第8 章彦崎諸型式の再検討

 彦崎貝塚資料を基準として、山内清男によって設定された彦崎Z1、Z2、K1、K2 の4型式は、今日でも瀬戸内の縄文土器編年において一般的に用いられる主要な土器型式である。しかし、山内自身がこれら彦崎諸型式の内容について公表したことはなく、その詳細は未解明のまま残されている。ここでは先に報告した彦崎貝塚資料に依拠しつつ、彦崎諸型式の具体像について、検討を加えることにしたい。


8.1 前期の諸型式

 瀬戸内における前・中期の土器編年の大綱を示した里木貝塚の報告において、間壁忠彦・間壁葭子は、前期後葉の編年として、磯の森式→彦崎Z1式→里木Ⅰ式(彦崎Z2式)という変遷を示し、里木式に続く前期末・中期初頭の土器として、近畿の大歳山式に類する一群を置いた(間壁・間壁1971)。今回報告した彦崎貝塚資料では、第2群が彦崎Z1式に、第3群が彦崎Z2式(里木Ⅰ式)に相当し、その内容は、里木編年において示された型式内容と大きく異なるものではないが、それをさらに充実させるものと言えよう。以下では、主としてこの里木編年と対比しつつ、彦崎Z1、Z2式の内容についてやや細かく検討を加えることにしたい。


8.1.1 彦崎Z1式(Fig. 153)

 彦崎Z1式は、岡山県南部の貝塚遺跡以外ではまとまった出土例がなく、分布域の限られた地域性の強い土器型式と考えられている。現在までに報告されている資料として、里木貝塚(間壁・間壁1971)や羽島貝塚(藤田ほか1975)のものがまとまっており、これらの報告において彦崎Z1式の特徴として挙げられてきた諸特徴を以下に要約する。
 ①厚さ3mm 前後で薄手
 ②無文地に押引文をもつ。押引文の原体は、湾曲の少ない工具による。
 ③刺突は深く押捺され、器壁内面にまで影響を与えて突部を形成する。
 ④器壁に指頭圧痕状の凹凸をもつ。
 ⑤口縁端に刻み目をつけたものが多い。
 ⑥縄文施文もわずかにみられる。
 ⑦丸底となるものがある。
 ⑧小型の浅い器形を含む。
 以上の特徴は、本報告において、第2群(彦崎Z1式)として分類した一群の内容にもよく合致するものである。今回は、第2群をA~C類の3者に分類したので、以下では、これら各類の詳細について、補足的に記述しておくことにしたい。
 A類とした押引文土器は、彦崎Z1式を代表する一群であるが、細かく見ると、押引文の工具の幅、形状にいくつかのバリエーションが認められる。こうした差異が、時期的な差異を反映したものかどうか、本資料のみから判断することは困難であるが、この問題に関連して、彦崎Z1式一般に見られる押引文とは異なる施文をもつ、442や443のようなものは、磯の森式の爪形文との関連で注意しておく必要があるだろう。また、30のように赤彩を施した特殊な土器が見られる点も注目される。赤彩手法は、早くに磯の森式に見られることが指摘されていたが(池田・鎌木1951)、今回の整理によって、彦崎Z1式、Z2式にも存在することが明らかとなった。なお、この土器は波状口縁の形をとるものであるが、波状口縁は、B、C 類には認められない要素である。
 B類とした押圧文土器は、あまり装飾的とは言えないもので、丈の低い小型の器形が目立つ。480は、口縁上に船形の刺突文を施し、内面に押圧文をもつことからB類に含めたが、この種の土器は、本地域において現在まで類例の知られていないものであり、層位的には第3群の中でも下層から出土する傾向が認められ、第2群に近い。しかし、第2群がまとまって出土した11~13区でも1 点しか出土していない点が注意される。第2群に比して、縄文を伴うものが多いことなどから見て、この一群はZ1式とZ2式の過渡的な段階に関わるのかも知れない。今回はその多くを第3群に含めて報告したが、その他少数の特異な資料とともに、今後検討を要する一群であろう(Pl.18b)。ところで、389のように、第3群(彦崎Z2式)に含められると考えられるものの中にも、B類に似た押圧文をもつものがあり、この種の押圧文は第3群まで残存すると考えることもできる。しかし、第3群がまとまって出土している4区や、7、9区の状況から考えて、残るとしてもごく稀であろう。
 C類の無文土器は、第3群に伴う無文土器に似たところがあるが、口縁が湾曲するものは少なく、弱く外反するか、直線的に立ち上がるものが多い。また、口縁に刻み目をつけたものが多く見られる点は、A、B 群との差異である。
 このほか、本群に属する底部としては、尖り気味の丸底になるものがあり(93、296)、平底の形をとるものは、明確には指摘できなかった。これをもって、第2 群土器のすべてが丸底になるとは言えないであろうが、丸底が主体になると考えて差し支えないものと思われる。
 彦崎貝塚の彦崎Z1式の内容は、上記のようにまとめることができるが、次に、主として周辺地域の土器群との比較から、二三の問題について言及しておきたい。彦崎Z1 式は、丸底を伴う器形上の特徴や、押引文を多用することなどから、早くから九州の曽畑式末期の土器、あるいは西部瀬戸内の月崎下層との関連が考えられてきた(前川1972、藤田ほか1975)。この見方は、大筋において支持しうるものであるが、山口県月崎遺跡の報告(潮見1968)において、下層Ⅱとされた、条痕地に押引文を施す一群に類似する資料は、近年、島根県など山陰方面での報告例が増加しており、今日、「月崎下層式」という呼称は、この種の条痕地と押引文を特徴とする土器群総体を指して用いられ、かなり多様な内容を含むものとなっている(柳浦2001)。
 彦崎Z式と「月崎下層式」との関連を考える上では、彦崎貝塚資料中に見られる、条痕地に沈線文(あるいは押引文)と刺突文を施す小破片(832)が重要である。この個体に見られる横位の沈線文(あるいは押引文)に交差して加えられる刺突文は、月崎遺跡の資料中にははっきりしないが、島根県下山遺跡(深田編2002)で第二ハイカ(三瓶角井降下火山灰)層下の第3黒色土からまとまって出土した「月崎下層式」では多用されており、類似の手法は、曽畑式末期の土器群にもしばしば認められる。彦崎のものは下山の土器に比べるとかなり薄手で、単純に同一視できないが、両者の類似は無視し得ない。また、832が彦崎貝塚の前期土器のうち、どの段階に伴うものであるのかも問題であるが、1片は、4区2層からの出土であり、彦崎Z1式あるいは彦崎Z2式前半頃に伴った可能性が強い。
 一方、瀬戸内の東に接する近畿では、この時期、諸磯式など東日本の土器型式と深いかかわりをもつ北白川下層Ⅱ式が分布する。北白川下層Ⅱ式については、福井県鳥浜貝塚の層位的事例に基づいて、Ⅱa~Ⅱc 式に及ぶ細分の内容が具体的に明らかにされており、彦崎Z1式はⅡc 式に並行すると考えられている(網谷1982)。北白川下層Ⅱa、Ⅱb 式は、瀬戸内の磯の森式とほぼ同じものと言って良く、この時期には、近畿、瀬戸内一帯に類似の土器型式が広がっているわけであるが、これに続く北白川下層Ⅱc式は、縄文地に加えられる突帯と平底を特徴とし、彦崎Z1式とは全く異なる特徴を備えた土器型式である。したがって、北白川下層Ⅱc―彦崎Z1期には、土器の上では地域色が強まると言えるが、彦崎Z1式や「月崎下層式」との関連から見ると、北白川下層Ⅱc 式に少量存在する、口縁に沿って押引文が加えられる一群は注目すべきものであろう。例えば、京都府志高(京都府埋蔵文化財調査研究センター1989)では典型的なⅡc 式は少なく、この種の土器がやや目立つ。現在のところ、まとまった資料に乏しく、両者の関係について具体的に議論することはできないが、今後検討をすすめていく必要があろう。




Fig. 153 Subgroups of the Hikosaki Z1 type pottery


8.1.2 彦崎Z2式(Fig. 155)

 報告において第3 群としたものが彦崎Z2式にあたる。彦崎貝塚資料の主体を占めるものであり、特に、今回の整理による所見として、報文中でも述べたように、地点、層位ごとの土器の様相に細かな差異が認められる点が注意された。結論から言って、このことは、彦崎Z2式の細分の可能性を示すものであり、以下に詳しく論じることにしたい。また、合わせて、里木貝塚の報告において、里木Ⅰ式とされた土器群との関係についても言及する。
 細部に立ち入った記述に入る前に、ここで改めて第3群の全体的な概要について見ておきたい。先の報告では、第3群をA類(特殊突帯文)、B類(爪形刺突文)、C類(縄文、無文)に分類した。上記三者の組み合わせを量的に見ると、A類は全体の2割程度を占め、B類はごくわずか、残る大多数はC類によって占められる(Fig. 154)。B類とした爪形刺突文の一群は、これまであまり類例の知られていないものであるが、香川県大浦浜で彦崎Z1式とされたもの(香川県教育委員会1988:第16 図75)は、明らかにこの類に含まれるものであり、この時期の主要遺跡である里木貝塚や南草木貝塚(仁尾町1984)などでも、少量づつ出土している。
 まず、器形について見ると、口縁部と胴部で2段にわたって膨らむ深鉢を基本とし、くびれのない鉢形や浅鉢のような器形も目立つ。口縁は平縁を主とするが、波状口縁をなすものや、口縁上に小突起を設けたものも見られ、端部に刻み目をつけたものも多い。一般に、口端部は内側に厚く作られ、この部分にも縄文が施される。底部は、薄く作られた円盤の外縁に粘土紐を巻きつけて形作られており、円盤が上げ底ぎみになるもの、逆に下方に突出したものなどの変異がある。底部外縁に刻み目や貝殻頂部などによる押圧を付したもの、底面に縄文を施すものもしばしば見られ、少数ではあるが、丸底のものも存在する。また、器壁内外に指頭圧痕が顕著に残される点は第2群(彦崎Z1式)に似るが、器壁はやや厚くなり、圧痕の中に爪痕を伴うものが現われる。
 文様の上では、縄文が多用される点に第2群との差異があり、さらにA類の特殊突帯文、B類の爪形刺突文が主たる文様として挙げられる。A類の特殊突帯文は、細い突帯上を半裁竹管状工具によって連続的に押し引いたもので、工具の幅が突帯の幅よりも狭いため、突帯の両脇に粘土のはみ出しが土手状に残される。押引きの間隔が広く、ナデ引いたように見えるものも多い。この施文具は、第2群の押引文に用いられるものよりも湾曲の度合いが強く、尖端を斜に切断したもの、あるいは尖端に刳り込みをもったものが多いようである。B類の爪形刺突文は、爪形状の刺突を横位に加えたもので、今回第2群に分類したものの中にも似たものがあり(29)、両者の関連が想定される。また、C2類の無文土器には、口縁に刻み目をつけたものが多く見られるが、この種の土器も、第2群C類など、先行する土器群からの系譜上に捉えることのできるものであろう。このほか、A類、C類の中には、赤彩が施されたものも少量認められた。
 以上のように概略を述べた上で、以下、順を追って地区、層位ごとの土器群の様相について検討を加えることにしたい。

Fig. 154 Composition of the Hikosaki Z2 type pottery Fig. 155 Subgroups of the Hikosaki Z2 type pottery and their chronological change


[7・9区下層]
 第3群の中で、最も古い様相を示すものとして、7・9区下層(4・5層)の一群を挙げることができ、これを古段階(Phase I)とする。下層に属する土器の総量は少ないが、器形、文様構成をある程度復元しうるものが4個体あり、その内訳はA類が2個体、C1 類が1個体、C2類が1個体である。この4個体については上層との接合関係も認められ、その意味では上層との区分に不明瞭な部分を残すが、より下層にまとまる傾向ははっきりしており、上層の個体とは区別しうるものと考えられる。
 第3群のうち、もっともよく年代的変化をあらわすのは、A類とした特殊突帯文土器である。7・9区下層のA類では、口縁外面に段状の縄文帯を3~4条配し、胴部には縄文地上に特殊突帯文が加えられる。縄文は異種原体を用いた羽状縄文を基調とし、口縁直下外面と内面とで撚りを違える特徴がある。胴部の突帯上には、工具による押し引きが加えられるが、きちんとした押し引きとならず、ナデ引き状を呈するものが多い。突帯が太く、工具による押し引きを伴わないものもある(501)。口縁に接して直角に加えられる貼付文は、Z2式を通じて認められる特徴であるが、この段階のものは貼付文の上を指でつまんで押しつけているようで、横断面が三角形をなす特徴がある(Pl. 48c)。また、487はいわゆる角形土器の形をとる。
 504は大部分無文であるが、口縁端に縄文施文を伴うことから、一応C1類とした。くの字形に短く内屈する口縁形態は特異なものである。505は、口縁に粗雑な刻み目をつけた無文土器で、次に述べる7・9区上層の無文土器とほとんど同じものと言って良い。

[7・9区上層、4区]
 7、9区下層の一群に後続するものとして、同区上層および4 区の資料を挙げることができ、これを中段階(Phase Ⅱ)とする。本段階は第3 群の主体をなすもので、器形を復元しうる個体も多い。前段からの変化は極めて連続的であるが、区分の指標として二三の点を指摘することができる。
 前段階との相違点としてまず指摘されるのは、特殊突帯文の盛行である。突帯上の押し引きには、間隔が狭く密なものと、間隔が広くナデ引き状になるものが認められ、量的にはだいたい相半ばするようである。特殊突帯文によって描かれる図形にも、同心円文のように装飾的なものが見られるようになる。また、口縁部の縦の貼付文は、胴部の特殊突帯文に似て工具によるナゾリを伴うようになり、横断面はカマボコ状をなしている(Pl. 48d)。521のように、角形土器となるものも引き続き存在している。
 7・9区上層の資料と、4区の資料は、以上のような点で共通した特徴を示すが、同時に若干の相違も認められる。まず7・9区上層では、羽状縄文、結節縄文が盛行し、C類では縄文が施されないものも多く見られる。A類では、口縁外面の縄文帯が3条程度のものが多く、胴部の特殊突帯文についても、突部の幅が狭く、粘土のはみ出しが顕著である。C1類の縄文施文土器では、口縁部を刻むものは少なく、573、574、586のように縄文面が無文帯によって上下に分離されたものが特徴的に見られる。一方、C2類の無文土器では、口縁を刻むものが多い。また底部の形態では、666、667のように、底面からくの字形に強く内屈して立ち上がるものが目立つ。一方、4区では、羽状縄文、結節縄文は少なく、A類では、口縁部の縄文帯が1~2条程度のものが多く、また、胴部の縄文地が口縁部にまで広がって、地に縄文を加えた後に粘土帯貼付を行うものが現れる(324:Pl. 48h)。C1類では、縄文が器面全体を覆って施されるようになるとともに、口縁に刻み目をつけたものが増加し、逆に無文土器(C2類)の比率は減少する。以上のように、両者はいくつかの点において区別することができ、このことは、年代的な差異を反映したものと考えられる。また、全体として見ると、7・9区上層の資料が古段階(Phase I)に近く、4区上層の資料は後述する新段階(Phase Ⅲ)に近い。したがって、ここでは仮に、7・9区上層の資料に代表される段階を中段階前半(Phase Ⅱa)とし、4区上層の資料に代表される段階を中段階後半(Phase Ⅱb)とする。

[5・10 区]
 5区および10区出土の一群は、第3群のうち最も後出的な様相を示すものであり、これを新段階(Phase Ⅲ)とする。ただし、5 区の資料中には4区と接合関係をもつものも認められ、逆に4区の資料中には本段階に含めて扱いたいものもあって、その意味では中段階後半と新段階の区分も明確なものとは言いがたい。また、両者は層位的に分離できたわけでもないが、大局的な型式変化の方向性から見て、5・10区出土の土器群には、それ以前の段階からの伝統をひく要素とともに、大歳山式など、前期最終末の土器群に引き継がれる要素の萌芽を認めることができる。したがってここでは、出土状況とともに、このような型式学的観点から、彦崎Z2式末の一段階として新段階を設定することにしたい。
 5・10区出土の土器群は、7・9区や4区のものに比して一般に器壁がやや厚く、器面調整によって器表面の指頭圧痕や爪痕がかき消されたものが多い。調整は主として横方向のナデによっているが、138のように、胴部内面に横方向のケズリが認められるものもある。なお、138は角形土器となるものである。また、この段階の縄文には、前段に比して、条の長いものや節の太いものも見られるようになり、中期の縄文に似た感じのものもあるが、中期のように撚りのゆるいものはない。また、口縁内側の肥厚部が発達して幅を広げ、口縁の断面形が厚みのある三角形をなすものや、四角形をなすものが現われる。
 A類では、口縁に沿う縄文帯が消失、あるいは著しく扁平化するとともに、特殊突帯文による装飾が、口縁直下や底部付近にまで広がる。ごく少数ではあるが、口縁上に特殊突帯文を加え、突起を形作ったものもある。口縁部の扁平な縄文帯や胴下半に垂下する文様は、彦崎Z2式に続く大歳山式にも認められるもので、口縁上に加えられる特殊突帯文は、やはり大歳山式で口端部に内外から加えられる刻み目につながるものであろう。この段階の特殊突帯文は、突帯上を押し引く工具の幅が突帯の幅とほぼ一致するようになり、粘土のはみ出しが顕著でなくなるとともに、結節がきちんと行われたものが多い。なお、この段階には138のように角形土器も存在する。また、349、723は同一個体と考えられるもので、明るい色調を呈し、内面は平滑に調整されている。彦崎貝塚資料中には、明確に大歳山式と認定できる個体は含まれていないが、この個体は大歳山式に極めて近いものと考えられる。このほか、215のように底部外縁にハイガイの殻頂を押しつけて、大きく窪ませたものも見られるが、これは大歳山式にしばしば見られる花弁状底部につながるものであろう。8区出土資料中には、大歳山式の花弁状底部に酷似した形態のものもある(803)。6・8区出土資料中には、細分の指標となるA類が少ないが、C類には、740、756、760など、Z2式の中でも後出的な様相をおびたものが目立つ。
 ところで、かつて高橋護は、彦崎貝塚から「大半が全面縄文の土器よりなる一群の土器」が検出されていることに言及し、これを彦崎Z2式に後続する未命名の土器群とした(高橋1981、1986)。この種の土器について高橋は、口縁内面の折り返しがにぶい肥厚に変化し、縄文原体が粗大化する傾向を示すこと、LL、RRなど特殊な撚りの縄文が含まれることなどを指摘している。この指摘に合致しそうな資料としては、164や380などがあり、これらは第3群の中でも新しい段階のものと考えられる。また、特殊な縄文をもつという点では、260や266のようなものが挙げられ、今回、中期に分類したものの一部もこれに含められるかもしれない。いずれにせよ、今回の整理の所見では、このような縄文施文の土器もまた、A類など各種の土器と組み合わさって一段階を構成するものと考えられ、このような土器のみで一時期を画するとは考え難い状況であった。ただし、この種の縄文施文の土器は、里木貝塚で船元Ⅰ式に分類された大量の縄文施文の土器などと関連して、今後その編年的位置づけについて検討を要するものであろう。

[小結]
 以上、第3群(彦崎Z2式)について、その概要を述べた。繰り返しになるが、彦崎貝塚の彦崎Z2式は、古段階(7・9区下層)→中段階(7・9区上層、4区上層)→新段階(5・10区)という、大きくみて三段階の変遷をたどることができる。上記の各段階は、地区、層位ごとのまとまりによって捉えられるものであるが、これを遺跡の上に投影して見ると、遺物の分布範囲は段階を追って南から北へと漸次移動しており、上記の変遷観は、出土状況から見ても漸移的である。また、本資料中には、彦崎Z2式に続く前期末の土器が、全く含まれていない点も注目されるものである。
 最後に、第3群の特徴のひとつでもある縄文について、ここで定量的にまとめておくことにしたい。Fig. 156は、口縁部破片数から算定される、各区の総個体数に占める縄文施文の比率と、縄文の種類をグラフ化したものである。7・9区では縄文施文のものと無文のものが相半ばし、また羽状縄文(RL+LR)が多く見られる点に特徴がある。表には示されていないが、結節縄文あるいは縄の閉端の圧痕がループ状にあらわされるものも目立つ。4区および5・10区では、無文の比率が減少し、羽状縄文や結節縄文もほとんど見られなくなる。RL とLR の比率を見ると、ややRL優勢の傾向を示しており、これは中期におけるRL盛行のさきがけをなすものかも知れない。


Fig. 156 Cord-impression types of the Hikosaki Z2 type pottery


[彦崎Z2式と里木Ⅰ式・大歳山式]
 続いて、里木貝塚の報告において里木Ⅰ式とされた土器群(Fig. 157:1―7)と、彦崎Z2式との関係について検討することにしたい。里木式は、彦崎Z2式に似て特殊突帯文を多用する型式であるが、里木貝塚の里木Ⅰ式は、口縁に沿って加えられる縄文帯の条数が1、2条のものを主とし、器壁はやや厚く、羽状縄文や無文土器は少なく、口縁上に刻み目を付けたり、特殊突帯文による環状・楕円形状の突起を付したものがしばしば認められる。こうした特徴は、彦崎Z2式の中でも後半期の土器群に対比されるものである。したがって彦崎Z2式は、里木Ⅰ式に先行する段階のものを含む点で、その内容を補完するものと言えるが、厳密に見ると彦崎Z1式とZ2式との間には、なお編年的空白が介在するものと考えられ、この部分の解明が今後の課題となろう。
 一方、彦崎Z2式に後続する段階についてはどうであろうか。里木編年では、里木Ⅰ式に後続し、船元Ⅰ式に先行する前期末・中期初頭の土器として、近畿地方で大歳山式と呼ばれる型式(Fig. 158)に相当する一群があげられている。この一群は、里木貝塚において、里木Ⅰ式とは層位的に分離される出土状況を示し、里木Ⅰ式に比してやや厚く、内面は平滑で、撚りの整った太めの縄文原体(RLを主とする)が用いられること、口縁上面に内外から逆方向の刻み目が加えられることなど、里木Ⅰ式とは異なって、中期土器に近い特徴を備えている。この一群に近似するが、やや異なる特徴をもつものとして、鎌木義昌によって設定された「田井式」があげられる(鎌木1950)。「田井式」は、断面三角形の口縁形態、口縁上に加えられる細かな刻み目などを特徴とするもので、里木貝塚の大歳山式に比べると、器形や口縁の形態、地文の縄文に違いがあり、図示された資料(Fig. 157:16―19)は、彦崎Z2式新段階の一部に極めて近いものと考えられる。鎌木は、「田井式」には、断面三角形の口縁形態のもののみが存在することを指摘しているが、彦崎貝塚5・10区では、断面三角形の口縁をもつものとともに、内面に粘土紐を貼付することによって、大歳山式的な、断面四角形の口縁形態を形作るものも少量存在している。また、彦崎Z2式新段階、あるいはZ2式直後に相当すると考えられる、倉敷市船倉貝塚一号土坑墓の一括資料中においても(Fig. 157:8―15)、やはり断面三角形のものと四角形のものは共存している(倉敷埋蔵文化財センター1999)。
したがって、実態としては、「田井式」にはさらにいくつかのバリエーションが加わって、一段階を構成するのではないかと思われる。結局のところ、大歳山式と「田井式」とは、ほぼ同様な土器群と言えるが、年代的には「田井式」が彦崎Z2式に近く、大歳山式がやや遅れるということになるようである。なお近年、島根県三瓶山麓の諸遺跡では、火山灰層によって隔てられた各層から、縄文時代の遺物が層位的に出土する事例が相次いで報告されているが、このうち、第二ハイカ層(三瓶角井降下火山灰層)の上層(第二黒色土層)に包含される遺物は、大歳山式あるいは彦崎Z2式新段階頃の土器を下限とし、下層(第三黒色土層)に包含される遺物は、彦崎Z2式中段階頃を上限としていて、両者が層位的に分離される形で出土していることは注目されるものである(角田2004)。
 瀬戸内における上記のような変遷に対応して、近畿では北白川下層Ⅲ式から大歳山式に至る変遷があり、さらにこの間を細分する試みが進められている。中でも、京都府志高遺跡の豊富な資料に基づいた三好博喜の細分(三好1988、京都府埋蔵文化財調査研究センター1989)は、変化の方向性をよくとらえたものとして評価しうるものである。三好は、主として口縁形態の変化から、北白川下層Ⅲ式を三段階(第1形態a類:Fig. 159―1→第1形態b類・第2形態:同2→第3形態:同3)に区分しているが、各段階の内容は、おおむね彦崎Z2式の古、中、新段階にそれぞれ対比しうるものであり、近畿においても、瀬戸内と同様の型式変化を認めることができるようである。このことは、地域色の強まる北白川下層Ⅱc―彦崎Z1期とは逆に、再び近畿、瀬戸内が、類似の土器型式圏として結び付けられたことを示している。ただし、近畿の北白川下層Ⅲ式で主体をなすのは、今回A類とした特殊突帯文土器であり、彦崎Z2式で主体を占めるC類は少なく、またB類(爪形刺突文)も見られないようである。こうした組成上の差異は、両者の地域性をあらわすものであろう。




Fig. 157 Satogi I type pottery and related materials



Fig. 159 Classification of rim-section



8.2 後期の諸型式

 岡山県南部地域における縄文後期の土器編年もまた、山内清男によって体系づけられたものである。山内は、福田貝塚、彦崎貝塚の資料に依拠して、福田K1式(中津式)→福田K2式→彦崎K1式→彦崎K2式→福田K3式という編年を提示した(鎌木・木村1955)。この編年を基礎として、今日では土器の変遷をかなり細かく捉えることができるようになっているが、ここで検討を加える彦崎K1、K2式については、特に、両者の中間に位置する過渡的な土器群をめぐって議論がある。したがってここでは、山内による彦崎K1、K2式の内容をより明確化するとともに、両者の中間的な土器群についても言及することにしたい。また、後期土器の過半を占める無文土器(第15群)については、個別に帰属時期を判定することが困難なので、別項を立てて取り上げることとし、主として形態分類と出土状況の検討から、有文土器との対応関係の把握を試みたい。


8.2.1 彦崎K1式(Fig. 160)

 彦崎K1式については、千葉豊(1989、1992)や、渡部明夫(1990)らによる体系的な検討があり、筆者も該期の編年について概観したことがある(山崎2003)。香川県永井遺跡の膨大な資料に基づいた渡部の編年は、大局的な変化の方向性としては支持できるものと考えているが、流路や包含層からの出土という資料的制約から、各段階の内容には不明瞭な部分も残されている。
 今回の報告では、彦崎K1式(第12群)をA~Eの4類に分類した。実際には、このほかに無文土器が加わって彦崎K1式の型式総体を構成する。この第12群におけるA~E類の区分は、文様の相違を基準としたものであるが、結果的に器種の分類にも近いものとなっている。このことは、該期における深鉢、浅鉢、注口土器といった器種の分化傾向の強まりをあらわすとともに、特定の器種と特定の文様との結びつきの強さをも示すものであろう。彦崎K1式(第12群)とK2式(第13群)の出土状況については、先に検討したところであるが、彦崎貝塚では、両者の分布は10区を境として南北に分かれており、比較的明瞭な形で区別することができる。また一般に、彦崎K1式は、K2式に比してやや厚手で、色調は明るい感じのものが多く、用いられる沈線は太く、縄文の撚り方向はほぼRLに統一されている。底部の形態については、K2式との区別が不明瞭であるが、ともに小型の上げ底を主体とするものと考えられる。以下、各類ごとの内容について、概括的に記述することにしたい。
 彦崎K1式(第12群)のうち、今回、A類とした縁帯文土器は、厚く作り出された口縁部に、斜線、直線など幾何学的な沈線文が施されたもので、この部分に施文を見ないものも少量存在する。平縁と波状口縁の両者があり、直線的な頚部から、段あるいは屈曲部をもって胴部に移行する特徴がある。1118や1301に見られる複合鋸歯文は、彦崎K1式の代表的な文様と考えられているが、実際にはこの2例のみであり、例外的な文様と言っても良いかも知れない。また、A類は、口縁部文様帯の形状によってさらに分類することができ、仮に千葉豊の分類(千葉1989)を参考にして、①外面施文型、②上面・内面施文型の二者に区分すると、前者は10個体、後者は15個体となり、上面・内面施文型の方がやや優勢である。また、胴部文様について見ると、条線文や並行沈線文のものがあり、縄文施文のものも存在する可能性があるが、縄文地に沈線あるいは条線を施したものや、磨消縄文の形をとるものは見られない。頚部には波頂部下など、部分的に垂下条線を施すことが一般的で、中には蛇行文や曲線文など、やや装飾的な文様が描かれるものもある。
 B、C類は九州方面との関連が考えられるものであるが、搬入品ではなく、彦崎K1式の組成の一部を構成するものと考えられる。鎌木義昌は、山内清男が彦崎K1式の中に、鐘崎式に見られる波状突起上の沈線が存在することを重視していた旨を記しているが(西田・鎌木1957)、B類に見られる沈線を伴った波頂部突起は、九州の小池原上層式や平城式に類例を見出だすことができ、またA類に比して厚手、大型である点も九州方面の土器群との関連を示唆するものと言えよう。一方、C類は、太めの沈線に縁取られた磨消縄文を特徴とし、九州の鐘崎式に近似するものである。器壁はよく磨かれていて精巧なつくりであり、赤彩の残るものもある。C類の中には、鐘崎式に見られるものと全く同じ形の橋状把手をもつものもあり(1149)、直接的な対比が可能であるが、C類の主体をなす皿形の器形は、鐘崎式にはあまり見られないものであり、これは在地への定着を示すものであろう。
 D類は、縄文施文の類で、彦崎K1式の中ではごく少量である。この類の胴部破片と見られるものの中には、同一の縄文原体を横、縦に回転させることによって、羽状縄文に似た文様(異方向縄文)をあらわすものがある(1170、1171)。なお、これに似た縄文施文の一群は、彦崎K2式にも存在するが、異方向縄文は認められないようである。
 E類は注口土器あるいは小壷と考えられるもので、頚胴部間に沈線をめぐらせるもの(1172)と、無文磨研のもの(1173)がある。いずれも小片で、全体の形状を明らかにすることはできない。以上、A~E類の概要を述べたが、近年、彦崎K1式の位置づけについては、津雲A式や、平井勝による四元式、津島岡大5次調査の報告において、阿部芳郎が後期第Ⅳ群とした一群などと関連して、さまざまに議論されている(平井1993、阿部1994)。また、近来の平城式の編年をめぐる論争も、津雲A 式や彦崎K1式の位置づけと密接に関わるものである(千葉1992、山崎2003)。こうした点については、不十分ではあるが以前に触れたことがあり(山崎前掲)、ここで細部に立ち入った検討は行わないが、具体的資料について見ると、津雲A式近似の、口縁外面に幅広い口縁部文様帯をもつ土器は、大阪府芥川(橋本1995)や愛媛県久米窪田森元(栗田1989)で堀之内1式を伴出しており、また鎌木による平城式のうち、2 類とされたものは津雲A式に近似するものである(西田・鎌木1957)。一方、彦崎K1式を多く出土した香川県大浜(伊沢・森本1981)、永井(香川県教育委員会1990)、岡山県広江・浜(間壁ほか1979)では、口縁部に紐線を付した堀之内2式が伴出しており、彦崎貝塚や永井などでは、これに九州の鐘崎式に対比される土器が伴う。以上のような事例から推して、おおむね津雲A式が堀之内1式、平城式に並行し、彦崎K1式が堀之内2式、鐘崎式に並行するものと考えられる。
 ここで問題となるのは、口縁外面に幅広い文様帯をもつ点で共通する、津雲A 式と津島岡大後期Ⅳ群(阿部1994)や四元式(平井1993)との間に、彦崎K1式が介在することによって、型式変遷を連続的に説明できなくなる点であるが、筆者は、津島岡大後期Ⅳ群や四元式に見られる口縁部文様帯は、津雲A式や彦崎K1式の口縁部文様帯(縁帯文)とは異なる系譜をもつものと考えており、この問題については、次項において彦崎K2式について検討を行った後に、再び取り上げることにしたい。また、津雲A式と平城式、彦崎K1式と鐘崎式との並行関係を想定する上では、今回、B類とした小池原上層・平城式近似の土器と、C類とした鐘崎式近似の土器との年代的関係も問題となる。B類とC類を年代差と考えた場合、これに対応する形で彦崎貝塚の彦崎K1式をさらに細分することが必要となるが、本資料のみからこの問題について立ち入った検討を行うことは困難である。しかし、橋本雄一が指摘するように(橋本1994)、B類に見られる波頂部突起をめぐる沈線文と、津島岡大後期Ⅳ群や、四元式の深鉢B類に見られる内面施文との関連は、否定できないものと思われる。この問題は、平城式や鐘崎式の編年とも関わるものであり、今後、資料の充実を待って検討する必要があるだろう。




Fig. 160 Subgroups of the Hikosaki K1 type pottery



8.2.2 彦崎K2式(Fig. 161)

 彦崎K2式については、竹原貝塚の資料に基づいた間壁忠彦の研究(間壁1980)があり、本型式の内容を理解する上で、最も基本的な文献となっている。以下の記述も、間壁の示した内容と大きく異なるものではないが、ここでは、特に彦崎K1 式や、津島岡大後期Ⅳ群、四元式などと比較しつつ、彦崎K2式の型式内容について検討を加えることにしたい。
 まず、全体的な概要についてであるが、彦崎K2式(第13群)では、彦崎K1式に比して器種の分化がいっそう明瞭であり、今回は、深鉢、鉢、浅鉢、注口土器に分類して報告した。実際には、それぞれの器種ごとにさらに細かな形態、装飾上の変異が認められ、また無文土器の各器種も加わるため、全体としてはかなり多様な器種構成となる。一般に、彦崎K2式は、K1式に比して薄手に作られており、色調は黒色を呈するものが多く、器面はミガキあるいは丁寧なナデによって平滑に整えられている。文様について見ると、深鉢や鉢の胴部などでは、縄文面が広くとられる場合もあるが、一般に各器種を通じて、細い沈線とそれによって区切られた幅狭い縄文帯となるものが多い。沈線内に押し引きによる結節や、小さな円形刺突が加えられたものもあり、沈線間の縄文を磨り消したものも少量認められる。沈線や縄文は、横位に直線的な帯をなして加えられることを原則とし、装飾的な文様図形を描くものはほとんどないが、1187や1350には弧線を伴った磨消縄文が見られる。この時期の縄文の撚り方向は、LRが主体を占め、撚り方向がほぼRLに統一されていた彦崎K1 式とは対照的である。底部の形態については、K1式との区別が不明確であるが、小型の上げ底を主体とし、鉢や浅鉢などでは丸底のものも認められる。1454、1455 のように、底面中央部に凹状の粗面をもつものは、K2式に伴うものであろう。
 また、西日本の縄文土器としては例外的に、多様な種類の縄文が見られることも、本群の特徴のひとつである。今回確認できたものとしては、一般の単節縄文に加えて、結節縄文(Pl. 49p)、付加条(Pl. 49q)、無節、複節(Pl. 49r)、異節(Pl. 49s, t)、撚り戻しなどがあり、このほかに巻貝の回転による擬似縄文がある。彦崎K2式の段階は、西日本において土器装飾としての縄文が廃用される直前にあたるが、この時期に、これだけ多様な種類の縄文が見られることは、興味深い事実である。また、有文土器のほぼ全てに縄文が施され、沈線のみによる文様表現がほとんど見られない点も、これ以後の土器群との対比において重要であろう。
 次に、各器種ごとの内容について見ていくことにしたい。深鉢には、今回A、B類とした二つの基本形態を認めることができる。A 類は湾曲した口縁外面に幅広い文様帯をもつものであり、この部分に並行沈線や縄文が加えられる。B類は直線的に外反する口縁外面、あるいは内面に幅狭い縄文帯が加えられ、特に内面に文様をもつものでは、縄文帯下端を横走沈線によって画する特徴がある。A、B類ともに、縁帯部を分厚く作り出すものは見られないが、B類では、ごくわずかに端部を肥厚させたものが認められる。
 鉢は、深鉢の丈を低くしたような形態をとり、基本的に縄文のみが施文されるが、沈線文を伴うものもある。底部は丸底となるようである。
 浅鉢には、口縁が内湾するものと、直線的に開く皿形のものが認められ、前者をA類、後者をB類とした。前者は口縁外面に文様帯をもち、後者では口縁内面に幅狭い縄文帯をもつ。
 注口土器あるいは壷は、ごく少量であるが、口縁にノの字隆帯をもち、巻貝擬似縄文を施す口縁部破片(1350)は彦崎K2式として著名なものである。これは近畿の一乗寺K式に伴うものに近似し、赤彩を伴う点でも注目される(泉1981)。
 以上のような内容は、従来、彦崎K2式として認識されてきた型式内容と大きな違いはない。近年報告された南溝手NC2・3区の資料(岡山県古代吉備文化財センター1996)は、彦崎K2式のほぼ単純な組成を示すが、今回の分類全般にわたる資料が認められる。
 今回の資料整理の所見として、特に注目すべき点は、従来、彦崎K2式に含められることもあった斜刻文(1180)、巻貝擬似縄文による連弧文(1531)をもつ土器の出土状況である。ともに1個体のみ確認されたが、前者は11区1層、後者は彦崎K2式の集中地点を離れた6区からの出土であり、さらに6区ではこのほかに、口縁部を内屈させたもの(1530)、この部分に並行沈線を加えたもの(1527、1528)など、彦崎K2式の主要土器群とは異なる特徴をもつものが出土している。結論から言って、この一群は、彦崎K2式からは年代的に分離されるものであり、報告ではこれらを一括して第14 群とした。こうした理解は、千葉豊の提示した彦崎K2式の細分(千葉1992)にも合致するものであり、第14群に見られる斜刻文、巻貝擬似縄文を用いた連弧文は、千葉豊も指摘するように、岡山県竹原貝塚の資料中に特徴的に認められるものである(千葉前掲)。今日、竹原式の名称は、彦崎K2式とほぼ同義に用いられる場合もあるが、本書では便宜的に、彦崎K2式(第13群)に続く土器群という意味で、竹原式(第14群)の名称を用いた。いずれにせよ、彦崎K2式に続く土器群については、現在のところ、資料に乏しく不明瞭な部分が多く残されており、今後、その内容を十分に検討していく必要があるだろう。




Fig. 161 Subgroups of the Hikosaki K2 type pottery


8.2.3 彦崎K1式からK2式への変遷

 次に、彦崎K1式からK2式への過渡的な一群、すなわち、平井勝による四元式(平井1993)や、津島岡大5次調査の報告において、阿部芳郎が後期Ⅳ群として報告した土器群(阿部1994)について言及することにしたい(Fig. 162)。従来から指摘されてきたように、彦崎K1式からK2式に至る変遷過程は、いわゆる縁帯文からの脱却、磨消縄文の繊細化、器種の多様化など種々の変化を伴っており、後期中葉を画する重要なステージにあたっている。また、この時期に認められる土器型式の複雑な動態は、地域的現象に留まらず、広域編年の上でも重要な問題を内包している。
 平井勝(1993)は、百間川沢田四元地区出土の土器群について検討を加える中で、彦崎K1式からK2式に至るプロセスについて体系的な検討を加え、津雲A・彦崎K1式→永井→津島岡大→四元式→彦崎K2式という段階的変遷を示した。平井の編年は、深鉢B類の変化を基軸としており、遺跡ごとの土器群の差異から変化の方向性を導いている。この変遷観は、彦崎K1式からK2式への移行の実態をよく捉えたものと言え、現状において最も整備された編年として評価しうるものである。従ってここでは、平井による編年を基礎として、土器の変遷を概観することにしたい。
 まず、彦崎K1式直後の様相についてであるが、香川県樋ノ口(香川県教育委員会1990)や岡山県高島黒土の資料(坪井1956、矢野編2004)、渡部明夫による永井Ⅲ・Ⅳ(渡部1990)の中には、口縁を外側に狭く肥厚させたものが目立ち、この中には、肥厚部が丸みをおびたものや段をなすものなどが含まれている。こうした一群は、彦崎貝塚資料中にはごく少量含まれるのみであり、はっきりと捉えきれない部分が残るものの、これらは彦崎K1式の主要部分からは分離され、より後出的なものと考えることができる。山内清男や高橋護による彦崎K1・K2中間型式は、だいたいこのようなものを指していたようである(矢野編2004)。
 この一群には、頚胴部に条線を施した彦崎K1式A類に近いものと、口縁部や胴部に縄文を施した同B類あるいはD類に近いものが含まれており、全体として、A類の縁帯文が萎縮、衰退するとともに、波状口縁が低調になり、B、D類との区別が不明瞭になっていく過程をあとづけることができる。このような変化は、縁帯文土器の伝統であった口縁部文様帯の退化と、沈線や磨消縄文による意匠的な装飾の衰退と見ることができ、結果として、平行条線の単調な反復や、縄文の多用によって器面を埋めるという、単純な器面装飾へと収斂していくことになる。このように、当初、彦崎K1 式ではっきりと区別されていた各系統の土器が、次第に相互の区別を薄めていく現象は、彦崎K1式での器種分化の傾向と、K2式の器種構成とを、直接的に結びつけて考えることを難しくさせている。
 上記のような段階を経て、津島岡大後期Ⅳ群や四元式が成立する。この時期に、有文土器の主体を占める深鉢B類は、上記のような土器群からの延長上で捉えやすい。深鉢B類に多く見られる口縁内面の文様(内文)については、橋本雄一の検討(橋本1994)があり、これが九州方面の土器群、あるいは今回、彦崎K1式B類としたものなどに由来することを論じている。実際には、こうした内文は、近畿以東においても普遍的に認められるので、より広域的な視点からの検討も必要であろうと思う。この時期の様相として、とりわけ問題となるのは、深鉢A類の成立、特にこの種の土器を特徴づける大きく波打つ波状口縁と、磨消縄文による円文や区画文といった装飾的な文様の系譜である。深鉢A類の器形、装飾は、彦崎K1式や、これに後続する土器群からの伝統として理解することが難しいものであり、津島岡大の報文中において阿部芳郎は、後期Ⅳ群の口縁部文様帯に見られる円文や区画文の系譜について、津雲A式の縁帯文との関連を指摘している(阿部1994)。しかし編年的には、両者の間には彦崎K1式が介在し、縁帯文が衰退する段階を挟むので、これを津雲A式からの直接的伝統の上に捉えることはできない。
 現在知られている資料によって、この問題について立ち入った検討を行うことは困難であるが、この時期、周辺地域を見ると、近畿の桑飼下式や九州の北久根山式など、深鉢A類に類似した器種を含むという点で共通した諸型式が成立し、後期中葉の広域的な土器型式の類似を生み出している。津島岡大後期Ⅳ群や、四元式もその一角を担っているわけであるが、深鉢A類の成立は、このような広域的な広がりの中で追求される必要があるだろう。ただし、津島岡大後期Ⅳ群や四元式において、みかけ上組成の主体をなすのは深鉢B類であり、深鉢A類の比率はごく小さく、地域的に見た場合、深鉢A類の成立をあまり過大に評価することはできないのかもしれない(Fig. 163)。一方、四元式に後続する彦崎K2式では、深鉢A類の占有率が増加し、B類と拮抗するようになる。




Fig. 162 Yomoto type pottery and related materials



Fig. 163 Vessel forms of the Hikosaki K1, K2, and Yomoto types pottery


8.2.4 無文土器

 報告では、装飾をもたない無文土器を一括し、第15群とした。これは、個々の資料について明確な時期比定が難しいためであるが、実際には、この中には有文土器の各群に伴うものが含まれている。ここでは、無文土器各種の出土状況の検討から、特に第12群(彦崎K1式)および第13群(彦崎K2式)との対応関係について若干の検討を加えることにしたい。
 先の報告では、無文土器総体を深鉢、浅鉢に分類した上で、それぞれを口縁端部の形状によってFig. 164のように細分類した。またFig. 165は、第15群がまとまって出土した10・11 区、1・5 区、2・3区について、各類の占有率をまとめたものである。以下では、この表にしたがって概要を述べることにしたい。
 深鉢では、はっきりとした傾向を読み取りづらいが、1・5区および2・3区では、B・D類を合わせた占有率が80%以上と非常に高くなっていることが注目される。これに比べると、10・11区ではA・C類の比率がやや高く、両者の間には不明瞭ながら差異を認めることができる。
 次に、浅鉢について見ると、1・5区および2・3区では、 形浅鉢B、C、D類および皿形浅鉢がそれぞれ20~30%を占めるが、A類は全く見られない。一方、10・11 区ではB・C類の比率が高く、A類も一定量を占めるが、皿形浅鉢は少ない。このように、両者の差異は深鉢の場合よりもいっそう明瞭である。なお、10・11区のB類のうち、1262~1267のように厚みのあるものは、B類一般とは区別されるものであり、恐らく第12群に伴うものと思われる。
 先に検討したように、10・11区では第12群が集中的に出土しており、逆に1・5区および2・3区では第12群はほとんど見られず、第13群が主体となっているので(Fig. 152)、上記の無文土器の口縁形態に認められる差異は、第12群と第13群の差異に対応するものと考えられる。端的に言って、第12群に伴う無文深鉢には、口縁端部の厚いもの、丸みをおびたものが特徴的に含まれ、第13群に伴うものでは、口縁端部を尖らせるもの、平坦に作るものが多い。また、第12群に伴う無文浅鉢には、口縁端部を内側に厚く作るもの、端部の丸いもの、鈍く尖らせたもなどが見られる。第13群に伴う無文浅鉢には、端部の尖るもの、丸いもの、平坦なものが著しい偏りなく含まれ、また皿形浅鉢が多く含まれる。今回の検討では、資料の性格上、特に口縁端部の形状を取り上げたが、今後、器壁の厚さや調整といった属性を追加することによって、さらに分類の精度を向上させることができるようになるであろう。
 本地域における縄文後期の無文土器については、泉拓良や阿部芳郎による先駆的研究があり、泉は、後期初頭から後葉に至る無文土器の長期的変化について、体系的な検討を行っている(泉1989)。また、阿部は、津島岡大後期Ⅳ群の無文深鉢(深鉢C類)の口縁形態の変化を検討し、次第に厚端口縁の比率が低下し、それを補うように平端口縁、尖端口縁の比率が増加することを指摘している(阿部1994)。今回の検討は、彦崎K1、K2 式という、比較的限られた時期幅の 土器群を対象とし、資料数も十分とは言えないが、ここで指摘しえた両者の差異は、阿部の分析結果とも矛盾しないものである。

(山崎真治)



Fig. 164 Classification of rim secton of Group 15



Fig. 165 Proportion of subgroups of Group 15