3 オホーツク フィールドワーク

「ところ遺跡の森」構想と大学の地域連携

佐藤宏之




■はじめに
  「ところ遺跡の森」は、常呂町栄浦地区に展開している、国指定遺跡「常呂遺跡」の史跡整備地域(復原住居、広場等)、そのガイダンス施設である「ところ遺跡の館」、常呂町の埋蔵文化財の中核調査研究基地「ところ埋蔵文化財センター」等の諸施設を一体として運営するために、常呂町によって一九九八年に条例設置された生涯学習・文化施設群である(図1〜4)。栄浦地区はサロマ湖東岸にあり、網走国定公園に指定されているため、自然公園法によってカシワ・ナラ等を中心にした自然林がよく保存された風光明媚な地勢となっている。周辺には、町の施設以外にも、道の水産試験場、道立「常呂少年自然の家」、キャンプ場等が集まっている。そして、その一角に東京大学大学院人文社会系研究科付属北海文化研究常呂実習施設もある。

  東京大学は、一九五七年以来常呂町内で継続的な考古学的発掘調査と研究を行ってきた。その時以来文学部考古学専修課程の学生は、発掘実習や遺跡の調査を通して、その多くが生涯最初の本格的な発掘調査の経験を積む場としてきた。文学部考古学研究室や関連する部局の現教官を含め、卒業生たちは皆、この地で研究生活の第一歩を踏み出してきたのである。

図1 「ところ遺跡の森」地区平面図
(宇田川洋の原図をもとに佐藤昌俊が作成)


図2 復元された竪穴住居
(写真提供二常呂町埋蔵文化財センター。図3、4も同じ)


図3 雪に埋もれる竪穴住居

図4「ところ遺跡の館」の外観
建物の形は竪穴住居をイメージしている。


■「ところ遺跡の森」前史
  常呂町と東京大学の協力関係の始まりは、考古学的発掘調査が開始される直前の、一九五五年から行われた故服部四郎文学部名誉教授による樺太アイヌ語の言語学的調査にまで遡ることができる。世界最大規模の指定史跡「常呂遺跡」の存在を、発見者である大西信武氏から教えられ文学部考古学研究室の故駒井和愛教授に紹介されたのは、服部教授である。その後の経緯と常呂町内の遺跡調査・研究の意義については本書大貫論文に詳しいので省略するが、この時から文学部考古学研究室を中心とした常呂町の遺跡調査が開始されることとなった。

  一九七三年に設置された実習施設の研究棟や資料陳列館も、常呂町より有償貸与された建物である。常呂実習施設は、常駐の教官二名を中心に、栄浦第一遺跡・ライトコロ川口遺跡・岐阜第三遺跡・トコロチャシ跡遺跡等オホーツク沿岸に展開した北の古代文化に関わる諸遺跡の調査を行い、多くの調査報告書を刊行してきた。こうした地域研究は、北海道の先史・古代文化の変遷過程を明らかにするための基本資料となったばかりでなく、列島からさらに北に展開する北方文化の交流史を解明した研究成果として高く評価されている。それは現在北方の文化交流として歴史学界等で注目を集めている今日的な研究テーマの先取りでもあった。

  しかしながら、こうした調査研究の成功のためには、長年月にわたる地道な遺跡の分布調査と本発掘調査の継続的な実施が必須の条件となっており、その活動を地元の地域住民に受け入れてもらうために行った常呂町の努力がなければありえなかったろう。地籍所有者にとって、遺跡の調査は必ずしも愉快なものばかりとは限らないのだ。常呂町と住民の理解に支えられて初めて、東京大学は五十年近くも継続的・組織的な調査を実施することができたのである。

  一九九〇年代になると常呂町は、サロマ湖東岸の栄浦地区の本格的な整備と活用を開始する。栄浦の集落から目と鼻の先にはオホーツク海とサロマ湖に挟まれた長大な砂州が延びており、砂州上には、オホーツク沿岸では珍しくなった大規模な「ワッカ原生花園」がある。また一方、サロマ湖東岸沿いには、カシワ・ナラを主体とした天然林が豊かに残っている。春から秋にかけて、そこにはたくさんの花が咲き乱れ、多くの昆虫や鳥・動物が訪れる。厳冬期には、オホーツクは流氷に埋め尽くされ、サロマ湖も全面結氷し、上空にはたくさんのオオワシ・オジロワシが滑空する。そして、この林の中に、史跡「常呂遺跡」と実習施設があった。常呂町は、この自然と文化の遺産を一体として保護・整備・活用するために、自然観察と保護の基地として「ワッカネイチャーセンター」を設置し、原生花園への車両の乗り入れを禁止し、同時に「ところ遺跡の森」構想の実現に着手した。一九九三年には「ところ遺跡の館」が開館、一九九四年には復原住居を中心とする史跡公園の整備が完成、一九九八年には「ところ埋蔵文化財センター」の開館と順調に推移したが、なお計画は現在進行中である。

■地域連携研究
  こうした常呂町の取り組みに答えるべく、東京大学は、毎年継続して行ってきた実習調査とは別に、一九九七年から、この年初めて設けられた文部省科学研究費地域連携科学研究費補助金の交付を受け、共同研究「「常呂遺跡」の史跡整備に関する調査研究」(研究代表者)宇田川洋東京大学大学院人文社会系研究科教授、研究期間:一九九九〜二〇〇一年度)を常呂町との間で開始した。この研究は、栄浦地区ではないが、町の中心地背後の高台にあるトコロチャシ跡遺跡の史跡整備化を目指して、その手法と学術的意義をともに研究することを目的としたものである。

  実は、すでに栄浦地区で史跡整備を行った「常呂遺跡」は、北海道の時代区分では、縄文時代・続縄文時代・擦文時代に相当する。トコロチャシ跡遺跡には、これらの時代とは異なり、擦文時代以降に属するオホーツク文化期の集落跡とアイヌ文化期のチャシがある。常呂町は、トコロチャシ跡遺跡を「常呂遺跡」の一部として追加指定し、あわせてオホーツク文化の特異な住居跡の復原とチャシの復原を中心とした史跡整備を行う計画を立案していた。そこで、常呂実習施設は、一九九一年より現在までトコロチャシ跡遺跡を継続して調査していたので、史跡整備対象地域全域に対する調査研究と、その成果に基づいた計画に対する学術的な提言を行うこととした。そのため、それまでの発掘調査が遺跡の一部にとどまっていたので、遺跡全域を対象とした試掘調査を三年間にわたって実施した。現在研究計画の最終年度であるため、研究成果をとりまとめた報告書を準備中である。常呂町は、平成十年度より史跡整備委員会を設けて計画を立案・実行してきたが、この報告書に基づき、早々に史跡の追加指定の申請と基本計画の策定に着手する。二〇〇七年度には、史跡整備を完了する予定である。

■文学部公開講座
  常呂実習施設と常呂町の長年にわたる協同(現在の言葉で言えば地域連携)は、文学部でも注目されることとなり、二〇〇〇年からは常呂町内を会場にして、東原大学文学部主催の公開講座が定期的に開催されることとなった。毎回多数の町民が参加するだけではなく、北見市・網走市といった近隣の市町村からの参加者も多い。東京大学全体の公開講座は以前から行われているが、これは東大本郷キャンパスを会場としたもので、必ずしも地域連携を主眼に据えたものではない。産学連携や地域連携が叫ばれるようになって久しいが、実際に地域の生涯学習運動と連動する試みを実現することは容易ではないだろう。これも常呂実習施設を中心とした長い交流と経験の歴史があって初めて、一回性に終わらない組織的な協同が可能になったのだと思われる。

  ちなみに、最近の公開講座では、受講者に文学部から修了証を授与するといった試みも行っている。もちろん正規の効力を有するような類のものではない。小さなたわいもない試みかもしれないが、地域住民に活力を与え喜んでもらうということは、このような行為の積み重ねなのではないだろうか。

■「ところ遺跡の森」構想の展開
  常呂町は、「ところ遺跡の森」を単なる町立の文化・観光施設として位置づけているのではなく、東京大学との永続的な協同関係を前提とした、学術文化情報の発信地と考えている。平成十三年度より開始された第四期常呂町総合計画には、「東京大学の持つ総合的な知的財産を生涯学習の場づくり等を通じて町民に開放する」ことが目標に掲げられ、栄浦地区は「学術文化研究ゾーン」としての機能のさらなる充実を目指した施策が計画されている。例えば、現在実習施設が有償貸与されている建物は木造で老朽化が激しいが、常呂町は地域間交流センター機能を併設し調査・研究機能を強化した新施設への建て替えを現在模索している。「ところ遺跡の森」も、実習施設およびその周辺地域まで含んだ範囲に拡充されることになろう。

  常呂町は、「遺跡とホタテとカーリングの町」をキャッチフレーズに掲げている。常呂町と東京大学が連携して研究開発プロジェクトを展開することは、最新の考古学的成果を史跡整備事業に反映させ、地域住民の学習意欲の高度化・多様化に対応したより高度の生涯学習の機会を提供することにつながる。また、埋蔵文化財や考古学の調査研究成果を、地域に積極的に還元することを可能にする。学問的成果を大学等の専門研究機関が占有する時代は終わりつつある。「開かれた大学」という時代のニーズに率先して応答してきたのが、常呂町と東京大学の連携の歴史であった。

  東京大学が常呂町で調査を開始してから五十年となる二〇〇七年までには、「ところ遺跡の森」の協同運営が可能となることであろう。「ところ遺跡の森」は、東京大学と常呂町が一体となって連動していく証である。地域連携は今始まったことではない。





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