2 オホーツク氷民文化

骨格形態にもとづくオホーツク文化人

石田 肇・近藤 修




■はじめに
  オホーツク文化人とはどんな人々か?

  この問いに対する直接的な答えは古人骨の形態学的観察によるものであろう。これまでの研究では、オホーツク文化人は、同時代、あるいはその前後に北海道に居住した人々とかなり異なる集団であったと考えられている。このことは、オホーツク文化が北海道の在来の文化とは極めて異質であることと併せて、オホーツク文化人が、あたかも一時期、北海道の一部にやってきた外来集団であるかのような印象を与えている。しかし、オホーツク文化人の分布が時間的、地域的に限定されるにせよ、北海道の人類形成史のなかで彼らが果たした役割は重大である。

  特に、オホーツク文化人とアイヌとの関係は重要である。なぜなら、形質人類学者たちは日本人の形成史、あるいは東アジアの人類史との関連でアイヌの起源や近隣集団との関係について注目しつづけてきたからである。従来、アイヌは、北海道、サハリンおよび千島の三地方群に分けられるのが一般的である。では、いつからアイヌはこれら三地域に暮らし始めたのか、なぜ、三地域のアイヌは形態的に違ってきたのか。本論であるオホーツク文化は、今問題にしている三地域のすべてに関係しているので、アイヌの地域差を考える上で、一つの鍵になることは間違いない。

■研究史
  人骨の研究に関しては、一九二四年に京都大学教授の清野謙次が、サハリンにある鈴谷貝塚を調査し、出土した人骨について『日本原人の研究」に記しているのが最初である(清野、一九二五)。

  第二次世界大戦後、網走のモヨロ貝塚から出土した多数の人骨を北海道大学の児玉作左衛門らが本格的に研究を行なった。児玉(一九四八)はこれらの人骨を「モヨロ貝塚人」と命名し、高く丸い脳頭蓋の形態、顔面が高くかつ広いこと、とくに上顎骨が大きく犬歯窩がきわめて浅いこと、下顎骨が強大で下顎枝の幅が広いこと、歯牙の咬耗が強いことなどの形態学的特徴を表現したのである。そして、近隣集団の中ではアリュートに類似すると考えた。

  これに対して、鈴木(一九五八)はモヨロ貝塚の頭蓋は、アリュートよりもエスキモーに似ると発表している。このような初期の研究では、オホーツク文化人の頭蓋の特徴を大きな上顎骨・下顎骨と扁平な顔ととらえ、極北の人類集団と結び付けていたようである。

  一九六〇年代になり、札幌医科大学の山口敏が稚内市大岬遺跡から発掘された人骨の一連の研究を開始し、オホーツク文化人の全身の骨格にいわゆる北方モンゴロイドの特徴を見出した(三橋・山口、一九六一、一九六二)。これらの研究は、オホーツク文化人骨格の特徴をとらえ、北海道のアイヌとの間の形態的な違いを明らかにしたことに意味がある。

  さらに山口(一九七四、一九八一)はIto(1965)の報告したモヨロ貝塚人の計測値とソ連の人類学者デベッツが一九五一年に報告したシベリア集団の頭蓋計測値を多変量解析により比較し、オホーツク文化の担い手は北東シベリアの人々、とくにアムール川下流域のウリチなどの民族集団に近いという結果を出した。筆者のひとり石田も大岬頭蓋の計測値の分析を行ない、オホーツク文化人はナナイ、ウリチなどのアムール川下流域の人々に近いことを報告している(Ishida, 1988)。

■オホーツク文化 人骨の形態特徴
  すでに述べたように、児玉(一九四八)や山口(一九七四)がオホーツク文化人の頭蓋形態の特徴について詳しく記述している。図1は稚内市オンコロマナイ貝塚出土続縄文時代人頭蓋と大岬遺跡出土のオホーツク文化人頭蓋である。この二者を比較してわかるように、オホーツク文化人では顔面の縦径も横幅も大きく、全体に顔が大きい。すなわち上顎骨が大きく、頬骨は横に張り出す。また、顔面が極めて平坦なのも大事な特徴である。鼻骨も平らで、横から見ると頬骨と鼻が重なるくらいである。ちなみに、エスキモーなどの極北の人々は鼻が高く、オホーツク文化の人々とは違っている。

図1 続縄文時代人とオホーツク文化人
左:稚内市宗谷オンコロマナイ貝塚出土続縄文時代人頭蓋
右:稚内市大岬遺跡出土オホーツク文化人男性頭蓋

  頭蓋形態小変異についても、オホーツク文化人頭蓋に特徴的ないくつかの形質が観察されている。出現頻度が高い項目として、眼窩上孔、舌下神経管二分、頬骨横縫合後裂残存、顎舌骨筋神経管がある。特に頬骨横縫合後裂残存の頻度は、世界中で縄文時代人骨に次ぐ高さである(図2)。

図2 オホーツク文化人頭蓋に特徴的な形態小変異
a:眼窩上孔、b:顎舌骨筋神経管、c:頬骨横縫合後裂残存(二分頬骨)、d:舌下神経管二分

  四肢は、肘から先、膝から下の部分が相対的に短いのが特徴である。推定身長は、大岬遺跡で男性の平均が約一六〇センチメートルである。これらの特徴は、シベリア・極東の寒冷地に暮らす人々の形態と共通する。

  このほか、より生活環境や生業活動に関連する、比較的顕著な特徴が見られる。例をあげると、オホーツク文化人骨は歯の咬耗が著しい。図3は礼文島浜中二遺跡出土のオホーツク文化人頭蓋であるが、下顎切歯から大臼歯にかけてたいへん咬耗が進んでいる。この個体では、下顎切歯の前端のエナメル質が残存し反対咬合となっている。また、左の下顎第一大臼歯には歯周囲炎、歯根には肉芽ができて石灰化し、長い間続いた炎症を表している。上顎第一大臼歯には歯尖膿瘍の所見がある。筆者が調べた限り、第一大臼歯の周囲に炎症が起こっている例はかなり多い。つまり、永久歯として早く萌出する第一大臼歯の咬耗がもっとも激しかったため、歯髄腔が露出し、感染がおこり、歯髄炎から病巣が歯周部、骨へと広がったのであろう。その代わり、齲蝕は全くないといってよい。北海道の古人骨では縄文時代から近代に至るまで一貫して齲蝕が少ない(大島、一九九六)。また、図にもあるように、オホーツク文化の人々は歯石の沈着も著しい。一般に、歯石はデンプン質の多い食生活を反映していると考えられる。しかし、また、高タンパク質の食事でも、口腔内がアルカリ性に傾き、歯石が多く沈着するという。彼らが海産食に偏っていたことなどを参考にすると、原因は後者であろう。

図3 下顎第一大臼歯の著しい咬耗とその周囲の炎症、上顎の歯石沈着
(礼文町浜中二遺跡出土オホーツク文化人頭蓋)

■時間的・地理的分布
  いま述べたような形態を持つ人々はオホーツク文化を通じて存在していたのだろうか。現在まで、モヨロ貝塚などから多数の人骨が見つかっているが、時期がはっきりしたものは少ない。オホーツク文化の早い時期の人骨としては、礼文町浜中二遺跡出土の十和田式土器を伴う女性人骨、利尻町種屯内遺跡出土人骨がある(Ishida et. al, 1994)。全身骨格が良好に残っている浜中二遺跡の女性人骨の形質を調べてみると、頭蓋の形態、四肢骨の形態ともオホーツク文化人骨の特徴そのものであった。それより前の時期の人骨については、サハリンでは不明であるが、北海道東北部の続縄文時代の人骨として知られているのは、一九五九年に稚内市オンコロマナイ貝塚で発見された人骨である(山口、一九六三)(図1)。オンコロマナイの人骨は鼻が高いなどオホーツク文化人とは大きく異なり、近世のアイヌにつながる形質を持つという。このほかにも、栄浦第一遺跡から大柄な男性人骨が出土しているが、形態はオホーツク文化人とは異なる(山口、一九八五)。

  地理的な広がりについてみていくことにしよう。図4は、主なオホーツク文化人骨の出土遺跡をプロットしたものである。北はサハリン南部から、北海道オホーツク海沿岸に沿って、南は千島列島までその分布域は広がる。サハリンでは、古くから鈴谷貝塚で多数の人骨が発見されている。清野の発掘した鈴谷貝塚人骨は、現在でも京都大学理学部に保管されており、東京大学総合研究博物館や東北大学にも鈴谷貝塚出土の人骨が数体保管されている。これらサハリンのオホーツク文化の人骨は、大岬やモヨロの人骨にもっとも形態が近くサハリンアイヌ、北海道アイヌとは遠いことがわかった(Ishida, 1994)。なかでも、大岬人骨に近く、モヨロとはやや離れる。オホーツク文化人の集団内においても地域的な差異があるのではと感じられるが、遺跡間の時期的な差を考慮していないので、結論はまだわからない。

図4 オホーツク文化人骨の出土遺跡(石田1996を改変)

  千島列島については、色丹島で、ロシアの民族学研究所のスペワコフスキーらが発掘した人骨がある。一見して、これは、明らかにオホーツク文化の人骨であった。また、北千島では占守島長崎出土の人骨が知られている。これは、年代が不明であるが、形態はオホーツク文化の人骨に類似している。

■北方近隣集団との形質比較
  北方近隣集団では、どの人々の形態に類似するのであろうか。本当にアイヌと類似する点はないのだろうか。ここでは頭蓋計測値二二項目による分析と、頭蓋形態小変異二二項目による分析を紹介する。   まず、頭蓋計測値の比較である。個々の計測値や頭の形、顔の縦横の比などの示数などを比べてみると、オホーツク文化人頭蓋の計測値や示数は、現在の北東アジア集団の範囲にある。さらに、顔面平坦度計測を含む頭蓋計測値二二項目を基に、マハラノビスの距離を計算すると、オホーツク文化人はやはり、ウリチ、エクヴェン、モンゴル、ニヴフといった集団に類似していること、サハリンアイヌを含め、アイヌとは相当な距離があることが判明した。トロイツコエ遺跡の靺鞨文化人骨とも遠い(図5の1)。

  次に頭蓋形態小変異による結果である。頭蓋形態小変異二二項目の頻度から四分相関係数を用いて生物学的距離を推定してみた(図5の2)。距離では、オホーツク文化人骨から近い集団として、サハリンアイヌ、バイカル新石器時代人骨、アムール集団を挙げることができる。オホーツク文化人骨はアムール集団を中心としてバイカル新石器時代人を含むシベリア集団とアイヌの間に位置することがわかった。トロイツコエ遺跡の靺鞨文化人骨はここでは、オホーツク文化人骨と相当の違いがある。

図5 集団間距離の近隣結合法による展開図(lshida, 1996より抜粋)
1:頭蓋計測値22項目にもとづくマハラノビスの距離、
2:頭蓋形態小変異

  頭蓋計測値および形態小変異の分析結果を合わせると、オホーツク文化人骨はやはり、サハリン、アムール川河口付近のあたりを源郷とするようである。

  頭蓋形態小変異では、オホーツク文化人とサハリンアイヌが近いわけだが、オホーツク文化を担ったのがサハリンアイヌと考えるのは短絡的である。時間軸を考えると、オホーツク文化人とは、サハリン、アムール川河口付近の人々がいくらか北海道アイヌの祖先の影響を受けた人々、サハリンアイヌは、サハリンへ渡った北海道アイヌの祖先がかなり、オホーツク文化人ないしサハリン、アムール川河口付近の人々の影響を受けて成立した集団と考えていいのではないだろうか。

  では、アイヌとオホーツク文化の人々はまったく違った集団なのだろうか。見た感じや頭蓋計測値の分析、四肢骨の比などは、これほど対照的な群が隣接することがあるのだろうかと驚いてしまうぐらいである。だが、頭蓋形態小変異で見てみると、二者は違うことはもちろんだが、アイヌと他の人類集団はさらに違っている。また、個体ごとに見ていくとオホーツク文化人のなかにも、アイヌ的特徴をもったものがある。北見枝幸の目梨泊遺跡から見つかった人骨がそうで、オホーツク式土器を被って出土したにもかかわらず顔面にはアイヌ的特徴が見られた(石田、一九八八)。さらに北海道アイヌの地域差の研究からは、脊稜山脈を境として地域差が大きいこと(Kondo, 1955)、そのなかでオホーツク沿岸地域のアイヌの顔面頭蓋が幅も高さも大きいこと(山口、一九八一)がわかっている。これらのことは、北海道アイヌの地域差を産み出す一要因としてオホーツク文化人の関与を想起させる。直接の遺伝的影響の有無、あるいはそうでなくとも文化的な影響を介して何らかの影響を与えた可能性を考慮すべきであろう。

写真19 続縄文時代人骨
常呂町栄浦第一遺跡 高さ19.5cm 東京大学常呂実習施設蔵


【参考文献】


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Ishida, H. 1994 Skeletal morphology of the Okhotsk people on Sakhalin Island. Anthropol. Sci. 102 : 257-269.
Ishida, H., Hanihara, T., Kondo. O., Ohshima, N. 1994 A human skeleton of the early phase of the Okhotsk culture unearthed at the Hamanaka-2 site, Rebun Island, Hokkaido. Anthropol. Sci. 102 : 365-380.
Ishida, H. 1996 Metric and nonmetric cranial variation of the prehistoric Okhotsk people. Anthropol. Sci. 104 : 233-258.
石田 肇、一九八八、「北海道枝幸町目梨泊遺跡出土のオホーツク文化期人頭骨にみられたアイヌ的特徴」、『人類学雑誌』九六、三七一〜三七四頁
石田 肇、一九九六、「形質人類学からみたオホーツク文化の人々」、『古代文化』四八、六三〜六九頁
Ito, S. 1965 The stratigraphical changes of the skulls from Moyoro shell heap. Okajimas Folia Anatomica Japonica 40 : 679-690.
清野謙次、一九二五、『日本原人の研究』、岡書院、東京、二四一〜二六一頁
児玉作左衛門、一九四八、『モヨロ貝塚』、北海道原始文化研究会、札幌
Kondo, O. 1995 An analysis of Ainu population structure based on cranial morphology. Anthropol. Sci. 103 : 369-384.
三橋公平・山口 敏、一九六一、「大岬(宗谷)出土人骨の人類学的研究I下顎骨」、『札幌医学雑誌』一九、二六八〜二七六頁
三橋公平・山口 敏、一九六二、「大岬(宗谷)出土人骨の人類学的研究IV上腕骨・前腕骨」、『札幌医学雑誌』二二、二八八〜二九四頁
大島直行、一九九六、「北海道の古人骨における齲歯頻度の時代的推移」、『人類学雑誌』一〇四、三八五〜三九七頁
Suzuki, H 1958 Physische Anthropologie in Japan. Homo 9 : 37-47.
山口 敏、一九六三、「宗谷岬オンコロマナイ貝塚出土人骨」、『人類学雑誌』七〇、一三一〜一四六頁
山口 敏、一九七四、「北海道の先史人類」、『第四紀研究』一二、二五七〜二六四頁
山口 敏、一九八一、「北海道の古人骨」、『人類学講座第五巻:日本人I』、雄山閣、東京、一三七〜一五六頁
山口 敏、一九八五、「栄浦第一遺跡出土の続縄文時代人骨」、『栄浦第一遺跡』、東京大学文学部、東京、二七七〜二九〇頁



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