帝釈観音堂洞窟遺跡は、1964(昭和39)年から1995(平成7)年まで30次におよぶ調査が実施された、帝釈峡遺跡群を代表する遺跡のひとつである(広島大学帝釈峡遺跡群発掘調査室,2002)。後述の帝釈寄倉岩陰遺跡の南南東約7 km、下帝釈地域(帝釈川下流域)に位置する。発掘調査の対象となった遺物包含層は洞窟の入り口部に堆積しており、幅約10 m、奥行約7 m、全26層の層序が確立された。
本遺跡は、松崎寿和を団長とする帝釈峡遺跡群発掘調査団によって1963(昭和38)年に発見され、1964(昭和39)年から1976(昭和51)年までは同調査団により、1977(昭和52)年以降は広島大学文学部帝釈峡遺跡群発掘調査室により、継続的に調査された(潮見,1999)。本遺跡の概要は潮見(1999)や河瀬(2007)がまとめており、1974(昭和49)年までの調査については帝釈峡遺跡群発掘調査団(1976)に報告されている。
人骨の収集は上記の帝釈峡遺跡群発掘調査団による発掘で行なわれ、縄文時代人骨としては、1965(昭和40)年に小児もしくは乳幼児とされる2体の屈葬人骨、1966(昭和41)年に壮年男性とされる1体の仰臥屈葬人骨、1968(昭和43)年に壮年ないしは熟年の男性とされる1体の側臥屈葬人骨が得られた(小片,1976、川越,1976、河瀬,1988)。
本館に収蔵されている標本は上記のうち1965年と1966年の出土人骨に相当するものと考えられ、これらは成人の個体骨1体分、小児と乳胎児の個体骨それぞれ1体分からなる。
本館に収蔵されている帝釈観音堂洞窟遺跡の人骨は以下の標本からなる。
これらの標本のうち、UMUT131039と131040は帝釈峡遺跡群発掘調査団によって1965年と1966年に発掘された人骨である。人骨の記載報告はないが発掘報告として川越(1976)がある。本館標本資料報告No. 3(遠藤・遠藤,1979)にあるUMUT131039は成人の部分骨、131040は成人の部分骨および別個体の乳胎児骨を含んでいた。
UMUT131039と131040の成人骨は、部位が重複せず、互いに関節する部位や左右側があるという点から、明らかに同一個体のものと考えられる。帝釈峡遺跡群発掘調査団(1976)には、1966年発掘の成人骨の頭部から胸郭上部の写真が掲載されている。また、この個体の全身の埋葬状態が撮影された良好な写真資料が本館に保存資料(発掘写真Ⅱ)として残されている。これらにより、上記のUMUT131039・131040の成人骨が1966年発掘の成人個体であることを今回確認した。
前述のとおり、UMUT131040には乳胎児骨1体分が含まれていた。そこで、今回の整理作業では、上記の成人骨をUMUT131039と定義し直し、乳胎児骨だけをUMUT131040とすることとした。また、本館には、標本資料報告No. 3(遠藤・遠藤,1979)に未登録の小児骨1体分が収蔵されている。この個体の頭骨は国立科学博物館に長期貸与されており、そのために当時、遠藤・遠藤(1979)に登録されなかったものと考えられる。頭骨は2003年に本館に返却された。本標本については、今回は新規のUMUT番号を与えず、「観音洞3」として新たに登録した。以上の2標本は個体骨としてまとまりがあり、年齢情報も川越(1976)、鈴木(1976)、河瀬(1988)、潮見(1999)などの記述と大きく矛盾しない点から、小児・乳幼児個体骨として報告された1965年出土の2個体に相当すると考えられる。
1966年出土の成人個体骨(ES区5層)と、1965年に出土し、小児・乳幼児個体骨として報告された2体分(D区15層)のそれぞれの上部には石が置かれており、この埋葬様式は帝釈峡遺跡群における縄文時代早期から後・晩期にわたる習俗であろうと指摘されている(川越,1976)。また、1966年出土成人個体骨の頭部の上方には、副葬品と思われる鹿角が出土している(潮見,1999)。
人骨の属する時代区分としては、土器資料の型式から、1965年に出土し小児・乳幼児個体骨として報告された2体が縄文時代早期中葉、1966年出土の成人個体骨1体が縄文時代後期末と推定されている(河瀬,1988)。
現在2標本として本館の標本資料報告No. 3に登録。このほか未登録の1標本を追加。
保存資料:発掘写真Ⅱ
帝釈寄倉岩陰遺跡は、主として1963(昭和38)年から1966(昭和41)年の間に調査された、帝釈峡遺跡群を代表する遺跡のひとつである(広島大学帝釈峡遺跡群発掘調査室,2002)。前述の帝釈観音堂洞窟遺跡の北北西約7 km、上帝釈地域(帝釈川上流域)に位置し、帝釈峡遺跡群の中でも最大規模の岩陰遺跡として知られている。
本遺跡は、松崎寿和を団長とする帝釈峡遺跡群発掘調査団によって1963年6月に発見され、主として同年8月から1966年にかけて4次に及ぶ発掘調査が行なわれた(潮見,1999)。これらの発掘では、胎土中に植物繊維を含んだ新型式の寄倉第12層式土器(縄文時代早期後葉)の発見などが著名である(潮見,1999、広島大学帝釈峡遺跡群発掘調査室,2002、河瀬,2007)。本遺跡の概要は潮見(1999)や河瀬(2007)がまとめており、発掘調査については帝釈峡遺跡群発掘調査団(1976)に報告されている。
人骨の収集は、帝釈峡遺跡群発掘調査団による第3次(1965年)と第4次(1966年)の発掘調査で行なわれており、2基の集積埋葬人骨群(第1号および第2号埋葬人骨群)が得られた(戸沢・堀部,1968、1976)。人骨の個体数は第1号埋葬人骨群が少なくとも22体(戸沢・堀部,1968、1976)、第2号埋葬人骨群が少なくとも24体と見積もられ(小林,1976、鈴木・福島,1976、潮見,1999)、鈴木・福島(1976)はそのうち40個の頭骨を復元したと報告している。
本館には上記の人骨が収蔵されており、本館の標本資料報告No. 3(遠藤・遠藤,1979)では65年度出土分として、頭骨1から22のうちの18点が登録されている。同じく、66年度出土分としては、頭骨1から22のうちの16点が登録されている。これらの他、顎骨、四肢体幹骨など、多くの標本が個別に登録されており、合計529標本となっている。ただし、標本資料報告No. 3(遠藤・遠藤,1979)に頭骨として登録されている34標本と、鈴木・福島(1976)が言及した復元可能な40標本との対応関係は明らかでない。
今回の個体評価ならびに集計では、残存状態の比較的良好な頭骨・下顎骨標本から判断して、少なくとも成人骨30体、未成人骨13体の計43体分が含まれる。
本館に収蔵されている帝釈寄倉岩陰遺跡の人骨は以下の標本群からなる。
これらの標本は帝釈峡遺跡群発掘調査団によって1965年8月に発掘された人骨である。発掘報告として戸沢・堀部(1968、1976)が、人骨の記載報告として鈴木・福島(1976)がある。
この発掘調査では、20個程の大型の石灰岩角礫の下から、約2 m×1.5 mの楕円状の範囲に集積した人骨群が出土し、第1号埋葬人骨群と名付けられた(戸沢・堀部,1968、1976)。個体数は少なくとも22体と見積もられ、その年齢構成は成人のものが多く、幼児骨は1例だけと報告された。人骨群は1体分を除いて解剖学的位置を保っておらず、さらに頭骨と四肢骨は偏って埋葬されており、追葬と解釈された。頭骨には抜歯されたもの、火熱を受けたもの、赤色顔料が付着したものが認められたと報告されている(戸沢・堀部,1968、1976)。
人骨の出土地点は、おおよそ西向きの岩壁に沿って設けられた発掘区域の南端近く、後述する第2号埋葬人骨群の南約1 mに位置していた(戸沢・堀部,1968、1976)。人骨の属する時代区分は、人骨出土層位と土器資料の型式から、縄文時代後期後半と考えられている(戸沢・堀部,1968、1976、河瀬,1988)。
本館には、標本資料報告No. 3(遠藤・遠藤,1979)に登録されている246標本のほか、2体分の成人頭骨と他の部分・断片骨からなる未登録の15標本が収められている。未登録標本については新規のUMUT番号を与えず、標本自体に記された番号や付属紙片の情報などを基に標本名を設定した。頭骨2個体は、遠藤・遠藤(1979)で欠番となっていた「頭骨10」を含むが、もう1点の頭骨は番号表記を伴なわないため今回は「頭骨番号なし」とした。また遠藤・遠藤(1979)で欠番となっていた「頭骨5」は、今回の整理作業により、UMUT131841として登録されている断片骨と接合するため、UMUT131841と見なすこととした。
今回の整理作業では、残存状態の比較的良好な頭骨・下顎骨標本から少なくとも成人骨15体、未成人骨7体の計22体分が含まれると判断した。従って発掘時の報告より未成人骨の割合が多い。歯の形成・萌出段階(Ubelaker,1989)に基づいた未成人骨の内訳は、2才相当が1体(UMUT131854)、3才相当が1体(UMUT131844)、8才相当が1体(UMUT131845)、12才相当が1体(UMUT131852)、及び15才以上が3体(UMUT131836、131837、131840)である。
現在246標本として本館の標本資料報告No. 3に登録。このほか未登録の15標本を追加。
保存資料:なし
これらの標本は帝釈峡遺跡群発掘調査団によって1966年に発掘された人骨である。発掘報告として戸沢・堀部(1968、1976)が、人骨の記載報告として鈴木・福島(1976)がある。
1966年の発掘調査では、第1号埋葬人骨群の北1 mほどの位置から、第2の集積人骨群が出土し、第2号埋葬人骨群と名付けられた(戸沢・堀部,1968)。第1号埋葬人骨群と同様、大型の石灰岩角礫の下から出土した。第1号埋葬人骨群よりやや狭い範囲から出土したが、個体数は少なくとも24体と見積もられた(小林,1976)。また、その年齢構成は若年(特に幼児)が多く、高年齢のものは3、4体と少数であったと報告されている(戸沢・堀部,1968、1976)。第1号埋葬人骨群と異なり、特に幼児骨は頭骨内に他の部位を納めて埋葬され、そのため、個体ごとのまとまりが認められたと報告されている。なお、人骨群の一部は未発掘区に及んでおり、未発掘部分を含めた個体総数は30体近いと推測されている(戸沢・堀部,1968、1976)。人骨の属する時代区分は出土層位の検討から縄文時代後期後半とされている(戸沢・堀部,1968、1976、河瀬,1988)。
本館には、標本資料報告No. 3(遠藤・遠藤,1979)に登録されている248標本のほか、部分・断片骨からなる未登録の10標本が収められている。未登録標本については新規のUMUT番号を与えず、標本自体に記された番号や付属紙片の情報などを基に標本名を設定した。
本整理作業では、残存状態の比較的良好な頭骨・下顎骨標本から少なくとも成人骨13体、未成人骨3体の計16体分が含まれると判断した。従って発掘時の報告と異なり大部分が成人骨で構成されている。歯の形成・萌出段階(Ubelaker,1989)に基づいた未成人骨の内訳は、4才相当が1体(UMUT132086)、および5才相当が2体(UMUT132089と132091)である。
現在248標本として本館の標本資料報告No. 3に登録。このほか未登録の10標本を追加。
保存資料:なし
これらの標本は、標本資料報告No. 3(遠藤・遠藤,1979)では採集年1967年8月として、頭骨5標本と他の個別四肢骨標本が登録されている。一方で、帝釈峡遺跡群発掘調査団(1976)などの出版されている調査報告書には、1967年度の寄倉調査の記載はない。これらの標本のうちUMUT132327(頭骨標本)は、鈴木・福島(1976)に「1967年度発掘」の表記とともに写真が掲載されている。また、今回の整理作業では、UMUT132349(脛骨標本)が寄倉(’66)のUMUT132238と接合することが確認された。さらに、寄倉(’67)は全体的な保存状態が寄倉(’66)と良く類似しており、寄倉(’67)は第2号埋葬人骨群に由来すると考えられる。従って、寄倉(’67)は1967年に同調査団に収集されたか、その年に東京大学の収蔵標本に追加された第2号埋葬人骨群の一部と考えられる。
なお、残存状態の比較的良好な頭骨から判断して、これらの標本は少なくとも成人骨2体、未成人骨3体の計5体分からなり、うち1体(UMUT132325)は4才相当の幼児骨である。
現在34標本として本館の標本資料報告No. 3に登録。
保存資料:なし
この標本は、標本資料報告No. 3(遠藤・遠藤,1979)では「postcranial bones, fragments.」とだけ記されており、収集年月や経緯などの情報は残されていない。さらに、該当する標本は現在のところ所在不明である。
現在1標本として本館の標本資料報告No. 3に登録。
保存資料:なし
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1976 帝釈峡遺跡群人骨略報.「帝釈峡遺跡群」pp:193-200.亜紀書房.
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