3 オホーツク フィールドワーク

オホーツクに生きるまち「常呂」

辻 孝宗




■世界一住みやすい土地
  「海に出たところが、常呂である。町といっても市街地はなさそうである。

  田園がひろがり、ひくい丘陵が樹林を茂らせ、オホーツクの海がみえる。さらに網走側に能取湖をもち、べつの側にサロマ湖をもつといったぐあいで、じつに景色がいい。

  この山水のなかを歩いていれば、たれもが古代感覚をよみがえらせるにちがいない。たべものを採取してまわるくらしのなかでは、常呂ほどの土地はない。

  流氷期には海獣がとれるし、ふだんでも、淡水・海水の魚介がゆたかで、野には小動物がかけまわっている。常呂川には、季節になると、サケやマスがのぼってくる。採取のくらしの時代、常呂は世界一のいい場所だったのではないか。」

  これは、司馬遼太郎氏の著書『オホーツク街道』〜街道をゆく三十八(朝日新聞社刊)・コマイの章の一文です。『週刊朝日』の連載を読んだとき、常呂が世界一いい場所だったのではないかという一文にとても感動しましたが、前段の文章である「町といっても市街地はなさそうである」には少し憤然として、宇田川先生に司馬さんとお会いする機会があったら、「感動しましたが、常呂町に住むものとして、市街地がないとはいかがなものか」と伝えてほしいと話したことがありました。

  また、司馬さんの訃報を知らせる『週刊朝日』のグラビアに常呂遺跡を訪れた際の取材ノートが偶然に掲載されていたことにもハッとしました。司馬さんにとっても、オホーツク街道の取材は、とりわけ印象が深かったのではないかと思いをはせたものです。

  常呂町は、北辺の小さな町ですが、とても素敵な町です。私にとって、この町に生まれたことは私の誇りでもあります。三十代に全国各地を旅する機会に恵まれましたが、各地を訪れる度にふるさとところを知り、学び、この町への思いがひとしお強くなってきました。

  常呂町は、いにしえの昔から人が住みつづけている稀有な大地です。何が、幾世代もの時空を超えて、人を引き付けるのか。この大地には特別な磁力のようなものが宿っているのではないかと思います。

  常呂のカラーは、オホーツクブルーと言われます。オホーツクの紺碧が反射したどこまでも澄んだ青い空と、海から渡る心地よい風が似合う町です。流氷寄せる冬は、白一色の氷雪の世界となりますが(図1)、常呂のこころはいつも温かく、ホスピタリティのとても豊かな町です。そして、母なるいのちの大河である常呂川は、オホーツク海を通して、世界につながっています。

図1 オホーツクの流氷。冬はサロマ湖も凍りつく。


■こころざしのあるまち
森は海の恋人、川は仲人〜川と海そして自然と共に暮らす人々
  常呂町の農家にホームスティしたお茶の水女子大学・小川剛ゼミのみなさんに「常呂町での滞在はどうでしたか?」と尋ねると「常呂は美味しい!」という笑顔と大きな声が返ってきました。常呂町は美味しい。常呂に来る人には、「常呂町に来ると困ることがありますよ。」という。少々困惑されますが、「それは、常呂に来ると太ることです。」と続けるとやわらかな笑みに変わられます。

  常呂町は四季折々に大地と海の味覚が味わえる北海道でも恵まれた土地です。食が暦の役割を果たしています。常呂の海明けは、毛ガニ漁で始まります。毛ガニは、春一番の魚です。夏は北海シマエビ、秋はサケマス、冬はカキ貝という具合で、ジャガイモ・小麦・玉ねぎなどを始めとする豊かな農産物も栄養満点です。なかでも常呂の味覚の代表は、なんといっても「ほたて」です。常呂町は、ほたて養殖漁業発祥の地であり、日本有数の漁獲と品質を誇っています(図2)。ほたては町の元気を支えています。常呂のほたては何故美味いか。それは、サロマ湖・オホーツクの豊かな漁場に恵まれていることもありますが、なにより日本で初めてほたて養殖漁業を成功させた「誇り」があるからだと思います。

図2 ホタテの水揚げ風景(佐々木論文参照)

  国内第三位の面積を持つサロマ湖は、天恵の湖ですが、大変なドラマもありました。昭和四年、対岸である湧別側に新しい湖口が開削されると、一夜にして汽水湖であった湖は塩分濃度が増し海になり、このため、当時北海道有数のカキ貝の産地として盛況を誇っていた常呂の漁業は、湖内生態の激変により一気に壊滅的な打撃を受けることとなりました。

  厳しい経済状況のなかサロマ湖では、昭和八年から凍る湖でほたて貝の垂下養殖試験が始まりました。昭和三〇年代後半には、常呂川の汚染問題も加わり、漁業経済は長い間大変な時代を迎えていました。ほたての養殖試験開始から約四十年を経て、昭和四〇年代後半に養殖が成功し、ほたては町の経済を支える大黒柱に成長します。しかし、常呂の漁師はサロマ湖にあっては更に、生態系漁業を目指し、総量規制、ほたて四輪採制、共同経営の導入など独自の経営方式を導入するなど、豊かな環境を守り育むことが自らの暮らしを支えていくという信念のもと行動をはじめました。昭和一七年独自に立ち上げたサロマ湖水産増殖研究所(現サロマ湖調査研究センター)は、栽培漁業における日本の最先端研究施設に育ち、東大・北大を始め内外との研究ネットワークも広がりを見せ、優れた研究を続けています。これが、常呂の漁師は、科学者の目と漁師の心を持っているといわれる所以です。また、苦難の時代を支えてくれた町民への感謝として、常呂漁業協同組合では、二十余年に亙って毎年、町民への全戸ほたて無料配布を続けています。

  厳しかった時代を乗り越え、今この恵まれた環境を守り、与えてくれた先達に感謝しながら、先達の誇り高い志に学び、少しでも良い環境を自らの手で守り育むことが次代へ課せられた責務と考え、漁協では山を買い、いのちの水を生む豊かな森づくり運動を全国に先駆けて実施しており、これまでに七十万本を超える植林を行っています。漁師が山に木を植えるこの取り組みは、全国に大きな反響と広がりを呼び起こしました。平成四年には漁業団体として初めて第十回朝日森林文化賞を受賞するなど、水と共に暮らす漁師の心を紡ぐこの試みは、次代の人たちへ確かに受け継がれようとしています。

ワッカ原生花園〜小さな町の大きな誇りと未来へ続く思い
  ワッカ原生花園は、平成一三年一〇月二二日、北海道が次世代に引き継ぐかけがえのない自然のひとつとして「北海道遺産」の選定を受けました(図3)

図3 ワッカ原生花園

  ワッカとは、アイヌ語で、真水が湧くところの意です。この生命の水が育んだ奇跡の生態系と称され学術的にも極めて価値の高いワッカ原生花園は、網走国定公園内にあり、サロマ湖とオホーツク海を隔てる砂州を中心に三百種以上の花々が咲き誇る国内最大規模の海岸草原群落で、その面積は、約七〇〇ヘクタールに及びます。

  自然豊かな北海道のなかでも人の手の加えられていない自然の草花が残る数少ないエリアとなったワッカ原生花園も、年々貴重な植物が盗掘されたり四輪駆動車の乗り入れによる植生破壊がみられるなど、どのような形でこの貴重な自然を守り育んでいくかが大きな課題となっていました。

  このため、町では全国的にも例がない「町道廃止による一般車両の乗り入れ規制」に踏み切る決断をしました。一般車両を対象とした交通規制を実施するため、町道五路線・約二四キロメートルの廃止を行うこととなりましたが、悩みもありました。それは、町道廃止に伴い地方交付税が毎年約四千万円減額となることでした。財源の少ない町財政にとっては大変大きな課題でした。しかしながら、先人から受け継いだワッカ原生花園をより良い状態で次の世代に引き継いでいくことは、一部町道廃止によって生じるデメリットをしのぐほど尊い価値を持つという「町への思い」が、町議会を始め多くの町民の賛意を得ることができました。平成三年四月二九日、ワッカネイチャーセンターのオープンと共に、ワッカの自然は、新たな一ページを歩み始めました。

  ワッカ地区の学術調査を担当された辻井達一北海道大学教授(当時)は、「ワッカでは、このセンターの開設を機として、一般車両の進入を禁止した。全てシャトルバスに乗り換えるか、自転車か、あるいは徒歩かによることになる。私たちのデータでも、牧草や雑草が増加しつつあり、一方では四輪駆動車やオフロードバイクによる群落の踏み荒らしの影響が心配されたから、これらへの対処としてはまことに当を得たものと思われる。多少の不便はあるかもしれないが、それは将来にわたる自然の保全ということで十分に補われるはずである。おそらくこの手法は北海道だけでなく日本の各地での自然の活用と保護のモデルになるだろう。こういう手法を採用することには相当の勇気が要るものだ。それを敢えてした常呂町とその町民の賢明な決断に敬意を表したい。」と北海道新聞のコラムに一文を寄せられています。

  ワッカ原生花園では、学校教育との連携や地域住民の幅広い活動が行われており、地域ぐるみの自主的かつ主体的な活動の広がりは、他のモデルケースとなっています。

  深呼吸ではなく、「心呼吸」ができるワッカ。自然の中にいることが心を柔らかくするワッカ原生花園は、人と自然が響きあう夢の場所です。

■東京大学との連携の広がりに向けて
  「東京大学研究室回付属施設整備趣意書」(昭和四〇年一二月)。この趣意書は、東京大学が常呂町に人文及び自然の総合的見地から学術研究を拡大するための研究施設整備を行おうというもので、中村元文学部長、弥永昌吉理学部長両氏の署名がなされています。整備計画によると常呂町栄浦地区に、昭和四〇年度から昭和四六年度までの七カ年計画で文学部・理学部研究室を中心に二一棟の施設を建設する計画(事業費七三、四一四千円)となっており、昭和四〇年一二月二〇日付けで上杉武雄常呂町長に中村元文学部長名で「常呂研究施設及び同付属施設の用地確保に関連する諸手続きについて」により依頼がなされ、これを受け常呂町では、国有保安林の解除など施設受け入れのための諸手続きに入りました。

  昭和四四年に発刊された常呂町史には、大河内一男東京大学総長から寄せられた序文が掲載されています。この機会にご紹介をしたいと思います。

  私は、最近常呂の町に二回お邪魔した。一回目は吹雪の荒ぶ十二月、二回目は白夜の六月末であった。偶然この二つの対照的な時期に遭遇して、私は北海道を身に感じることができた。北海道も道南地帯は交通発達のためか、観光ブームのせいか、年々北海道の姿を失いつつあるが、ここ常呂の町には、はてしなく続く原始林、広大なサロマ湖、そしてその向こうには道跡さえさだかでない原生花園が横たわってる。それだけではない、常呂の町並みを拝見して、私がそこに感じたのは、ここにはなお「開拓」の息吹きが残っている。ということであった。八十年の昔、私たちの祖先が壮大、冷厳な自然に挑んでいった。限りない労働のたくましさが、脈々としてこの町並みに受け継がれているのを感じた。漁場に、農場に、牧舎に、非常に発達した協同化が見られるのも、開拓者たちの労働形態の、見事な伝承なのかも知れない。

  常呂の町と私とを結びつけたのは、東大文学部の常呂資料館及び研究室の建設である。これらの施設は、町並びに道の御協力によって実現したものであるが、それに先立つ十余年間、東大考古学の調査隊は、この地域の貝塚、竪穴住居祉群、チャシ等、各種の原始及び古代の遺跡を調査してきた。この調査も、常呂町の御理解と御協力がなかったなら続けられなかったものであろう。そしてこの調査を通じて深められた常呂町と東大との友情が、前記の施設として結実したのであった。この地域の遺跡は、他に比類のない厖大なものであり、この遺跡調査が成功した場合には、いままで謎につつまれていた人間の歴史の一端が、私たちの眼前に明らかになるはずだと言われている。

  また、恐らく、この地域にある数万の遺跡の調査によって、人類が自然に挑んでいった「開拓」の原始的な様相も明らかにされることであろう。そしてこれが、いまなお常呂の町並みに息吹いている「開拓」の姿に何かの暗示を与えるかもしれない。

  美しい自然に恵まれた常呂の町には、やがて昨今のレジャーブームが押し寄せてくることだろう。しかし、この町の背景にある開拓者たちの労働を想起する時、この地域が軽薄なレジャーに浸蝕されることなく、健全なリクリエーションの場として発展することを期待したい。
  終りに、常呂町の御発展と町民各位の御多幸を祈るとともに、常呂町と東京大学との友情が末永く続けられることを期待する次第である。」

  常呂遺跡の存在がいまあるのは、その生涯を常呂遺跡の保全に捧げた大西信武氏、発掘にあたられた東京大学の駒井和愛教授をはじめ幾多の方々の熱き心と友情そして信頼の絆の賜物であると思います。今日まで、東京大学により脈々と続けられてきた常呂町での遺跡発掘も平成一九年には、五十年を迎えようとしています。

  常呂町にとって東京大学との交流は、混迷の時代を歩むにあたっての羅針盤として、常に大きな位置を占めてきました。最近では、公開講座の開催を始め、その交流の裾野を確実に、そして豊かに広げています。

  常呂町は、かつて碩学たちがこの町で、この大地で、熱く語り合った一大学術文化研究センター設置という夢の実現に向けて、今後の尚一層の厚みのある相互交流の推進を図っていく考えです。

  今回の東京大学総合研究博物館における春季特別展は、文学部付属常呂研究室の約五十年に及ぶ考古学研究の成果を展示し、史跡常呂遺跡をはじめオホーツク地域における北方文化史についての理解を促す機会として、これまで関わってきた多くの人々の思いの結晶でもあり、また次代への架け橋事業として、共創の時代にふさわしい豊かな関係性を生み出す構想力を持った種を蒔くに違いないと受けとめています。



常呂町のデータ
人口 五、二六一人 世帯数 一、八五三世帯 高齢化率 二三% (平成十二年九月現在)
産業  
農業 農家戸数 一八三戸 平均面積 二五・四ヘクタール 生産額 五、三六一、〇七〇千円
主な作物 小麦、ジャガイモ、甜菜、玉ねぎ、乳牛など
漁業 組合員数 一九〇戸 水揚量 五一、二四〇トン 水揚高八、五九九、三二一千円
主な魚種 ほたて、サケマス、毛ガニ、北海シマエビなど


図4 森林公園

図5 遺跡発掘作業

図6 「百年広場」にならぶ手形柱。一九八三年の開基百年を記念して作られた。六基の柱に町民五五四九人の手形が残されている。所々に町内出土土器のモチーフもちりばめられている。

図7 カーリング。1988年に日本最初のカーリング専用ホールがオープンした。長野、ソルトレイク・オリンピックでの常呂チームの活躍の印象はまだ新しい。




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