目次 トップ記事 研究部から 資料部から コレクション 研究部から 資料部から 案内 ニュース

 

研究部から

愛知県売店—もう一つの名古屋城天守

藤尾 直史


近代日本の博物館・博覧会史上重大な意義を持つ明治5年(1872)の湯島聖堂の博覧会場に、名古屋城の金鯱が出品され好評を博したことはよく知られる通りである。

ここに2枚の写真がある。1枚は明治36年(1903)の第五回内国勧業博覧会、もう1枚は明治40年(1907)の東京勧業博覧会の会場風景を撮影したものである。前者は内国勧業博覧会としては最大かつ最後のもの、後者は東京府の博覧会だったが前者を上回るものとなった。

「愛知県売店」(明治36年第五回内国勧業博覧会)
池ノ端売店名古屋城」(明治40年東京勧業博覧会)

この両博覧会の会場写真に天守(天守閣)のようなものが写っている。前者は大阪天王寺、後者は東京上野不忍池のほとりなのだが、確かに天守らしきものが写っているのである。しかも通行人の背丈と比べてもそれらがなかなか大きなものであったことがわかる。

じつはこの2つの「天守」には意外な共通点があった。まず両者は形態的には天守だが、主たる用途は売店だった。しかも両者とも名古屋城を意識したものだった。よく見ると前者が直接地面から立上っているのに対して、後者はやや折衷的に屋根の上に据付けられたものとなっている。とはいえ、大阪さらには東京の地にこのような名古屋城を意識した売店が建設されることとなったのである。

特に前者は、設計は名古屋市の建築家・本多時三、工事請負人は大阪市の建築受負業者・賀田金三郎で、売店協会の希望により、名古屋城を「模擬」することと決し、努めてその実形に「近似」させたものという。その結果「天守閣」は「方九間高百尺ニ垂ン」とし、「金鯱燦然博覧会場を睥睨」し、「三層閣上ノ休憩所」には茶菓を備えて来賓を歓待し、「二基ノ隅櫓」が両端に築かれ、「城壁」の内部は悉く売店で、「郭内」の庭園を始め四囲の丘上には多数の松樹を植え、「壕」を廻らし、通路に「橋梁」を架け、「二大吹流」は高く中天に翻る・・・という世にも珍奇な「売店」が登場することとなった。

また写真からも窺えるように、この売店は博覧会場の正門のすぐ脇というよく目立つ場所に建設された。実は反対側の脇には、東京府の売店をはじめとする他の府県の売店が立並んでいたのだが、この愛知県売店はそれらの反対側の脇に特別の場所を与えられ、ちょうど正門を隔てて東京府の売店と相対することとなった。

このような立地の影響もあってか、大いに注目を集めたこの売店に対して、大阪毎日新聞社主催の意匠審査会が「設計優等」として賞賛状・紀念牌を送ったという。同社はその後大正14年(1925)に大大阪記念博覧会を主催するが、その際に大阪城の天守台に「豊公館」と称する仮設の展示施設が建設された。そしてこの「豊公館」こそは昭和6年(1931)の天守建設、つまりは現在の大阪城天守閣の重要な伏線となる建築なのである。

「愛知県売店之図」(立面図:上)と「愛知県売店区画図」(平面図:下)(明治36年第五回内国勧業博覧会)

「城壁」の内部には、平面図からも窺える通りぎっしり売店が並んでいた。またその一部は上階にもあった。ところで現在の大阪城天守閣をはじめ、一種の郷土博物館として内部空間に都市・城郭の歴史を展示する天守は多いが、この愛知県売店もやや趣は異なるとはいえ商品を陳列する内部空間を有した点は興味深い。採光に難があったといわれるのも、そもそも内部空間の活用を前提とする建築だったからにほかならない。

ところで天守という建築類型は、本来は近世武家政権の権力誇示を一目的としたもので、明治維新後にその多くが廃止されるが、その特異な外観は近代都市のランドマークとしても十分通用するもので、実際近代以降特に戦後の高度成長期に多くの天守が建設され、現在でも町おこしの一環として天守建設を目論む自治
体は多い。

これらの天守はコンクリート製だったり、史的根拠が薄弱だったりと、多分に擬似的な性格を有するために、しばしば批判に晒されてきたが、そもそもその前提として近代・現代という時代において、いまなお前近代的な外観の建築を求める動きが根強く存在するという実態にも目を向ける必要がある。

このような近代以降の天守建設の早い例としては、仮設では明治38年(1905)の甲府城天守、常設では明治43年(1910)の岐阜城天守があるが、この明治36年(1903)の愛知県売店も同様に早い部類に属するのである。
このような愛知県売店も現在は古写真の中にかろうじてその姿をとどめるに過ぎないが、建築に関する古写真はこのほかにも膨大に残っており、まだまだ十分に活用されているとは言いがたい状況にある。そしてそれらは実に意外な歴史像を切開く可能性をも秘めているのである。

 

footer
(本館助手/建築史学)

 

 

 

小石川分館の開館準備進む

西野 嘉章


近本年秋総合研究博物館に小石川分館が誕生する運びとなり、現在その開館に向けて準備が進められている。営団地下鉄の茗荷谷駅から徒歩で七、八分の理学部附属植物園内の立地は、小高い丘から南に向って美しい日本庭園を望む絶好のロケーションに恵まれている。

建物は和洋折衷の古い木造擬洋風建築をリニューアルして利用する。もともと文部省営繕局が明治9年に東京医学校本館(標本館)として建てたもので、森林太郎(外)など明治の医学生の学んだ由緒ある教育施設である。昭和44年に移築転用されたが、玄関口、間取り、骨組み等には往時をしのばせるものがある。明治初期洋風構造物としての稀少性のゆえに、翌年国の重要文化財としての指定を受けている。その後昭和63年に内装が変更され、今回は基礎部分を含めて全面的な改修を行い、博物館施設として新たな装いを整えることになった。

この新しい施設は明治以来の学校建築全般に関する各種の資料、本学における教育・研究の歩みを跡づける様々な標本、器具、備品、資料等の常設展示の場である。それと同時に、大学史・教育研究史・産業技術史等に関する文字・画像情報をデータベースとして一元的に管理する学誌財情報拠点としての機能を備える。

この「学誌財グローバルベース」は新しい時代のニーズに応えられるかたちで社会に公開される。そのため、常設展示スペースとは別に、来館者用として研究・教育用コンピュータ端末が用意されており、各種の検索や閲覧の便に応えられる。

公開の予定されている情報コンテンツのなかには、関東大震災直後から昭和中期に至るまでのキャンパスの変遷を辿るガラス乾板写真、昭和初期に学内で開催された「シーボルト展覧会」の様子を伝える古記録写真など、これまでのほとんど一般公開されずにあった貴重な映像資料が多数含まれている。

小石川分館は重要文化財指定建築の再生活用とデジタル学術情報の蓄積発信という優れて今日的な実験の場であるのと同時に、美しい自然環境のなかで古い学誌財と対話するための静謐な場として、間もなく開館の時を迎えようとしている。

 

footer
(本館教授/博物館工学・美術史)

  

Back Up For

目次ご挨拶東大コレクション新規収蔵品展|研究部から|コレクション展示レビュー案内ニュース


Ouroboros 第14号
東京大学総合研究博物館ニュース
発行日:平成13年7月13日
編集人:西秋良宏/発行人:高橋 進/発行所:東京大学総合研究博物館