2 オホーツク氷民文化

オホーツク「クマ祀り」の世界

宇田川 洋




■ここでいう「クマ祀り」とは
  オホーツク文化の竪穴住居社内に見られる祭壇としての骨塚には、多くの場合、クマの頭骨その他を祀ってあることで有名である。それは、他の時代の竪穴には決して見られない特別な習慣であり、それがクマの霊魂(あるいは霊的存在)を天の世界に送り返す儀礼と結びつき、さらに、後のアイヌ社会に普遍的な動物の「送り儀礼」(オプニレ=opunire送り届ける。ホプニレ=hopunire〜を起き上がらせる。"山で捕った動物"を神の国に送る)、そして究極的には、飼育した仔グマやシマフクロウを送る狭義のイオマンテ(iomante=物・それを送る)に継承されていく動物儀礼であるとしばしば指摘されているのである。

  このようないろいろなスタイル・時代の動物送りの儀礼の中から、クマを送るという特殊な場合をここでは「クマ祀り」と称しておき、その時代的変遷あるいは目的などを紹介しておきたい。まず最初に、北海道アイヌなど近隣の諸族の間で行われてきた「仔グマ飼育型クマ送り」とはどのようなものかを説明しておこう。

■仔グマ飼育型クマ送りはいつから
  広く北部ユーラシアから北アメリカに至る北方地域における北方諸族の問では、山猟でクマをしとめた場合にその場で解体し、頭骨をはじめとする骨をその場で天の世界に送り返す儀礼を行っている。これは「オプニレ型」と呼ばれる動物儀礼である。これに対して「オマンテ型」とされる儀礼は「仔グマ飼育型クマ送り」を指し、きわめて特殊なもので厳格な規律の中で行われる最高のスタイルの儀礼とされる。

  母グマは冬ごもり中に仔グマを出産する。アイヌの人たちは、春先にその母グマを殺し、山でその送りを行い、仔グマを集落に連れ帰るのである。北海道の場合はその仔グマが二歳になった冬に—樺太(サハリン)の場合は三歳まで育てることがあるというが—、それを殺して送りを行うのである。それが「仔グマ飼育型クマ送り」であり、一般的にいうイオマンテ(イヨマンテ)である。このような特殊な狭義のイオマンテと同じオマンテ型の送り儀礼は、北海道アイヌ・樺太アイヌ・ニヴフ(ギリャーク)・ナナイ(ゴルド)・オロチ(自称ナーヌィ)・ウィルタ(オロッコ)・ネギダル(自称エルカンヴェイェニン)・ウリチ(オルチャ)といったアムール川の中〜下流域とサハリン・北海道という限定された地域で行われていることが知られている(図1)。
図1 仔グマ飼育型クマ送りの広がり

  ではそのような仔グマ飼育型クマ送りはいつの頃から始まったのであろうか。最近、池田貴夫がクマ儀礼の成立・起源論を紹介している(池田、二〇〇〇)。渡辺仁(一九七四)によるオホーツク文化からの流れという説、宇田川洋(一九八九)の狭義のイオマンテの確立年代は古記録と考古資料から考えて十八世紀後半以降という説、西本豊弘(一九八九)の考古資料からみてアイヌ文化期前期もしくは擦文文化期までイオマンテが遡る可能性があるという説、佐藤孝雄(一九九三a)の「クマ送り」は擦文文化の人々によってその基本形態が形成されたとする説、春成秀爾(一九九五)の靺鞨文化の豚飼育が伝来して「飼い熊祭り」が定着したという説、大井晴男(一九九七)の「仔熊飼育型の熊祭り」は二千年紀初頭あたりにアムール河下流域あるいはサハリン北部を含めて成立し、それが十六世紀あるいは十七世紀に伝えられたとする説、中村和之(一九九九)の十七世紀半ば頃(一六六九年のシャクシャインの戦いの時点)にはイオマンテが成立していたという説、などである。そして池田は、「クマ儀礼の形成についての研究は、北東アジア社会の動向を視野に入れた中世北海道におけるアイヌ社会の解明と並行して取り組むべき課題である」と提言し、図2のような図を紹介している。

図2 仔グマ飼育型クマ送りの分布その他(池田2000より)

  以上のような状況であるが、手塚薫・池田貴夫(二〇〇一)は「先史時代のクマの飼育と近世・近現代の飼育型クマ送りにはその儀礼行為をとりまく環境や儀礼行為そのものの意義にも相違がある」としている。まさしくその通りであり、宇田川が「狭義のイオマンテ」と呼んだのも宇田川のいう「考古学からみたアイヌ文化複合体」の中で位置づけられるイオマンテすなわち「仔グマ飼育型クマ送り」なのである。

■動物の送り儀礼の条件と動物意匠遺物
  ではここで、動物を「送る」という儀礼行為をどのようにして認定していったらよいのかを考えてみたい。佐藤孝雄(一九九三b)によると、縄文時代の動物儀礼の認定事項として、(1)配置の痕跡が認められること。(2)特定の部位骨だけが集中的に検出されること。(3)とくに頭骨などに非実利的と思われる加工痕が認められること。(4)意図的に焼いた痕跡があること。(5)何らかの施設に安置・収納されていること。(6)祭祀用具と考えられる何らかの遺物と共伴していること、が挙げられ、一つもしくは複数の事項が認められた時に動物儀礼の痕跡である可能性が主張されるとしている。また、西本豊弘(一九九六)の場合は、(1)頭蓋骨があること。(2)特定の部位が複数まとまって出土すること。(3)配列されていること。(4)遺構を伴うこと(配石や溝、壇など)。(5)骨に加工があること(穿孔、焼骨など)。これらの条件の二つ以上が認められれば、動物儀礼の可能性があるとしている。高橋理(一九九七)が設定した動物の「送り」は、(1)限定された種類の集中。(2)限定された部位が高い完形率を保って配置される、あるいはそれをうかがわせる。(3)「送られた」と判断できる「物」との共伴。(4)他とは区別される空間における存在。(5)伝承、文献、地名にあとづけられるもの、などの要素あるいは要素の組み合わせがその基準となっているとしている。

  以上をまとめてみると、時代を問わず動物の霊的存在を天上界に送り返す儀礼行為の認定条件は、(1)頭蓋骨の存在。(2)特定部位の集中。(3)限定種の集中。(4)頭骨の穿孔や焼骨の痕跡。(5)配列の痕跡。(6)遺構からの出土。(7)祭祀用具との共伴。(8)伝承・文献・地名に残る場所での出土。が挙げられることになるが、これらのうちの一つでもその認定条件になると考える。

  以上のような認定条件で、北海道においては縄文時代から動物送りを行ってきた証拠が出ている。そのもっとも著名なものは、釧路市東釧路貝塚の縄文前期のイルカの頭骨を放射状に配置した例である。クマに関する縄文時代の明確な送り儀礼は未検出であるが、縄文晩期ないし続縄文文化の例として斜里町尾河台地遺跡四二号竪穴上層のものがある。石組みの中にクマの中手骨や中足骨などが数十片あり、焼けていたという。送りの条件を満たしているのでクマの送りがあったと考えてよいであろう。

  擦文時代にはその末期の段階で羅臼町オタフク岩洞窟遺跡でクマ頭骨の集中がみられ、やはり山猟で得たクマの送り儀礼の存在を確認できる。しかし、まだその一例のみであるということはどう解釈したらよいのであろうか。しかもその遺跡は擦文文化圏外に位置しているという問題も含んでいる。擦文人のマタギ的クマ狩り行動を表しているのであろうか。別に、擦文時代にはクマ以外で明らかな動物送りの証拠がある。それは奥尻島青苗貝塚出土のニッポンアシカの頭骨七個体であり、しかも頭部穿孔が認められるのである。雄の個体で右側が穿孔されているが、それはアイヌのクマの一般的な頭部穿孔とは雄雌が逆になっている。擦文時代は動物意匠遺物が他の時代と比較してほとんど見つかっていないという事実があるが、どのような形で動物儀礼を行っていたのかはまだ不可解な部分が多く残されている。

  オホーツク文化においては、周知のように竪穴住居坑内での骨塚があり、多くはクマを祭壇状に飾っているので間違いなくクマ送り儀礼を伴っている。「クマ祀り」を行っていたのであろう。また最近の報道によれば、オホーツク文化の遺跡出土の一五〇点のクロテンの頭部に穿孔が認められるのが約四十点あるという。事実とすれば、かなりきちんとしたクロテン送り儀礼が存在したことになる。

  そして、オホーツク文化の場合にはクマを表現した動物意匠遺物が数多く出土している。常呂町などで出土しているそのいくつかを紹介してみよう。写真67は栄浦第二遺跡七号竪穴出土のクマ頭部角器(鹿角製)である。権威の象徴としての指揮棒のような道具であったのかも知れない。同種のものは常呂町常呂川河口遺跡十五号竪穴でも出土している。同じく鹿角製(68)。69はトコロチャシ跡遺跡一号竪穴出土のクマ全身骨偶(トド骨製)である。腹部に刻みが見られ、アイヌのイオマンテの際にクマに着せる晴れ着を表現していると考えられる。70は常呂川河口遺跡十五号竪穴出土のクマ頭部の骨偶である。71はトコロチャシ跡遺跡オホーツク地点七号竪穴出土のクマ頭部角器で、顔の表現がリアルに可愛らしく表現されている。70に酷似するがやや小型である。参考資料として挙げたものは、クマ頭部を表現した砂岩製のものである。72はトコロチャシ跡遺跡オホーツク地点八号竪穴出土の小型のクマ上半身角器である。首に縄が巻かれており、そこから紐で繋がれた様子が背中に表現されている。仔グマを繋いでいることを表していると考えられ、やはり「クマ祀り」儀礼の存在を示す好例である。73も72と同じ竪穴から出土したクマ全身のレリーフである(鹿角製)。クマの下には他の動物の一部がレリーフされているが、破損しており不明である。他に礼文町などからはモウカザメの吻骨から作られたクマの座像がかなり出土している。74は香深井A遺跡出土のものである。

写真67 クマ頭部角器
常呂町栄浦第二遺跡 7号竪穴 高16.8cm 東京大学常呂実習施設蔵
写真68 クマ頭部角器
常呂町常呂川河口遺跡 15号竪穴 残存長10.9cm 常呂町埋蔵文化財センター蔵
写真69 クマ骨偶
常呂町トコロチャシ跡遺跡 1号竪穴 長5.4cm 東京大学常呂実習施設蔵
写真70 クマ頭部骨偶
常呂町常呂川河口遺跡 15号竪穴 残存長3.0cm 常呂町埋蔵文化財センター蔵
写真71 クマ頭部角器
常呂町トコロチャシ跡遺跡 オホーツク地点 7号竪穴 残存長2.7cm 東京大学常呂実習施設蔵
写真72 クマ角器
常呂町トコロチャシ跡遺跡オホーツク地点 8号竪穴 長3.5cm 東京大学常呂実習施設蔵
写真73 クマ角器
常呂町トコロチャシ跡遺跡オホーツク地点 8号竪穴 残存長6.4cm 東京大学常呂実習施設蔵
参考 クマ頭部(砂岩製)
常呂町トコロチャシ跡遺跡 長5.3cm 東京大学常呂実習施設蔵
写真74 クマ座像骨偶
礼文島香深井A遺跡 左上:高さ4.8cm 北海道大学総合博物館蔵 大場利夫・大井晴男編『香深井遺跡(上)』、東京大学出版会、1976より

  ちなみにオホーツク人が動物信仰を重視していたことは、他の動物意匠遺物からも明白である。写真75は海獣のアザラシ頭部を表現した土製品でトコロチャシ跡遺跡オホーツク地点七号竪穴出土である。76は常呂川河口遺跡十五号竪穴出土でオットセイの上半身を表現した骨製垂飾品である。そして注目すべきものは78のラッコの全身像の牙偶である。同竪穴出土。クマの犬歯製であるが、両腕とお腹のしわの表現は実にリアルである。79はラッコと思われる頭部角器でトコロチャシ跡オホーツク地点七号竪穴出土。80−83は斜里町ウトロチャシコツ岬下遺跡一号竪穴出土の角器(鹿角製)で、クジラの上半身や尾部を表現したり、捕鯨の際の銛縄がレリーフされたりしている。84、85、86はトコロチャシ跡遺跡オホーツク地点七号出土で、84はクジラ頭部の角器、85は海獣鰭部の角器、86は海獣胴部角器である。87は魚をレリーフした角器でトコロチャシ跡遺跡オホーツク地点七号竪穴出土。88は、トコロチャシ跡遺跡一号竪穴出土の土器の把手部であるが、一体何を表現しようとしたものか不明である。海獣であろうか。また、土器に水鳥文様を貼り付けたものが数多くある。89はトコロチャシ跡遺跡出土品である。

写真75 アザラシ頭部(土製品)
常呂町トコロチャシ跡遺跡オホーツク地点 7号竪穴 残存長5.7cm 東京大学常呂実習施設蔵
写真76 オットセイ(骨製垂飾品)
常呂町常呂川河口遺跡 15号竪穴 長4.7cm 常呂町埋蔵文化財センター蔵
写真77 海獣頭部(牙偶)
常呂町トコロチャシ跡遺跡 長3.4cm 東京大学常呂実習施設蔵
写真78 ラッコ牙偶(クマ犬歯製)
常呂町常呂川河口遺跡 15号竪穴 長6.3cm 常呂町埋蔵文化財センター蔵(写真提供:化構保男)
写真79 ラッコ頭部角器
常呂町トコロチャシ跡遺跡オホーツク地点 7号竪穴 残存長4.2cm 東京大学常呂実習施設蔵
写真80-83 クジラ角器
斜里町ウトロチャシコツ岬下遺跡 上:残存長4.8cm 斜里町立知床博物館蔵(宇田川洋編『河野広道ノート(考古篇1)』、北海道出版企画センター、1981より)
写真84 クジラ頭部角器
常呂町トコロチャシ跡遺跡オホーツク地点 7号竪穴 残存長6.0cm 東京大学常呂実習施設蔵
写真85 常呂町トコロチャシ跡遺跡オホーツク地点
 7号竪穴 残存長3.7cm 東京大学常呂実習施設蔵
写真86 海獣胴部角器
常呂町トコロチャシ跡遺跡オホーツク地点 7号竪穴 残存長3.1cm 東京大学常呂実習施設蔵
写真87 魚もしくはクジラ角器
常呂町トコロチャシ跡遺跡オホーツク地点 7号竪穴 残存長4.0cm 東京大学常呂実習施設蔵
写真88 海獣?(土器把手部)
常呂町トコロチャシ跡遺跡 残存長6.8cm 東京大学常呂実習施設蔵)
写真89 水鳥文(土器)
常呂町トコロチャシ跡遺跡 残存高4.8cm 東京大学常呂実習施設蔵
参考資料 クマ足跡型押文土器
モヨロ貝塚 右:高さ7.8cm 東京大学文学部列品室蔵

  以上の他に注目すべき動物意匠遺物が発見されている。それはフクロウである。90は根室市オンネモト貝塚出土の骨製釣針軸の上端に彫刻されたものであるが、フクロウ部分の高さは三・五センチと小さいがリアルな表現である。同遺跡ではヘビを描いた釣針も出土している。91は棒状木製品の上端に見られるフクロウの全身像で、常呂川河口遺跡十五号竪穴出土である。このフクロウの存在は後のアイヌ文化のコタンコロカムイ(Kotan-kor-kamuy集落を守る神=シマフクロウ)を想起するもので興味深いものである。

写真90 フクロウ(骨製釣針軸)
根室市オンネモト貝塚 長21.8cm フクロウ部高3.5cm 北構保男氏蔵
写真91 フクロウ(棒状木製品)
常呂町常呂川河口遺跡 15号竪穴 残存長4.5cm 常呂町埋蔵文化財センター蔵

■なぜそのような送りをしたのか
  では、なぜそのような動物送り儀礼を行ったのであろうか。アイヌ社会のことを考えてみよう。

  クマに関しては、その胆が和漢薬の原料として皮以上に重要な和人に対する輸出品であったことを天野哲也(一九九〇)が指摘している。また、ワシやタカの羽が矢羽根として高価な商品価値があったことを菊池勇夫(一九九四)が説いている。大塚和義(一九八七)は、クマと同様に最高のコタンコロカムイ(集落を守る神)とされるシマフクロウについては、ワシやタカの羽以上に優れたもので、それを得るために飼育を行っていたであろうと考えている。さらにそのイオマンテは十七〜十八世紀頃に成立していたとの仮説を立てている。

  これらをまとめて岸上伸啓(一九九七)は、「北海道のアイヌは、クマ、ワシやシマフクロウを飼育し、それを送る儀礼を行なっていた。この「飼い型」の送り儀礼の成立を考える上で、筆者が強調したいことは、飼い送られる動物の共通点は、和人社会との交易のなかで、それらは商品(交換)価値が高く、かつ飼育しうる動物であったことである。筆者は、送り儀礼の思想大系は北方諸地域に広く分布するかなり起源的には古いものである一方で、その一亜型である「飼い型」の送り儀礼は、アイヌらの北方交易が進展していく中で成立したものであると主張したい」と説明している。このような状況が考古学上の「原アイヌ文化」の段階の後期頃(十七〜十八世紀頃)に成立していたことは考慮してよいのかもしれない(宇田川、二〇〇一)。すなわち狭義のイオマンテの確立である。では、オホーツク文化の骨塚で代表されるクマの頭骨送りはどう解釈したらよいのであろうか。とくに常呂町トコロチャシ跡遺跡オホーツク地点七号竪穴の外側骨塚の場合は、百頭を超えるクマ頭骨が祭壇状に積み重ねられた状態で出土している。毛皮交易の重要な物件であったことを意味しているのであろうか。オホーツク文化の場合には、ラッコの動物意匠やクロテンなどの小動物も出土しており、それらは毛皮としては最高の品である。これらも輸出用の毛皮交易品と考えてよいであろう。

  このように考えてくると、すでに交易品の対象としてオホーツク文化の時代からクマなどの捕獲が行われ、その霊的存在を送る儀礼が確立していたことが理解できる。それはアイヌ社会の動物送り儀礼に継承されていったのであるが、現段階では擦文社会からの継承よりもインパクトがあったことであろうといえる。「クマ祀り」儀礼の流れをトレースするためにはもう少し考古資料が必要である。なお近年の研究として、ミトコンドリアDNA(mtDNA)の分子系統解析がある(増田・天野、二〇〇一)。現世の北海道産ヒグマには、道北—道央グループ、道東グループ、道南グループがあるとされ(図3)、礼文島香深井A遺跡出土の香深井ヒグマの分析では、秋に死亡した一歳未満の仔グマは道南型DNAをもち、春に死亡した三歳以上の場合は道北—道央型であったという。そして道南型の仔グマの場合は、春グマ猟で捕獲され半年ほど飼育されたものと考えられている(図4)。オホーツク文化のかなり重要な情報が提供されたことになるが、今後の研究課題としておきたい。

図3 北海道ヒグマ集団の三重構造(増田・天野2001より)

図4 香深井A遺跡出土のヒグマの性別・年齢・死亡季節(増田・天野2001より)

図5 『蝦夷島奇観』にみるアイヌのクマ祭り(イオマンテ)の図(参考)
イオマンテの日を迎えて熊を檻から出すまで。(秦檍麿 筆研究解説 佐々木利和・谷澤尚一『蝦夷島奇観』、雄峰社、1982より)

図6 図5の続き(参考)。首に縄を付けられた熊に花矢を射かける。

図7 図5の続き(参考)。花矢を射かけた後、丸太にて圧殺。

図8 図5の続き(参考)。能を中央に置き、宝器類を飾り、正装して酒食を供し、神への祈りを捧げる。


【参考文献】


天野哲也、一九九〇、「クマの胆考」、『古代文化』四二−一〇、二六〜三五頁
池田貴夫、二〇〇〇、「アイヌ民族のクマ儀礼形成像」、『北の文化交流史研究事業研究報告』、北海道開拓記念館、一九七〜二一四頁
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大井晴男、一九九七、「「熊祭りの起源」をめぐって」、『考古学雑誌』八三−一、八二〜一一頁
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菊池勇夫、一九九四、「鷲羽と北方交易」、『宮城学院女子大学キリスト教文化研究所研究年報』二七、二五〜四七頁
岸上伸啓、一九九七、「アイヌの「飼い型」の送り儀礼と北方交易」、『民博通信』七六、一〇九〜一一五頁
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手塚 薫・池田貴夫、二〇〇一、『クマ送りの伝統、知られざる中世の北海道—チャシと館の謎にせまる—』、北海道開拓記念館、二六〜二九頁
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西本豊弘、一九九六、「動物からみたアイヌ文化の成立—クマ送りの起源を中心に—」、『博物館フォーラム・アイヌ文化の成立を考える』、北海道立北方民族博物館、一五〜二二頁
春成秀爾、一九九五、「熊祭りの起源」、『国立歴史民俗博物館研究報告』六〇、五七〜一〇一頁
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渡辺仁、一九七四、「アイヌ文化の源流」、『考古学雑誌』五八—三、七二〜八二頁




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