に明治の代表的な文豪「森鴎外」として知られた。

 鴎外に関する資料は現在、森家より東京・文京区立鴎外記念本郷図書館に寄贈、保管されている。この資料のなかに鴎外直筆の5冊の記録が「雑記帖」として登録されている。大きさは手帳大から、縦20センチ、横13センチほどのものまでの小冊である。この中に医学生時代の「大学時代のノート」と「組織学メモ」の2冊がある。東京大学医学部創設期にどのような医学教育が実践されたかは、『東京大学医学部百年史』をはじめ多くの資料がみられるが、実際に教育を受けた学生側の記録はきわめて少ない。この点で鴎外が残した医学ノートの存在は貴重である。

 医学生・森林太郎はどのように勉学への取り組みをしたのであろうか。この点は鴎外が明治42(1909)年2月、『スバル』に発表した自伝小説『ウィタ・セクスアリス』のなかに、15歳の学生・金井少年を通して述べられている。「僕は子供の時から物を散らかしておくということが大きらいである。学校にはいってからは、学科用のものとほかのものとをより分けてきちんとしておく。このごろになっては、僕のノートブックの数はたいへんなもので、ちょうどほかの人の倍はある。そのわけは一学科ごとに二冊あって、しかもそれを皆教場に持って出て、重要な事と、ただ参考になると思う事とを、聞きながらより分けて、開いて重ねてある二冊へ、ペンで書く。そのかわり、ほかの生徒のように、寄宿舎に帰ってから清書をすることはない。寄宿舎では、その日の講義のうちにあった術語だけを、ギリシャ・ラテンの語原を調べて、赤インキでぺージの縁に注しておく。教場の外での仕事はほとんどそれきりである。人が術語が覚えにくくて困るというと、僕はおかしくてたまらない。なぜ語源を調べずに、器械的に覚えようとするのだと言いたくなる」(岩波文庫・現代表記版)。今回閲覧できた医学ノートの内容はいずれも「重要な事項」にあたる部分の記録と考えられる。

i 基礎医学学習ノート

 鴎外の「大学時代のノート」は、内容からみてある時期に整理・選択され、装幀製本されたものである。鴎外自身が手許のノート類の中から、思い出の深い箇所を選り抜いて合冊したのではなかろうかと推察した。すなわち、このノートは、「物理学」(12頁)、「動植物学」(40頁)、「数学」(12頁)、「ラテン語文法」(36頁)、「医学」(70頁)からなる。この中から動植物学と医学の部分を取りだしてみよう。

 予科での自然科学については、4円切手の図案にもなっている日本特産の巻き貝、オキナエビスの紹介者として有名なヒルゲンドルフの講義ノートである。ここでは、動物学については分類学と比較解剖学が記録されている。例えば、哺乳類の分類学ではクジラ目の記載がある。ハクジラ亜目とヒゲクジラ亜目の分類、それぞれの下に科・属・種が区分され、Iruka(イルカ)とKusira(クジラ)数種ずつの学名が挙げられている。そして鯨の図が2点(セミクジラとイワシクジラ)書かれている。細長い鯨体に胸鰭、背鰭、それに水平な尾鰭が描かれ、頭部には数条の噴気(潮吹き)が記入されている。

 植物学のページでは、講義内容と共に、実習で観察された代表的な花のスケッチ図10点が張り込まれている。スケッチはいずれも丁寧に描かれている。例えばアザミの花についてみれば、花のほかに細い葉脈や茎の細かい棘までが克明に記入されている。

 本科での基礎医学での解剖学と病理学を担当したのはデーニッツ教授である。鴎外の医学ノートは解剖学の頭蓋骨についての記載から始まっている。頭蓋腔、眼窩、蝶形骨を中心にした頭蓋底についての記述があり、解剖学用語はすべてラテン語で記入されている。

 次いで「脳の病理学(Niemeyer)」と題して35頁にわたる記載がある。この中に脳の解剖図が記録されている。脳の図は2点あって、大脳を左側面からみた脳溝と回転(しわ)を示した図と、大脳の水平断面とである。見開きの左頁いっぱいに描かれている大脳水平断面図には、アルファベットの記号が付されていて、右頁にその符号に対応した解剖学用語(ラテン語)が記入されている[挿図3]。文章は全て独文である。水平断図では皮質の前頭葉と側頭葉の内側に左右一対ある島(最近の研究から皮質味覚中枢といわれる部位)と、後頭葉の皮質視覚中枢のそれぞれ特徴ある脳溝像が描かれている。髄質(内部)では基底核など各種の神経細胞の集団の構造が正確に示されている。講義中に板書された図を書き写したものとは思えない。参考資料が限られていたであろう当時の講義では、教師が前もって準備しておいた解剖図を使って講義が行われ、講義終了後に学生が時間をかけて転写したことも考えられるが、図書館で参考書から書き写したものとも思われる。この部分のノートの表題に挙げられているニーマイル(F. Niemeyer)はドイツ・チュービンゲン大学教授で、その著書『病理学と治療学』は、当時の東京大学医学部図書蔵書記録によると20冊も登録されていて、参考書として学生によく読まれていた。ただ、2巻、1700頁からなる分厚い『病理学と治療学』の中には図が一つも載っていない。この点からも、鴎外の脳の図はほかの解剖学書を参考にして描かれたものと思われる。

挿図3 森林太郎直筆の大脳推移へい断面図。脳の構造を鉛筆で下書きした後、皮質と基底核を薄墨でぬり、髄質と識別されている。文京区立鴎外記念本郷図書館所蔵

 鴎外は蔵書家としても有名であり、それらの蔵書は没後、大正13(1924)年9月に東京帝国大学図書館に寄贈された。「鴎外文庫」として登録されている書籍の中に、ニーマイルの『病理学と治療学』の1877年版がある。鴎外はこの書物を座右の書として精読したようである。本の随所に黒や赤インクでアンダーラインが引かれたり、余白にドイツ語の書き込みのある頁が見られる。さらに挿図4のように、Carcinom des Magensは「胃癌」、Magengeschwürについては「胃瘍」などのように、数は少ないが項目によっては、朱墨の毛筆で漢字が記入されている珍しい箇所がみられる。


 別冊の「組織学メモ」は、スイス・チューリヒ大学のフライ(H. Frey)教授が著した『基礎組織学』の要点をまとめて、80頁にわたりびっしりと独逸筆記体で書き込みがなされている。当時、この参考書もよく読まれていて、その1冊が東京大学図書館に保管されている。「東京大学医学部書庫所蔵」の公印が捺され、ところどころ虫食い跡が目立つ1875年版である。おそらく、多くの医学生が手にしたのであろう。森林太郎もこの本によって研鑽を行い、「組織学メモ」をまとめたのではなかろうか。

 鴎外の長男の森於菟(1890—1967)は東京大学医学部および理学部を卒業後解剖学を専攻し、東大助教授を経て台北帝国大学教授、戦後は東邦大学教授を務めた。森於菟の随筆「鴎外と解剖」と題した追想文のなかに次のような記述がある。「記録によると父は明治7(1874)年、その頃大学東校と称した東京大学の予科に入学しているから、同10年の後学期に初めて解剖学実習を修めたわけである。その頃は勿論外人教師のデーニッツが解剖学を担任していたわけで、下谷和泉橋通り旧藤堂邸の長屋の一部が改造して実習室にあてられていたとの事である。
 解剖台は細長い室に二列にならべられて十台ばかり、実習に際してはいつも満員であった。当時解剖用の屍体は伝馬町の牢舎から来るのでその多くは刑死、朝右衛門か誰か知らぬが首斬役人が、膝をそろえて座って上半身をかがめた囚人の後上方から切り下ろすので、切り口は多くは斜め、時には上にそれて下顎に切りかけ、または下にはずれて肩口に切り込み、あるいは勢余って膝頭にまで刀痕をのこしたのもあったという。
 私の父がこの時代解剖実習に熱心であったかは少し疑問である。それは父が解剖学の試験の時、頸部の断面を示され不完全な答えをしたため教授からあくまで追求され、あぶら汗を流したという事を、私は後に祖母からちゃんと聞いているからである。ラテンの術語を覚えるのには興味があっても頸のちぎれた屍体を観察するのはあまりすきでなかったらしい」。

ii 臨床医学学習記録

 鴎外が医学生時代に使用した、外科教師シュルツェの講義用教本が鴎外記念本郷図書館に保管されている。この資料に関しては、東京大学名誉教授津山直一先生(整形外科学)が詳しく検証され、「医学生森林太郎(鴎外)の外科教科書への書き込みについて」と題した報告をされている。そこでは鴎外直筆の図、例えば、先天性股関節脱臼時の骨盤、体幹の形態など多くの優れた図について解説され、また、直筆の独文に加えて、随所に漢文をも取り組んだ記帳文についても解読、示説されている。津山論文は「学生時代の真摯な学習ぶりに改めて感嘆した。X線写真もなく、写真・図もごく僅かしか載っていない三百頁余のシュルツェの教本には、全頁アンダーラインと欄外にびっしり書き込みがあるほか、毎頁の如く綴じ込まれた別紙に鴎外自身の手になる巧みな図と、古典的独逸筆記体による説明書きがなされており、書物を大切にした鶴外らしく、きれいな革装幀に製本されている。さすが百年以上経った歳月は紙質を変化させ文字がにじんで読み難い所が多いが、十七か十八歳の森林太郎の学習態度を昨日の如くに伝えるものである。勿論、当時は整形外科は独立しておらず、一般外科の中で内臓外科と共に脊柱、四肢の外科を習ったのであるが、どのような講義が行われていたか知る上でも興味深いものである」と結ばれている。

 津山先生によると、このような書き込みは内臓外科の部にも克明な図と共に多数成されており、当時の医学教育は完全教育、すなわち卒業すれば臨床何科でも十分独りでやりこなせる医師と見なされた時代で、現在と比較し得ないが、まことに何事にも全力をあげて生涯努力しつづけた鴎外の学生時代の形見にふさわしいものと感じられると指摘されている。


8 ジェンナー・ミュルレル・ベルツの銅像


 東京大学医学部創立の源は、ジェンナーの種痘法と深いかかわりがある江戸の蘭方医82名の拠金によって創設された、天然瘡(痘瘡・庖瘡)予防実践機関としての「種痘所」であった。昨平成8(1996)年はジェンナーの牛痘法発見200年の記念すべき年であった。天然痘は徹底した種痘の実践により、世界保健機関(WHO)の1967年に発せられた「世界天然痘撲滅計画」により、1980年の「世界天然痘根絶宣言」に結実し、鬼神の仕業も幻の感染症となって駆逐された。ほとんどの人が身につけているであろう種痘の痕を撫でながら、ジェンナーへ感謝をささげる年であった。『種痘医ジェンナー像」が東京国立博物館前庭に建てられている[挿図5]。この等身大の青銅は明治291896)年ジェンナー種痘発明百年を記念して、大日本私立衛生協会が東京美術学校(現・東京芸術大学)に依頼し製作したもので(米原雲海作)、この木彫の原型が東京芸術大学資料館に保存されている。明治37(1904)年に現在地に建立され、博物館の参観者の目を引いている。

挿図5 種痘医ジェンナーの像。種痘発明百年を記念して明治29年に建てられた。東京国立博物館構内

 日本の医育制度の創立者ミュルレルはドイツに帰国後、ベルリンの廃兵院長を務めたが、明治26(1983)年10月13日、病のため不帰の客となった。彼の没後2周年にあたる明治28(1895)年10月13日、その大きな功績を偲ぶために胸像が東京大学構内に建てられた。この銅像はドイツ陸軍軍医正の正装で、東京美術学校の教官藤田文蔵の作である。正面にDr. Müllerと刻したのは、ミュルレルの自筆を模したもので、台石の裏面に文学博士島田重礼(篁村)の撰、田口茂一郎(米肪と号す。解剖学初代教授田口和美の長男)の筆になる碑文がある。胸像は戦後の混乱のとき盗まれて、コンクリートの複製が置かれていたが、昭和50(1975)年6月28日に「ミュルレル銅像修復除幕式」が挙行され、立派な青銅の像に修復され、彼の功績を永く伝えている。ミュルレル像は医学図書館に面した、薬学部本館玄関の左手の小高い角地に、附属病院新外来棟に向かって建てられている。医学部と薬学部の創設者を記念するに相応しい位置である。ただ、残念なことに通りからこの胸像を見ることができない。周囲の草木が育ちすぎて胸像を遮蔽してしまっているからである。今日では百余年前に建てられた最初のドイツ人医学教師の像を訪ねる人はほとんど無く、あたかも木陰に潜んでいるかのようである。これも時代の流れであろうか。

 一方、御殿下グランドの東南の角地に、附属病院に向かって日本医学の父と讃えられたベルツ(内科学)とスクリバ(外科)の胸像が並んで建てられている[挿図6]。ベルツは明治9(1876)年6月、27歳で東京医校に赴任し、東京大学の内科教師として26年間にわたり目覚ましい活躍をした。スクリバ(Julius Carl Scriba)は明治14(1881)年6月に33歳の時に外科教師として東京大学に赴任し、前任者シュルツェのあとを継ぎ、1901年9月まで20年間にわたって外科教師を務め、偉大な足跡を残した。2人は東京大学医学部における最後の外国人教師であった。明治40(1907)年4月に2人の偉大な功績を讃えてこの胸像除幕式が行われた。現在の胸像前の敷地は広々としていて、見事な桜の木で囲まれている。春には本郷キャンパスのなかでも絶好の花見の名所となる。また、附属病院の教職員が医学図書館との間を往来するときは、必ずといってよいくらい胸像の前を通り、その存在は昔も今も変わらず輝いてみえる。

挿図6 ベルツ(左)とスクリバの胸像。日本の医学の恩人である2人の功績を讃え明治40年に建てられた。



【参考文献】

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石黒忠悳『懐旧九十年』、博文館、1963年。
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壬生町立歴史民俗資料館編『ジェンナー種痘発明二百年記念—種痘医斎藤玄昌』、栃木県壬生町立歴史民俗資料館、1996年。
森鴎外『ウィタ・セクスアリス』(岩波文庫)、岩波書店、1995年。
森於菟『父親としての森鴎外』(筑摩叢書159)、筑摩書房、1969年。
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小川鼎三『医学の歴史』(中公新書)、中央公論社、1964年。
小川鼎三・酒井シズ校注『松本順自伝・長与専斎自伝』(東洋文庫386)、平凡社、1980年。
司馬遼太郎『胡蝶の夢』、新潮社、1979年。
津山直一「鴎外の整形外科学習(I)(II)」、『整形外科』第39巻1号、115—116頁、2号、277頁、1988年。
津山直一「鴎外の整形外科学習(III)」、『整形外科』第41巻、1990年、139—140頁。
東京大学医学部創立百年記念会『東京大学医学部百年史』、東京大学出版会、1967年。
東京帝国大学編『東京帝国大学五十年史』、東京帝国大学、1932年。
東京大学総合図書館『東京大学総合図書館古医学書目録』、日本古医学資料センター、1978年。



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