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平成10年度「学芸員専修コース」によせて

牛馬の話

高槻成紀


祭りの日に花で飾られた牛
祭りの日に花で飾られた牛。牛はきわめて高度に家畜化された動物であり、農業になくてはならない存在である。ネパールのカトマンズにて。
内蒙古草原を駆ける馬の群れ
内蒙古草原を駆ける馬の群れ。馬は農業家畜としてだけでなく、軍事力として人間の生活に影響を与えた。ユーラシアの歴史は馬の存在なしには語れない。

牛と馬は犬や猫とともに、我々にもっともなじみの深い動物ということになっている。犬猫をペットの代表とすれば、牛馬は農業家畜の代表ということになろうか。牛は遅さが特徴で、遅きこと牛歩のごとし、というくらいである。これに対して、馬はなんといっても速く走ることが最大の特徴で魅力である。

このように対照的な牛と馬であるが、両者の違いを生物学的な視点から考えてみたい。

馬面という言葉があるほどに馬の顔は長い。ただ、同じ長い顔でも、人は上下に長いが、馬は前後に長い。これを人の顔にたとえれば、鼻と口の部分がグングン前に伸びたものということになる。その意味では、牛の顔もけっこう長い。その最大の理由は歯にある。草食獣である牛馬は口に取り込んだ植物の葉を粉砕するための奥歯が発達している。奥歯は臼のように植物をすりつぶすので、臼歯と呼ばれる。この臼の面積を広くするために顎の部分が長くなければならないのである。

牛馬の顎が長いのを理解するためには、自然界における食物の在り方を知らなければならない。人間は山に放り出されると数日で死んでしまうが、それは自然界に人間が利用できる食物が乏しいからである。人間の仲間であるサルも、食料にできるのは質のよい果実類などに限られるから、食物を求めて、体重の割には広い範囲を動き廻る。それは、果実のような良質の食物は自然界には少ないからである。これが肉食獣になると食料がさらに限られ、行動範囲も広くなり、チームプレーを要するハンティングをしたり、絶食に耐えることが必要となる。その意味で、もし植物の葉が利用できれば、自然界は実に豊かな食料の海となる。哺乳類の歴史は、限られた良質の食物とふんだんにある低質の食物をいかに利用するかという対照的な生き方をめぐるドラマだったとさえいえる。そして、牛馬は後者を実現したグループの代表ということができる。

ただし、牛と馬とでは違う利用法をもっている。牛は取り込んだ食物を何度も口に戻して噛み直す反芻という方法をとる。植物の葉はセルロースに富んだ丈夫な細胞壁をもっており、中の細胞質を利用するためにはこれを破壊しなければならない。哺乳類はセルロースを分解できないから、肉食獣やサルの仲間は植物の葉を利用できない。しかし反芻獣は胃袋の中を一定の温度とPHに保って食物を発酵し、大量の微生物を住まわせて、かれらにセルロースを分解させる。その働きを助けるために何度も噛み砕くわけである。この機能を効率的にするために胃袋は4つの部屋に分かれている。牛の第一胃は人が入れるほど大きい。細かくならなかった植物は第二胃から食道を逆流して口に戻り、再び胃に返される。第三胃で水分を吸収したあと、第四胃で消化酵素によって化学的に消化される。反芻の最大の特徴は消化しにくい植物を長時間体内に保持することによって物理的・化学的に利用しつくすことにある。この反芻という特殊なシステムによって、地球上にふんだんにある植物の葉が有効に利用されるようになった。

これに対して馬は別の消化法をもっている。馬の胃はひとつしかない。植物の葉が消化しにくいことは馬にとっても同様であり、これを解決するために馬は腸で発酵する。そのため馬は盲腸や直腸が大型化している。しかし反芻はしないので、通過速度は速く、消化率は高くない。そのため馬は大量の草を食べることによって必要な栄養を摂取する。

牛の糞は臭く、ネトネトしたものだが、馬の糞はさらっとして藁のような植物体がそのまま見える。その違いはこのような消化システムの違いによるのである。

このように、牛馬の特徴を食性という側面からながめたたけでもさまざまな興味深い違いがある。しかし牛馬の魅力は人間とのかかわりという点でさらに大きいものとなる。日常生活でも、馬耳東風とか、牛の小便のように長い、など牛馬を例にした表現は多い。ただ、現代人にとって、それはかなり実感のないものになりつつある。馬は競馬でしか知らないし、牛もいつのまにかほとんど目にしない存在になってしまった。冒頭で私は、「なじみの深い動物ということになっている」と書いたが、それは実際にはなじみ深くはなくなってしまったからである。その事実の持つ意味にはかなり深いものがある。

この秋に企画されている学芸員専修コース(「自然の多様性・文化の多義性—牛と馬が語りかけるもの—」)では、牛馬のもつ性質を人間とのかかわりという面をとりあげて、専門の立場からお話しいただくことになっている。どのような話が伺えるか今から楽しみである。

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(本館助教授/動物生態学)

  

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Ouroboros 第6号
東京大学総合研究博物館ニュース
発行日:平成10年10月1日
編者:西秋良宏/発行者:林 良博/デザイン:坂村 健